心霊写真の謎
〜記録されたエネルギーの念写現象〜
* 気味の悪い写真が撮れてしまった! *
 ある鍾乳洞でスナップ写真を撮ったら、髷を縫った侍のような人物が写った。ある古戦場で記念写真を撮ったら、今から700年程前の武将のような顔が写っていた。スナップ写真に死んだ肉親の顔が写った。木々の間に人の顔のようなものが見える・・・。

 何気なく撮った写真に、そこにあるはずのないものが写ってしまった写真・・・これらは幽霊写真や心霊写真などと呼ばれ、世界でも実に報告例が多い超常現象の一つとされている。
 このような写真が撮れた場合、どうすればいいのだろう。供養した方がいいのだろうかか?そのまま持っていても大丈夫だろうか・・・・と心配するのが普通であろう。いずれにしても、当事者にとっては憂鬱な事態であるにちがいない。

 確かに気味の悪い現象であり、理由の解明出来ないことに恐れを抱くのも当然である。このような類の写真をカメラの操作ミスや二重露出などといった技術的な原因だけで片づけていいものだろうか。また、この現象には原因や理由が本当に存在しないのだろうか?
* 無意識の念写が心霊写真をつくる *
 心霊写真とは、その場所における時間を超越して蓄積記録されたある種のエネルギーの念写の結果ではないだろうかと考えられる。つまり、心霊写真とは時を越えて訴えかけてくるメッセージのような存在だということだ。
 心霊写真は次のようにすれば、通常人にでも撮れると聞く。まず先入観を持たずに、精神を落ち着かせる。大きく深呼吸する。次に、肺にある空気を思いっきり全部吐き出して人工的な貧血状態をつくる。すると少し目眩がしてクラクラするので、その状態で意識をカメラのフィルムにのみ集中して念じながらシャッターを切ると心霊写真が撮れるということだ。無論、撮影する場所にも考慮に入れる必要はある。

 これはどういうことか言えば、自らの意識を弱めることで、回りの自然と馴染ませ、同調させることで、心身ともに、その場に記録されている過去のもろもろのエネルギーを受け入れやすい状態に持っていくわけである。つまり、人間の体を周囲のエネルギー伝導の触媒的な役割を果たすように持っていくのである。言い換えるなら、心が虚ろな状態である時が周囲の浮遊するエネルギーの出入り口的存在になる瞬間であるとも言えるのである。
 この状態は言い換えるなら、トランス状態的でもあり、浮遊するいろいろなエネルギーに感化しやすい状態であるとも言えるが、逆にいえば、その瞬間こそ強いエネルギーに影響をうけやすい危険な状態であるとも言えるのかもしれない。

 つまり、カメラのフィルムというものは非常に感化しやすい材質で出来ているため、撮影する人間や周囲にいる人間の無意識の念写を拾う時があれば、そんな時に心霊写真が撮れるのではないかと思われるのである。ちなみに念写(PK)とは精神の力で未感光のフィルムに思い浮かべるイメージを焼きつける能力のことである。
* 地上のあらゆる場所にはエネルギーが渦まいている! *
 地上のいたる所には様々なエネルギーが記録され浮遊している。強弱、質量ともに違うこれらのエネルギーの波動は、過去における様々な感情や意識の蓄積のようなもので、関係深いその場所に記録されているものと言えるだろう。
 それらのエネルギーの波動は、こうしたトランス状態になることで、一時的に生体内に取り込まれて同化する。

