海にまつわる怪談
〜全国各地に伝わる奇怪な伝説、妖怪、幽霊譚〜
 海は人間にとって神秘的な存在である。しかも、気まぐれな心の持ち主でもある。頭上に雲一つなく穏やかな天候かと思えば、瞬時に恐ろしいものに一変するのである。古来より、四方、海に囲まれた我が国に、海にまつわる不思議な話が豊富なのは当然かもしれないが、その大部分が実に奇怪な話によって占められている。
 海にあらわれる怪異の代表例は、何と言っても舟幽霊であろう。これは、海で遭難し溺れ死んだ人間の迷える霊魂で、幽鬼と成り果て往来する船をたぶらかして海中に引きずり込もうとしていると言われている。
 怪談を集めた「百物語」によると、長門国の早沖に幾百人とも知れぬ甲冑姿の武士が海上にあらわれては、往来の船ばたに取り付き、船人を怖がらせたということが書かれている。恐らく、壇の浦で滅ぼされた平家の亡霊ではなかろうか。
 中国の奇異雑譚集(きいざったんしゅう)にもこの種の妖怪が登場する。鬼哭灘(きこくだん)という海域は怪異が非常に多く起こることで知られている。水面近くに洞穴が多数あり、気味の悪い音を立てる場所でもある。船が通りかかると百体あまりの首のない片手片足の背の低い化け物がどこからともなくあらわれて、我先にと群がって船を転覆させようとするらしい。船人が食物を投げ与えると消え失せるということである。

 舟幽霊の出没する日は、風雨の激しい夜に多いと言われる。最初は、ふわふわと海上に漂っていた白いもや状のものがやがて、人の顔のような形となり、数十の幽鬼となって海上に出現するのである。いつしか、波のざわめきは、人の声となりその声は恨み抱くような口調で口々に叫び出す。それは、まるで船人を自分たちの世界に引きずり込もうとするかのようでもある。幽鬼どもは、船べりに手をかけて船を止め、中には上がって来ようとする者もいる。こうなってしまうと、漕いで逃げることもままならない。
 幽鬼どもは、口々に「シャク貸せぇー!シャク貸せぇー!」と叫ぶのである。まさに、耳を覆いたくなるような地獄からの響きである。しかし、この時、うっかり底のある柄杓を渡そうものなら、幽鬼どもは、それで力の限り水を汲み入れて船を沈めてしまうことになる。したがって、底の抜けた柄杓を渡すのである。幽鬼どもは、底の抜けた柄杓で船を沈めようとひたすら水をすくうが、いくら汲んでも汲んでも水が逃げてしまうので、そのうちあきらめて退散してしまうということである。
 全国の漁村では、今日でも、盆や満月の夜には亡者船が出たり奇怪なことが起きるという言い伝えがあって漁を控える所が多い。また、漁に出ても日没までには慌ただしく帰って来るのが常である。
 ある漁村には、恐ろしい話が残されている。それは、昭和10年頃のことで、盆の15日の夜に漁に出た船があった。この日は、休まなくてはならない日であったのだが、漁に出た4人は全く無頓着で気にならない様子だった。
 しかし、漁に出てみるとサバが面白いように捕れて4人は上機嫌だった。
 しかし、そのうちに奇怪なことが起き始めた。海面に人の生首らしきものがポッカリ浮かんで来ては、笑ったり、転がったりするのである。気味の悪いことおびただしい。
 ゾッとした4人は、恐れをなして漁を止めてすぐに帰って来たが、大量に捕れたと思ったサバはすべて草蛙(わらじ)だった。そのうち、4人とも次々と発狂して狂い死にしてしまったということである。
「甲子夜話」では、船そのものの姿で出て来る場合もある。この船は奇妙なことに灯をつけているはずなのに海には映らない。また風に逆らって波も立てずにやってくるのである。また、闇の中ではっきりと見えたりする。すべて、不自然なのである。船頭が何気なくこの船の後を追ってゆくと、岩礁にぶつかったり浅瀬に乗り上げたりするらしい。
 こうした、舟幽霊の話は、昔の伝説、言い伝えだけではなく、現代になっても語り継がれている。昭和12年に調査した報告をまとめた資料によると、全国の漁村でこの種の話を聞かぬ漁村はないということであった。

