ブランヴィリエ侯爵夫人
〜17世紀のパリを騒然とさせた女毒殺魔〜
* 暗殺の横行する中世の時代 *
 ルイ14の治世たけなわの頃のフランス。この頃は華やかな宮廷文化が花盛りの時代で、ベルサイユ宮殿では絢爛豪華な舞踏会が連日のごとく催されていた。しかし、輝かしい舞台のその裏では、権力争いや陰謀が絶えず、互いに相手を倒すことに躍起となっていた時代でもあった。こういう時勢であったので、身に覚えのある権力者などは、いつ死客を送られて殺されるかわからぬ日々に毎日をビクビクしながら過ごしていた。
 さて、ライバルを片付ける方法、すなわち暗殺の方法にもいろいろあった。死客を使って刺殺する方法もよくとられたが、何と言っても毒を盛る方法が断然人気があった。現代と違って法医学など発達していない時代なので死因に気づかれることもない上、容易に相手を抹殺できるからだ。しかも毒殺では、現場に証拠が残ることもなく、犯人の特定がひじょうに困難となる。
 実際、こうして毒殺されて闇の中に葬られてしまった事件はどれほどあったことだろう。古代ローマではアグリッピナが用済みになった夫、クラウディウス帝を毒キノコを使って毒殺したことはよく知られている。しかし何と言っても毒殺技術が特に発達したのはルネッサンス期で、この頃、毒薬の製造技術は飛躍的に伸びた。その陰湿な殺人手段をもっとも効果的に用いたのは何と言ってもボルジア家で、秘伝の毒薬までつくりだし、何人もの敵を闇に葬ったとされている。
 イタリアに劣らずここ中世のフランスでも毒殺は大ブームであった。とりわけ17世紀のパリで、奇怪な毒殺事件があいつぎ、フランス中を騒がせたことがあった。この「毒薬事件」の犯人こそ犯罪史上まれにみる毒殺魔として後世に名前を残すことになったブランヴィリエ侯爵夫人であった。
* 暗殺に向いている人工毒 *
 中世という時代は錬金術の発達のおかげで、毒薬の持つ効力などもよく研究された時代である。毒は医学的な側面からは未研究の分野であったが、どの毒が人体にどれくらい効くかということはかなり詳しく研究されていた。
 毒は植物性、動物性、鉱物性と三分されるが、植物性、動物性の毒は比較的強力で即効性が期待出来る。これらの毒は神経を犯し呼吸不全を引き起こしたちまち死に至らしめるケースが多い。植物性の毒は毒キノコ、トリカブトなどが知られるが、動物性の毒は種類も豊富で、カツオノエボシ、フグ、エイ、ガラガラヘビ、サソリなどに代表されるようにかなり強力なのが多い。一般に青酸カリは強力な毒と思われているが、フグ毒の1/1000程度でしかないのだ。
 しかし動物性の毒はコントロールが難しいという難点がある。鉱物性の毒は、水銀、砒素、アンチモンなどに代表されるが、これらの毒は概ねゆっくり浸透し生体に害を与える。石綿(アスベスト)などは火に燃えない布として古来より重宝されてきた鉱物であるが、最近になって人体への有害物質に認定されている。長期間の間に呼吸器官に深刻な害を与えるということがわかったためだ。
 こうした鉱物毒の緩慢性と動物性の毒とが巧妙に組み合わされてつくりだされたものが人工毒なのである。これらを融合させる際、錬金術の技術が応用されているのは言うまでもない。何度も試行錯誤を重ねてつくり出されたこれらの毒薬は、食事などに混ぜていくことで相手を緩慢ではあるが確実に死に至らしめることが出来るのだ。つまりこうした毒薬こそが死因がわかりにくく暗殺には向いていると言えよう。
