千姫
 
〜妖艶で淫奔な悪女伝説〜


 * 美しい姫路城 *
 世界文化遺産の一つに数えられる姫路城は、築城以来ほぼ700年をむかえる。今年姫路城は、5年来の化粧直しを終え一般公開されたが、入場者は殺到し、その数はたちまち50万人を越えたらしい。
 鷺が羽を広げたような優雅な景観をもつ姫路城は、白鷺城としてもう一つ別の名前をもつ城として知られている。
 しかし美しい景観とはうらはらに、この城の持つ本来の目的は決して美しいものではない。
 戦国時代では城の中で、討ち取った敵の将兵の首に化粧をほどこしたりするのが女たちの仕事だった。
 蝋燭の光だけがゆらゆらと暗闇を照らし出し、その中に血まみれになった壮絶な形相をした生首が板間に所せましと置かれていたのである。きっと、それはぞっとするほど恐ろしい光景であったはずだ。また落城ともなると、そこら中で兵士が妻子を道連れにして自害した場所でもあった。
 だが幸か不幸か、姫路城は戦火に巻き込まれることなく、一度も戦いに使われることはなかった。その後、豊臣家が滅び、徳川が天下を取ってからは、秀忠の長女、千姫も十年あまりこの城に住んだという。千姫は大坂夏の陣で業火に包まれた大坂城から、からくも救出された数奇な運命をもつ秀頼の正室として知られている。
* 千姫のおいたち *
 千姫は秀忠の正室お江与(淀殿の妹)の長女として慶長2年(1597年)に生まれた。3つのとき、豊臣秀頼の許嫁となる。しかし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利を収めた後、家康は名実ともに豊臣家をしのいでナンバーワンの地位についたのである。家康としては、もう千姫を政略結婚の道具にする必要もなかったはずである。それにもかかわらず、慶長8年7月、家康は約束通り、千姫を大坂に送って来た。千姫を大坂に送った理由は何だったのだろうか?
 一方、大坂城の淀殿としてみれば、千姫が秀頼の正室になった以上、徳川は大坂を攻めないであろう。つまり徳川は我が豊臣家との対立を望んではいない。家康はもはや天下統一の野望はいだいていないのだと考えた彼女は、このとき安堵のため息をもらしたのかもしれない。だがしかし、本当に家康は天下を手中にするという夢を捨ててしまったのだろうか?
 いや、家康は天下統一の野望を捨ててなどいなかった。表向きは秀頼を尊重しているように見えたが、むしろ、したたかな計算の元に着々と大坂攻めを計画していたのである。まず、淀殿に秀吉の供養をした方がよいなどと持ちかけ、寺社の建設をうながして金を使わせるように仕向けた。なにしろ大坂城の天守閣には太閤の遺産とも呼べる大判小判や黄金がうなるほどあったからである。もし戦ともなると、これらが軍資金として活用されるのは明らかであった。そのために、少しでも財力を低めておかねばならない。
 こうした家康のしたたかな考えを淀殿は見抜けなかった。彼女は言われるがままに数えきれないほどの寺社を建てて、ほうぼうの寺の修理に途方もない金をつかい続けたのである。このとき家康は、淀殿が自分の計略にまんまと乗っかったことに密かな笑みを浮かべたことだろう。
 やがて千姫を嫁がせた三年後には、家康は征夷大将軍の地位を息子の秀忠に譲ってしまった。家康が今、将軍職についているのは秀頼が幼いうちだけで、秀頼が成人になったあかつきには、将軍職を我が豊臣家に返上してくれるはずだという甘い淀殿の期待はこうして裏切られた。しかも家康が上洛した折には、二条城に出仕せよと秀頼に命令までしてきた。これは徳川への豊臣の服従を意味する行為に他ならない。
 このときプライドの高い淀殿はヒステリックになって荒れ狂った。
