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タイタニック号の悲劇
〜20世紀最大の海難事故、大惨劇の真実〜

ある人は神様でも沈められないと豪語した。
ある人は海に浮かぶ宮殿のようだと言った。
人々はその船を奇跡の船だと称賛した。
だが、その船は二度と帰って来なかった・・・

* 不吉な前兆 *
 1912年4月10日、水曜日のさわやかに晴れ上がった昼下がり、イギリス、サウサンプトン港から巨大な客船が処女航海に乗り出そうとしていた。全長268メートル、基準排水量4万6千トン、喫水線から頂上部分までの高さ51メートル、それはどこをとってもこれまでつくられたどの船よりも桁違いに大きく、またどの船よりも一番豪華で目を見張る最新の設備を持っていた。その巨船の名はタイタニック号。ホワイト・スターライン社の世界に誇る豪華客船だ。
 その巨大な船体を動かすためのスクリューは3つあった。左右のスクリューはとりわけ巨大で40トンもあり、一枚の羽の長さだけでも3、5メートルもあった。それを29基もあるボイラーの巨大な炉で、ニューヨークまで四六時中、6千トンの石炭を燃焼させるのである。それによって得られるパワーは5万馬力にもなり、常時最大23ノットの速度をつくり出した。耐水構造も完璧で船底は2重構造に補強されており、その上、船体は16区画に仕切られていた。しかも、それぞれの通路には自動開閉する防水扉を備え、1度に4区画まで浸水しても沈まないように設計されていた。
 また豪華さにかけても海に浮かぶ宮殿の名を欲しいままにしていた。世界で初めてのプール付きの船であり、冷却室やサウナ室まで完備されていた。
 各部屋はそれぞれテーマがあって個性的につくられており、例えば寝室ともなると、ジョージア王朝風だとかチューダー王朝風だとかで雰囲気も異なり、仕上げから木の材質まで違っていた。
 当時考えうる最高の技術と巨額の費用を惜し気もなく投入されてつくられたとてつもなく贅沢な船。これがタイタニック号であった。
一等の大広間に続く優雅な大階段、手前のブロンズ製の彫像、正面の大時計は有名。
 その船にはいろいろな思いを込めて、たくさんの人々が乗り込んでいた。新天地で一攫千金を夢みていた人、新しい仕事に希望を託す人、一旗あげようともくろんでいる人、まさに人々の永遠の期待と望みを乗せた船だったのである。そうした願いから、タイタニック号は人々から夢の船とも呼ばれた。
 ボーッ!ボーッ!雄叫びのような汽笛がうなる。いよいよ、ニューヨーク目指して、一路大海原をひたすら進む時が来た。
 大勢の大歓声に送られ、ゆっくり波止場を離れたタイタニック号は大西洋に滑り出していく。快調なスタートだ。
 港がどんどんと小さくなってゆく。天気晴朗にして波穏やか・・・運命の神でさえこの船の航海を祝福しているようである。
サウサンプトン港から処女航海に旅立つタイタニック号。(20世紀フォックス映画タイタニック)より
 だが、果たしてそうだったのだろうか・・・タイタニック号が動き出した時、大波に翻弄されて一隻の汽船の係留ロープが切れ、もう少しで衝突しそうになりかけたことがあった。かろうじて事故は回避されたものの、今にして思えば、それは不吉な前兆とも思えなくもなかったのである。
* 悪条件下をフルスピードで *
 タイタニック号は1912年当時のヨーロッパ社会をそのまま縮図にしたようであった。階級差別がきびしく、船は3つのクラスに分けられ、客の行き来は厳重に禁止されていた。
 それによれば、一等船客の数は325名、名だたる大富豪が目白押しで、それはまさに今をときめく名士語録のようだった。一等のチケットは8日間の船旅で約550万円もしたらしい。とりわけ2部屋しかない特別スイートルームなど、専用の遊歩デッキを持ち各部屋の調度品は豪華このうえなく、費用はなんと1千万円もした。二等船客は285名、一等よりもやや落ちるが、それでも他の船の一等に相当するほどで200万円もした。
