大航海時代の恐ろしい話
〜船の不衛生な環境と恐ろしい壊血病の恐怖〜
 中世のヨーロッパ人の世界観は3つの大陸と狭い大西洋から成り立っていた。つまり、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの3大陸であり、広大なアメリカ大陸もオーストラリア大陸も太平洋も存在していなかった。そのうえ、数々の奇妙で信じられない伝説が彼らの世界観に色を添え、幻想的で奇怪なものに変えていた。

 例えば、アフリカのどこかには、金の川が流れていて沸騰する海に注がれているだの、アジアのどこかには宝物がいっぱいある場所があり、そこを恐ろしい竜が守っているだの、また島々の中には牛ほどもある羊がたくさんいて、船をつかめるほどの巨人や宝石の目をした女がいるといった案配である。
 こうした、ある意味では心を掻き立てられるエキゾチックな伝説が生まれたのは、実際に行って見たことがなかったためであり、遠く旅した商人たちの話に少しづつ尾ひれが加わって神秘的のものに置き換えられて行ったのである。

 また記録した商人たちも伝聞によるものが多く、信ぴょう性を欠くものであった。マルコ・ポーロの東方見聞録では日本のことを金の成る国「ジパング」として紹介していることでもよくわかる。
 15世紀になると、黒死病の痛手から立ち直ったヨーロッパ各国は貴金属と香料を求めていた。金と銀は取り引きに必要な貨幣をつくる材料として、香料は肉を長期間保存させるためにどうしても必要なアイテムであった。

 この当時はインドの香料を手に入れるための既存のルートはだいたい知られていた。しかし、そのルートはアフリカ大陸の海岸に沿って喜望峰を回り、途方もない距離を航海せねばならず、言わば各駅停車の鈍行便のようなものであった。出発から帰港まで約2年以上かかることもあった。
 そこで、スペイン、ポルトガルといった列強は、インドや日本への船便による新しいルートの発見に力を注いでいた。映画「1492」ではコロンブスの冒険がリアルに描かれていたが、彼はこの時、マルコ・ポーロの書物に魅せられ、地理学者トスカネリの説を信用していた。
 
 それによると、中国、インド、日本までは約5500キロほどであり、大西洋をストレートに横断して、たどりつける距離だと考えたのである。すなわち、アフリカを回るのではなく、狭い大西洋を突っきってストレートでインド、中国、日本に到達するノンストップ急行便のルートである。そのルートだと1か月半で目的地に到達出来ると考えられていた。
 だが、本当はその3倍以上の距離があったのだが、太平洋という概念がなかったのだから仕方がないとも言える。

 この当時の船は全長約20メートル、船幅は約7メートルほどで150トンくらいのサイズの帆船であった。乗組員は約60人ほどでこれが3隻ほどの船団を組んで航海したのである。一回の航海分につき3か月分の食料、水が積み込まれたが、その実情はどうだったろうか?
まず食糧の内訳は、塩漬けの肉、塩漬けの魚、ビスケット、乾燥した豆、チーズ、たまねぎ、ぶどう酒、酢、水などであるが、航海に出ると新鮮な野菜、果物の類はわずか数日で消費されてしまい、後は保存のきく塩づけの肉類、ビスケットだけに頼るしかなくなってくる。

 しかし、何週間もするとビスケットはすっぱくなり、コクゾウ虫がわんさか集るようになる。やがて、塩漬けの肉類にも、ウジが湧き始めて、どろどろで始末の終えぬ不気味なものになる。水は黄色く悪臭を帯び始め、口に出来るものと言えば、ネズミが食い散らかした粉々のビスケットだけになるのである。
 生活環境もでたらめなもので船底は水びたしで、ゴキブリ、ネズミはそこらじゅうに群がっていた。寝る場所は船長以外定まっておらず、甲板の好き勝手な場所で寝ている状態だった。ノミや虱にたかられて、数日間、濡れ鼠状態になることも珍しくなかった。

 こういう環境の中で、乗組員は熱病やいろいろな病気に悩まされた。中でも、壊血病は恐ろしい病気だった。ある船乗りの日誌の中には、壊血病の身の毛のよだつような内容が記録されている。
「俺の歯茎はすっかり腐ってしまった。真っ黒な腐った血が流れ出ている。太ももは壊疽を起こしていて、俺はナイフでこの腐った肉を削り取って、どす黒い血を無理やり流しだす。土気色になった歯茎もナイフで削り、腐った血をしぼり出す。俺は小便で口をゆすぎ、強くこする。ものを噛めないので、飲み込むしかない。毎日この病気で仲間が次々と死んでゆく。包みや戸棚の裏でいつの間にか死んでいて、発見された時は目や指はネズミにかじり取られてなくなっている・・・・。」
 ビタミンCの欠乏で起るこの病気は、当時原因がわからずそのために多くの死者を出した。この病気で4人に一人の割で死んでいった。バスコ・ダ・ガマは170人の乗組員
で出発したが、壊血病で多くが死んでしまい、航海を終えてリスボンに帰ってきた時は44人だった。
 
 給料にしても、通常の船乗りより少し高めというぐらいで、万が一、新世界で宝や金塊が発見されてもそれは国王の所有物となり彼らには分配されなかった。生還の率も高くないにもかかわらず、探険隊参加を呼び掛けると、たちまち人が集まってきた時代背景には、陸上の生活と比較してもさほど危険率は変わらぬという事が言えるのかもしれない。
 中世の人々の平均寿命は30才にも満たず、定期的に飢饉は来るしいったん疫病でも流行ろうものなら、バタバタと人が死んでいく大変な時代でもあったのである。
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