「ええい、家康め! わらわを何だと心得ている!このような侮辱を受けるのならまだ死んだ方がましというもの。おのれ、よくも太閤への誓いを忘れおって!」
 だがこのとき、周囲の者が淀殿を必死になだめすかし、秀頼の方から二条城におもむいたので、家康との面会は何事もなく無事に終わった。
淀殿(1569〜1615)浅井長政の娘。浅井三姉妹の長女
 しかし老獪な家康の考えが明らかになった以上、もう対立は避けられなくなった。一方、家康からみれば、後はいかにして邪魔な豊臣家をつぶすかということだけである。こうして家康は大坂討伐のための口実を昼夜を問わず虎視眈々と探し求めるようになった。そしてついに絶好の機会が到来したのである。
 そのとき京都方広寺で落成式が行われていた。その際、大仏殿にとりつける大鐘に刻まれた銘文に自らの呪いの意味が含まれているなどと言って因縁をつけたのだ。ご丁寧に林羅山などの儒学者らに学術的な裏付けまでさせるという念の入れようであった。
 これは豊臣家にとってはとんでもない言いがかりだったが、そんなことは家康にとってはどうでもいいことだった。彼にしてみれば、ただたんに大阪攻めの口実をつくりたかっただけなのである。
大阪の陣の原因となった方広寺(京都市東山区)の大鐘
 かくしてここに家康念願の大坂攻めが実現することになった。
* 大坂夏の陣 *
 しかし、太閤の築いた天下の巨城、大坂城は一筋縄では落ちそうもなかった。小規模な戦いはあったが、真田幸村などの活躍の前に徳川側は攻めあぐんでいた。しかし籠城する豊臣側としても積極的に動くことが出来ない。両軍にらみあいのまま時間だけが過ぎていった。しかし城の周囲をぐるりと徳川の大軍に包囲され、四六時中、鳴り響く砲声にさすがの淀殿も次第に心細くなっていった。一度など、盲めっぽうに打ち込まれた大砲の弾の一発が女中部屋に命中し、そこにいた侍女数人を即死させたこともあった。そういうことで、急速に気弱になった淀殿は、不利な条件にしろ、徳川の要求を飲むことで講和に応じることにしたのであった。ここに大阪冬の陣は終わり、世の中は平和を取り戻したかのように見えた。
 しかし狡猾な家康は、半年も経たぬうちに不穏な動きがあるなどと言って、再び言いがかりをつけてきた。最初、陳謝と弁解に終始していた大坂側も強引な家康の態度に次第に怒りが込み上げて来た。合議が行われた結果、徹底抗戦が決定し、ここに大坂夏の陣がはじまった。しかし、外堀も内堀も持たぬ裸同然の大坂城では徳川の大軍を相手に籠城することなど不可能である。そこで、いさぎよく城外で討って出ようということになったが、あまりに彼我の差は大きく、戦う条件も悪かった。
 真田幸村をはじめ、後藤基次、毛利勝永など冬の陣で活躍した武将は次々と討死してしまった。やがて徳川の大軍が淀殿と秀頼のいる大坂城にひたひたと迫って来る。そうした最中、徳川の内通者によって城に火が放たれた。難攻不落を誇った大坂城にもついに終焉のときが来た。
 夜空に紅蓮の炎に包まれた大坂城のシルエットを眺めながら、このとき家康は千姫だけはなんとか救出出来ないものか考えていた。
「思わくどおり豊臣一族は滅亡するであろう。しかし孫娘の千姫を秀頼や憎い女狐などと一緒に死なせてしまいたくはないものだ。なんとかして千姫だけは救い出せないものか?」
 そこで家康は千姫を落城前の大坂城から救い出した者には千姫を与えると家臣に約束したのであった。
* 炎に包まれた大坂城から救出 * 
 城内では火がぼうぼうと吹き出し、天守閣の中はそこら中けむりが蔓延し、さまざまな調度品が散らばり、部屋を仕切っていたふすまはズタズタに破れて半分黒焦げになっている。
 かつて無敵のシンボルだった千成瓢箪の旗印も無残に焼けただれて廊下に放り出されている。
 ある部屋では刺し違えて自決したと思われる遺体が抱き合うような格好で折り重なっていた。