 現代でも、度々、舟幽霊が目撃されることもあるようだ。その船は、普通と違ってまるで夜光塗料でも塗っているかのように全体がはっきりと明るく、実際の船では、座礁してしまうはずの海域を音もなく岸に近づいて来るのである。夜釣りなどに出かけてにこの怪異に出くわし、道具をほっぱらかしにして、ほうほうの体で逃げ帰って来たという話もある。北朝鮮の工作船の類ではないかとも思える節があるが、日本海側のみならず、全国の海域でこの話が伝承されている。

 また、舟幽霊は、沖でかがり火を焚いて舟人の心を惑わすとも言われている。

 風雨の強い夜には、船の進行の目印として、陸の高い所で、かがり火が焚かれるものであるが、そんな時、舟幽霊もまた沖の方から火を出して船乗りの目を迷わせて、船を危険な所に誘い込み、転覆させようとするのである。
 この場合、実際の陸のかがり火は、動くことはないが、舟幽霊のつくり出すかがり火は、ゆらゆらと左右上下に揺れ動くとされている。
 どちらが、人の焚く火でどちらが 鬼火なのかか?と疑う内に航路を見失い、あちこち波に漂っているうちに、暗礁に乗り上げて船は転覆し溺死してしまうのである。
 さらに舟幽霊は遠くで数十の船が帆を上げて走っている幻影を見せることもある。もしこれに従って行けば、海中に引き込まれてしまうと言われている。そうは言っても、暗くて頼りない海上で仲間の船に近寄って行くのは人間の自然の心理である。いざその場に臨めば、かなり慣れた船人といえども、慌てふためき、この手に引っ掛かってしまうようである。そんな時、こちらの船を舟幽霊の前面に止めて凝視すれば、たちまち消え失せるとも言われている。

 これも舟幽霊の一種で亡者船というのがある。船の行く手の海上に無数に怪火が燃え上がり、人々が騒々しく動き回っている気配がする。近くに陸か船でもあるのかと思って近づいて行くと、怪火は一斉に消え、もとの静寂な暗闇となるというのである。これは、海で遭難して死んだ亡者の船と言われている。海で死んだ者は亡者となって夜の海をさまよいいろいろ人をたぶらかすのだそうである。

 また、盆の夜に沖から櫂を漕ぐ音が聞こえるので、村人が浜辺で着くのを待っていたが、いくら待っても音がするだけで一向に近づいて来なかったという奇怪な話もある。

 伊豆七島には、海難法師の伝説が残されている。大島の泉津村(せんずむら)に語り継がれる話では、昔、非常な悪代官がいた。村人はこの悪代官のためにいつもひどい目に合わされていた。相談の結果、この悪代官を殺してしまおうと考えた。村の若者25人が暴風雨の夜にそれを決行し、丸木舟をつくって島から逃げ出したところが、行く先々の島でもかくまうのを断られてしまった。非情なことに、どこの村でも、かかわり合いになりたくなかったのである。
 疲れ果てた25人は丸木船に乗って漂流する内に転覆し、乗っていた全員は波に飲み込まれ溺れ死んでしまったという。その夜が1月24日であったことから、毎年、その日になると、25人の亡霊が丸木船に乗り、五色の旗を翻してやってくるというのである。それは、村のためを思ってやった行為が、逆に村人の冷たい裏切りに合い、この世に恨みを残して死んだ怨霊というべきものであろうか。

 村人は、この夜だけは明かりが外に漏れないようにして厳重に戸締まりをして、物音を立てず、ひっそりとやり過ごすというのだ。そして、自分たちの家の戸が海難法師の目に留まらぬようにひたすら祈るのである。

