カトリーヌ・ド・メディシアス
 
〜聖なる夜の大虐殺の火付け役となった王妃〜
 迷信と呪術だけが支配した中世の時代。その闇の向こうから一条の光が見え出したルネッサンス。人々は人生の意義を見出し、宗教は心の拠り所になりつつあった。ところがいつしかその本質は変化し、やがておぞましいものになってゆく。そしてついに、聖なる夜に恐ろしい出来事となって人々を恐怖のるつぼにたたき込んだ。この悲劇の舞台裏にはある一人の王妃の存在があったという。
* 複雑な利害関係の中で *
 当時、イタリアは幾つもの都市国家に分かれて争っていた。どの国もイタリアの覇権をとなえて争っているのだが、単独では力不足と言った状態である。そこで、いかに大きな力を持った相手と組めるかが決め手となってくる。しかも、覇権をねらう相手は国内だけではなかった。イタリアを自国の領土にしまおうと虎視眈々とねらっているフランスの存在もあったのである。
 カトリーヌ・ド・メディシスはこうした中、1519年4月13日、イタリアはフィレンツェでメディチ家の娘として生まれた。メディチ家は金貸し業から身を起こし、絶大な富と権力を手中にした名門として知られている一族である。
 カトリーヌが14歳になったとき、縁組の話が舞い込んできた。相手はフランス王フランソワ1世の第二王子アンリで彼女と同じ14歳であった。今回の縁組は、フランスとイタリアのメディチ家との間で成立した、言わば政略結婚でもあった。つまりフランスにとっては、富と権力をかねそなえたメディチ家と組めれば、イタリア進出への足場が出来てまことに都合がよい。一方、メディチ家としてみれば、大国フランスの後ろ盾があれば、イタリア全土を手中にすることも夢ではなくなる。つまり双方にとって、この結婚が成立すれば、願ったりかなったりということなのであった。
 婚礼は大富豪メディチ家の財力を見せつけるにふさわしいものとなった。わずか14歳の少女一人をフランスに送り出すのに、なんと千人ものお供がついた。持参金もまた莫大な額で、そのほかに、計り知れない宝石の山、広大な領地が二つもついたというからスケールの大きさが想像できよう。
 こうして1534年、儀式は華々しくとり行われ、カトリーヌはフランスの王子アンリの妻となる。しかしイタリア同様、フランス国内でも深刻な問題をかかえていた。ユグノー(新教徒)とカトリック(旧教徒)の対立が日常的に激化しており、いつ宗教戦争が勃発してもおかしくない不穏な情勢がつづいていたのである。
* 吹き荒れる宗教改革の嵐 *
 中世の時代では、人々は禁欲と清貧と隠遁の中で生きることを強要された。いわば、神と魂が主体で人間は脇役であった。ところがルネッサンスの時代になるとこの立場が逆転する。人間本来の欲が見直され、人間らしくありのままに生きることの大切さをうたわれた時代でもあったのだ。こうした考え方は、信仰面でも影響を与え、これまでのカトリック主導による教義に大きな波紋を生じさせることになった。特にドイツでマルティン・ルターが免罪符なるものに強硬に抗議してからは、カトリック教会のみならず聖職者への腐敗ぶりを弾劾する動きが一段と加速していた。
 他人をだましたり、悪口を言ったり、物を盗んだり、人をあやめたりすることは、神の教えに背く罪深い行為とされていた。しかしこうした罪でさえ、教会に金を支払うことで許されるのである。つまりこの考えによると、教会が売り出した免罪符なる証明書を購入すれば、本人のみならず、死んだ親戚の魂でさえ天国に行けると保証されるのである。通常なら、犯した罪を反省して、それを司祭などに告白して、その罪を償うための行ないをしてゆくというのが一連の流れとなるが、それらを経由することなく、いきなり金を払えばすべて許されて帳消しになるというのである。
 要するに、免罪符の販売は聖職者たちの財産を体よく増やすことが目的であったわけだが、こうした教会の考え方に人々の不満は頂点に達していたのである。それがルネッサンスの啓蒙運動によって一気に爆発したということであろうか。カトリックへの不満はやがてもう一つの派閥プロテスタント(新教)を生み出し、従来のカトリックと激しく対立するまでになった。その対立の嵐はヨーロッパ各地に波及して、宗教戦争の火種にまで発展し始めていた。