 乗客の大多数を占める3等客は706名で費用は5万円前後。三等客は船底近くの薄暗い相部屋に押し込められていた。言うなれば、船の余ったスペースを埋めるだけの存在であると言ってもよかった。
 甲板、機関、事務などを担当する船の乗組員は880名。つまり船客と乗組員、合わせて2207名がタイタニック号に乗り込んでいたのである。
 しかし階級こそ違っても、彼らに共通して言えることは、誰もが未来に希望を託しアメリカンドリームを夢見ていたことであろう。
一等サロンの内部。人々はここでくつろぎの時間を送った。きっと、様々な成功談話が花開いたにちがいない。
 出港して四日後、4月14日、日が暮れてもタイタニック号は22ノット(43キロ)という高速で暗い夜の海を突っ走っていた。4月の北大西洋は非常に寒いうえに流氷が多い。特に夜の航行には注意が必要である。しかし、スミス船長は朝から氷山に注意せよという警告を何度も受け取っていたにもかかわらず速度を落とすことをしなかった。
 見張り番はマストの上で警戒にあたっていたが、あいにく、双眼鏡がロッカーから取り出せないという不慮の事故で、仕方なく目を凝らして前方を注視していた。だが、これは不運の始まりだった。氷山という代物は大部分が海中に潜んでおり、夜になればことさら発見しにくい目標になる。とりわけ水平線の彼方に溶け込んだ氷山の黒いシルエットを識別するのは慣れた見張り員でも困難だ。唯一、衝突を回避する方法は、月明かりのもとに生じる氷山の立てる白波をいち早く発見する以外にない。だが皮肉にも、その夜に限って月がなく波も穏やかで静かな夜であった。つまり遠方から氷山を発見するには難しい条件が重なり過ぎていた。
 午後11時過ぎ、いきなり前方の暗い海上にヌッと大きな氷山のシルエットが姿をあらわした。
 かなり接近してからの発見にマストの上の見張り員は動揺した声で叫ぶ。
「前方に氷山!」緊迫した声が響くと同時に警報のベルが鳴り響く。艦橋にいた一等航海士のマードックはただちに転舵を命令した。
「面かじ、いっぱーい!」(船首を左に向ける操作。現在では逆になっている)
 タイタニック号の巨大な船体がゆっくりと向きを変えてゆく。しかし前方の氷山の方がそれよりも早く急速度で迫って来る。果たしてかわしきれるのか!誰もが固唾を飲んで目前に迫って来る巨大氷山を見守っている。緊迫の一瞬が続く。その間わずか30秒足らず。だがついに氷山が船体の側面を引っ掻いた。「ズーン、ドドーン!、ギィィー・・・」鈍い音を立てて船体がきしみ、こすれた氷山の欠片がバラバラと甲板上に降り注いで来た。
 タイタニック号は止む終えず停船する。鈍い衝突音を聞いて、何人かの客が部屋から飛び出して来たが、ほとんどの客は何が起こったのか気づいてもいなかった。客の何人かは、珍しがって甲板に転がっている氷山の氷の欠片を蹴って遊んだりしている。サロンにいた一等船客の一人は、グラスの中にいれてオンザロックにするのだと言ってしゃれ込んでいた。
 ところがこの時、想像を絶するような恐ろしいことがタイタニック号の船体に起きていることなど誰も予想だにしなかった。目では見えない海面下数メートルのところを氷山の鋭い爪によって90メートル以上にもわたって切り裂かれていたのである。リベットが次々と吹っ飛んで、6つの区画内に大量の海水がドッと侵入して来た。第六ボイラー室では1分間に2メートルの割合で浸水し、炉の中で真っ赤に燃えていた石炭はジューッと音を立ててたちまち消えてしまった。郵便室に至っては、海水はまたたく間に膝まで達し、5分後には放棄せねばならなかった。海水は壁面を破ってどんどん侵入して来る。船員たちは我を争って、ラセン階段で上へ上へと避難せねばならなかった。
* 致命的な損傷 *
