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永遠の生ける聖女
〜ロザリア・ロンバルドと聖エビータの奇跡〜
 ルルドの奇蹟や神聖な石、聖痕や復活の話など、祈りや聖書にまつわる不思議な話はあまりにも多い。ある場所に行くと、不治と言われた病は癒され、失明した人は視力を回復し、神経病、心臓病の類などもたちまち完治してしまうという話である。また、夢に出てきた予言や予知によって、人の運命を変えてしまうことだってある。どうしても理由のわからぬ現象、説明の出来ない不思議、言葉にさえならないような光景に出くわした時、私たちはそれを奇跡と呼ぶのであろうか。
* 累々とならぶミイラの世界 *
 まさしくそうした奇跡の一つが、ここイタリアのパレルモにあるカプチン会修道院の地下納骨堂にある。外壁が黄土色に塗られた何の変哲もない建物の地下に降りてゆくと、そこには、広大なカタコンベ(地下墓地)が広がっている。それは、生と死の接点とも言える常闇の世界、もはやこの世の世界とは思えぬ怪奇な世界が延々と広がっているのだ。薄暗い通路の両側には、ものすごい数のミイラの群れが、立ったり横たわったりした恰好で累々と並べられているのである。あまりのおぞましい光景に身がすくんでしまう瞬間である。
 ミイラはいずれも服を身にまとっている。男性は礼服姿、女性は、ロングドレスや華麗なブラウス姿である。中にはハンドバッグを持ち、スカーフを首に巻いているのもいる。いずれも埋葬当時の最高の服装で2百年ほど前のものが多い。
 しかし、当時はトップモードだったそれらの衣装類も、今となっては、逆に不釣り合いでゾッとする効果をさらに高めている。
この2体のミイラは、元夫婦だったのだろうか?
 遺体は、保存状態のいいのもあるが、ほとんどが白骨化してしまっている。中にはボロボロに朽ち果てたミイラもある。
 眼孔は、ポッカリと洞穴のように落ち込み、得体の知れぬ無気味さをかもし出している。それこそ、死の表情とでも言うのだろうか?
生前着ていた服装のまま、横たわるミイラ、服装から当時の職業がわかる。
 ミイラは、大部分が口を大きく開けて、まるで何かを訴えかけているようだ。それは、両手で耳をしっかり閉ざしても暗闇から響いて来る死者たちの声なき叫びなのかもしれない。
 まさに延々と続く異様な光景に全身鳥肌立って来る思いがしてくる。
* 発達した遺体保存の技術 *
 ところで、カタコンベを飾るこのおびただしいまでの死者の群れは、一体、何を意味するのであろうか?
 本来、カトリック教の信仰では、人は死後、煉獄(れんごく)という天国と地獄の中間地点に到達し、そこで自らの罪の浄めに勤しむのだと言われている。つまり、肉体はなくても意識だけはずっと続いているという不完全な状態なのである。そうして死者たちは、最後の審判の時を待つのである。その結果、認められた者は再び体が復活し、天国に行って永遠の安らぎを得ることが出来るのである。そのために、死者が復活する際、蘇るための霊的な身体を損なうことのないような埋葬方法、つまりミイラにするという形が取られるようになったと考えられている。
 つまり本来、墓地とは煉獄で浄罪に励む死者たちが、やがて最後の審判を経て、再び復活を期するための待機場所のような所と言っていいのかもしれない。そのため最初は、遺体の保存上、土葬という形だったが、そのうち、遺体を生前と同じような形で残しておきたいという考えがより強くなっていき、遺体保存のための医学が進歩することにもなったと思われているのだ。
 今日、イタリアでは、こうしたカタコンベと言われる地下墓地が無数にある。まさに、生と死が同居している国なのである。こうした死生観は、人々の日常生活にも深く溶け込んでいる。カプチーノというイタリアで有名なコーヒーが、薄い茶色の服をまとったカプチン会の修道僧を名前の由来にしているというのもそのあらわれだ。
 カプチン会は、遺体保存の技術に習熟している修道僧が多く、そのためにカタコンベも大規模なものが多い。シシリー島のパレルモにあるカプチン会のカタコンベは、それらの中でも最たるもので、実に8千体以上とも言われるミイラが納められているのである。そこでは、地下通路の左右の壁面全部と天井に至るまで、おびただしいミイラでびっしりと覆い尽くされているのである。
