呪われた漁船「良栄丸」
〜一年間も太平洋を漂流しつづけた幽霊漁船〜
 見渡す限りの大海原。そこには島らしき陸地などどこを探しても見えない。希望という感情も心のどこを探しても見つからない。まさに漂流こそ、恐ろしい忍耐を要求される恐怖の拷問なのである。
 生きる希望を失った者から確実に死んでいかねばならない恐ろしい事実。孤独で壮絶な生き地獄なのだ。
* 漂流する気味の悪い船 *
 1927年10月31日。アメリカシアトル沖で貨物船マーガレット・ダラー号は不審な漁船を発見した。その漁船は波のうねりにまかせて上下にゆっくりと動いていた。
 漁船は木造で周囲はところどころ朽ち果て、マストは半分折れ曲がり海藻がべったり張り付いている。時おりボロボロになった帆の一部が風にあおられてバタバタとなびいて気味の悪い音を響かせている。漁船から漂って来る何とも得体の知れない不気味さに、多くの乗員は全身に悪寒が走るのを感じていた。
「Anybody there? (誰かいるか!)」スピーカーで誰何してみるが何の応答もない。ロープがかけられ引き寄せられる。
 ギィ、ギィ、船はきしみながらゆっくりと近寄って来た。
 乗員の一人が朽ち果てた漁船に飛び移った。甲板に白っぽいしなびれた雑巾のようなものがこびりついている。
「なんだこれは?」よく見ると、それらはミイラ化した遺体や白骨だった。ググッと吐き気がこみ上げて来る。
 乗員の一人はハンケチで鼻と口を覆いながら船の中に入ってゆく。そこにもミイラ化した遺体が2、3体折り重なるように転がっていた。ある遺体は喉の渇きを訴えているかのように白骨化した手で喉もとをつかんでいる。片手で船べりをつかみ、飢餓による苦痛からかくの字型に身体を折り曲げている遺体もある。
 ミイラとはいえ髪の毛や髭が伸び放題であまりの生々しさ、おぞましい光景に乗員は思わず息をついて空を仰いだ。しかし、そこには酸鼻をきわめる惨状とはうらはらに美しい晩秋の太陽が何ごともなく輝いていた・・・
* 航海日誌の壮絶な記録 *
 その後の調べで、この漁船は日本の和歌山県の漁船「良栄丸」(42トン)であることが判明した。
 良栄丸はエンジンの故障で漂流を余儀なくされ、一年近くも漂流していたのであった。しかもこの船は、食料が尽きて全員が餓死した後も、幽霊船のようになって半年間も太平洋を漂っていたのである。
 船内から発見された日記には、彼らのたどった身の毛もよだつ体験が克明に記録されていた。その内容はあまりに恐ろしく壮絶そのもので、この世の生き地獄であったことが判明した。
 良栄丸は12月5日に神奈川県の三崎漁港を出港して、銚子沖100キロの地点でマグロ漁に従事していたが、運悪く低気圧によって海が荒れてきたため、いったん三崎漁港へと戻ろうとした。
 ところが、強い時化で機関のクランクシャフトが折れてしまって航行不能に陥ってしまう。
 西からの強風に煽られた良栄丸は東へ東へと押し流されてしまい、ついに銚子沖1600キロ付近まで流されてしまった。
 その後も強い風は吹き続け、エンジンの修理にも失敗した良栄丸は、完全に航行の自由を失ってしまった。この間、3隻の船に遭遇。火を焚いたり大漁旗をあげたりして大騒ぎしたが、気づかれることなく通り過ぎて行った。
 帆による走行も思うにまかせず、風に逆らって日本に帰ることが困難と見た船長は、このまま風に吹かれていっそのことアメリカを目指すことを決意した。このとき、船長は船に積載した食糧と捕獲した魚でなんとか4ケ月ぐらいは食いつなぐことができるだろうと考えていたらしい。
 漂流後、年明けの1月1日。乗組員たちは釣り上げた魚で新年を祝った。日誌には大正16年元旦と記されているが、もうその時は、元号が昭和に変わっていたのだが、彼らに知る由もなかった。
 しかしこの頃は、魚を釣り上げては大喜びするなど、まだ希望も失われておらず、乗組員に明るさが多分に残されていたようだ。1月下旬には外国船を発見し、火を焚いて大騒ぎするも気づかれることはなかった。
 3月6日、ついに食料が底をついた。
 希望はなくなり船員たちの表情から絶望と死への恐怖だけが漂いはじめる。死神が船に同居し始めた。
 前日には機関長の細井伝次郎が病気で死亡。いよいよ死を決意した乗組員は船長以下12名の名前を連ねて一枚の板に遺書を刻んだ。そこには12月5日に港を出航して以来、エンジンの故障により漂流を余儀なくされたという内容が記されていた。板に遺書を刻んだのは船が沈没しても板だけは漂着して国に帰れるようにと願ったものであった。
 この日以来、栄養失調と病気で数日おきに船員たちが次々と死んでいった。最初の死亡した3名は水葬にしたが、体力がないので、その後死亡した船員はそのままにされ、遺体は朽ち果てるままにされた。
 4月中旬、とうとう船の生き残りは船長と船員の二人だけとなった。二人とも脚気に苦しみ、動くこともままならぬ状態であったが、最後まで必死になって船の修理と操舵を続けていた。
 5月になると、二人とも立つことが出来なくなり、ついに死を待つだけとなった。甲板にはとうに死んでミイラになった船員たちの遺体が散らばっていた。その中で船長はうずくまったまま、何やらぶつぶつと小言を言い続けている。

 船上に生きている者が一人もいなくなっても、船は強い風にまかせてただひたすら流されつづけた。そして良栄丸はその後、半年以上も太平洋上をさまようのである。

* 遺族にあてた遺書 *
 発見された当初、船内には乗っていたはずの3名の遺体がなかったことから、飢餓に陥った乗組員が狂気に走り、仲間の遺体を切り刻んで食べたのだという都市伝説が飛び交ったことがある。しかしそれらは事実無根で、乗組員は壊血病や脚気などで確実に衰弱していき、絶望と恐怖の中でゆっくり死に絶えていったというのが事実のようである。
 逆に、残された航海日誌からは、乗組員全員が死の瞬間まで冷静になって努力をつづけたこと、また常に、仲間や家族のことを思いやる姿勢が記されていたことから、発見したアメリカ人は深く感動したとさえ言われている。
 船長の三鬼登喜造は妻と二人の子供にあてた遺書の中で、「苦労をかけてしまい真に申し訳ありません。私もせめて後12、3年は生きたかった。将来、長男が大きくなっても漁師だけにはさせないように。二人の子供を頼みます」と書き残していることを見ても、本人の無念の心情が十二分にうかがえる内容であった。
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参考文献サイト
http://kerotama.exblog.jp/15276438/
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