ユニティ・ミットフォード
〜ヒトラー夫人と噂されたイギリスのワルキューレ〜
「彼がワルキューレと呼んでいるだけのことはあるわ。金髪で脚もスラリとして長いし。きっと、彼は大女が好みなんだわ。でも、あんな痩せっぽち、いずれ飽きられるに決まっている 」  (エヴァ・ブラウンの日記より)
* エヴァ・ブラウンの恋敵 *
 ヒトラーの愛人だったエヴァ・ブラウンには油断できないライバルがいたという。その女性の名は、ユニティ・ミットフォードと言い、ヒトラーのかかげる典型的なゲルマン系ブロンド美人であった。イギリス貴族出身だったユニティは、背は180以上もあり、目は明るいブルーで、優雅な身のこなしは上流階級特有の洗練されたものであった。
 ヒトラーはこの女性のことをイギリスのワルキューレと呼んで、重要な会議にはいつも同席させ、週末にはベルクホーフの山荘に招待するほどであったという。確かに豊かな金髪をかきあげて、さっそうと闊歩する様はまさに戦場の女神の感があった。海外の主要メディアはこぞって、近々、ヒトラーのファーストレディになる女性だと信じて疑わなかったそうだ。
 特にその当時、1933年はナチス党が政権をとれるか否か重要な年でもあり、そのためヒトラーは、総選挙の準備のためドイツ国内をいそがしく精力的に飛び回っていた時期でもあった。しかしエヴァからしてみれば、電話もまったくなく、きっとヒトラーは自分に飽きてもう一人の愛人に夢中になっているものと思い込んで悲観してしまうことになった。自暴自棄におちいったエヴァが、銃で自殺未遂をしたのもこの理由によるものだ。エヴァをそこまで追い込んだ謎の愛人ユニティ・ミットフォードとは一体どういう女性だったのだろう?
* ユニティの生い立ち *
 彼女、ユニティ・ミトフォードは1914年8月8日、デイヴィッド・フリーマン男爵と妻シドニーの間で六人姉妹の四女として、イギリスはロンドンで生まれた。次女パメラの次には唯一の男子だった長男のトーマスがいる。また、母親方はかのウィンストン・チャーチルとの縁戚関係にあった。
 母親は大変、厳格で近寄りがたいムードを持っている人で、父親はいったん癇癪を起すと、制御できないほどの大声でわめきちらしたという。
 その際、激高のあまり奥歯にあった義歯をかみ砕いてしまうこともしばしばであった。
 また夫妻は2年おきに、カナダにある自分たちの土地に金鉱探しの目的でよく出かけたりもした。
ミットフォード家の写真。ユニティ
(前列左)
 夫妻はあてどもなく川底をすくったりしたが、たまにキラリと光るものを見つけても、ただの石ころやガラクタに過ぎず、結局、数か月もの間、彼らは無意味に時を過ごしただけであった。
 こういうふうに、父も母も非常に風変わりな人物であったのでミットフォード家の娘たちもまた特殊な環境の中で育たざるを得なかった。そういう理由によるものか、6人の姉妹はどれも個性的で、その中でもユニティは一番エキセントリックな子供であった。
 父親は陸軍士官学校への受験に失敗すると、セイロンにある紅茶のプランテーションに働きに行った時期があった。その後イギリスに戻るが、このころから徐々に、ファシストの考え方に傾倒し、反ユダヤ主義をとなえるようになる。その影響からか、ユニティも次第にファシズムに興味を持つようになった。
 ユニティは六人姉妹の中でも、妹のジェシカと一番仲が良かったのだが、その関係は高校生の頃になると一変してしまった。というのも、ユニティはファシズムに傾向し、ジェシカは共産主義に没頭するからだ。当然、二人の仲は水と油のようになってしまった。部屋は一緒だったにもかかわらず、部屋の真ん中あたりには一本の線が引かれており、片方には鍵十字とヒトラーの肖像画が張られ、片方には鍬のマークとレーニンの肖像画が張られていたという。いくら変わっているとはいえ、これほど両極端な姉妹も珍しいという他ない。
 ユニティはやがてモズレーを党首とするイギリスファシスト連盟に入党した。
 毎日、大音響でナチスの党歌をスピーカーから流して歌ったりするほどの熱狂ぶりで、挨拶するのも誰かれかまわず右手を挙げて「ハイル・ヒットラー!」と叫ぶ始末であった。
