ハンナ・ライチュ
〜第三帝国のアイドル的女性パイロット〜
* ある秘密兵器の実験 *
 1941年、ベルリン郊外にあるウイッシュナーン飛行場である秘密兵器の飛行実験が行われようとしていた。飛行場の片隅には迷彩のカバーをかけられて一台の飛行機らしきシルエットが見える。
 やがてトラックが到着。カバーがはずされた。現れたのはこれまで見たこともないような異様な代物であった。
 ずんぐりしたタマゴのような恰好をしており、翼が不釣り合いに大きく尾翼はない。まるでこうもりか短足のグライダーのようだ。こんなものが本当に大空を飛行できるのだろうか?
 キャノピーが開かれ小柄なパイロットが乗り込んだ。華奢な体格、飛行帽からはみ出た長い赤毛、女性パイロット、ハンナ・ライチュである。士官と飛行前の打ち合わせをしているのか何度もうなずいている。
「いいか、離陸するときが肝心だ。一番気をつけねばならんのはこのメーターだ。ぶれないように注意しろ! ドリーは上昇前に投下。ロケットモーターに点火したら60度の角度で全力推進する。高度1万メートルまで上昇したらサブモーターに切り替える。わかったな?」
「わかりました。まあ、見ててください!」明るい口調だが緊張感からか心もち声がうわずっている。彼女は手袋をした手でゴーグルをかぶると、その上から二度念を入れるように強くさすった。キャノピーがしっかり閉ざされる。トラックに引かれて滑走路まで誘導されてゆく。
 飛行場にならんで見守っている高級将校の中にはカイテル元帥、ミルヒ将軍など軍首脳のほか、ゲーリングやヒトラーの顔ぶれも見える。キャノピー越しに彼女が軽く手を振るのが見えた。
 やがてかたずを飲んで見守る中、飛行機のうしろからオレンジ色の炎が勢いよく噴射された。「ゴーッ!」それはまたたくまに5メートルほどの長さになり、青白く透明になった。高温のためか向こうの草原がゆらゆらと揺れて見える。土煙が舞い上がり、機体はけたたましい早さですべり出した。滑走路の中ほどまでいくとそれはフワッと浮き上がった。大地を離れると急角度で上昇していく。胴体から車輪が落とされた。「キーン!」次の瞬間、ものすごい金属音をのこしてほぼ垂直に近い角度で大空めざして上昇していった。
 それはあっという間の出来事であった。呆然と見守る関係者の眼には、もう飛行機の姿は大空に溶け込んでなく、白い筋のような航跡がはるか高空にまで連なっているのが見えるだけである。
 これは世界最初のロケット戦闘機として後世にその名を残すことになるメッサーシュミットme163で、はじめて音速を越えて航空史上に革命をもたらしたと言われる飛行機だ。
 わずか1分半で高度1万メートルにまで達し、後は鋭い急降下で敵に襲いかかったという。
メッサーシュミットme163コメート。世界最速の性能を誇ったが、航続距離がたいへん短かった。
 その爆発的な性能から、コメート(彗星)と名づけられた本機は、ドイツ本土にひんぱんに爆撃にやって来るB17への攻撃の切り札として登場することになる。
 このロケット戦闘機を操縦したのはハンナ・ライチュという女性で、ヒトラーお気に入りのテストパイロットであった。ハンナはこのロケット戦闘機の5度目のテスト飛行の際、事故で5ヶ月入院というひどい重傷を負うことになる。機体からドリー(車輪)が投下することができず、バランスを失って墜落の危機に瀕したからであったが、高価な飛行機を捨てて脱出することをせず、最後まで機体を救うことに全力をかたむけて不時着させた結果であった。
 その際、彼女は少し動くだけでも気分が悪くなるほどの重傷にもかかわらず、墜落の原因やその過程について詳細なメモやスケッチまで書いて報告している。
 こうした自身の危険を顧みない献身的な態度はヒトラーを感激させた。
「今、第三帝国には君のようなパイロットが必要なのだ。余はドイツ国民に代わってあなたの勇気ある行動に敬意を表したい」
 退院後、ヒトラーから第一級鉄十字賞を授与されたとき、手を握りしめるように握手されてこう言われたという。
ヒトラーと握手するハンナ・ライチュ
 彼女はこのとき、名実ともに第三帝国のアイドル的存在となったのである 。
* ハンナの少女時代 *