 プロテスタントはいろいろな派閥となってヨーロッパ各地で普及し、さまざまな名称で呼ばれていた。オランダではゴイセン、イギリスではピューリタン、ここフランスではユグノーであった。
* カトリーヌの忍耐の日々 *
 カトリーヌがフランスに来て3年後の1536年夏、王太子であった兄のフランソワが毒殺されるという事件が起こった。これはフランスと敵対関係にあった神聖ローマ帝国カール5世の仕組んだ陰謀によるものであった。ところが、この事件によって、王位の継承権は二歳年下の弟であったアンリに移ることになる。かくしてカトリーヌの身分は王太子妃となったわけだが、このときカトリーヌとアンリとの間にはまだ子供はなかった。
 その理由として、夫のアンリは20歳も年上のディアーヌに心を奪われていたからだとされている。
 ディアーヌはアンリが12歳の時から家庭教師の役を任されていたが、それがいつのまにか愛人関係にまで発展したらしい。というのも、ディアーヌは当時の絵画など見ても、ひじょうに美しい女性として知られており、50代になってもその美貌が衰えることがなかったといわれている。
 60代になった晩年でさえ30代と変わらぬ美しさで、肌は雪のように白かったと記録されているほどだ。
ディアーヌ・ド・ポワチエ(1499〜1566)
 一方、カトリーヌはと言えば、太り気味でたるんだほほ、はれぼったい瞼、締まりのない口元をしており、どう控えめに見てもアンリにとっては魅力ある女とは言い難かった。そういうことで、カトリーヌは表向きはアンリの正妻ではあったが、夫の心は常にディアーヌに向けられていたと言えるだろう。カトリーヌはそうした夫アンリの心中を察してはいたが、どうなるわけでもなく、自分の夫がことあるごとに彼女のもとに通って行くのをいつも苦々しく感じていた。
 カトリーヌにはこうした忍耐強い面もあったが、元来、迷信深く病的なところがあり、そうした陰の性格が災いしたのかもしれなかった。
 彼女は魔術や黒ミサなどに凝ったりするところがあって、自分の運勢や人の運命を占ったりするのが好きな面があった。
 星がたくさん入り組んだような奇妙な護符のペンダントや装身具を肌身離さず身に着けていたり、おかしな恰好をした道化人や占い師のような得体の知れない人間をいつも身近にはべらせていたのである。予言師として後世に知られることになるノストラダムスもその一人であったという。
カトリーヌ・ド・メディシアス(1519〜1589年)
 しかし周囲の働きかけなのか、まもなくアンリとカトリーヌの間には子供が次々と生まれることになる。こうした時期、国王のフランソワ1世が病気であえなく世を去ってしまった。かくして、夫のアンリはアンリ2世として王位につき、カトリーヌは晴れて王妃の身分となった。だが依然、アンリの心はディアーヌにあった。アンリはなにかにつけて彼女の元にいき、一緒に旅に行ったり、高価な宝石類や美しい城などの豪勢な贈り物をしつづけていたのである。
 ディアーヌはひじょうに利口な女性であったので、王をうまく指導し、上手に立ち回ることを忘れなかった。アンリに心から信頼されていたディアーヌは、子供たちが誕生すると教育係にさえなった。そういうわけで、宮中における実権はほぼディアーヌの手中にあったのである。
 カトリーヌからしてみれば、こうした夫の不埒な行為も我慢ならぬところであったが、王妃の自分をさておき、政治面からさまざまな行事ごとまで取り仕切ろうとするディアーヌには、もはや屈辱以外のなにものでもなかったと言えるだろう。
* アンリ二世の突然の死 *
 しかし、カトリーヌにとって忍耐の連続だった日々もようやく終わる時が来た。それは夫アンリ2世の事故死から突然やってきた。
 1559年夏のある日のこと、王は娘の結婚式での余興で、衛兵隊長のモンゴメリー伯爵と騎馬の模擬試合を披露することになった。
「余興に馬上の槍試合などはどうかと思いますが・・・」
「今日は娘エリザベートの婚礼の儀式じゃ、我がヴァロア家につたわる秘伝の馬術。宴の余興に披露するのも悪くなかろう」