 一方、ジェシカにしても負けてはおらず、家のいたるところにレーニンの胸像を置きまくっていたという。
 両親が必死に止めさせようとしたが彼女らはまったく聞く耳を持たなかった。
黒い制服を着て、親衛隊員と話をするユニティ
 勉強嫌いのユニティが、ドイツ語を習うと言いだしたときは、両親は理由はどうであれ、ようやく勉学への情熱に目覚めたと喜んだりもしたものだったが、本人にとってみれば、ドイツ語を学ぶことは、勉学などというものではなく、永遠のアイドル、ヒトラーに近づくための手段に過ぎなかったのである。
 だが本当のところ、ユニティは国家社会主義だのユダヤ人排斥運動だのと言ったイデオロギー的なものには興味はなかった。
 彼女は髑髏のマークをつけた親衛隊員が、雷鳴の高鳴るような行進曲に合わせて、一糸乱れずに機械仕掛けのように整然として行進する様に心を打たれたのである。
 おそらく、暗闇で松明を持って行進する幻想的な光景や延々とつづく幾何学的な行進が彼女の心をつかみ、強烈な印象を与えたと思われる。言うなれば、見事なまでのナチの演出が退屈な日常にあきあきとしていたユニティに現実からの脱出願望を芽生えさせていったに過ぎない。
* あこがれのヒトラーとの出会い *
 19歳のとき、彼女はヒトラーに会いたい一心からはじめてドイツに渡った。彼女はヒトラーが側近たちとともに「オステリア」という店でいつも昼食をとることをあらかじめ知っていた。この店はミュンヘンの老舗で芸術家たちには人気のある店である。
 ユニティは白のつば広の帽子をかぶり、シルクのジャケットに細かいプリーツの入ったロングスカートのいでたちで中庭の一角に席をとった。この席はヒトラーがいつも座る場所からはよく見える位置にあたるのだ。流し目をして彼と目があったらさり気なく微笑むことにしよう。
 彼女はそう心準備をしていた。テーブルの端にはドイツ語の辞書を置き、それを読むふりをしながら、ときおり、悩まし気なポーズでため息をついたり、テーブルにひじをついたりする。一見、何気ない動作でも、決して気をゆるめてはならないのだ。これらは、ヒトラーの目にとまり、声をかけられるための、言わばポーズなのである。
 こうして、ユニティは何日もねばりづよく待ち続けた。それはまさに上流階級の娼婦版とでも表現すればぴったりの行動であった。しかし、なかなかチャンスは来ない。向こうのテーブルでヒトラーが大げさなデスチャーを交えて同僚と何かしゃべっている最中、時おり、チラッと目が合ったりもするのだが、会話に夢中になっているのか、一瞥するだけで終わってしまうのだ。とても秋波を送るところまではいかない。
 ところがついにその日がやって来た。「ヒトラー様が、あなた様にご挨拶したいといっておっしゃっておられますが・・・」給仕が彼女にささやくように言ったのだ。このとき、ユニティはかすかな微笑を浮かべるにとどめた。心の中では、指を鳴らして「わぉ!やったぁ!」と叫びたい心境であったろう。しかし、下品で仰々しい態度は見せてはいけないのだ。ここからが本番なのである。さりげなく、上品に、魅力的にふるまわねばならないのだ。ユニティは少し緊張した心持ちでヒトラーの方に近づいていった。
 ヒトラーの側近の一人が立ち上がってうやうやしく席に案内する。
「よくお見掛けいたしますが、イギリスの方だとうかがっております。英国ファシスト連合に加入されているご婦人だそうですね」初めて聞くヒトラーの声は、想像していたのと違ってささやくようなか細い声だった。演説するときと感じが全くちがう。少し違和感にとまどいながらも、彼女はたどたどしいドイツ語で言った。
「ええ、総統様はイギリスでも私どもの誇りです。私どもの党首モズレーなどはとても総統様には及びもつきませんわ」ヒトラーは彼女の一生懸命のドイツ語に耳を傾け、何度もうなずきながら黙って聞いている。とても誠実な感じだ。 
 ユニティは今起きていることが現実とは思えなかった。ユニティはヒトラーが興味を示すような話題に切り変えた。