 ハンナ・ライチュは1912年3月29日、ポーランド国境に近いシレジア地方の町ヒルシュベルクに生まれた。この町は周りを山々に囲まれたチロルの自然が豊富に残る伝統ある街でなんとも落ち着いた環境にあった。
 父親は眼科医で母親は敬虔なカトリック信者であった。家族は2歳年上の兄のクルトと妹のハイディがいた。芸術を愛し繊細な両親は家族一緒になって音楽演奏をするのが趣味で、休日の日には一家そろって演奏会を開くなどして楽しい日々を過ごしていた。ハンナはオルガンが担当であった。
 14歳の時、ハンナは自分自身の将来の事について真剣に考え始めた。この頃はまだ女性は家庭に入り、育児をするということが何より優先される世の中であった。
 しかし好奇心が強く、めっぽう積極的な性格の彼女にこうした生き方は無理だと思われた。それでも最初のうちは、父親の影響からか、医師を目指そうと考えてみたり、敬虔なカトリックの母親の影響からか、伝道師の道も考えたりした。やがて飛行機を操縦して遠くアフリカまで伝道できる医師になりたいと思うようになったらしい。
 こうしたいきさつもあり、ハンナはグライダー専門学校へ入学することになった。しかしここで水を得た魚のごとく彼女の本領は発揮され、滞空時間の世界記録を作るまでとなる。ともかく好奇心が人一倍旺盛で積極的なハンナの性格はパイロットにおあつらえ向きであった。
 やがて教官となったハンナはレーン競技会にも出場するが、結果はさんざんの最下位。
しかしハンナの無鉄砲な飛行ぶりが目に止まり、ゲオルギー教授から南アメリカへの研究旅行に参加しないかと話を持ちかけられる。
 かくしてゲオルギー教授らとともに南米の上昇気流の状況を調べる為の研究旅行に参加することとなった。
練習中にあわただしくとる食事。
 ここでハンナは様々な興味深い体験をすることになる。その一つに、飛行中、上昇気流がつかめず失速状態になり、やむを得ずフットボールの試合のまっ最中のスタジアムへ緊急着陸したこともあった。
 またアルゼンチンでは長距離滑空を行い、女性として初めてとなるシルバー功労章をもらった。こうした研究旅行での活躍ぶりから、ハンナはゲオルギー教授が所長を務めるドイツ・グライダー研究所に入ることになった。
 一方その頃、ヨーロッパではナチス党が政権を取り、にわかに戦時色の濃いものとなっていた。特にドイツは、再軍備宣言を行ったころからベルサイユ条約で禁じられていた航空機の開発などにも力をそそぎ始めていた。これと平行して、ドイツの国力を世界に見せつけるために、さまざまなデモンストレーションも行われた。
 巨大飛行船ヒンデンブルク号が大西洋航路に就航し、海をわたって巨大な勇姿をアメリカ人の目に植えつけたのもその一例である。
 南米から帰ったハンナは、研修旅行で磨かれたグライダーの技術を如何なく発揮してアルプス越えにも成功した。この結果、ドイツ空軍からも注目され、当時技術局長だったウーデットから「フルーク・カピテン」という名誉称号が贈られた。
* 女性初のテストパイロットとして *
 これをきっかけに、ハンナは民間人の身分でありながら空軍のテスト・パイロットも次々と務める事となる。
 1938年には世界ではじめてのヘリコプターを操縦し、その翌年には世界初のジェット戦闘機 やロケット戦闘機 などのテストパイロットを務めることになるのだ。
 戦争が始まってバトル・オブ・ブリテンが開始された時は、イギリス軍のあげる防塞気球のワイヤーを飛行機の翼で切る実験にも参加している。このときも彼女の勇敢なる行為に第二級鉄十字賞が授与されている。
世界初のヘリコプターを操縦するハンナ・ライチュ
 このとき、国家元帥だったゲーリングが謁見しているが、ハンナが思ったより小柄(154センチ)だったので、驚いて大げさに両手を広げ、「へえ!驚いたものだ。こんな小さい人が飛行機なんかに乗れるのか!」と思わず口にしたらしい。傷つきやすいハンナは、精一杯皮肉を込めてゲーリングに言い返したそうだ。
「そうですわよ、飛ぶためには閣下のように太ってなきゃなりませんの」
 ともかくこの頃のハンナは新しもの好きという性格も手伝って、新型の飛行機が出来るとどうしても自分を真っ先に乗せろと言って聞かなかったらしい。
 まるで欲しいものをねだるときの子供がだだをこねるような振るまいだったが、技術者の中には閉口する者すらいたという。
