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アイスマン
〜20世紀最大の発見、5000年前の男〜
* 氷河より謎の遭難者の遺体 *
 1991年9月21日のチロル地方の地元誌は、次のような記事を掲載していた。
「9月19日、海抜3千200メートルのフィナイル峰からイタリアに下山するルートの途上で、ある登山家夫妻が氷から突き出た人間の遺体を発見した。遺体は頭部と肩が露出しており、携帯品などから判断して何十年か前に遭難した登山者の遺体と思われる。身元は判明せず」
 最初この遺体は、遭難者の遺体だと考えられた。なにしろ、この付近は過去の遭難者の遺体が発見されることで知られていたのだ。1991年だけでも6体の遺体が発見されているのである。事故で遭難した人間は、クレバスの底深く落下してしまい、ゆっくり流れる氷河の力で押し出されてくるまで何十年もかかることがあった。そのため、遺体が発見されてから過去における失踪者のリストの照合が行われるのが常だったのだ。
 身元の調査で、過去における遭難者が調べあげられた結果、1941年に遭難したイタリアの音楽教授ではないかとも考えられたが、スイスに住むある女性などは、20年ほど前に遭難した自分の父親だと主張した。
 しかし今回の遺体だけは、過去に発見されたものとは少し違っているように見えた。両脚は皮製の靴を履いており、銅製の斧を持っていたからだ。これらは現代のものではなく、かなり古い時代の物であることを物語っていた。ある登山家は、14世紀のチロル伯爵フリードリヒ4世の戦士の一人ではないかと考えた。背中にある傷跡は、火で焼かれたか鞭打たれたために出来た傷で、後頭部に深い傷があるのは戦いによる負傷と考えられるものであった。つまり、この遺体は、退却中に敵に捕らえられ拷問を受けて殺され、そのまま放置されたのではないかとも考えられたのである。
 死後5百年以上もたった中世の遺体かもしれないという噂は、ニュースとなり、オーストリアのテレビの取材班がヘリコプターに乗ってやって来たほどだった。
 しかし、その後さらに小さな石製の短剣が発見されるにしたがい、この遺体が5百年どころか、それ以上の年数が経過しているかもしれないという可能性も出て来たので、慎重を期して研究所に持ち帰り調査が行われることになった。
チロル地方は、ヨーロッパアルプスの東側の地域一帯を指し、スイス、オーストリア、ドイツ、イタリアにまたがっている。非常に風光明美な所である。
 遺体は、ヘリコプターでインスブルックの法医学研究所に運ばれた。この時、この遺体と対面した研究所長シュピンドラーは、ツタンカーメンの棺を開けてファラオの顔を見たカーターの気分だったと述べている。
 そして、事実、後の調査により、これが20世紀最大の考古学的発見と言われる衝撃的な事件となるのである。この遺体こそ、その後マスコミによって「エッツィ」(エッツ峡谷の雪男の意)とニックネームをつけられることになるアイスマン(氷河人)であった。
* 遺体は5000年以上前のものだった! *
 放射性炭素法による年代測定で判明した結果は驚くべき事実だった。遺体は少なくとも5000年以上も前の人間である事実を示していた。遺体部分を4か国の研究所に依頼し、測定したところ、ほぼ同じ解答を出して来たのである。4研究所の平均値を取ると、紀元前3300年から3200年あたりということになったのである。
 5300年ほど昔は、どういう世界だったのだろうか? その頃、ピラミッドは一つも建設されていなかった。メソポタミアでは人類最初とも言える世界最古の文明社会がようやく営まれ出したに過ぎなかった。この頃、石器にまじって銅を使った簡単な道具が使われ始めていた。絵文字が発明されたのもこの頃である。一方、日本では、プレ縄文時代と呼ばれる石器時代が続いていた。狩猟によるその日暮しのような原始生活が果てしなく続いていた時代であったのだ。農耕が始まり文明社会らしいものが形成されるには、まだまだ、3500年以上も待たねばならなかった。彼、アイスマンの生きた頃はこのような時代だったのである。
 アイスマンは、氷河にいた時と同じ状態にした冷凍室に細心の注意を持って保管されることになった。 
 アイスマンを冷凍室から取り出して調査、研究出来る時間は30分に限られていた。いったん、冷凍室から取り出されると、溶解が始まり遺体の細胞が壊されていくからである。
 そのために、すばやく調査して情報を集めては、すぐに冷凍室に戻すということが繰り返された。そのようにして得られたデータは次のようなものであった。
アイスマンは、インスブルック法医学研究所で分析が行われた。
 まず、レントゲンとCTスキャンによる精密検査の結果、アイスマンは、35〜40才ほどの男性であることが判明した。身長は160センチほどで生前の体重は50キロ前後だと思われた。歯は、かなり磨耗していたが、これは、小道具をつくる際に、皮を噛んだりものを噛み切ったりしていたためと考えられるものであった。しかし、現代人の99パーセントが虫歯なのに対して一本の虫歯もなかった。