「総統様はイギリスの古典的建築物に興味がおありと聞いていますが?」ヒトラーはかぶりを振るとこう答えた。「ええ、そうです。私も若い頃は建築学を学びましてね。華飾式ゴチック建築などはイギリス独自のものですからな。一度は、ウエストミンスター寺院に行ってみたいと思うとるのですよ」ヒトラーはやはり乗って来た。ほくそ笑みながらユニティは言う。
「ぜひ、総統様にイギリスにいらして欲しいですわ」「いや、そうしたいところですが、国民を放っぱらかしにして国外に出かけることは出来ません。こう見えても、今は一国をまかされた身なのです。こう考えますと、総統という地位も不自由な身分です。一種の囚人とでも言えばよろしいですかな」最後は含み笑いをしたが、上品で気さくで飾らない一面に、ユニティはますますヒトラーの人柄に魅了されてしまった。
 しかし会話が政治のことに及ぶと、急にヒトラーの目がキラリと光った。「イギリスとドイツはともに手を結ぶ必要があるのです。ユダヤの国際的陰謀を阻止するためにもね。私はこういう気持ちで日々、国民に貢献したいと思うとるのです」「ええ、総統様、おっしゃる通りです!」もうこの辺になると、ユニティの方もかなり上気して興奮気味の口調になった。こうして、30分程度の会話ではあったが、この日はユニティにとっては生涯忘れ得ぬ思い出の一コマになったのである。
 その夜、ユニティは姉ダイアナへ興奮しながら手紙を書いた。
「今日、ついにヒトラー様から声をかけてもらったのよ。もう幸せすぎて幸せ過ぎて死にそう。ああ、近くで見るだけでも幸せなのに、ヒトラー様の隣に座ってお話ができるなんて・・・。私はなんて幸運な女なんでしょう。だってあの人は歴史上でもっとも偉大でもっとも魅力ある男性なんですから」
* 第三帝国の広告塔として *
 ヒトラーと面識をもったユニティの活躍は、これ以後、急速にエスカレートしてゆく。ナチの主だった式典にはすべて顔を出し、ヒトラー主催の食事には招待され、ゲーリングの結婚式、芸術祭のときにも出席した。オステリアの店でヒトラーとはじめて会って以来、その数、実に3年間に140回を数えるまでになった。ヒトラーの側近たちやナチの幹部たちにも急ピッチで深い関係になってゆく。ヒトラーとの間でも敬称抜きで呼び合う親しい仲にまでなった。
 やがて報道機関はいつも、大きなイベントがあるときは、ヒトラーの隣にいる謎の外国人女性のことを報道するようになった。新聞はこぞって大きな見出しで彼女のことを大々的に報じた。
「英国からの親善大使、ミス・ミットフォード嬢!」 
「わが総統と語り合うイギリスのワルキューレ!」
「反ユダヤの女神、ミス・ミットフォード嬢!」
 彼女の理想は大英帝国と第三帝国の結合だった。イギリスとドイツは共通点が多い。ともに北方ゲルマン民族で、支配民族として運命づけられているのである。ヨーロッパが栄える否かはこの両国にかかっている。世界はイギリスとドイツによって二分されねばならないのだ。世界の大半を占める海は大英帝国が支配し、ヨーロッパ大陸はすべて第三帝国が支配する。そうしてその際、ユダヤ人は一人残らず駆逐されねばならないのである。
 ユニティは自分の力でイギリスとドイツは結合できうるものとうぬぼれていた。1936年にドイツとの間に締結された海軍協定などはまさのそのあらわれだと思っていた。この協定は、ドイツのごり押しをイギリスが譲歩しただけの内容に過ぎなかったのだが、ユニティとしては自分の存在が条約締結に大きく寄与した結果だと信じていたようである。事実は、国家間の利害関係だけで締結されただけであり、彼女の努力などどこにも反映されていなかったのだが。
 イギリスとドイツ両国の平和の架け橋として、自分の存在意義があるなどとユニティは常々家族に言っていた。もしドイツとイギリスが戦争状態になったら、私はとても生けていけない。そうなったら死んだ方がマシだとまで言っていたのである。
* 両親も招かれてドイツへ *
 1935年、ドイツ嫌いだった両親も招待をうけてしぶしぶ訪独することになった。