 タイタニック号は4つの区画が同時に浸水してダメになっても浮いていられた。ところが、5つまで浸水してしまうともう浮いていられなかった。船が傾くにつれて、防水扉を乗り越えて、次々と別な区画に流れ込み浸水していくからだ。防水壁は上までつくられておらず、完全密閉型ではなかったのである。
 被害状況を調べていた設計主任のアンドリュースは、損傷はただならぬ状態で、致命的なダメージであると判断した。
「駄目だ・・・。もはや沈没はまぬがれない。船は沈む。後は時間の問題だ」彼は設計図面に目をやりながら沈痛な声でつぶやく。
後どくらい持つのかという問いにアンドリュースは力なく答えた。
「1時間かその程度、いくら持っても2時間は無理だろう・・・」
トーマス・アンドリュース(1873〜1912)北アイルランド生まれ。航海中のチェックのためタイタニックに乗り込む。仕事熱心で誠実な人柄として知られる。
 一方、スミス船長は頭を抱えたままだった。この時、彼の脳裡をかすめるものは一体何だったのだろうか? これまで順風満帆で来た誇りある人生への悔やみなのか、それとも残酷な神に委ねられた乗客の運命についてなのだろうか? 
 衝突から30分経った零時5分。スミス船長は乗客をただちにデッキに集め、救命ボートを降ろすことを命令する。それからSOSを打電させるために無電室に急いだ。
 もう一刻の猶予も許されない。船に備わっている救命ボートは20艘しかないのだ。2207名中、救命ボートに乗れる数は半分にも満たないのである。
 未だ危機が近づいているとは知らない乗客たちは、眠気眼をこすりながらゾロゾロと部屋から出て来た。
エドワード・スミス船長(1850〜1912)1904年にホワイト・スターライン社の主席船長となる。華々しい経歴、人望は目に見るものがあるが、反面、自信過剰を指摘する研究家もいる。
 救命胴着をつけろと言われても、まさか沈むとは思っていなかったので嫌がる客もいた。頼りない手漕ぎボートで夜の海に乗り出して行くより、びくともしない本船の方が安全だと信じ込んでいるのである。この時点では、船はまだ傾いてはおらず、事態が深刻な状態になっているとは誰も思わなかった。
 まもなく救命ボートが降ろされ始めたが、船員の多くはろくに訓練も受けておらず、どう扱っていいのか知る者はいなかった。おろおろするばかりで時間ばかりが経ち、一向にはかどる気配すらない。結局、ボートがやっとこさ降ろされ出したが、手際が悪く、最初のボートなど65名ほど乗れるのに半分も乗っていない有り様である。中にはわずか25名ほどしか乗っていないのに降ろされたボートすらあった。ボートはその後、メガホンで戻って来いと命令されても二度と戻っては来なかった。
* 死にゆく人々の運命 *
 タイタニック号から、大西洋を航行するすべての船にSOSの無電が発せられた。「ラ・プロバンス」号、「マウント・テンプル」号、「マーシャ」号、「カルパチア」号「バルチック」号「バージニア」号などがこの無電を受け現場に急行すると返答して来た。中でもカルパチア号は90キロほどの地点におり、これらの中でも一番近い距離にいた。しかし全速で駆け付けても4時間はかかると思われた。これでは間に合わない。
 ところがこの時、わずか16キロほど離れた海上に「カリフォルニア」号という汽船が停泊していたのである。だが不運なことに、船の無電係りはスイッチを切って寝てしまっていたので、この救難信号を聞く者はなくつんぼ同然の状態だった。夜空に向けて何発かの救命用の花火が打ち上げられたが、カリフォルニア号の経験の浅い見張り員は、この花火の数を興味本位で数えるだけで、それが何を意味するものかも知らずにいた。
 ロード船長は、何かの合図だろうが放っておいてよろしいといって寝床にもぐり込んでしまった。
 もしもこの時、いち早くカリフォルニア号が救助に駆け付けていたら、これほどの犠牲者は出さなかっただろう。