 また、これから自決しようする者、小刀を握りしめ、目を閉じて今まさにのどを突こうとしている女など、まさに阿鼻叫喚のような地獄の様相だ。
 巻き上がる白い煙を縫って無数の人影がけたたましい音を立てて縦横に走り回っている。バキバキと物が壊れる音、メラメラパチパチと燃え盛る炎の音にまじって、そこら中、悲鳴と罵声が飛び交っている。
「姫はどこだ?」「かしこの御居間にもござらぬ!」
「山里の郭に火がついたぞ!」
 このとき坂崎出羽守直盛(さかざきでわのかみなおもり)という家来が、勇敢にも燃え盛る大坂城に敢然と飛び込み、業火の中から見事、千姫を救出した。直盛は関ヶ原の戦いでは武勲を立てて家康からその功績をたたえられた武将の一人であった。しかし直盛は、業火に飛び込んだ際、顔に大やけどを負ってしまった。千姫を救い出した者に姫を与えるという家康の約束だったが、それは守られることはなかった。
 千姫は顔にやけどをして醜くなってしまった直盛を嫌い、姫路藩主、本多忠刻(ほんだただとき)と結婚してしまったのだ。それを知った直盛は力づくで千姫を奪い返そうとする。しかし、それも叶わぬとみると怒りのあまり憤死してしまった。
 だが、千姫の結婚生活も長くは続かなかった。忠刻との間に生まれた子供たちも次々と早出してしまい、十年後には忠刻自身も31歳の若さで死んでしまうからである。
* 壮絶な悪女伝説のはじまり *
 若くして未亡人となった千姫の毎日は退屈の連続であった。忠刻は千姫の毎夜毎夜の要求に耐えきれずにやつれ果てて腎虚で死んでしまった。来る日も来る日も退屈な時間をもてあまし、少し頭のおかしくなった彼女は城外を歩く若い男を見つけては、城の窓から身を乗り出して袖を振ったりした。
 その後、江戸に移り住んだ後も、欲求不満だった千姫の男狂いは次第にエスカレートしてゆく。しかも酒浸りで遊蕩三昧の毎日。身分が低かろうがみさかいなく、若くてかっこうの良い男を見れば、屋敷の窓から身を乗り出し手招きする。

「やあ、戸が開いたぞ!」見ると、薄暗い部屋の窓が開かれ、赤い袖が振られている。奥に真っ白い人形のような顔も見えた。「ありゃ、ここの屋敷のお姫さまじゃないか!この俺に何か用があるのだろうか?」そう思っていると、侍女らしき女が裏戸を開けて手招きしている。 ひょっとして、なにかいいことがあるのだろうか?
 そう思って浮かれ調子で屋敷に入って行き、それっきり行方不明になってしまった若者は数知れない。
 かくして彼女は毎夜毎夜、男を引き込んでは飽くなき性欲を満たしつづけた。
 しかし、男はそのとき限りの慰みものでそれが終わると毒の入った酒を飲ませて殺した。男は胸を掻きむしると口から泡を吹いてのたうち回って死んだ。
 そして遺体は証拠隠滅のために近くの井戸に乱暴に投げ込まれた。
 まもなく井戸は遺体でいっぱいになり、腐乱し悪臭が漂いはじめた。それでも歯止めを失った彼女の男狂いは毎夜くりかえされた。
「千姫 ♪ 吉田通れば2階から招く ♪ 鹿の子の振袖で・・・♪」これは当時の江戸に流行った唄だ。実際、それを裏づけるかのごとく、千姫の住んだ吉田御殿の古井戸の跡地からは、わけのわからぬ人骨が累々と掘り出された。ときの三代将軍家光は自分の姉でもある千姫の乱行を見るに見かねて大久保利通を使者としてつかわし、彼女に自害を迫ったという。また、本多家の家臣の中には本多家の名誉のため千姫と刺し違えるつもりで決死の覚悟で上洛して来たのもいた。
 しかし、千姫の悪行は止むことはなかった。もうその頃には狂気のはらんだ千姫の頭の中には、男漁りをしてつかのまの快楽を得ることと殺害して遺体を井戸に投げ込むことだけが妄執のようにとりついていたのである。しかし千姫の乱行もついに終わるときが来た。幕府の密命を受けた刺客によって千姫は殺されてしまうのである。