* 永遠に眠り続ける幼女 *
 そうした死者の群れの奥に、その少女の遺体がひっそり安置されている。1920年にこの世を去った少女ロザリアのミイラだ。少女の遺体は、ミイラにされて、ガラスの蓋で密封された木わくの中で、眠るかのように、今も永遠の時を刻み続けている。
 この世に生を受けてわずか2年で夭折してしまったロザリア・・・そのかわいいつぶらな瞳は、ちょっと前に優しく閉ざされ、あたかも今眠りについたようだ。
 いつも無邪気に遊んでいた服装のまま、小さな頭の上には愛らしい花飾りが飾られている。それは、天使のような恰好で永遠に眠らせたいという両親の計らいなのかもしれないが・・・
棺の中で眠る生ける少女ロザリアの遺体
 父親だったロンバルド将軍が、最愛の娘の死を深く悲しみ、知り合いの医師に遺体の永久保存を依頼したのだとも言われている。彼女の横にともに安置されていた幼児のミイラは、もう、埋葬時の面影は微塵もなく白骨になってしまっている。彼女、ロザリアだけが、86年の時を隔てて今なお、生前のままの面影を留めているのだ。彼女に防腐処置を施した医師は、何か特殊な方法を用いたのかもしれないが、真相は謎である。なぜならば、医師は、その方法を誰にも話すことなく世を去ってしまい、その謎は永遠に解き明かされることはなくなってしまったからだ。
 彼女、生ける少女ロザリアの遺体は、今もカタコンベ最大の謎として、訪れる人々の心すべてに驚愕の念を抱かせ続けている。
 いつまでも永久に変わらぬ遺体、それは、まさしく、奇跡以外の何ものでもない・・・もしかしたら、神は、この痛いげな少女に、悲しくもはかない運命と引き換えに、永遠の姿を贈ったのであろうか?
 ひっそりとカタコンベの奥で眠る少女の遺体を目にする時、私たちはそうとしか思えない気持ちにさせられてしまうのだ。
* 聖エビータの奇跡 *
 ここにもう一つの奇跡がある。それは、到底、遺体とは思えず、生きているかのように、顔はまるで人形のように透き通るように美しく、ブロンドの髪は、つややかな輝きを帯びている。元、アルゼンチンの独裁者として知られるペロン大統領の、エバ・ペロンこと聖エビータの遺体がそれである。
 彼女は、貧しい農家の娘として生まれ、売れない女優時代にペロン大佐と知り合い結婚した。彼女がエビータとも呼ばれるのは、女優時代に使っていた愛称ゆえだと言われている。やがて、大統領夫人となったエバは、社会援助基金を起こして貧しい人々に救いの手を伸ばし人々の心に強烈な印象を刻み込んだ。
 しかし、彼女の立ち居振る舞いは、庶民から見ると、あまりにも現実離れした光景だった。子供たちに、お菓子やおもちゃを配る彼女の手には、大粒のダイヤモンドの指輪がはめられていたし、貧しい人々に古着を与える彼女の出で立ちは、豪華なミンクのコートをまとって、無数の宝石を身につけているという案配である。
 このような極端な二面性ゆえ、中には成り上がりの淫売女と陰口をたたく者もいたが、多くの人々はうっとりとしてエバをあがめた。
女優時代のエバ
(1919〜1952)
 大衆にとって、エバの贅沢は祝福にも近いものだった。物質的な援助よりも、むしろ大衆はエバの精神性に酔いしれていた。
 エバはこれまでアルゼンチン指導者の誰もが持ち得なかったオーラを全身から発散させていたのだ。こうして、民衆からブロンドの妖精と呼ばれるようになった彼女は、多くの市民に仕事、靴、ミシンや義歯、花嫁の持参金まで与え続けたのである。
 やがて、エバは不治の病に陥った。余命幾ばくもないと知った彼女は、著名な病理学者ペドロ・アラ博士に自らの体を永遠のものとするために依頼した。博士は、レーニンの遺体保存にも関与したと言われるほどの遺体保存の最高権威者でもあった。
 そうして、1952年7月26日、33才の若さでエバは死んだ。博士は、エバが息を引き取ると同時に行動を開始した。全身を巡る血液は、アルコールに入れ替えられ、次いでグリセリンに入れ替えられた。そのために、内臓など、ほとんどが損なわれることなく、スムースに防腐処置が進んでいった。脳は抜かれ代わりにパラフィンが挿入されたが、それ以外は、ほとんど手を加えることもなく、わずかに、耳たぶの裏と左足の一部にメスを入れたぐらいであった。作業の全工程は、約1年間もかかり、博士は、当時の金額としては10万ドルという巨額な報酬を手にしたのであった。