 タイタニック号は救われるべくして救われなかったのだ。まさに運命の神から完全に見放されていたのである。
 船の電気は人々の心配を打ち消すためにギリギリまで明々とつけられていた。楽団員は乗客がパニックを起こさぬようにワルツを演奏し続ける。最後になって、デッキにいよいよ海水が押し寄せて来た時、彼らは賛美歌を演奏した。最初の航海で最期となった悲劇の船へのせめてもの鎮魂歌を奏でようとしたのであろうか。「主よ、今こそみもとに近づかん」その賛美歌は暗い海の上に響きわたった。彼らは海水に膝まで浸かりながらも演奏を止めなかった。そして、すべての楽団員は沈没と同時に船と運命を共にしたのであった。
 ある者は最上の服を着て潔い態度で死に望もうとした。ある老夫婦は部屋に戻り最後の瞬間を迎えようとした。ある婦人は愛犬とともにボートに乗り込もうとして拒否されると、部屋に戻り愛犬とともに運命を共にする方を選んだ。ある人は死の旅立ちにあたり礼装に着替えてゆう然と読書を楽しんだ。ある船員は二人の娘を連れた三等の女性客に自分の救命胴着を与えボートまで案内した。そして、ご無事でしたら私のために祈って下さいと言った。最愛の家族と別れのキスをして、自分はデッキに残って笑顔でたたずむ夫。一度はボートに乗ろうとしたものの、一緒に運命をともにしようと夫のもとに戻って来た妻・・・・死出の旅立ちに際して、数々の涙を誘う自己犠牲の物語、言葉ではあらわせない感動の人間ドラマがわずかな時間内にとり行われた。

 その反面、自分だけ助かろうとした、エゴむき出しの醜い話も伝えられている。女子供を押しのけて、赤ん坊を踏みつけてまでボートに乗ろうとした者もいた。中には、女物のショールを被ったり、女装したりしてボートに乗り込もうとした者もいたらしい。ホワイト・スターライン社の社長だったブルース・イズメイなどは、ボートが下ろされる寸前に、客になりすましてこっそりと飛び乗った。これほど厚顔無恥な行為もないであろう。

 やがて最期の時が訪れようとしていた。船が急に傾き始める。
 今まで明々としていた明かりが一斉に消えた。たちまち半狂乱となった人々は悲鳴をあげてパニックとなる。
 船首部分は浸水の重みで海中深く沈んでいき、その反動で船尾が高く持ち上げられていく。
 やがて巨大なスクリューが海水をしたたらして海面上に姿をあらわした。ワゴンがガラガラとすごい音を立てて転がっていき、大きなグランドピアノは脚が折れて横倒しになる。食器は棚からなだれのように落下して片っ端から壊れてゆく。デッキでは、何十人という人間や荷物などが一固まりとなって甲板上を猛烈な勢いですべり落ちていった。
 空中高く持ち上げられた船尾は、やがて船全体の重量を支えきれなくなり、突如、中央部分からバリバリ、メリメリというけたたましい音をあげて裂け始めた。怒鳴り合う罵声、女の金切り声が夜の闇にこだまする。船体の半分となった船尾部分は、海面から突き立ったまま、ほぼ垂直の恰好でほんのしばらくのあいだ静止していた。デッキの手すりにかろうじてぶら下がっていた者がバラバラと暗い海上に振り落されてゆく。しかし、その奇妙な釣り合いの状態も長くは続かなかった。まもなく海面下から蒸気がシュー、シューと吐き出され、奈落の底にでも落ちていくかのように、残りの船尾部分はものすごい勢いで海中に向かって降下を始めた。かくして1912年4月15日午前2時20分、不沈を誇った豪華客船、タイタニック号は永久に海面下にその姿を没し去ったのであった。
 後は、氷のような海で助けを求めて必死にもがいている1500名の人々だけが取り残された。暗い海面で名前を呼び合う声、助けを求める叫び声が響いていた。しかし人々の悲痛な声を聞いても、近づいて助けようとするボートはなかった。この時の水温は氷点下以下で、骨の芯まで痺れるほどの恐ろしい冷たさだ。これほどの低温になると、人間は海中では長くは生きていられない。ほとんど20分から30分程度で凍死してしまうのだ。恐らく、船上から飛び込んだ瞬間に心臓麻痺で死んだ人間も多くいたにちがいない。