 その後、妖艶で淫乱な千姫の悪女伝説は、講談や歌舞伎のテーマにあげられ、庶民の娯楽を提供する下ネタとなっていった。しかし、これらの興味本位な話のどこまでが真実であったのかはわからない。まさかすべてが真実であったなどとは思えないが、実際のところ、真相はどうであったのだろう? 千姫はどういう女性でどういう波乱の一生を終えたのか? おそらく彼女の数奇な運命の陰には知られざる事実が隠されているはずだ。
* なぜ、千姫は悪女のイメージに仕立てられたのか? *
 これはおそらく、千姫事件が起因しているように思える。業火から見事、千姫を救い出した直盛は家康から絶対の信頼を得て、その後の千姫の身の振り方まで依頼されるようになった。ところが、直盛がいろいろと取決めをし、ある公家との縁組の段階まで話が進んでいたところに、突然、本多忠刻との縁組が決まってしまったのだ。これは一説によると、千姫が江戸に戻る途中、七里の渡し(三重県と愛知県の境にある海上交通路)の船中でたまたま出会った忠刻に千姫が一目ぼれし、侍女に恋文を持たせて強引に近づいたというのだ。忠刻は千姫より1歳年上で当時うわさの美男であった。
 縁談もまとまり、旅支度やら、婚姻の日程やらで最終の詰めをしていた直盛にとって、この出来事はショック以外のなにものでもなかった。しかも直盛は愚直なほど思い込みが激しく、ややパラノイア的性向が強かったというから、その被害意識は相当なものになった。面目を潰された直盛は、本多家に向かう道中で千姫を無理やり連れ戻すという無謀な計画を立てたりしたようだ。がしかし、この計画は幕府の知るところとなる。幕府側はなんとかなだめようとしたが、怒りの収まらぬ直盛は家来の千人とともに屋敷に籠城し、武力衝突も辞さぬ構えであった。一方、幕府側も1万人の兵士で屋敷を包囲し、事態は一触即発にまでエスカレートしてしまった。
 結局、お家断絶という最悪の結果をまぬがれるため、家臣が直盛の寝込みを襲い、斬首することでこの騒動は終わった。しかし民衆からすれば、直盛の無念さも十分理解できる。本多忠刻などに勝手に輿入れした千姫が悪い。苦労して救出した直盛が憤死したのは千姫のせいだ。男狂いした千姫こそ恩知らずの悪者だということになっていったのではないだろうか?
 こうして、直盛への同情と千姫へのねたみなどが民衆の好奇な感情とまじわって、千姫を壮絶な悪女のイメージにしたてていったと思われるのだ。しかし、家康は千姫を救い出した者に姫を与えるなどと約束したということには何の信憑性もないのだ。直盛はこのとき52才で、言い出したら聞かぬという性格があったらしいが、いくらなんでも女性問題では思慮分別のあった人物である。むしろ、大衆が好むような方向に話が歪曲されていったと考える方が正しいのではないか。
 つまり、千姫を与えてもらえると思っていたものが、彼女の心変わりでにべもなく断られ、若くて美男の忠刻の方に行ってしまう。そこで思い込みが激しい直盛は強引に千姫を力づくで奪い返そうとしてひと騒動起こすというストーリーの方が大衆受けするのである。さらに直盛が救出の際、顔に大火傷して醜くなってしまうということにすれば、この話にさらに話題性をつけ加えることになり、大衆の嗜好性によりマッチすると考えられたのではないかと思われるのだ。
 そして江戸時代初期に描かれた風俗画などはこの話に現実味をもたせる格好の材料となった。
 鹿の子の振袖姿の千姫が、侍女に恋文をもたせて本多忠刻に手渡そうとしている場面を描いたものである。
 遊女はよく鹿の子の振袖を着て、遊郭の窓から袖を振ったなどという話があるが、まさに男狂いの悪女に仕立て上げるにはうってつけの風俗画である。