 また、当初、体の傷跡と思われたものは、入れ墨の跡であることも判明した。背骨の下の方に二本の青い線があり、左の膝の裏には十字の線があった。
 これらの入れ墨は、服を着たら隠れてしまう位置

、どういう意味を持つものかは不明である。

 さらに、アイスマンの右の耳たぶにはイヤリングをしていた跡があった。
 さらに、750時間もかけて、アイスマンの生前の顔を復元する作業もなされた。
 それによると、下唇が現代人よりも少し出ていたようで、いわゆる受け口で上唇は薄く、下顎は形よく盛上がっていたようだ。
 おでこは広く鼻は高いが、やや出っ張っていたと思われた。要するに、それほど悪い外見ではなく、見方によっては優しい感じにも見えたのではないだろうか。
* 精巧につくられていた携行品 *
 同時に、アイスマンが携行していた品々の内容も詳細に調査された。それらは明らかにされるにつれ、驚きが隠せなくなって来た。彼が持参していた5千年以上も前の品々は、実に精密に作られていたのである。携行品の中には、今までに見たこともないような物も含まれていた。
・・・内側に草を詰めた皮製の靴、毛皮の帽子、皮の前掛け、シカの皮をつなぎ合わせてつくられた上着やコート、山羊皮製のリュックサック、銅製の斧、毛皮製の矢筒と12本の矢柄、13センチほどの非常に小さな石製の短剣など、携行品の中には、矢の修理セットから六種類の発火道具を入れた子牛皮の袋まで装備されていたのである。
 弓は最初、杖と思われたが手で握る部分が太くなっており両端には弦を固定する工夫がなされていたので弓幹だと判明した。
 この弓は、長さは182センチあり、その材質はイチイの木でつくられていることもわかった。イチイは海抜1400メートル以下のところだけに生える常緑低木の一種である。
 先史時代以来、弓と言えば、すべてこの木でつくられるほど弓には最適な材料であった。ともかく、丈夫で柔軟性に富んでいてめったなことでは壊れないのである。
 しかし、弦は張られた形跡もなく未完成だった。彼はこれを上下に向かって削り完全な弓に整形中だったのである。先史時代の未完成の弓が発見されたのは、今回が始めてであった。
 12本の矢も一緒に発見されたが、そのほとんどが未完成で、すぐに使用出来るのは2本だけだった。
 また、これも初めて見るもので小太い鉛筆のような小道具があった。これまでに、一度も発見されたことがなくその用途が議論された。それは全長11.9センチ、直径2.6センチで何か非常に硬い物質が中心に入っており、回りをシナノキの樹皮で囲んでつくられていた。後ろの端はくぼんでおり、恐らく紐で縛って紛失しないようにするのが目的と思われた。芯にあたる部分は直径5ミリほどあり先端は黒ずんでいた。材質の特定に難航を極めたが、結局これは鹿の角であることが判明した。つまり、これは短剣の刃や火打ち石などをつくる際の修正用の小道具であったのだ。まず、石を大きく打ち砕き、さらに刃として形を整える時の微調整を行うのが目的だったと考えられた。先端が磨耗してくれば、鉛筆のように木の部分を削って新しい先端を出したのである。
 アイスマンは、靴のようなものを履いていたが、サイズは24.5センチで、底は革製で楕円形をしており縁が巻き上げられて革紐で縁取りされていた。
 中にはネットが縫い込まれており、その間に干し草が詰められていた。
 恐らく、暖房用でもありクッション機能の両方を兼ねていたと思われる。
アイスマンは、こういう革靴を履いていた。(再現)
 アイスマンは、この靴に足を入れて紐でしめていた。したがって、常時、履きっ放しの状態と考えられた。靴としては発見された最古のものである。
 アイスマンは、旅をするに際し、籠を背負っていたと思われた。これは古代のリュックサックと呼べるもので、ハシバミの棒をU字形の枠にして、その両端をカラマツの板2枚を紐でつないでつくられた背負い籠だった。この種の背負い籠は、最近までチロル地方で使われており、ハシバミの棒を軽金属に置き換えれば現代の観光客が使っているリュックサックになるのである。すなわち、このリュックサックの起源は5000年以上も前にさかのぼるということが明らかとなった。
 携行品の中には奇妙なものもあった。それは、コルクか革のような物の真ん中に穴が開けられており紐が通っていた。分析の結果、直径4.5センチほどのコルク状な物は、白樺に生えるサルノコシカケ科のキノコであることがわかった。この種のキノコは、抗生物質を含んでいることが知られており、特に結核菌などに効果がある。20世紀になってもこの種のキノコは医薬品として売られていたのである。つまり、彼は、5000年以上も前に一種の医薬品を携行していたということであろうか。すると、驚くべきことに先史時代からその処方が知られていたということになるのだ。
* 5000年前の羊飼いだった? *
 アイスマンは、このような旅道具ともとれる携行品を携えて一体どこへ行こうとしていたのだろうか? 彼の職業は何だったのだろうか? また、最後の日に何が起きたのか?