 海上に漂っているボートは、どれもこれも定員以下でほとんどが半分以上の空席があった。それにもかかわらず戻ろうとするボートはなかった。誰も彼も自分のことだけで頭が回らないようであった。どのボートでも引き返して救助しようと言う人間とそうはさせまいとする人間の対立でもめていた。5号ボートでは婦人たちがどうか戻らないで下さいと懇願するので、オールを握っていた船員たちはためらっていた。
 誰もが、助かりたい一念で藁をもすがろうとする人々によって、ボートが転覆させられるのではないかという不安を持っていた。あるボートでは近寄って来る人の頭をオールでたたいて近づけないようにした。すがりついた死にかけの男の顔をこぶしでなぐった婦人さえいる。一等船客用の1号ボートなど定員よりはるかに少ない12名しか乗っていないにもかかわらず、最後まで近づこうともしなかった。結局、氷のような海に投げ出された1500人のうち、助けられたのはたったの6人だけであった。
 夜が明け始めた頃、救助にかけつけたカルパチア号の船員が見たものは、海面に漂う見渡す限りの凍死した人々の群れであった。
 遺体のほとんどは救命胴着をつけたままであったので沈むことはなかった。全財産の入ったトランクをしっかり抱いたまま息を引き取った人、赤ん坊を抱いたまま死んだ母親などの痛ましい姿も数多くあった。
 遺体は甲板に引き上げられ、そこでも等級別に並べられた。一等客だとわかると棺に丁重に納められ、二等や三等はキャンパスに包んでデッキ上に置かれるだけである。
救命ボートに乗って救助を待つ人々。カルパチア号から撮影。
 身元不明の3等客に至っては、水葬のため再び海に投棄された。遺体の中には2か月近くも漂流してから発見されたのもあったという。
* 悲劇のもたらしたもの *
 かくして、20世紀初頭に起きた海難史上最大の大惨事は終わった。この事故による犠牲者数は1500名余りにも及んだ。
 タイタニック号の遭難については、積んでいた古代エジプトのミイラの呪いによるものだとか、経営に息詰まったホワイト・スターライン社の保険金欲しさからの故意による事故であるとか噂されたことがあった。
 確かに、なぜ肝心な時に双眼鏡がなかったのか、そしてなぜ氷山の警告を無視してまで、危険な夜間に高速で航行せねばならなかったのか、なぜホワイト・スターライン社の大株主モーガンが出港直前になって乗船を取り止めにしたのか、いろいろと疑問は残るが、総合的に判断すれば一つの事実が見えて来る。
 まず処女航海にあたり、ホワイト・スターライン社の社長イズメイ、設計主任のアンドリュースなど始め、各産業界のVIPが数多く乗り組んでおり、豪華さ、機能面ともに評判通りの船であるということを世界にアピールする必要があった。その意味から、すでに就航している姉妹艦オリンピック号よりもさらに華々しい航海でなくてはならなかったのだ。そのうえ、過去にその功績により、何度も表彰を受けたこともある栄光あるスミス船長にとって、この航海が最後になることから、名誉ある引退の儀式にする必要があったことなどが挙げられる。かくして、夢の船とか不沈船とか浮かぶ宮殿とか称賛された結果が、自然をあなどり氷山の脅威をおろそかにすることにつながったと思われるのだ。
 その後、氷山を発見するのが遅れて多大な犠牲の原因になった見張員は自殺したという。一方、社長のイズメイの方はその後アイルランドに移り住んだ。
 そして、そこで人目を避けるようにして、1937年に死ぬまで世捨て人のような暮らしを続けたという。
 カリフォルニア号の船長だったスタンリー・ロードは、1962年まで生き伸びたが、タイタニック号の話題が上るたびに、悪役のようなキャラクターとして人々に吹聴され、激しい批難を受けて虚しく一生を終えたという。
