シンクロニシティ
〜超常現象か、その偶然のメカニズム〜
* 絶対に起こりえない話 *
 盲亀の浮木 (もうきのふぼく)ということわざがある。この話は到底信じられない偶然が起こるという例えで使われることが多い。それはこういう話である。
 とてつもない広い海底を気ままに動き回っている盲目の亀がいた。亀は長い間、海底に潜んでいたのだが、何を思ったのか、気まぐれによるものなのか、100年ぶりに海面に浮かび上がってみたくなった。
 亀は頭を上に向けると薄暗い深海からゆっくりと、海面へ向かって泳ぎ出した。ようやく海面近くまで来た時、普段はあるはずのない流木がたまたま大海に漂っていた。その流木には、珍しいことに真ん中に穴が開いていた。
 頭上に流木が漂っているとは知らぬ亀が、海面から頭を出そうとして首を持ち上げたところ、なんとその流木の穴にピッタリ入り込んでしまったのであった。
 見渡す限りの大海原を、たまたま漂っていた一片の流木に、これまた100年ぶりに海底から浮かび上がって来た盲目の亀の首が、こともあろうに流木に開いている小さな穴にスッポリと入り込んでしまうという確率。
 この出来事を何と言えばいいのだろうか? ただの偶然の一致などで済ませてよいものだろうか? その恐ろしい確率は奇跡に等しいのだ。幾度の偶然が重なれば、こうした結果になるのだろう? まさに神の汚れなき戯れとしか表現のしようもない。
 だが、こうした信じられないような偶然の一致は、世の中には往々にして起こることがあるのだ。この一見、不可解と思われる未知の分野に、心理学からメスを入れようとした人物がいる。カール・ユングである。
* 偶然のメカニズムを研究する *
 ユングはフロイトの理論をさらに突っ込んだことで知られている心理学者であるが、物理学と心理学との間には、ある種の相関関係があると考えた。
 彼の理論によると、森羅万象、すなわち、この世に存在する一切合切は連続しており、単独で偶発的に起きる現象などあり得ない。起こるべくして起きたというのである。
 これはどういうことかと言えば、一見何の関係もないように見える物質世界と精神世界は、実は密接に関係しており、相互に影響をおよぼし合っているのである。
 具体的に言えば、名前や数字といった記号、興味、趣味などと言った個人の嗜好的要素、職業、年齢と言ったいろいろな条件が暗号となり、それらが引き金の役割を果たし、こうした無意味な現象界に呼応関係を生じさせるのである。
カール・ユング(1875〜1961)スイスの心理学者。フロイトと夢分析の分野で共同研究するが、後に無意識の概念で対立し独自の理論を唱える。
 彼はこうして発生する偶然をシンクロニシティと名づけた。シンクロニシティ・・・同時発生、偶然の一致、偶発的共時性とでも訳せばいいのだろうか。
 人の意識の奥底には、普段は表に出ない無意識部分がある。この無意識部分は、個人の枠を越えてあらゆる人々に共通する普遍性を持っている。これは集合的無意識と呼ばれており、太古の昔から蓄積されて来た人類の原型とも呼ばれる部分である。ユングはシンクロ二シティはこの部分が元になって起こるのではないかと考えたのであった。
 時おり、理由もなく本人にもわからぬが、不吉だとかラッキーだとか、これはダメだ、これはいけると言った物事の善し悪し、運不運の見極めが瞬時に出来る時がある。つまり物事の真理がわかる瞬間だ。これは意識しようとして得られるものではなく、普通は夢の中やトランス状態の形で得られることが多い。