アルプス越えをするアイスマン(5300年前の8月のある日の再原図)
 それについて、様々な仮説が考えられた。まず、彼は古代の商人で、火打石の交易を行うためにアルプス越えを行っている最中に行き倒れになったのではないかというもの。
 あるいは、遺体の肋骨が折れて治癒していない事実や持参していた矢が折れていることなどから、何らかの理由で、村が襲われ、命からがらアルプス山中に逃げ込んだものの、不運にも力尽き遭難してしまったというもの。
 今ではアイスマンの職業は、古代の羊飼いだったと考えられている。発見されたワラやマント、草でつくられたケープなどは羊飼いに特有の服装であったからだ。現代の羊飼いも、夏になると、4か月ほどは山の牧草地に入っていくが、これは5000年前から延々と続いている習慣と言ってもいい。彼は、その時、スモモを食料として持参していたが、このことから季節は8月末から9月初め頃であったことが絞られてくる。
 また、アイスマンは、左半身を下にして横たわっていたが、これは岩のようなものを枕にして寝ていたのではないかと考えられた。
 さらに死因は、飢えによるものでもなかった。つまり、側には、スモモやヤギの肉が手付かずで残されていたからだ。
 また、横になる前に、荷物類をきちんと置いていることを考えると、急に倒れてそのまま死んだのでもなさそうだった。彼は何らかの理由で寝込んでしまい、寒さによって凍死したと考える方がより妥当だと思われた。
アイスマンは古代の羊飼いだった。
 彼が持っていた未完成の弓やこれらの状況証拠から、5300年前のある日、次のような事態が彼に降り掛かったのではないかと想像される・・・
* その日5000年前に何が起こったのか? *
 その日、彼は弓をつくるために、材料となるイチイの木を捜しに一度山を下り、急いで山の上に引き返した。しかし、山の天候は変わりやすく嵐が急に近づいて来た。あせった彼は、急いで羊の群れに引き返そうとしたが、息が切れてしまい大変疲れてしまった。そこで、彼は大きな二つの岩に挟まれた隙間を見つけて、しばらく嵐をやり過ごそうと考えたのである。しかし、そこには、火を起こすための木は一本も生えていなかった。疲労から、彼は暖を取ることもなくそのまま寝入ってしまうことになる。だが、その眠りは5000年以上たっても目覚めぬものとなった。彼は、不快に感じることなく心地よく死の世界に旅立っていったのである。
 もう一つの仮説は、何らかの争いに巻き込まれ犠牲になったとみられるものだ。最近のX線写真撮影によって、アイスマンの左肩には、長さ約2センチほどのやじりがあるのがわかっている。つまり、矢を受けて損傷を負った痕跡が見られるのである。この傷が治癒したものか、その後の致命傷になったのかはわからぬが、傷を負った彼は、からくもアルプス山中まで逃げ込んみ、追手の目を逃れるために、身を潜めた岩陰で休んでいるうちにそのまま凍死してしまったとも考えられるのである。しかし、いずれにしても、今となっては、5千年前に起きた事件が何であったのか、加害者が誰なのか、その真相が解明されることは永久にあり得ないだろう。
 しかし、その後の彼の体に何が起きたのかは、およそ推測することが出来る。彼の体は、次第に乾燥し、やがて冬の到来とともに雪に埋もれていく。そのうち、彼の体は氷の中に閉じ込められ、さらに氷河がその上に被さっていった。そして、5000年という気の狂いそうな時間だけがひたすら過ぎ去っていったのである。

 こうして、彼が永遠の眠りについてからしばらくすると、文明のあけぼのと呼ばれる四大文明が誕生した。信仰はさまざまな宗教を生み出し、いろいろな民族が大移動を繰り返した。そして、その度に、数えきれない戦争が起こった。無数の文明が果てしなく興亡を繰り返した。やがて、科学技術の時代が到来し、地球上のありとあらゆるところは探険しつくされ、地球以外の惑星にも探査の手は及んでいった。
 現在彼は、インスブルックの完全防備されたマイナス5.5度の人工氷河の部屋で眠っている。彼の見果てぬ夢は今も続いているに違いない・・・
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