 この他には、海坊主や磯女と言った妖怪が知られている。海坊主とは、巨大で黒くてヌメヌメしており目が光りくちばしがあるという妖怪で、時おり、波間から出現する。この海坊主の機嫌を損なうと船を転覆させられるという。もしも、この怪物に出会ったら絶対に見ないようにすることだと言う。もし、騒ぎ立てでもしたら、即座に船は転覆させられてしまうと言われている。
 しかし、この海坊主、煙草の火に弱いというのが定説になっていて、ある漁船が夏の夜に、イカを採りに出かけたところ、海坊主どもが数体近寄って来て、船に取り付き動けなくしてしまった。
 そこで、猟師は煙草のキセルを船べりでコツンと叩くと海坊主どもが後退した。
 しかし、すぐに、また寄って来るので、その度に煙草を吸っては船べりに叩き付け、何度もそれを繰り返してようやくのことで逃げ帰ったという話もある。
 コンチキ号漂流記でおなじみのトール・ヘイエルダールも、波の静かな暗い夜に得体の知れない物の上を通過したと日記に書き留めている。波間に何か黒くて巨大な物がひっそりとうずくまっているように見えたが、それは動くでもなく泳いでいるようにも見えないものであった。恐らく、畳20枚ほどに匹敵する巨大エイではなかろうかと締めくくっている。
 磯女と呼ばれる妖怪は、長い髪をした女の姿で目撃される。磯姫と呼ぶ地方もあるが、美人で人を見ると血を吸いたがるとか、磯女の顔を見たものは死ぬとか言われている。山陰地方では、濡れ女と呼ばれ、人に会うと抱いていた赤子を抱かせて自分は海に帰ってしまうそうである。赤ん坊は、しばらくすると吸い付いたように離れなくなり石のように堅くなり重くなってしまうとある。磯女は、供綱を伝って船の中に入って来るので碇だけ下ろして供綱は取らないようにと戒めている。
 志摩の海女に最も恐れられているのが、共潜(ともかつぎ)と呼ばれる妖怪で、昔の海女はよくこれに遭遇したそうである。海女が海底に潜って行くとどこからか自分とそっくりの容姿の海女がニタニタ笑いながら近づいてくるのである。
 それだけでも、十分気味が悪いが、その海女は、時にはアワビなどをくれる。そして、手を引いて深い海底に誘い込もうとするのである。
 アワビがたくさん採れる場所に連れて行ってくれるのかと思って、ついて行くと最後、息が切れて死んでしまうので、何とか手を振りほどいて逃れ、海上に浮き上がるが、それらしき人影は見られない。しかし、潜るとどこからか再びすりよって来るという。
 運悪くこれと遭遇した海女は、その後、海に出るのを極力控えたという。また、他の海女も2、3日は日待ちして共潜が遠のくのを待ったという。
 これらの海にまつわる妖怪や怪異な伝承は、海で暮らす人々の苦労や生活の知恵がメタモルフォーゼされたものだと言ってもいいのかもしれない。猟師にとってみれば、船の板一枚隔てて、その下は、青黒い奈落の地獄に続いているのである。要するに、彼らは海上では常に死と隣り合わせであったのだ。

 いつ流され、嵐に巻き込まれ、あるいは夜の海に暗礁に乗り上げ、溺れ死ぬ危険性があるかもしれない。つまり、海で生活を立てる人々にとっては、海は生活の糧を与えてくれる反面、危険に満ちた恐ろしい存在でもあったのである。

 しかも海には、セントエルモの火など不思議な自然現象も発生しやすく未だ知られていない未知の生物も多い。つまり、何が起こるかわからない未知の世界なのである。
 セントエルモの火は、大気中の静電気が大気の密度の変化によってコロナ放電を起こす自然現象であることが知られている。この現象は、嵐の夜などの大気の不安定な夜にはよく起きたという。

 今から3億年ほど前に絶滅したと思われたシーラカンスは、20世紀中頃になって偶然捕らえられ衝撃を与えた事実もある。
 海中で不気味に光って揺れ動く夜光虫や急に海面に出現し潮を吹く巨大なクジラなどは、いとも恐ろしげな怪物に変化するのは人間の自然の心理とも言える。
 そして、恐らく、嵐の夜に青白い怪火となって出現する静電気現象は、船人の心を惑わし恐れさせたに違いない。
 海は、とりわけ神秘的な自然現象が頻繁に起こりやすい場所である。古来から奇怪な出来事やわけのわからぬ事件が後を絶つこともない。

 そうした不可思議な現象への恐怖や畏怖の念が次第にイメージを膨らませて鬼火や舟幽霊、海坊主といった妖怪変化に姿を変えて行ったと思われるのだ。しかし、逆に、安らぎやロマンを与えてくれるのも海の持つ神秘的作用である。謎めいた存在には、何事も相反する魅力があるようだ。

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画像資料参照サイト
http://membres.lycos.fr/yakadmirer/paysages03/paysages03.htm
参考文献
「東西不思議物語」澁澤龍彦「歴史と旅」海の怪奇・幽霊譚 牧田茂
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