 しかし、まれに覚睡時にも得られることがある。これが直感力というもので、よくひらめきとか虫の知らせとか予知などとも呼ばれているものである。恐らく、何らかの条件が重なった結果、意識の奥底に眠る潜在意識、すなわち集合的無意識とダイレクトに直結してメッセージが伝わったからではあるまいか。
 直感、予知、夢のお告げ、運不運に至るまで、これらはすべてシンクロニシティの産物とも呼べるもので、この集合的無意識が温床となって持たらされたものと考えられている。シンクロニシティを説明する際、よく例として引き合いに出されるのがプラム・プディングの話である。それはこういう話だ。
* プラム・プディングにまつわる偶然の不思議 *
 20世紀の始め頃、詩人デシャンがまだ少年だった頃、フォールジビュという隣人からプラム・プディングをご馳走してもらったことがあった。その時、フォールビジュは、イギリスから帰国したばかりで、この味は誰にでも受けるよとばかり強く勧めた。そういうこともあり、デシャンはプラム・プディングの味が忘れられなかった。
 プラム・プディングとはイギリスの伝統的なケーキで、レーズン、ナッツを始め、たくさんの果物を小麦粉で練り上げ、ラム酒、シナモンなどを入れて蒸し焼きにした香ばしいお菓子である。その当時、フランスではまだプラム・プディングなど誰にも知られていなかった。
 十年後、デシャンはパリのレストランの前を歩いていた。香ばしい匂いがするので何気なく振り向くと、店の中で珍しいプラム・プディングがつくられているのが見えた。
 急に久しく忘れていたなつかしいプラム・プディングの味を思い出した。彼は矢もたてもたまらず店に入ると、ためらわずに一皿注文した。
 しかし給仕は、申し訳ありませんがこのプラム・プディングはこれが最後で、しかもすでに予約済みなのですと言った。
 気落ちしたデシャンは、その人物が誰なのかと思って見たところがびっくりしてしまった。その客とは なんとフォールジビュであったからだ。
プラム・プディング。イギリスの伝統的なケーキ。クリスマスに食べる。
 偶然の再会に驚いた二人は、再びプラム・プディングを分かち合ったということである。
 さらに数年後、デシャンはある晩餐会に招待されていた。彼はメニューにプラム・プディングがあるのを発見し、昔を思い出してプラム・プディングを注文することにした。
 そうして待つあいだ、こんな偶然が2度も起こることもあるまいなどと談笑しながら、皆に昔起きた不思議な体験を面白おかしく語り始めた。やがてプラム・プディングが運ばれて来ると彼の前に置かれた。それと同時に向かいのドアがゆっくり開き始めた。
 ただならぬ気配を感じたデシャンは、その方向を見るなり、たちまち目を見開いて髪の毛が逆立ってしまった。入って来たのは年老いた フォールジビュだったのだ。 彼もたまたま別の用事で出かけて来たのだが、迷子になってしまい、彼のいる部屋に間違って入ってきたのであった。
 この偶然をどう表現していいのだろう? デシャンは、長い人生で3度だけプラム・プディングを味わった。ところが、食べようとすると必ずフォールビジュがあらわれるのだ。後になって、もし同じことがもう一度起これば、私の人生観そのものが変わってしまうとさえ述べている。確かにプラム・プディングの話は不思議きわまる話には違いない。
* ジンクスやことわざはシンクロニシティが生んだもの *
 だが、ほんのちょっとした程度のものならば、日常生活の中でも頻繁に起きているのである。実際、誰でも身に覚えがあるはずだ。