 こうして、彼女の遺体は、絶対に朽ち果てることのない存在、聖女エビータとして生まれ変わった。
 遺体が安置されると、それを見ようとして2百万の人々が棺に押し掛け、押しつぶされて数人の死者が出るほどだった。
 涙を流した人々の行列は、絶えることはなかった。夫ペロンでさえ、エバがこれほど国民に愛されていたとは知らなかったと告白したという。
エバの葬儀の様子、通夜は2週間にわたって続けられ、アルゼンチン中の全国民が喪に服した。
* 聖女エビータの遺体を巡る謎 *
 アルゼンチンの至る所に、エバ記念碑が健立される計画が立ち上がった。しかし、この計画は実現しなかった。一年後に、ペロン政権は転覆し、ペロン大統領は亡命を余儀なくされるからである。ペロンは亡命先のスペインから、妻エバの遺体を送ってくれと依頼した。しかし、次期政権のロナルディ将軍はこれを承諾しなかった。それどころか、逆にエバの遺体を密かにどこかに移転してしまったのである。将軍としてはエバの遺体が民衆の面前でさらされ続けることは、やがては神格化され、ペロン勢力の復活につながり兼ねないことを恐れたからであった。
 その後のエバの遺体の行方については、多くの謎に包まれている。何でも、荷造り用の木箱に密封され、陸軍の情報部の倉庫に保管されていたとか、ブエノスアイレス周辺のアパートや事務所、倉庫を点々としたとか、南米各地に送られたとか言われているが詳細は不明なのである。その間、ペロンが送り込んだスパイが、エバの遺体を求めて、アルゼンチン中のいたるところを血まなこになって捜査したらしいが、一向に手がかりらしきものもつかめなかった。
 このような政治の駆け引きに使われたエバの遺体は、どこをどう巡ったのか、1971年になって、突如、日の目を見ることになった。行方知れずになって以来16年と半年ぶりの出来事であった。エバの遺体は、とある未亡人の名前でミラノの墓地で15年間も、人知れず葬られていたのがその真相のようである。
 1974年にエバの遺体は、スペインからアルゼンチンに移されることになった。数千人の大観衆が、彼女の遺体を一目見ようと殺到し、すすり泣きの声を上げながら彼女の遺体を迎えた。
 死後20年経っても全く生前と変わらぬエバの遺体の前には、山ほどの花束が捧げられ、たちまち棺を覆い尽くしていった。何十万という老人、子供、女性すべてが、白いカーネーションに包まれた彼女の棺の前で体を投げ出しては涙を流して泣いた。
神聖化されたエバの肖像画
 しかし、エバの遺体は、この場におよんでも、安息の場所を見い出せないでいた。国の指導者の意見が一致しなかったために、その後も、恒久の保管場所を巡って、亡き夫ペロンの棺の横に安置されたり、倉庫に保管されたりを繰り返したのである。
 しかし、ついに評議会は、エバの遺体の最終埋葬場所を決定した。そこは、ブエノスアイレス近郊の墓地の地下5メートルの埋葬室だった。
 ついに、彼女の遺体は、そこを永遠の安寿の地とすることになったのである。もはや、誰も手を出せぬように、彼女の安置される墓は銀行の金庫なみに頑丈につくられたという。
 彼女聖エビータは、伝説と神話に包まれ、今もそこでとこしえの眠りについている・・・
聖エビータの安置されているレコレータ墓地

 人は、愛のために自らの命を捧げることもある。また、自らの信念を貫いた愛は、時として、人々の魂を揺り動かすことさえある。それは決して変わることのない真理ゆえに、人々の心に訴えかける何かがあるからであろうか。彼女、エバは科学的な手段で自らの体を不変なものに変えた。しかし、これほど多くの人々の心に賞讃の渦と感動の嵐を巻き起こした事実は奇跡以外の何ものでもない。

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参考文献
「世界不思議物語」 N・ブランデル 岡・野中訳 教養文庫
「エビータ」マティルデ・サンチェス 青木日出夫訳 あすなろ書房
「ワールド・ミステリー・ツアー13」イタリア篇 同朋舎
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