シャルロット・コルデー 
 
〜美しく、気高く、断頭台の露となって消えた暗殺の天使〜
 シャルロット・コルデーは、17世紀の劇作家コルネイユの子孫である貧乏貴族の娘として、ノルマンディーのシャンポーという町に生まれた。13才のとき、母と死別したことがきっかけで修道院に入る。彼女は大変な読書家で、ルソーやプルタルコスや、先祖のコルネイユの著作を好んで読むことが多かったらしい。1789年、フランス革命が起こったとき彼女はまだ21才であった。やがて革命政府により修道院が閉鎖されると、シャルロットはカーンに住む叔母のもとに身を寄せることになる。
 シャルロットは哲学者ルソーなどの影響によるものか、フランス革命のかかげる自由、平等、博愛の精神に傾倒し情熱を燃やして革命のなりゆきを見守っていた。ところが、革命はジャコバン党を支持する下層階級に主導権が移るにつれて、次第に血なまぐさい様相を呈するようになっていく。
 残虐行為が日増しに多くなり、毎日、広場では革命政府による処刑が行われるようになった。家にいてもギロチンの刃が落ちる「ドーン!」という軽い地響きが聞こえて来る。人々はどこにいても常にびくびくとしていなければならなかった。革命政府の不満をうっかり聞かれて垂れ込みでもされたら、たちまちギロチン送りにされてしまうのである。
 その当時、革命の指導者はマラーという男で、彼はジャコバン党の中でもとりわけ冷徹でサディストでもあった。マラーは反対分子は容赦なく処刑せねば気が済まない性格であったが、ただ殺してしまうだけでは面白くない。その処刑シーンを見物させようと、席を何段にも設けてすり鉢状にした中でギロチン台を設置しようと考えていたというから、それだけでも彼の残虐性を知るには十分だろう。こうした残虐行為、暴力行為は日常茶飯事になっていったが、自由、平等、博愛精神を理想とするシャルロットにとってはとても耐えられないことであった。彼女はなんとしてでも自分の手でこの冷酷な指導者を暗殺しなければならないと考え始めていた。
 1793年7月9日、実行を決意したシャルロットは叔母の家からパリに単身上京した。その四日後、彼女は陰謀がめぐらされていることを直接伝えたいと言って、マラーに面会することに成功する。このときマラーは湿疹性の慢性皮膚病で悩まされており、一日に何度も入浴を繰り返していた。特に夏の暑い日などは、水を浸した浴槽に一日中つかって書き物や本を読んだりしていたのである。そして、こうした状態で人とも会っていたらしい。彼女の話を聞こうと身をのりだしたとたんに、隠し持っていた短刀で心臓を一突きにされたのであった。
 現在、ブリュッセル王室美術館には画家ダビッドの描いた名作「マラーの死」が展示されている。
その絵によると、マラーは頭にタオルを巻き、浴槽から裸の上半身をあらわにし、右手に鷲ペンをにぎったまま、左手には紙片を握りしめたままの恰好で息絶えている。
そして浴槽の前には短刀が転がっているが、おそらくシャルロットが何か大事なことを直接、耳打ちしたいことがあると言って、身を乗り出したところを一突きにされたように思われてならない。
 シャルロットはその場で逮捕され、四日後の7月17日、革命裁判が行われたが、尋問に際してもシャルロットは終始、「私は十万人の命を救うためにやっただけです。殺人を犯したことに今も何の悔いはありません」と繰り返して言ったという。このとき、彼女は少しも動揺の色を見せることなく、じつに沈着冷静に裁判官の質疑に答えている。
 裁判の結果は死刑で、それもその日のうちにギロチンによって処刑されることになった。処刑に向かうとき、死刑執行人サンソンが彼女の手を後ろ手に縛ろうとすると、シャルロットは「逮捕されたとき、とても乱暴な縛り方で手にあざが出来ました。そうならないように、手袋をしてもよろしいでしょうか」とたずねたという。「大丈夫です。私は乱暴に縛ったりはしませんから」とサンソンが答えると彼女は微笑みを浮かべておとなしく両腕を後ろに回したという。
 裁判に際し、彼女は画家を呼んで自分の肖像画を描かせてほしいと頼んだらしい。なぜ、彼女が自分の肖像画を描かせたいと思ったのか、自分が歴史に残こることを意識したからそうしたのだろうか、それとも彼女の美意識が自分の最後の一瞬をとどめたいと希望したからなのか、けだし、その両方からではなかったろうかと思われる。その肖像画は現在、ベルサイユ美術館に展示されている。その絵のシャルロットはボンネットをかぶり長い髪の毛を肩にたらして、毅然とした眼差しで見る者に自分の信念を訴えかけているようである。
 処刑場へ向かう護送車に乗せられたときも、彼女の毅然とした態度は変わらなかった。同乗した死刑執行人サンソンはこう語っている。                
「彼女を見つめれば見つめるほどいっそう強く惹きつけられた。彼女はたしかに美しかった。しかしそれは彼女の美しさだけのせいではなかった。最後の最後までなぜあのように毅然とした振る舞いが出来るのか私には到底、理解できなかった」
 おそらくそれは自己の信念に強い誇りと確信を持った者だけが見せる気高さであったのだろうか。
 ギロチン台に上るとき、彼女の視線ははるか天空を見つめているようであった。多くの男性が彼女の愛らしくも毅然とした美しさにただ茫然と見とれ、多くの者が涙し恋したという。そして、彼女は25才の若き生涯を終えたのであった。
   美しく、若く、輝かしい貴女の姿は、死刑執行人の目にも、
    あたかも結婚式の馬車に乗って式場に向かう花嫁のように見えた。
(アンドレ・シュニエ) 詩人
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参考文献
「女のエピソード」澁澤龍彦著 河出書房新社
 ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/シャルロット・コルデー
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