 最初、両親は戸惑いがちだったが、運転手つきのベンツを提供されてドイツ国内を観光するという歓迎ぶりに両親の心は次第に好意的になっていった。
 ニュールンベルクの党大会では貴賓席が用意され、ヒトラーの熱っぽい演説を真近に聞くころには、ボルテージはかなり上がっていった。
1935年、ヒトラー絶頂期でのニュールンベルクの党大会の様子。
 さらにベルヒテスガーデンの山荘に招かれたときは、菜食主義者だった母親などは、ヒトラーの食生活にすっかり魅了され、ライ麦の挽き方とかパンの焼き方などを話すと、ヒトラーは真剣に耳を傾けてうなずく始末であった。こうしたヒトラーの真摯な態度に母親は大感動してしまった。一方、父親の方も始終、親衛隊の高級将校に取り巻かれて上機嫌であった。
 きわめつけは、山頂にあるヒトラー自慢の水晶宮で、美しいバイエルンの山々を背景にお茶を飲みながらの談話であったが、もうそのころには、両親は熱烈なヒトラー信奉者になってしまっており、父親など、上機嫌でハイルヒットラーを何度も叫ぶほどであった。
 父親は故郷のイギリスにもどると、上院議会でヒトラーの平和を愛する心情の深さ、社会政策に情熱的に取り組む姿勢、果ては失業者対策にいかに真剣に取り組んでいるか、など声を大にしてとうとうと報告するのであった。
 * エヴァの存在に動揺するユニティの心 *
 ヒトラーとかくも親密な関係にまでなったユニティだが、ヒトラーに隠れた愛人がいるらしいという噂がユニティの耳にも聞こえるようになった。詮索好きの友人が彼女に総統には隠れた愛人がいると耳うちしたのである。その愛人はエヴァ・ブラウンと言い、とある写真店で事務をして働いているのだという。
 まさか私の敬愛するあの総統様が、一介の売り子である娘などと本気で交際しているはずはない。何かの間違いよ。きっと私をやっかんだあげくの嫉妬心からのあてつけにちがいない。しかし平静を装ってみてもどうも気になって仕方がない。一度、どんな女かこの目で確かめてみようと彼女は思った。
 こうしてユニティは人目をしのんで、ホフマン写真店にこっそり足を運んぶことにした。さりげなく見た店内には一人の小柄な女性が接客中であった。質素で気弱そうで、どこをとっても変哲もない娘に見える。こんな女のどこがいいのかしら? やはり噂は大げさに吹聴されただけでただのあてつけに過ぎなかったのだ。彼女は胸をなぜおろしてそう思った。ところがその娘のはいている靴を見たとたん一瞬で考えが変わった。イタリア製のトップモードのフェラガモだったのだ。当時、こうした品はドイツでは手に入らなかった。もし手に入れることが出来ても目の玉が飛び出るほどの高価なものだったのだ。とうてい安月給取りの売り子風情に買える代物ではない。噂はやはり本当だったのだ。くちびるを噛んで足早に去る彼女の心境は尋常ではなかった。
 しかし、それはエヴァの方でも同様で、ヒトラーの隣にいつも背の高い謎の外国人女がいることに心おだやかではなかった。その不安は徐々に蓄積され、やがて睡眠薬をたらふく飲み、二度目の自殺未遂を起こすことになる。ピストルで自殺未遂をやらかしてから2年後のことである。
 しかしそれから5年後、今度はユニティ自身がピストルで自殺未遂をやらかすことになるのだが、そうした不幸な運命になることを本人は、このとき予想さえしていなかったことだろう。
* 絶望の淵に追い落とされる *
 ユニティの目指すのはイギリスとドイツとの融合だった。そのために自分の存在する意味がある。彼女の自負はなみなみならぬものがあった。ところが、国際情勢はユニティの希望する方向には向かわなかった。イギリスとドイツの間に暗雲がたちこめ始めていたのだ。そうして、ドイツがポーランドに侵入してイギリスがドイツに宣戦布告をしたとき、彼女の理想は音を立ててくずれ落ちていった。
 茫然自失におちいったユニティは、ミュンヘン市内の公園内をあてどもなくさまよい歩き、「もうこれ以上はとても耐えていけない」などという内容の遺書を残し、自ら銃でこめかみを撃って自殺を図ったのであった。