 また当時、東海道の吉田(愛知県豊橋市)という宿場町には遊郭が多く、遊女が鹿の子の振袖姿で身を乗り出し、遊郭の二階からよく客を招いたという話がある。
鹿の子絞りの小袖を着けている千姫(中央の女性)寛永年間(1624年)のものとされる。風俗画の名品(徳川美術館)
 こういうわけだから、千姫の住む屋敷は吉田御殿という名前にした方がなおさらふさわしいとなっていったのだろう。実際は、千姫の住んだ屋敷は竹橋御殿という名で吉田ではない。
 かくしていったん、民衆によって好奇な噂が立てられれば、それ自体に尾ひれがつき、大衆の嗜好や下ネタの方向にねじ曲げられていくものなのである。
* 実際の史実をたどってみると *
 千姫は戦国のならわしとして徳川豊臣両家の政略結婚としてつかわれ、豊臣家に輿入れしたが、後世で言われるような人質だけの存在ではなかったはずだ。淀殿が千姫を徳川のスパイか回し者のように考え、始終嫌っていたなどとは到底考えられない。
 淀殿は千姫からみれば叔母にあたり、一方、淀殿も姪であった千姫を心からかわいがったにちがいないと思われるのだ。徳川から嫁いで来たとはいえ、千姫の身体の中にはともに浅井の血が流れているのである。千姫の方も淀殿を慕い、夫である秀頼を心から愛したことだろう。千姫が16才になったとき、鬢そぎの儀式(耳の横にある髪を姫さまカットのように切ること、男子の元服に相当する儀式)でも秀頼自らが筍刀(たこうながなた)で彼女の髪を切っている。
 徳川との決裂が決定的になったときも、彼女を取り巻く環境はさほど変わることはなかったと思われる。大坂城が落城する際にも、淀殿は千姫に自分の大切な侍女、海津局(かいずのつぼね)をつけて脱出させているのである。淀殿は海津局が千姫を守って無事に城外に逃れることを誰よりも願っていたのだ。そして千姫のその後のことまで配慮していたのである。事実、海津局はその後も江戸で千姫の侍女として終身仕えることになる。だが千姫と秀頼との間には子供はなかった。しかしだからと言って、二人の関係が決してよそよそしい冷めた関係ではなかったと私は見る。
 千姫は燃え盛る大坂城から直盛によってからくも助け出されたのであろうか? 事実は、千姫は秀頼と淀殿の助命嘆願のため堀内氏久らの家臣とともに城外に逃れ出たと見るのが正しい。夕闇のせまる中、一行は布で鼻と口を覆いながら、城の秘密の通路を伝って密かに大坂城を脱出した。ところが周囲は敵だらけでこのまま進むのは危険と考えた氏久は、旧知の仲であった直盛の陣が近くにあると知ってそこに直行することにした。
 周囲は煙がくすぶって火の粉が舞っている。あたりには焼けただれた戦死者の遺体が折り重なるように、どこまでも累々と続いている。一行は目をそむけながら黙々と直盛の陣へ急いだ。向こうに兵士のシルエットが見える。直盛の陣だろうか? 一方、見張りの兵士はもやの中からいきなり十数名の男女の姿があらわれたので驚いてしまった。
「誰か! 誰か!」
「我、堀内主水と申すもので御座る。秀頼さまからのお言伝、内府さまに言上したきことあれば、案内つかまつりたき候」
「承知した」
 こうして一行は、直盛の陣まで連れて行かれた。そこで事情を聞いた直盛は、一行をそのまま秀忠の本陣に連れて行ったというのが真相らしい。
 しかし結局、千姫の助命嘆願は聞き入れられることはなかった。このとき、父の秀忠などは自分の娘である千姫に「豊臣の一族としてなぜ死のうとしない」などとひどいことを言っている。
 その後、秀頼の二人の子供も逃亡中に伏見で捕えられ、処刑されることになった。徳川としてみれば、豊臣の残党は一人も生かしておかぬという考えであったので、豊臣の血筋を受け継ぐ者は根絶やしにするつもりであった。しかし子供だけはと、千姫は体を張って命乞いをしたそうだ。男子の国松丸はやむなく殺されたが、もう一人の娘の方は、尼になる条件でかろうじて生きながらえることが出来たのであった。徳川として見れば、尼ならば結婚して子供を産むこともなく、後顧の憂いにはならないだろうと考えたのだろう。