総統官邸でヒトラーと談笑するハンナ。左はゲーリング。
* 危険を顧みずヒトラーのもとへ *
 ハンナは愛国心が旺盛でナチスのプロパガンダにもよくつかわれているが、終始反ユダヤ主義には反対の立場をとっていた。
 水晶の夜の事件(ユダヤ人商店街を襲ってショーウインドーのガラスが粉々に砕け散ったことからこの名がついた)を激しく非難しているし、半分ユダヤの血が流れているキュットナー博士との共同作業を放棄することを指示されてもそれを断っている。
ハンナ・ライチュは子供たちに絶大な人気があった。
 国内にユダヤ人の絶滅収容所があると聞くと、それが真実かどうか確かめるためにヒムラーに面会を申し込んだこともあった。
「それは嘘っぱちだよ。故意にねつ造された根拠のないデマだ」ヒムラーはそのときハンナにこう言ったそうだが、根が純粋なハンナはヒムラーのこうした虚言をたわいもなく信じきってしまった。事実は戦後に明らかにされるのである。
 ここでハンナの忠誠心の高さを証明する話をしよう。
1945年4月25日、ドイツは断末魔のせとぎわにあった。ハンナは空軍上級大将フォン・グライムから緊急の呼び出しを受けた。グライムがヒトラーからベルリンへの出頭命令を受けたのだ。理由は明らかにされず、グライムはハンナに協力を求めてきた。党員でもなければ、忠誠の誓約にしばられてもいないハンナであったが、彼女はこの危険な任務を遂行するために即座に出頭した。
 このとき、すでにベルリンはソ連軍が突入しており、何重にも包囲され、おまけに分断されていた。ヒトラーのいる地下防空壕まで行き着ける可能性はゼロに近かったのである。
 グライムとハンナはベルリン市中でただひとつドイツ軍に残されていたガトウ飛行場に行った。
 そこからはシュトルヒ連絡機で地下防空壕にまで飛ばねばならない。もはや降りる飛行場などなく適当な空き地を探して着陸せねばならず、まさに行き当たりばったりの片道飛行であった。
ベルリンに侵攻したソ連軍。
 夕方近く、ハンナは操縦席にすわると官邸街の方向に向けて小型機を離陸させた。飛行しながらハンナは眼下に広がるベルリンの廃墟を眺めながら、言いようのない感情に胸を締めつけられていた。
 街中いたるところから炎が吹き出し煙がくすぶっている。敵の戦闘機に見つからないように低空を飛ぶ。そのため、装甲車に乗ったロシア兵の顔の表情まで読み取れた。彼らは頭上を通りすぎるハンナたちを見上げてはぎょっとする表情に変化し、そばにあった火器を手にしてはめくらめっぽうに撃ってくる。
「パンパンパン・・・」豆でも炒ったかのような軽い音がした。見ると視界の下の方で砲火でチカチカ光っているのが見える。ソ連軍の対空砲火だ。そのとき、機体が上下に激しく揺れ動いた。隣りのグラハムが負傷したのかぐったりしている。
「しっかりしてください!」ハンナは大声で言うが返事はない。
 まいったな!心の中で舌打ちするがどうしようもない。どこか不時着できる場所はないだろうか。飛行しながら首をぐるぐる回転させて地上をうかがう。
 あっ!あそこがいいわ。ブランデンブルク門の近くにちょっとした広場を見つけたハンナは墜落寸前のところをなんとか着陸させた。
廃墟になったブランデンブルク門
* 総統地下防空壕へ *
 待つこと10分間、回りは人の気配などなく心細いかぎりであったが、まもなく軍のクルマが来て防空壕にハンナたちを連れて行ってくれた。こうしてハンナは再びヒトラーと対面することになる。1年2ヶ月まえ、山荘で第一級鉄十字賞授与の祝いの言葉を述べてもらったとき以来だ。
 ヒトラーはその間にすっかり老け込んでやつれていた。無表情の眼差し、左腕は震えが止まらず、前屈みで身体が縮んでしまったのか、自分と同じほどの背丈だ。それでもヒトラーはハンナを一目見ると弱々しげに言った。

「おお、君か・・・一年前に会ったパイロットだな。実に勇敢な女性だ。あなたの勇気と忠誠心は素晴らしい・・・」
 ヒトラーはグライムが医療室に運ばれていくのを見守ると言った。
「この数日間、余は失望と裏切りに打ちのめされておった。ゲーリングの奴が、余をだしぬいて独断で連合軍と無条件降伏を申し出たらしいのだ。・・・あの恥知らずの裏切り者めが!」急にヒトラーは憎悪に目をぎらつかせると大声をだした。