 伯爵は相手が王であるということで気乗り薄であったが、王はやる気満々だった。
 しかし始まってみると、緊張感から手元が狂ったのか、モンゴメリー伯爵の槍が、先端を鈍らせたものを使用していたにもかかわらず、アンリ2世の冑を刺し貫いてしまったのである。
 槍の先端は王の右目を突き抜け、脳の奥深くにまで達していた。アンリ2世は昏睡状態におちいり、10日間生死をさまよった挙句、苦しみ抜いて死んだ。
馬上での槍での模擬試合。危険が多く、重症を負ったり、ときには死ぬこともあった。
 この件で、カトリーヌは王を死に追いやったモンゴメリー伯爵を許そうとはしなかった。
「夫に死をもたらした伯爵を即刻逮捕するのです」伯爵は自分は故意でやったのではないと叫んだがあとの祭りだった。この後、伯爵はなんとかイギリスに逃げ延び、エリザベス1世によってかくまわれることになる。執念深いカトリーヌは、懸賞金まで掛け、15年後には伯爵を捕らえて斬首してしまったという。
 ここにいたり、彼女のこれまで隠されていたもうひとつの顔、すさまじい支配欲と執着欲が頭をもたげて来ることになる。嫉妬と屈辱の日々をじっとひたすら堪えてきたカトリーヌの本質がついに爆発したとでもいうのだろうか。
 カトリーヌはまず手始めに、ディアーヌに宮中への出入りを禁止した。それと同時に生前、王が贈った贈り物を即刻、返却するように命令を出した。彼女はこういう日がいつか来ると思って、夫アンリがディアーヌに贈った品々の詳細をあらかじめリストにしていたのである。
「これは亡き王の私へのこころざしの品々です」ディアーヌはこう言い、一部の返還には応じたものの頑なに拒み続けて、南フランスの城に隠居してしまった。そしてこれ以後、彼女は表舞台に姿をあらわすことは二度となかった。
 かくしてアンリ2世の死によって、カトリーヌに残されたものは、10人の子供たちと宗教争いに混迷する祖国であった。王子は15歳のフランソワ、8歳のシャルル、7歳のアンリの三人だったが、急きょフランソワが王位につくことになった。しかしフランソワは意志薄弱な少年として知られており、おまけにかなり病弱であった。
 それが原因なのか、一年後、フランソワは教会で礼拝中に高熱を出して突然倒れ、あっけなく死んでしまうことになる。一説には、優柔不断なフランソワを嫌った母親カトリーヌの指示で毒殺されたのではないかとも言われている。
* 幼い王を抱き込もうとするコリニー *
 このころ、ヨーロッパは、新教と旧教の二つに分かれて対立していた。ここフランス国内でもそれは同じで、新教のユグノーと旧教のカトリックが入り乱れて互いにいがみ合っている状態であった。貴族たちは自分たちの都合によって新教か旧教のどちらかを選択し、場合によっては乗り換えたりしていた。
 カトリーヌは王権を安定させるためには、国内に分散するユグノーとカトリックの勢力をうまく調節せねばならないと考えていた。どちらかに加担し過ぎてもよくない。つまり一方が力を持ち過ぎると、王位をねらって来る危険性があり、力の配分が難しいのである。したがって、あるときは旧教よりの方針を打ち出し、またあるときは新教よりの方針を打ち出したりした。そうすることで力の均衡をはかったのだ。
 病弱のフランソワが死んだ後、その後をシャルルが王位を継ぐことになった。
 だが、このシャルルにしても虚弱で意思薄弱なところは何ら先王と変わることはなかった。しかもこのときシャルルはまだ10歳だったので、カトリーヌが摂政することになる。
 ところが、王の補佐の目的で宮中にいれた新教徒のコリニー提督という人物にシャルルはすっかり気を許してしまうことになった。
シャルル9世(1550〜1574)
 それはしばしば、カトリーヌに内緒で密会という形で行われ、シャルルはやがて父親同然にコリニーのことを慕うまでになった。コリニーの腹の内とすれば、幼い王を抱き込んで国政を意のままに動かそうと考えていたようである。
 やがて、コリニーは、スペインから独立しようとしているネーデルランド(オランダ、ベルギー地方一帯を指す)を助けるために、スペインに戦争をしかけるように幼い王子をけしかけ始めた。
ガスパール2世・ド・コリニー(1519〜1572)