 電話しようと考えていたら、まさにその当人からかかって来た。あることを考えていたら、突然、隣にいた友人がそのことをしゃべり始めた。何気ない仕種で開いたページに今考えていることが載っていた。テレビをつけてみると、今考えていたことをニュースでやり出した。この場所に来るといつも奇妙な気分になる。あの人と一緒に行くと必ず雨になる。ある種の事件を起こす犯人の名前は○○が多い。・・・と言ったような。

 これは数字にも言えることで、特定の数字がハプニングに関係することはよくある。その人だけの個人的に限られるだけの時もあるし、グローバルで共通する場合もある。例えば、3のつく日は事故や犯罪の発生率が妙に多いというし、23、24の両日は大地震、噴火、津波などの天変地異が世界的に多いとも言われている。
 よく7はラッキーセブンとか言われ、幸運を導く数字だと考えられて来た。その反対に海外では、13は不吉を導く数字として嫌われる。
 ホテルなどでは部屋や階の番号にこの数字を避けるケースがある。特に13日の金曜日になると、不吉の上の不吉とされ、旅行や行事などを見合わせることが多いという。
 一方、漢字文化圏では、漢字の四と死が同じ発音であることから、4を不吉をイメージする数字として忌避される傾向にある。したがって病院では、4がつく部屋番号は欠番あつかいにされることが多い。同じ文化圏である韓国でもこの傾向は強く、一般に病院には4階は存在しないという。
 ところで、2008年に行われた北京オリンピックは、8月8日午後8時8分8秒をもって開会式がスタートしたということである。
 中国では8という数字は、日本人のラッキーセブンに優るとも劣らぬほど、縁起のよい数字として絶大な人気があるという。そのためか、中国政府としては、8のつく2008年にどうしてもオリンピックを行いたいという尋常ならざるこだわりと願望があったそうである。
 これも数字に秘められた幸運にあやかろうとする人間の切なる願いとでも言えばいいのだろうか。
 かくして、あらゆる運不運に関することから不気味な偶然の一致まで、何がしかの反応に呼応して起きたもので、起こるべくして起きたということになれば、シンクロニシティは我々の周囲に満ち溢れていると言える。
 また、悪霊やたたりと言った不可解な災厄もこの例に漏れることはない。こうしたことから、縁起がかつがれ、さまざまなジンクスが生まれる。
墓地の前では親指を隠さねばならない。
丑三つ時に鏡を見てはいけない。
茶柱が立つと縁起がよい。
もう1人の自分を見ると死ぬ。
猫が後をついて来るといいことがある。
北の方角に向けて寝るとよくない。
寝ている人が寝言で何かを話してもそれに答えてはいけない。
夜中に笛を吹くと霊が集まる。
勝負事の前には爪を切るな。
白い蛇の出て来る夢は吉である。・・・などなど。
 こうしたジンクスはやがて、ことわざとなって教訓を残していく。ことわざは長い年月、日常に頻繁に起こる不可解な現象、シンクロニシティを要約した表現とも言える。

「噂をすれば影がさす」「以心伝心」「風が吹けば桶屋が儲かる」「災い転じて福となす」「二度あることは三度ある」「天災は忘れた頃にやって来る」「好事魔多し」これらのことわざは人々の知恵として生活の中に取り込まれて行った結果なのである。

 ちなみにシンクロニシティは意識している時は起きないという。ぼんやりした不安定な精神状態時に起きやすいと言われる。芸術家はインスピレーションを得るために瞑想状態になるという。やはり神がかり状態になるには、通常の精神状態では都合が悪いのである。

* 宝石はシンクロニシティを身につけるアイテム *
 人類は長い年月の間に、膨大な経験と蓄積を経て、一見でたらめに偶発的に起こるこの奇妙な現象に気づくようになっていた。その結果、なんとかしてシンクロニシティを人為的にコントロールして、生活に役立てることは出来ないものかと考えた。
 もしも、こうした能力を自由自在にコントロール出来るようになれば、まさしく夢のような世界が実現するようになる。つまり予期せぬ災いを回避するだけでなく運をこちらに呼び寄せることが出来るのだ。

 魔術、占星術、呪術、などと言ったオカルトを始め、八卦、陰陽道、風水と言ったさまざまな易学、人相や手相、タロットカード、おみくじなどの占いの類に至るまで、シンクロニシティを人為的に操作したいという要求が高まって発達したもので、言わば人類の知恵とも言える。これらを行うことで、偶発的に起こる災いを避け、富を自分たちの方に持たらし、逆に憎むべき相手には呪術によって不幸にすることが出来るのである。

 人類は自然界にあるすべての物質には、特有のパワーが隠されており、とりわけ鉱石や宝石には強い独自なシンクロニシティが秘められていることに気づいていた。つまり、それらを身につけることで、独自なシンクロニシティが得られるのである。