 しかし通報によって、救急隊がすぐに駆けつけ、ひん死状態になったユニティは病院に担ぎ込まれ、なんとか一命は取り留めることはできた。しかし弾丸が後頭部の摘出できないところに入り込んでおり、手術することさえ出来ず、意識不明の状態が長らく続いた。数日後、ようやく意識が戻ったが、ユニティの顔は腫れあがり、別人のようであった。しかも、脳の中枢神経の大半が麻痺しており、もはや自力で食事もとれず、しゃべることも出来ず、手足もほとんど動かすことが出来ぬ身体になってしまっていた。
 ヒトラーはポーランドを征服したのち、見舞いに駆けつけたが、手渡された花束を見てもユニティの表情には何の動きもなかった。そのとき、ぎこちない口調で、ただイギリスに帰りたいと一言つぶやいたという。
 ユニティの両親は、彼女をイギリスに搬送するためにあらゆる努力を惜しまなかった。大金を費やして医療設備を備えた特別の客車さえ手配した。すでに戦争が始まっていたので、直接、イギリス本国への搬送はできない。そこで、ユニティはまず中立国のスイスに送られ、鉄道でフランスまで移送された後、そこから海路でイギリスへと帰国した。
 その後、ユニティは次第に歩けるようにはなったが、精神的な障害は強く残こることになった。彼女は第二次大戦が勃発したことも、数年間の戦争で多くの人々が死に、かつて過ごしたドイツが廃墟同然になってしまったことなども知ることはなかった。彼女は現実と区別できぬ朦朧とした記憶の片すみにだけで生きていたのである。
 戦後になってからもユニティはずっと後遺症に苦しみつづけた。特に頭痛がひどく、それは吐き気をともなうほどひどいもので、ときには意識が朦朧となり、身体がはげしく痙攣することもあった。一族の所有するアイルランド沖にある小さな島で療養に専念することになったが、1948年5月28日、ひどい発作の後、ついに意識が途絶え、そのまま死の世界へと旅立っていったという。まだ34歳の若さであった。
 長女ナンシーは言う。「だいぶ回復していたので信じられない気持ちです。ようやく、クルマの運転もできるようになり、映画なども一緒に観にいったりしていたんです。彼女自身も幸せそうに見えました。でも幸せだった日々はとうに終わっていたんです。実際のところ、妹もあの忌まわしい戦争の犠牲者だったのです」
* ミットフォード家の7人の子供のその後の運命 *
 ミットフォード家ただ一人の長男トーマスは、戦争がはじまると、ドイツとの戦いを好まず、極東戦線に志願した。しかし1945年3月、日本兵の放った一発の銃弾に倒れ、ビルマの山中で戦死した。
 長女のナンシーは戦後、上流貴族の波乱に富んだスキャンダラスな世界を描いた小説でベストセラー作家になった。次女のパメラ は著名な物理学者と結婚するも、その後、離婚。晩年はイタリア人の女性馬術家と田舎で静かな余生を送ったという。三女のダイアナは、イギリスファシスト連合のリーダー、オズワルド・モズレーと結婚した。結婚式はヒトラーを立会人に、ゲッベルスの家で行なわれた。第二次大戦がはじまると、ナチス協力者として逮捕され、収容所で暮らす。出所後は夫とともにアイルランドで暮らし、のちにフランスに移住。92歳まで生きた。
 幼い時にユニティと大の仲良しだった五女のジェシカは、その後共産主義に傾向し、アメリカに渡ってアメリカ共産党員になり、そのまま一族との関係を断った。六女のデボラはデヴォンシャー公爵と結婚し、由緒ある豪華な邸宅の女主人におさまった。彼女は、食品や雑貨、ホテル経営など大規模な事業にまで手を伸ばし、2014年に亡くなるまで、事業家としての名を欲しいままにした。
 かくして、ミットフォードの6人姉妹は、作家、ファシスト、コミュニスト、公爵夫人など多彩な波乱万丈の人生を送り、イギリスでは20世紀前半の上流階級の中にあって常に異彩を放つ存在となった。現在も6人姉妹に関する数多くの書籍が出版され、映像化も数多くなされているという。
トップページへ
参考文献
「ナチスの女たち〜第三帝国への飛翔〜」アンナ・マリア・ジークムント著 西上潔訳 東洋書林
アクセスカウンター

inserted by FC2 system