ブルース・イズメイ
(1862〜1937)氷山警告を無視してスピードをあげるよう指示したと言われる。
 ちなみに、この遭難では日本人もたった一人乗っていたことが知られている。その客の名は細野正文(この時42才)という日本人で、当時鉄道院(現在の国土交通省)の参事であった細野は、ロシア、フランス、ドイツと順々に留学して、イギリスからタイタニック号に乗ってアメリカに渡る予定であった。
 せっかく助かったにもかかわらず、多くの男子が死に婦女子優先というのに、他の人間を押しのけて素早くボートに飛び乗った卑怯者で日本人の面汚しだと批難され続けた。しかし彼の死後、詳細に沈没時の様子が書かれた当時の手記が見つかり、それによって細野が卑怯でも何でもなく、九死に一生を得たことが判明したのであった。それによれば、細野は混乱状態の中でいつの間にかデッキの端まで押され続け、そこでも後ろから突き飛ばされたが、結果的に最後のボートの残こっていた空席にかろうじて転がり込むことになった。言わば奇跡的と言ってもよく、細野はボートに乗ることの出来た一番最後の人間なのであった。
* 海底に横たわる奇跡の船 *
 長い間タイタニック号は発見されなかった。沈没付近はわかっていたのに、発見されずにいた理由は、現場がとてつもない深い深海であったこと、海底が起伏に富んだ地形であったこと、潮の流れが激しかったことなどによる。しかし1985年になって、最新のソナーとテレビカメラ搭載のロボット機器により、ついにこの伝説の難破船は発見されたのである。
 海底のタイタニックは、船底を下にする恰好で沈んでいた。船体は三番目の煙突の当たりで二つに引き裂かれており、それは海上で船体が2つに折れてそのまま沈下したことを物語っていた。
 船首部分にはいまだに手スリが残っており、窓ガラスも完璧な状態で残っていた。
 船内にはシャンデリアを始めコップや水差しなど多くの備品が存在し、ダイニングルームに至っては豪華な装飾で飾られた大窓が割れることもなくキラキラと輝いていたという。
光の届かぬ墓場。3600メートルの深海の底で撮影されたタイタニック号の船首部分。
 その後、タイタニック号の悲劇は多くの教訓を残こすことになった。救命ボートの数が足らず、一等客から優先的に回されたという事実は救助の在り方に問題を投げかけた。
 これは生存率を見れば一目瞭然で、女性客だけとって見ても、一等は145人中140人(97%)、二等は106人中80人(75%)、三等は447人中296人(66%)となっている。子供の生存率になると、一等は6人(100%)、二等は24人(100%)に対して、三等は57(34%)しかない。
 つまり、ボートに乗り移る際、女子供を最優先と言いながら、等級順に歴然と差別待遇した事実が浮かび上がって来る。実際、三等客は一等客が乗り終えるまでデッキに出ることも許されず、順番が来るまで閉じ込められたままであった。この結果、ボートに乗ることが出来ずに多くの三等客が我が子を道連れに死んでいったのである。そうしたことから、以後の救助活動では等級別に分け隔てられることはなくなった。また、どの船にも乗客全員が乗ることのできる救命ボートを装備することも義務づけられるようになった。
 さらにタイタニック号の悲劇は、自然の前に人間はあまりにも無力であることも証明した。人間の無知とごう慢さに怒りをあらわにした神は、あえてあることを証明してみせたのであろうか。例え大いなる夢であっても一瞬にして消え去るのだということを。

 ニューファンドランド沖3650メートルの深海の水底で、今もタイタニック号は永遠の眠りについている。真っ暗で沈黙だけが支配する闇の世界の中で、人間の奢りと無知を戒めながら、声なき鎮魂歌が今も響いている・・・

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