 その間にも、ソ連軍の撃つ大砲のゴロゴロする音、キューンという蚊みたいな音がひっきりなしににこだまする。遠くに爆発する音や建物が崩れる音がそれに混じる。防空壕にはヒトラー最後の追随者がほんの一握りいるだけであった。ゲッペルス夫婦の部屋には4才から12才までの6人の子供がいた。
 ハンナが入っていくと彼らは好奇の目で見つめいろいろとたずねてきた。チロル出身のハンナがヨーデルを歌ってあげるとクスクス笑いが起きる。
 子供たちに無邪気な表情がよみがえってハンナも嬉しくなった。時たま起こる爆撃音や炸裂音に小さい妹がおびえるような表情をする。そんなとき年上の兄が、「あれはね、総統おじさんが敵をやっつけている音なんだよ」と言うと、その4才の妹は黙ってこっくりうなづくのであった。しかし、子供たちの運命もまもなく終わるのである。
地下壕の様子。
 翌日、4月28日夕刻、グライムとハンナはヒトラーに呼び出された。ヒムラーを追跡し逮捕せよと命じられたのだ。
「私は総統のおそばから離れたくありません。閣下のもとに留まらせてください」ハンナは涙ながらにこう言ったがヒトラーは聞く耳を持たなかった。ハンナは生きる望みを失っており、ヒトラーとともに死ぬつもりであった。

「余はベルリンを見捨てることはできない。ハンナ君、君の勇気と忠誠心だけはいただいておこう・・・」そう言ってヒトラーは震える手で握手をした。
 あわただしく別れの挨拶がおこなわれた。餞別としてハンナとグライムに青酸カリの入ったカプセルが渡された。万が一のときのためである。ゲッペルス夫人は自分の指からダイヤの指輪を引き抜くと、ハンナにプレゼントした。さらに夫人は自分の弟にあてた2通の手紙を託した。エバ・ブラウンも妹グレーテルにあてた手紙をハンナに託した。グライムは党に関する秘密書類をマルチン・ボルマンから託された。
* 再び戦火の中へ *
 こうして、二人はふたたび爆発音と硝煙の臭いのする地上に送り返された。暗闇の中、背をかがめて走ってゆくと、指示された場所に一台のアラド練習機が置かれているのが目に留まった。後はうまくエンジンを駆けてネコの額のようなこの場所から離陸するだけだ。
「ドンドンドン・・・」機関砲の腹に響く音が鳴り出した。その度に、華奢なアラドの機体が振動する。サーチライトが何条も夜空に交差し始めた。絶え間ない対空砲火とはげしい銃撃の中、間一髪、飛行機は宙に浮いた。まさに奇跡の離陸だ。後はひたすら西に飛ぶだけである。
 それからは、グライムとハンナはオーストリアとドイツを何度も飛び回った。目立つところを避けてなるべき低く、森から森へ、息をひそませながら飛行をくりかえした。5月1日にはヒトラーが死んだことが明らかになった。ヒムラーとは海軍の総司令部で出会ったが、もう彼を追跡して逮捕する当初の目的は用をなさなくなっていた。まもなくドイツは連合軍に無条件降伏をするからだ。
 アルプスを越えたところで、グライムとハンナは飛行機を捨て、アメリカ軍の野戦病院に投降した。ハンナたちの決死のフライトはこうして終わりを告げたのである。ハンナは内心ほっとしたに違いない。ともかく戦争は終わったのである。これでようやくシレジアにいる家族と再会できると考えるだけでも嬉しかったであろう。ところが、非情な知らせが待っていることをハンナは知らなかった。
 故郷の両親と妹ハーディの家族全員がドイツが降伏する直前に自殺していたことを知らされたのである。生きる目標を失ったハンナは、ヒトラーからもらった青酸カリのカプセルを使おうと決意した。家族の墓を一目見てから死のうと思っておとずれた彼女だったが、そのとき心境の変化が起こった。
 道中、連合軍の兵士から何度も強制収容所の死体の山積みの写真を見せられ、その責任がお前たちすべてドイツ人にあるかのような罵倒にも近い言葉を浴びせかけられていたのである。
「数百万のまじめなドイツ人が無実の罪を着せられようとしている。私は彼らのためにも生き抜いて真実を究明せねばならない」ハンナは自殺を思いとどまり、それからの人生をそのために費やさそうと決心したのであった。
* 揺るぎなき忠誠心 *