 例えば、ダイヤモンドには強烈な保持能力があり、エメラルドや翡翠にもダイヤに次ぐ強い保持能力がある。サファイアやオパールは良きにつけ悪しきにつけ上下の変動が激しく、所持するだけで波が立ちやすくなる。トルコ石やアクアマリンは意志を安定させる作用がある。
 さらに宝石にはヒーリング作用もあり、その効能は宝石の種類によって随分異なって来る。
 例えば、ルビーは眼病、サファイアは筋肉痛、エメラルドは骨の病気、ヒスイは胃腸虚弱、ガーネットはアトピー、トルマリンは鼻炎といったヒーリング効果が期待されるということである。
水晶は珪素と酸素分子で構成される結晶で、極めて安定した物性を持つ。このことから発振回路のパーツにも用いられる。
 水晶はこれらの中でも最もポピュラーで、その効能はクリスタルパワーとして知られている。
 これらをエネルギーの波動に敏感な人が身につけると、すぐにその効果が実感できるという。
 不老不死を夢見た古代中国の始皇帝が、水晶のパワーにあやかろうとしていたのは事実だし、女王クレオパトラはエメラルドの魅力に取り憑かれて、装飾用だけでなく砕いて粉末状にして、お化粧用のパウダーとして使用していたのは有名な話だ。またローマ法皇は代々、サファイアの指輪をつけていることが知られている。
 サファイアは霊力を引き出す力があるという。呪いの宝石として知られるホープダイヤは、最初の持ち主の強烈なマイナスのパワーを保持してしまったためであろう。
 かくして、オカルトや占いなどの儀式を行う際、人間の隠された能力を引き出すための宝石はどうしても手放せない必須アイテムとなった。個人的なアイテム、お守りなどは身近かな例と言えよう。
* 宇宙を貫く大いなる意思を感じよう *
 基本的にこの世のすべて、つまり森羅万象はシンクロナイズする。物を構成する分子レベルで固有の波動をくり返しているのである。
 海中にいる何百万匹の小魚の群れは、一つに集合しそれ自体、あたかも意志を持った巨大な生き物のようになって行動する。鳥は何千羽も一つにまとまって一糸乱れぬ動きで正確にある方角を目指して飛んでゆく。まるで空に見えないレールが敷かれているかのように。目の見えないはずのアリも、大群となって秩序ある動きをする。その動きは訓練された軍隊さながらだ。

 一見、アトランダムに見える生き物の動きには統一性があり、そのパターンは調和に満ちている。

 草木にしてもしかり。無生物も同様だ。あらゆる鉱物にも特有のリズムがあり、固有のエネルギーの波動がある。
 無生物も生物も干渉し合い、時としてシンクロナイズする。そう、森羅万象はエネルギーの波動に満ち満ちているのだ。
 あらゆる固定観念や偏見に基づいた合理主義を取り払い、純粋無我の境地になって大自然の中に身を置く時、自分自身の体がそれらの伝導体となり共鳴していることに気づくかもしれない。
 その時が、波動と合致した時で、神のお告げ、啓示、奇跡、ひらめき、大発見となって何かが起こる時だ。それは大いなる無意識の集合体から真理が伝わる瞬間だと思う。
 この考え方は宗教にも通じている。あらゆる行為には元に何らかの原因があり、それなくしてはその出来事は起きなかったという考え方は、「生死輪廻」「因果応報」などと呼ばれ仏教の世界観の根底をなしていると言ってもいい。

 いや、仏教のみならず、すべての宗教の世界観と倫理観にも共通している。さらに、予言、予知、テレパシー、超感覚などの特殊能力にも通じているのである。そして恐らく、宇宙全体を貫く不変の法則にも根底で通じているに違いない。
 ただ、私たちがこの真理に目覚めていないだけなのだと思う。真理を悟った暁には、私たちの前に全く違った新しい世界観と価値観が開けることだろう。

* さあ、自分にあたえられた使命を探す旅に出よう! *
 何十億年前、まだ一切合切が無であった頃、宇宙の片隅に漂っていた塵の渦から太陽が生まれた。
 塵は次第に収縮をくり返して、途方もない時間をかけて惑星になっていく。
 さらに気の狂いそうな時間が経過して、大気と海が生まれ、ある惑星だけに生命の宿ることが許された。
 さらに数億年が経ち、壮大な進化の果てに私たち人間が誕生した。果たしてどれほどの偶然が重なったらこうなるのか、私たちには想像することすら出来ない。
 だが、これが気まぐれで場当たり的な偶然などではなく、起こるべくして起きたのなら、すべての現象には意味がある。
 どんな生き物の存在にも大いなる役割と使命がある。人間としてこの世に生まれて来て、今、生きていられる幸運と存在している意義をかみしめたい。
 生まれて来た以上、きっと何か、大事な理由があるはずなのだから。それが何か探し求める旅に出た時が至福に満ちた瞬間のような気がする。
トップページへ
アクセスカウンター

inserted by FC2 system