 毒にはそれぞれ独自な性質があって、すべての生き物に均一に作用するわけではない。例えば、錬金術などでよく用いられたアンチモンは銀白色をした半金属的な物質であるが、豚に少量エサとして混ぜると、丸まると太る作用のあることがわかった。ところが、病弱な人間に与えたところ逆に痩せ衰えて死んでしまうのである。つまり、アンチモンは豚には無害であっても人体には毒性が認められるのである。逆に人間にとって無害とされるネギやタマネギも犬やネコには有毒でときには死にいたらせる効能があることがわかっている。このように、ある動物には無害でありながら人体には強い毒性を示す物質は自然界には以外と多いものなのである。さて、毒の講義はこのへんにして本題をすすめることにしよう。
* 厳格な家庭で育つ *
 ブランヴィリエ侯爵夫人は1630年7月22日、6人姉弟の長女としてパリで生まれた。幼名をマリー・マドレーヌ・ドーブレと言った。父親は高級司法官で家庭環境もかなり厳格で子供たちはきびしくしつけられた。しかし、マリーはもともと生まれつきの色情狂であったらしく20才までに自分から弟たちに次々と関係を迫ったらしい。彼女はかなりの美貌の持ち主で、情熱も才能もあったようだが、宗教心がまるでなく、このことが彼女本来の放埒な性分に拍車をかけることになる。
 21才の時、ブランヴィリエなる陸軍士官の侯爵と結婚した。しかし彼女はこの夫があまり満足でなかったらしく、夫が連れてきたゴーダンという騎兵隊の士官に夢中になってしまった。しかも気性も合ったのかかなりの惚れ込みようで、夫の留守中にこの男を自分の居間に引っ張り込み、何度も情事にいそしんだらしい。
 この関係にうすうす気づき始めた彼女の父親は、司法官としての自分の特権を生かしてゴーダンを逮捕し、1ヶ月半ほどバスチーユ監獄にぶち込んでしまった。
 投獄されたゴーダンだったが、ここで自分の生き方を変えてしまうほどの人物と知り合うことになる。エグジリという毒物学者との出会いである。エグジリは150人もの人間を毒殺したという容疑で投獄中であった。すっかり意気投合した二人はバスチーユを出てからも毒薬の調合やら研究に没頭することになる。この毒物学者からさまざまな毒薬の製造方法を学んだゴーダンは、やがて自分をぶち込んだ夫人の父親に復讐してやろうと考えるようになった。
 夫人の方でも恋人であるゴーダンを監獄にぶち込んだ父親の仕打ちを憎み、毒薬を使って父親を殺してしまおうと考えていた。何かとうるさい父親がいなくなれば、もっと自由にふるまえるようになり、財産も手に入れることができるからだ。二人はその目的を達成するため毒薬の研究に没頭することにした。
 二人は熱中しやすい性分であったので、しばらくすると毒薬の知識は驚くほどのものとなり、レベル的には、師匠のエグジリさえをも抜き去ったと思われた。そして努力の甲斐もありついに理想的と思われる毒薬の完成にまでこぎつけることができたのである。それは乾燥したヒキガエルの粉末、トリカブトの粉、アンチモンを少々、それらに阿片と砒素を微妙な比率で混ぜ合わせたものだ。これを食事などに少量づつ混ぜて食べさせれば、自然と確実に死ぬはずであった。つまり死因の特定もされない病死としてかたづけられるのだ。
* 毒の効力をためす *
 夫人は完成したこの毒薬のもつ効能と効果がどのくらいのものか実験してみたくなった。うまい具合に近くにパリ市立慈善病院があった。夫人はここで人体実験をしてみようと思い立った。一度そう考え出すと、もうじっとしていられなくなる。夫人は両手にいっぱいの花束をかかえると、召使いたちにも見舞いの菓子、果物をたくさん持たせて病院を訪問したのであった。
 持ってきた花を花瓶に生けながら、気の毒な患者のベッドの横に菓子や果物をそっと置いた夫人は優しく微笑んで言うのだった。
「ご気分はいかがですか?早く元気になって下さいね」そして病人の手をとった夫人は優しくなでながらこうも言う。
「なにごとも神の御心のままです」宗教心などまるでなかったが、夫人は心にもないことを言った。
 この言葉に多くの病人は感激して涙を流して喜んだ。
「ありがとうございます、マダム」