 戦後、ハンナは18ヶ月間を捕虜収容所で過ごすことになる。審査機関は、ハンナにナチズムの免責なしとする白の判定を下した。それは彼女がナチ党員でもなくあらゆるナチスの団体にも所属していなかったからだ。しかし、彼女の党への忠誠心は高く、愛国心は行過ぎている感があった。彼女はヒトラーからもらった第一級鉄十字賞をかたときも離すことなく身につけていたし、最後にヒトラーを裏切った行為には憎悪にも等しい軽蔑の眼を送っていたのである。
 ナチスを賛美して人々から非難の目で見られる一方、ハンナは女性飛行士としては絶大な尊敬と人気を獲得していた。
 彼女は積極的に世界選手権にエントリーしては輝かしい成果を残している。
 1955年にはドイツグライダー選手権で優勝。1957年には高度新記録達成。インドのネルー首相とはともにグライダーで空を飛んだ。1961年には、友人のフォン・ブラウンから招待され、サターンロケットの実験にも立ち会っている。1972年には、アメリカの実験テストパイロット協会から名誉会員の称号を与えられている。
いつも鉄十字賞を誇らしげにつけるハンナ・ライチュ。
 そのころ、ハンナはロサンゼルスで多くの人々の前で講演会を開いたことがあった。壇上に立った彼女は、集まった千二百人の観衆に向かって今まで生きて来た自分の人生を赤裸々に話した。
「私はドイツを愛しています。敗北の迫っている最後のときにも私は総統のもとに駆けつけました。私のみならずドイツ軍パイロットは名誉を重んじ、死をも恐れず、常に祖国に自らの命をささげる覚悟が出来ていたのです。私たちはルフトバフェに誇りを持ち、上官を信頼していました」
 シーンと静まりかえったホールの中で彼女のスピーチは淡々とつづいた。スピーチはつづいて総統の地下防空壕で過ごした3日間と捕虜になった話、その直後に知らされた家族の無情の死におよんだ。
「・・・国家社会主義の犯した過ちを私は弁護する気はありません。あるいは指導部が間違っていたのかもしれません。しかしその評価は私がするべきではないと思っています。私は純粋に空へ向かって飛び立ちたかったのです。家族全員が自殺して希望がなくなってからも、私は生きねばならないと思いました。無実の罪で有罪にされ処刑された多くの友人のためにもそうしなければならないと思ったのです」
 しめくくりの言葉を言い終えた彼女は、最後に感謝の気持ちを込めてマイクの前で一礼した。
 そのとたん、割れんばかりとしか言いようのないの拍手の嵐が起きた。拍手はいつまでも鳴り止まない。それは実に十数分間もつづいた。「ハンナ!サンキュー ベリー マッチ!」手をたたきながら立ち上がって叫ぶ人もいる。その目には涙が流れていた。拍手の嵐がつづく中、エールを贈る声がひっきりなしに響き、壇上には花束が山のように積み重ねられてゆく。
 それはなんと印象的な光景であったことだろう。ヒトラーやゲッペルスと第三帝国の最後の歴史的瞬間に立ち会うことを許され、そして再びそこから飛行機で脱出するというドラマチックな体験をしたからなのだろうか。それとも私利私欲におぼれぬ彼女の汚れなき忠誠心にたいする賞賛なのだろうか。ともかく会場を埋めつくした多くの人々が彼女の生き様に心を打たれ、万雷の拍手を送ったことだけは確かなのである。
 すでに人生の大いなる意義を見いだしたように見えた彼女であったが、しかしその後も向こう見ずで大空に挑戦する生き方はつづいた。67才の彼女は自由長距離飛行で自己の持つグライダー世界記録を塗り替えることさえしたのである。
 しかし1979年8月24日、狂信的な愛国心を持ち、純粋に空を飛ぶことにのみ情熱をもちつづけた女性パイロットは心筋梗塞でこの世を去った。第三帝国の天翔る天女は生涯独身をつらぬき、ここに67年にわたる波瀾万丈の人生を閉じたのであった。
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参考文献
「ナチスの女たち〜第三帝国への飛翔〜」アンナ・マリア・ジークムント著 西上潔訳 東洋書林

『大空に生きる』ハンナ・ライチュ伝 
 http://rocker.fc2web.com/hanna.htm  
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