「陛下、このネーデルランドに住む人々は、大変、真面目で勤勉な人々です。ダムの開発で農作物などの収穫がふえて、おかげで我が国も食料の心配をせぬようになりました」地図を広げながらコリニーは幼い王に説明する。
「ところが、ここを支配するスペイン人は人々から収穫物の大半と、多くの税金を毎年持ち去ってゆくのです。これでは人々は生きて行けず、多くの人々が飢え死にしてしまいます」
「ではスペイン人が悪いのか?」
 王はコリニーを純真な目つきで見上げながら言う。その様子から、幼い王はコリニーを心から信用しているのがわかる。
「はい、陛下。スペイン人どもは欲深い上に罪深い教えの信徒たちです。海の彼方のインカという国も彼らの強欲さゆえにたった3月で滅ぼされたそうです。多くの罪なき女子供がたくさん殺されたのです」コリニーは同情する素振りを見せてときたま絶句しながらしゃべった。
「余は国王として悪しき者ども断じて許すわけにはいかない」
 少年らしい正義感むきだしの怒りの口調に、そばで聞くコリニーは真剣な眼差しで2度ほどうなずいた。しかし彼の目に冷ややかな笑みが含まれているところまでは見抜けない。こうしてシャルル王とコリニーとの密会は人知れず重ねられていった。
 ここでもう少し詳しく説明すると、ネーデルランドは新教徒が多く住んでいる地方で、旧教徒の国スペインの属領でもあったのだが、力をつけてきた今、スペインの搾取と支配を嫌って独立しようと考えていたのである。当然、巨額の利益をもたらすドル箱でもあったネーデルランドをスペインが簡単に手放すはずはない。そこで自分が新教徒だったコリニーは同胞を助けるべく、フランスをスペインに宣戦布告させようとしていたのである。
 幼い王としてみれば、スペインは悪者だからやっつけてしまおうとぐらいにコリニーに吹き込まれていったのだろう。しかしある日のこと、コリニーの素行を探らせていたお供の部下に事の真相の報告を受けたカトリーヌは愕然としてしまった。私の知らぬ間によくもそんなことを! このままでは、王はコリニーに言い含められ、祖国は新教徒どもに言いように利用されてしまう! カトリーヌはあまりの衝撃にしばし言葉を忘れてたたずんでいた。
 祖国フランスを無益であるばかりか、重大な危機に引き込もうとしていたのである。なぜなら、当時のスペインは「陽の没することもなく、スペインの一挙一動は世界を動かす」とまで言われた世界最強の国だったからである。
* 策謀と画策の果てにもたらされたもの *
 そこで、ユグノーの勢力がこれ以上増大していくことに脅威を感じたカトリーヌは、旧教徒のギーズ家に歩み寄り、コリニーを暗殺して欲しいと話をもちかけることにした。ギーズ家としてみれば、この機会に王室に取り入ることが出来るのでいいチャンスであった。ここにいたり、カトリーヌは、毒をもって毒を制する方法を選択したわけであるが、しかしこの時点で、この選択がどういう結果になるかは彼女自身にも予測出来なかった。
 しかし暗殺は失敗してしまった。コリニーが王宮を出たところを狙撃したのだが、弾は急所をはずれて左腕に命中し、負傷させるにとどまったのだ。このとき、狙撃者は建物の裏手に用意していた馬に乗って逃亡し、ギーズ家への方向に立ち去ったことが目撃されていた。銃弾を受けたコリニーは重傷を負いながらも逃げおおせ、ユグノーたちは事の真相究明を迫ってきた。何も知らないシャルル王は、犯人を絶対に捜し出せと命じる。ユグノーたちの執拗な捜索がはじまった。
 もしギーズ公が逮捕され自白でもすれば、容疑が自分にまで及んで来る可能性がある。そうなれば、ユグノーたちは報復に出て来るだろう。おそらく、フランスは内乱状態になり、国は分裂し、外国の侵略を受けることにもなりかねない。ならばそれを防ぐためにも、こちらから彼らユグノーどもを皆殺しにして証拠の隠滅をはかったほうがいい。カトリーヌはそう考えた。しかも8月24日の祝日には、王妹マルグリットの婚礼を祝うために多く貴族たちがパリに集まって来ることになっていた。ならばこの機会に、一網打尽にしてユグノーどもをひとり残らず消してしまえるいいチャンスではないか。
* 聖なる夜に起きた大虐殺 *