「あなたは天使のようなお方だ」
「こんな心の優しい人はいない」
こうして夫人はあわれみ深い慈善の鏡としてすべての病人に愛され心の底から慕われた。
 ところが、どうしたわけか夫人が見舞いに来はじめて以来、原因不明の死を遂げる患者が増え出した。死者の数は50名以上を数えた。しかし、人々はまさか夫人の持ってきた菓子や果物に恐ろしい毒が盛られているなどとは夢にも思っていない。夫人の慈善をかねた訪問回数と比例して死者数は増加してゆくが、病死とかたづけられ夫人を疑うことすらしなかった。事の真相がわかったのは夫人の逮捕後ずいぶん後になってからの事だ。現在でも、老人介護ホームにヘルパーとして入り込んだ心の優しそうな人間が、次々と人目を盗んで殺人を重ねるという事件があったが、それとよく似ているようで恐ろしいかぎりだ。
* 親族を次々と毒殺 *
 かくして病人相手に人体実験を繰り返して毒の効果を試した夫人は、かなりの自信を持ったようであった。次はいよいよ本番であった。うるさい父親を始末するのである。
 夫人は父親が滞在しているドイツとの国境に近いオッフモンの領土にやってきた。多忙な父親をなぐさめるためであったのだが、ところがまもなく、父親は体調をくずしてしまう。気分が悪く高熱が出て猛烈な吐き気に襲われたのだ。急遽、父親と夫人はパリに帰ることにした。しかし一向に回復の兆しがない。医者も多忙で疲労が蓄積したためなのでしょうと診断する。とにかく安静と休養が大事ですと言って帰った医者の指示に従うことにした。
 それから彼女は父親の側をはなれることなく8ヶ月間もつきっきりで看病した。
 周囲にはかいがいしく父親の世話をする孝行娘の見本のように見えたろう。
 本当はつきっきりで毎日食事の中に毒を少しずつ盛っていたのである。結局、父親はガリガリにやせ衰えて廃人のようになって死んだ。
 こうして父親からの遺産も入り、うるさい父親の監視の目からも解き放たれると、水を得た魚のように本来の悪魔的本性がむき出しにされていった。父親の毒殺で味をしめた夫人は、遺産を独り占めにするために今度は兄弟に手をつけ始めた。兄弟たちを始末し終えると、そのつぎはその娘や夫たちが彼女の毒牙の対象となった。一族の奇怪な死がつづいた。そして遺産が次から次へと夫人のもとに転がり込んで来た。
 大方、一族を始末し終えた彼女は、昔の恋人や、義理の妹、弟などにも魔の手を広げていった。そうして、いよいよ自分の夫であるブランヴィリエ侯爵をも殺害しようともくろんだ。それは夫とゴーダンとの仲を男色の関係と疑って、嫉妬に狂ったあげくの決心であった。ところが、ゴーダンは夫に毒が盛られたと知ると解毒剤をかませ、再び毒が盛られると、再三、解毒剤をかませた。それは友情からなのかどうかはわからなかったが、こうした奇妙ないたちごっこがしばらく続くことになる。
* ヨーロッパ各地を逃亡 *
 夫人とゴーダンとの関係もいつの間にか陰湿なものに変質しており、すでに腐れ縁になっていた。こうなればどちらかが毒殺されるまでつづくと思われたが、ゴーダンは突如、原因不明の病気で死んでしまった。彼の死後、警察によって財産が押収されたが、その中に昔、ゴーダンが夫人にあてた36通の恋文と数種類の毒薬なども含まれていた。押収されたこれらの手紙類はこれまでの夫人の罪を立証するに十分な証拠と言ってよかった。それらがフランス司法省の手にわたったのである。
 危険をいち早く察知した夫人はロンドンに逃げた。ところがイギリスで追放令が出されると、今度はオランダに逃げ、それからフランス中を転々と逃げ回った。こうして最後に夫人はベルギー東部の田舎町リエージュにある修道院に身を潜めることになる。