 千姫は8才だった秀頼の娘を養女にすると、鎌倉の東慶寺に入れて天秀尼(てんしゅうに)と改名させて生涯面倒をみたという。
 今も東慶寺には千姫からの手紙で、竹の子やびわなど季節のものを送ってくれた礼の返事だとか、天秀尼が体調をくずしたときも、彼女の健康を気づかった内容のものが残されている。
東慶寺(鎌倉)男子禁制で女人救済の寺として知られている。
 千姫は自分の助命嘆願が聞き入れられずに淀殿母子が自害したとき、世をはかなみ出家を願ったという。しかし、家康はいとしい孫娘の失意を不憫に思えてならず、なんとかしたいと考え、その償いとして、美男の本多忠刻との縁組みを考えたのであった。忠刻の祖父は徳川四天王のひとりとして知られ、過去には幾度も家康の危機を救ってきた松平家なじみの重臣である。家康としてみれば、かわいい孫娘、千姫を徳川一門にもっとも近い大名の奥方として姫路城に住まわせてやりたかったのではあるまいか。
 こう考えれば、直盛のメンツをつぶしたのは家康本人ということになる。家康は直盛に千姫の身の振り方一切をまかせながら、後になって気が変わったのか、一方的に彼の考えを無視し縁談を決めてしまったわけだから。直情型の直盛は自尊心を傷つけられると武力衝突をも辞さぬ構えでものごとを強引に推し進めようとしたことが度々あった。また武士にとって、面目を失うということは当時の価値観からして、容易ならざる事態であるというのも考慮しておかねばならない。このことで相手がたとえ幕府であっても、彼の怒りは収まらずうっぷんを晴らそうと暴挙に出たと思われるのだ。そしておそらくこの方が真実であろうと考える。
 10年後、忠刻が病死すると、千姫は迷うことなく髪を下ろして尼となり天樹院と改名した。江戸に移り住んだ彼女は娘と二人で住み、その後、ひとり娘の勝姫が嫁いでからは屋敷に一人で住んだ。その生活は質素で弟の三代将軍家光に慕われながら静かに余生を過ごす毎日であったという。
 これらの話から、千姫の生涯は淫乱で壮絶な悪女などとはほど遠いイメージであることがわかる。また千姫は決して豊臣家にとって体のいい人質でもなく、秀頼との関係もぎくしゃくして冷えたものでもなかったといえるだろう。彼女の努力もむなしく淀殿母子の命を救うことは出来なかったが、秀頼が側室に生ませた子供を我が子のように身体を張って懸命に助命懇願したのである。そこに千姫の秀頼に対する健気でいちずな愛情を見る思いがする。秀頼が死んだ後も彼女の秀頼を愛する気持ちは不変のものであったにちがいない。13年におよぶ秀頼との結婚生活は、形だけのものではなく、きっと仲むつまじい幸せな日々であったことだろう。
 かつて、千姫が住んだという姫路城西の丸の補強工事が行われたことがあった。
 そのとき、化粧やぐらにつかわれた居間の板をはがしたところ、白粉のようなものが舞い、なんとも香ばしい匂いがあたり一面に立ち込めたことがある。それは千姫の愛用していた白粉であったのだろうか?
 400年の時をこえて、今なお、千姫の面影がしのばれるかのような出来事であった。
千姫が住んだという化粧櫓(姫路城)
 現在、東京小石川の伝通院に彼女の墓はある。
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参考文献
「とっておき日本史」佐伯誠一著 日本文芸社
歴史読本「徳川家康の一族」新人物往来社
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