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馬王堆の長沙夫人
〜2200年間眠り続けた古代中国の貴婦人〜
* 2200年前の貴夫人 *
 中国 湖南省 長沙市の東、約4km付近に、馬王堆(まおうたい)と呼ばれる小高い丘がある。1971年に、ある病院がその丘で建設工事中に古い墓と見られる遺跡を発見した。
 堀り進めていくに従いそれは前漢時代の墓であることが判明した。墓の盛り土を取り除くと、地下16メートルあたりで、厚い板に覆われた外棺が出て来た。
 外棺は5つの部分に仕切られており、中央の空間には4重になった木棺があった。そして、回りの4つのスペースには実に1000点を超える様々な副葬品が納められていたのである。
 4重の木棺の一番外側は、黒漆が塗られており、2番目の棺は雲が渦巻く中に、神話上の怪獣などが見事に描かれていた。
 3番目の棺は赤の漆の地に、龍、虎、仙人などが極彩色で描かれている美しいものであった。一番内側の4番目の内棺は豪華に鳥の羽と刺繍で飾り立てられていた。
馬王堆1号漢墓
 そして、その中に、20枚以上の絹の着物に包まれて、一人の女性が眠るように横たわっていた。
 遺体は身長154cm、体重34kg、年齢50歳ほどの女性であった。亡くなったのは、今から2200年も前と推定されている。
 後の調査によって、この女性は長沙国で宰相をつとめていた利蒼(りそう)の妻、辛追で紀元前186年に死亡したことが判明した。
 また、この遺体はミイラというよりは、生身の遺体とでも言えるものであった。
 なによりも驚くべきことは、身体にはまだ弾力があってつやもあり、指で押すと、くぼんだ後、また元に戻ると言った状態で、太腿の動脈も死後まもない死体と同じような状態であった。
5つに仕切られた外棺 。周囲のスペースには副葬品がおさめられている。
 毛髪は黄黒色で白髪はなく、引っ張っても抜けなかった。皮膚の上には明らかに毛穴が見られ、手足の指紋もはっきりと確認できたほどであった。手足の関節はいくらか曲げることも出来た。内臓も完璧にそろっていた。左肺には結核の病巣があり石灰化していた。胃腸を調べたところ、のどから胃にかけて300余りの瓜の種が連なって残っているのが見つかった。
* 考えられる死因 *
 解剖の結果、夫人は冠状動脈疾患がひどく、多発性胆石症も患い、おまけにギックリ腰の徴候も見受けられた。恐らく生前は歩行がやや困難だったろうと思われたが、実際、それを裏づけるように副葬品の中から杖も見つかった。
 右腕は、手首に近いところが変形しており、若い時に骨折して奇形のまま癒着してしまったためと推定された。また、直腸の内部には寄生虫の卵の固まりが検出された。
 血液型はA型で、生前は皮下脂肪が多くかなり太っていたと見られ、体重も70キロ以上はあったものと思われた。
 こうした、データから次のような事実が推測された。つまりこの婦人は、今から2190年前の6月のある日、暑い昼下がりに瓜を食べている最中、持病の胆道けいれんを起こし、それが原因で心筋梗塞をひき起こして、ぽっくり死んでしまったのである。
18才頃の長沙夫人
(想像図)
* 恐ろしく豪華な料理 *
 1000点を超える副葬品の中には、衣類や食品をおさめた48個の竹こうり、化粧用具一式などがあったが、その贅沢さは大変なものであった。当時の上層階級のごちそうが副葬されていた食品のリストからうかがい知ることが出来る。

 メニューには、さまざまな肉料理から鹿の刺身、鶴の干物まであり、それらがものすごい凝った方法で調理されるのである。そして、高価な菓子類、珍しい酒類などとともに出されたと思われる。もし、それらが現在のレストランで出されれば、一卓、200万円は下らないほどの豪華な内容であった。
 2200年も前の遺体と副葬品からこのような事実までわかるのは奇跡と言うしかなく、このような生身の遺体は「湿屍」(しっし)と呼ばれている。
* 湿死の謎 *
 湿死に関しては、唐時代に書かれた「博異志」に生々しい描写がある。10人の盗賊が、周の王の墓をあばいた時の話である。3メートルほど掘っていくと地下に4つの部屋が見つかった。それらの部屋には武器類や絹織物、金や玉といった宝石類がごっそりあった。それらはすべて新品同様だった。
 北の部屋には棺があり、中には美しい女が生きているように横たわっていた。それは、体に触れてみると暖かみが感じられるほどだった。盗賊の一人が左手の指から、無理やり指輪を抜こうとして、刀で指を切り落としたところ小豆色の血が吹き出した・・・
 また、「史記」にも詳しく描写しているくだりがある。

 春秋時代のある王の墓では、男女40余人が棺のわきにまるで生きているように立っていた。遺体は腐敗しておらず、体の9つの穴には美しい玉が詰められていた。また、別な王の墓では一人の男と100余人の女の遺体が立ったりすわったり寝たりいろいろな姿勢で累々と発見された。それらの顔色や着物は生前と変わらなかったという。

 魏の王の墓では、棺台上で20才ばかりの男女の遺体が裸で東を枕に寝ていた。肌や顔色は生きている人のようで、あまりの生々しさに墓泥棒は恐ろしくなり、扉を閉めて退散したということだ。
 これらの盗掘の模様をあらわした内容が、どの程度、真実なのかは不明だが、死体の驚くべき生々しさを伝えるには、十分ではないだろうか?
 古代の中国の墓からは、たびたび、このような信じられない保存状態の良い遺体が見つかっているが、湿屍がどうして出来るのか詳しいことはわかっていない。
研究台に寝かされて、分析される貴婦人のミイラ
 棺の中で発見された赤黒い謎の液体が、腐敗を防いだという説や、棺と棺の間にあった副葬品が腐敗する過程で、酸素を必要として、その結果、酸欠となり無菌状態をつくり出したという説などいろいろと考えられている。
 しかし、どの説にも一長一短あって決定打は出ない状態だ。

 中国の長沙地方は高温、多湿として知られ、夏には40度を越す日も珍しくはない。つまり、何でも腐りやすく遺体の保存には全く向いていない地方なのである。こんな所で遺体が2200年も間、ほぼ原形をとどめていたということは、実に不思議という他ないのである。

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