 その時は本人の意識の中に別な異質なエネルギーが同居しているという不安定な状態になっているわけで、周囲から見ると異様な感じに写っているはずである。
このような場所ではさまざまな感情が渦を巻いている可能性がある。
 巫女とか口寄せとか言われる霊媒師がまさしくそれであり、自らの体を触体にしているのである。古代文明の神託はこれら霊媒師による働きが多く、例えば、古代ギリシアのアポロン神殿の巫女は地底から立ち上ってくるガスを吸って、瞑想状態に陥った上で神のお告げを口にしたと言われる。言い換えれば、神がかり状態になるために巫女はいろいろなものを利用したのである。マリファナや大麻、マジックキノコなどの類などいろいろなものが利用されたと見られている。
 これら巫女などの霊媒師が自らの体を再現手段としているのに対して、念写とはフィルムという感光紙を媒介させて再現しているとも言える。精神的なものが物質的に変化した瞬間だと言ってもよいかもしれない。念写能力は人それぞれに程度の差はあっても、本来人間が持っているまだ知られていない能力の一つなのではないだろうか?その能力は意識して発揮出来る場合もあれば、無意識に働く場合だってあるように思う。
* 空間が人間の感情を記録している? *
 グール現象を唱えたレスブリッジは興味ある実験をした。その実験とは振り子や金属的な棒を使って、人間の持つ怒り、喜び、恐怖といった感情を調べるというもので、それによると、様々な感情をイメージして、振り子のひもを伸ばしていった場合に、そのイメージされた感情の種類に応じて、特有の反応を示すという結果を得たのである。
 例えば、怒りや喜び、恐怖といった感情をイメージした場合、振り子はそれぞれの感情に応じて、決まった長さで回転し出すのである。つまり、このことから逆に言えば、振り子がある場所で、狂ったように運動し始めた場合、それはこの場所でかつて刻まれた過去の思念や情緒といった無意識な精神の集合体の波動に反応しているとも考えられるのである。 
 振り子や金属の棒はこうした精神的なエネルギーだけでなく、さまざまな物体や性質にも特有の反応を示すことは知られている。
 中世ではある金属を探すのにこうした棒を探知機代わりに用いられた事実がある。
 ある場所で振り子が特有の動きを続けたとすると、それが恐怖を示している場合、過去のある時にその場所で何者かが恐怖という感情を周囲にまき散らした結果、その場に負のエネルギーとして記録されているということだ。
占い棒で金属を探している中世の絵
 したがって、戦場の跡や忌わしい事件の起った場所、因縁のある場所には膨大な負のエネルギーが蓄積記録されているはずなのである。 
* 地縛霊は空間に記録された浮遊する過去の感情 *
 地縛霊とされるその場に記録されているエネルギーに、人間のものと思われるのが圧倒的に多いのは、恨み、憎悪、嫉妬といった他の動物にはないデリケートな感情を持つ生き物だからである。恐怖、怒りといった感情にしても人間固有の要素が加わり負のエネルギーとして独特な磁場を形成するのである。
 
 こうした場所では、地縛霊として視覚的に捉えられたりするケースは多い。もしも、念写によって捉えられた場合は感光紙であるフィルムにその地縛霊が焼き込まれ、心霊写真になって残ると考えられる。
したがって、撮影する人間の心理状態にその出来は大きく左右されることになる。
 人の持つ霊能力はピンからキリまであるが、その程度に応じて捉えられるイメージもいろいろと変化してくると思われる。
 ある人はぼんやりとしたイメージとして捉えることは出来ても、別な人は生理的に感じるだけなのかもしれない。
ある教会で撮られた神父の地縛霊
 霊能力の高い人間であれば、視覚的、感覚的に瞬時にして体全体で感じることになる。
 それは、あたかも荒れ狂うエネルギーの嵐の中に投げ出されたような感覚にちがいない。
 したがって、霊能力の高い人間が、心霊写真を見る場合、感光紙に取り込まれたエネルギーの種類がわかるだろうし、その持つパワーによっては危険な影響力をおよぼすものとそうでないものとの区別が可能なのだろう。

 地縛霊は浮遊する負のエネルギーの磁場であることが多いが、心の空虚な時、同質に近い心理状態でいる場合こそが影響を受けやすく危険な瞬間なのではないだろうか? 


 いずれにせよ心霊写真は、人間の無意識の念写によって感光紙に焼きつけられた情念のイメージ(地縛霊)であり、いたずらに恐れる必要はないのかもしれない。
トップページへ
アクセスカウンター

inserted by FC2 system