 修道院は世俗から切り離された独自な世界であり警察権力でさえ容易に介入することはできない。夫人はここにいる限りは捜査の手がおよばぬため安全であった。そこで警察は一計を案じることにした。夫人を修道院の外におびき出すため僧侶に変装した警官を潜入させ色仕掛けで誘わせたのだ。たちまち夫人の色情狂の本性が頭をもたげてきた。逢瀬の場所に来てみると、僧侶はマントをはらりと落として警官に早変わりした。驚いた夫人が周囲を見渡すと、いつのまにかぐるりと警備兵に囲まれている。ほぞをかんだが後の祭りである。こうして夫人はついに捕らえられてしまった。
* 最後は聖女のように *
 逮捕された夫人は馬車でパリまで運ばれることになった。たちまち口コミで広まり、民衆はこの大騒ぎの大本とも言える女毒殺魔の顔を一目見ようと集まって来た。街道沿いはものすごい数の民衆で押し合いへし合いごった返ししていた。誰もがよく見える場所を陣取ろうとそれこそ必死で、木があればよじ上り、大きな石があればその上に立って、背伸びしながら今か今かと馬車が来るのを待っていた。そして今まさに馬車が通り過ぎようとすると、どよめきながら中をのぞき込もうとした。それほどまでこの事件はパリ市民にとって大きな話題になっていたのである。
 裁判がはじまった。夫人は感情の起伏すら見せずに常に判事の方を冷静に見据えていた。その様子は毅然としていたが、全く罪悪感を感じていないように見えた。毒殺された遺族の何人かが激しくヤジを飛ばしたり大声でののしったが、夫人はたんたんとしたもので表情一つ変えることはない。
 裁判が始まって3ヶ月後、夫人はひたすら沈黙を守り通し、反省と懺悔の言葉をとうとう口にすることはなかった。
 かくして火刑法廷で水責めの拷問がなされることになった。
 口に漏斗が突っ込まれ、大量の水が流し込まれるのである。さすがの夫人もこの恐ろしい拷問には耐えきれず、深く反省し懺悔の言葉を口にしたという。
 いよいよ処刑の日、グレーブ広場にある斬首台にのぼる瞬間、民衆からものすごい罵倒の嵐がわきおこった。しかし、夫人は動揺する風でもなく、しっかりした足取りで一歩一歩踏みしめるように階段を上っていく。夫人の身体は容赦のない拷問で哀れなほど衰弱し青白く華奢に見えた。
 斬首台の上には長方形をした木製の台があったのだが、夫人はためらうことなくひざまずくと自分から首を差し出した。その瞬間、民衆のざわめきはピタリとおさまり恐ろしい静けさが訪れた。最初、大声で罵倒していた人間も目を大きく見開き息を飲むように沈黙している。それは今まさに死の旅につかんとする夫人のいまわの際のふるまいが民衆の心に何かを訴えかけたように見えた。それは聖女だけが持つ神々しさに近いものであったのだろうか。
 次の瞬間、斧が振り下ろされ、一刀のもとに夫人の首は斬り落とされた。遺体はただちに燃え盛る炎の中に投げ込まれた。しかし最後の処刑場における夫人の健気な姿は民衆の心をつかんだようであった。彼女の犯したこれまでの罪が許されるものでないにしても、死の瞬間に見せた夫人の崇高さに涙を流す者も少なからずいたのである。
 処刑翌日、まだくすぶっている灰の中から殉教者としての彼女の遺骨を拾おうと多くの民衆が殺到したという。その日は炎天下のとても暑い一日であった。
トップページへ
参考文献
「世界悪女物語」澁澤龍彦 河出書房新社
参考資料サイト
http://www5b.biglobe.ne.jp/%257emadison/murder/text/brinvilliers.html(殺人博物館)
http://www.noblesseetroyautes.com/nr01/2010/04/la-marquise-de-brinvilliers/
http://nadachemistry.web.fc2.com/bunkasai/2010/2010-03.pdf
アクセスカウンター

inserted by FC2 system