 1572年8月24日の朝まだき、東の空がゆっくり薄らいで来るころ、教会の鐘の音がパリ中に鳴り響いていた。それは人々に聖なる日の祝福を祝う鐘の音になるはずであった。ところが、その教会の音を合図にいっせいに虐殺劇の幕が切って落とされることになっていたのである。何も知らない人々は平穏の中でひたすら安眠をむさぼっていた。
「今日にかぎって残酷は慈悲であり神への忠誠と心得なさい。逆に慈悲深き行為は罪であると肝に銘じておくのです。新教徒たちをひとり残らず始末してしまいなさい。いいですね」あらかじめ、カトリーヌはギーズ公にそう伝えて、ユグノーたちの皆殺しを徹底させるべく、公然と承認する命令を出していた。
 殺害予定のユグノーの家はあらかじめ調べられており、ほとんどが寝込みを襲われた。
 虐殺は相手が子供であろうが赤ん坊であろうが容赦なく行われた。
 鋭い剣で母子もろとも刺し殺されたり、あるいはこん棒で殴り殺されたり、首を絞められたり、そうして瀕死の状態になった者は窓から突き落とされた。
 パリの石畳にはたちまち頭の割られた死体が散乱し、大きな血だまりが出来、やがてそれは川のようになってセーヌ川に注ぎ込んだ。
 通りを歩く者は、常に上を向いていなければ、いつなんどき不意に落ちて来る死体に押しつぶされる危険があった。
 また、カトリック教徒でも、決められていた合言葉が言えない場合はユグノーだと思われて即刻殺された。
 こうして聖なる夜に起きた虐殺の嵐はそれからパリを中心に3日間、無差別に行われ、犠牲者は一般人にも広がり、それから2か月以上もフランス全土で荒れ狂うことになった。その間、殺された人々の数は数万人とも、一説には10万人以上とも言われている。
 これ以後、聖バルテルミーの日に起きた虐殺によって、新教徒と旧教徒の決裂は決定的となり、憎悪と復讐心が絡み合い、血なまぐさい宗教戦争となって泥沼化していくことになる。もはや狂信的となった彼らを止めるすべはなかった。
* 聖なる夜の次に来るもの *
 その後、シャルルはこの大虐殺が起こって2年後に死んだ。原因はコリニーが殺害されたショックとも、もともと持っていた精神疾患が災いしたためとも言われるが定かではない。元来、シャルルは虚弱のうえ憂鬱病にかかっており、精神的にもろい面があったらしい。あるいは死んだ王の顔には無数の斑点が生じていたというから、毒殺によるものだったのかもしれない。カトリーヌは最愛の息子アンリをどうしても王位につかせたがっていたから、母親の手によって毒殺されたとも考えられるのだ。
 こうして、三番目の王子アンリが王位を継ぐことになった。
 アンリはカトリーヌと似て魔術や黒ミサの愛好家でもあり、長身で優雅な振る舞いで知られていたが、その裏では女装趣味があり、人は彼のことを「男色殿下」と呼んでいた。
 当然、跡取りは出来なかった。これを心配したカトリーヌはパリ中から美女を50人ほど駆り集め、一糸まとわぬ姿で王の前で踊らせたりしたようだが、効果はなく王は何の情欲さえ起きなかったという。
アンリ3世(1551〜1589)
 結局、アンリは生涯王妃をめとることなく、宗教戦争の最中にひとりの聖職者によって暗殺された。王の死後、城の中から子供のなめされた皮や黒ミサ用の銀器、女ものの衣装が大量に発見されたというから、こうしたいで立ちで毎夜黒魔術や交霊術をくりかえしていたのであろうか。
 暗黒の中世から人間本来の生き方が雄々しく叫ばれたルネッサンスの時代。しかし、その気風は皮肉にも宗教戦争の泥沼化を生み出すことになった。宗教戦争はやがて帝国主義戦争へと形を変えてゆく。
 そうした歴史の必然的な変化の流れの中で生きたカトリーヌは、自分がその転換点の火つけ役になったとも知らずに、70歳でその生涯を静かに終えたと言われている。
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参考文献
「世界史の女性たち」三浦一郎著 教養文庫
「世界悪女物語」澁澤龍彦 河出文庫
「教養人の世界史(中)」金澤誠、橋口倫介 教養文庫
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