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スパルタクスの反乱
〜ローマ帝国を震撼させた剣闘士の反乱〜
* 血に飢えたローマ人 *
 かつて地中海の雄カルタゴがローマに滅ぼされてから200年が経とうとしていた。地中海は事実上ローマの海と化し、地中海のあらゆる貿易はローマ人によって独り占めされた。ローマ帝国の領土は拡張の一途をつづけ、属州から入って来る税は莫大なものになる。もはや敵対する勢力はこの地上になく、ローマ人はこの先何百年も安定と平和がつづくと信じていた。
 侵略戦争は多くの奴隷を産み出していた。税を払えぬ属州民も奴隷にされ、ローマ国内には奴隷の数はあふれかえり、奴隷ひとりの価値は大きく下落した。そこには人間の尊厳などみじんもなかった。やがて巨大になり過ぎたローマは、賄賂と汚職などの悪癖が慢性化し、ローマ人の心を蝕んでいく。退廃的な雰囲気が支配し、刺激に飢えたローマ人は闘技場をたくさんつくり、そこで奴隷に殺し合いをさせて刹那的な享楽にうつつを抜かし始めるのである。剣をもって戦わされる奴隷はやがて剣闘士と呼ばれるようになる。
 養成所もまた多くつくられた。ここで多くの属州から奴隷が連れて来られ剣闘士にされるべく訓練を受けるのだ。奴隷たちは仲間同士で、あるいは猛獣と戦わされたりして、今日死ぬか明日死ぬか、ただ恐怖と絶望の中でひたすら生かされる毎日であった。悲嘆にくれた剣奴の中には自殺する者が続出した。こうして奴隷たちのローマに対する憎しみは日に日に増して行き、いつ爆発してもおかしくない状態となっていく。
 ここカプアという商業都市で、後世に記録される大反乱の火種が用意されようとしていた。いったん火のついた反乱は、またたくまにイタリア全土に飛び火してローマ帝国の基盤を揺さぶるほど大きな炎となって燃え上がっていくのである。それを可能にならしめたのは鍛え上げられた一級の武術を持ち、器量と指導力をかねそなえた一人の卓越した剣闘士の存在であった。
* 決意 *
 紀元前73年、カプアのとある闘技場。扉が開くと、いつもの剣を握りしめ、お決まりの兜をかぶり、その男は出て行く。
 闘技場でなすべきことは何もない。何も考えずにただ訓練どおりに行動するだけだ。それが剣で生かされている奴隷の運命なのだ。しかしその日の試合は違っていた。
「本日は剣闘士に死刑囚5人が立ち向かいます。剣闘士はおなじみトラキアのスパルタクス!」割れんばかりの民衆の歓声がこだまする。何を言ってるのかわからない。客席ではどちらにいくら掛けるだのと言った話が始まっているのだろう。
 死刑囚たちには勝てれば助命という条件での試合だ。しかし相手が5人と言えども剣のあつかいに習熟していたスパルタクスの敵ではなかった。たちまち4人を斬り捨て、最後の一人は今、仰向けに転がって死を待っている。
 観客の「殺せ!殺せ!」の大合唱が響き渡っている。死刑囚が自分をぼんやり見つめている。死にゆく者特有の眼差しだ。左右にはすでに死んだ4人の遺体が転がっている。あまりのやりきれなさに頭の中で何かが切れた。
「俺は何なのだ?」スパルタクスは客席に向かって剣を投げつけると叫んだ。
「そんなに殺し合いが見たいのか!では、ここに転がっている死体を見るがいい。喜べ!それが望みではなかったか?」
そしてシーンと静まり返った闘技場に背を向けるとゆっくり出て行った。制止する者はいない。
* 敵はローマ正規軍 *
 どうせこのことで懲罰がくるだろうが、知ったこっちゃない。その前にここを出て行ってやる。その夜、スパルタクスは脱走を呼びかけた。
「もうたくさんだ!ローマ人のために殺し合うのはまっぴらだ。俺たちはこれからは自由のために剣を使おう!」
その言葉に賛同して仲間が口にする。
「そうだ。スパルタクス、命あるまでともに戦おう」
「このまま奴隷で終わるのは耐えられない!」
「オレたちはお前にしたがう」
 養成所から武器を奪った彼らは密かに脱走に成功した。その数、百名ほどか。アッピア街道沿いにただひたすら逃げて来た。どれほど走り続けただろう。見るといつの間にか夜もしらみ、のどかな田園風景に変わっている。ここで小休止だ。全員肩で息をしている。暗闇でぜいぜい荒い息づかいが聞こえて来る。小川の水でのどをうるおしながら今後のことを考える。スパルタクスは叫んだ。
「みんなよく聞け!追っ手はまもなく来るだろう。我らは剣闘士、剣の使い方なら引けはとらない。ただ単独では勝ち目はない。これから我々が相手にしなければならないのはローマの正規軍だ。まともにやって勝てる相手ではない。これからは全員で力を合わせるんだ」
 奴隷の一人が言う。「だがスパルタクス。我らはどこへ逃げればいいのだ?」
 スパルタクスは考えた。闇の向こうにうっすらと山のシルエットが見える。ベスビアス山だ。過去に何度か爆発した火山だが今はひっそりとうずくまっている。あの山に逃げ込めば、しばらくの間は追っ手を防ぐことが出来るかもしれない。
 彼はこれまでの経験上、平地での戦いは不利だと知っていた。なにしろ相手は訓練されたローマ兵なのだ。
「いいか!ローマ兵は重装備だ。小回りがきかない。山間部に誘い出して奇襲をかければ我らにも勝算はある。あの山に行こう。武器と食料を持てるだけ持つんだ。そしてできるだけ多くの仲間にもこのことを伝えるんだ。よし、行け!」
 こうしてスパルタクスたちはベスビアス山に立てこもった。スパルタクスの放った伝令から話を聞いた他の奴隷たちも集まってきた。一方、ローマはただちに3千の歩兵部隊を送って来た。しかしどう見てもこの部隊は錬度の低い二線級の部隊である。ローマはただの奴隷の脱走と決めつけ、すぐに鎮圧できるだろうと事態を軽く見ていたのだろう。
 ここでスパルタクスは一計を案じた。深夜、別働隊を組織して反対斜面から密かに山を降り、油断していたローマ軍の寝込みを襲ったのだ。
 勝敗はあっけなくついた。あわを食った敵はまともに戦うことなく降伏した。 まさに赤子の手をひねるがごとし。事態はスパルタクスの計算どおりに動いた。
 後は奪った武器や甲冑などで武装するだけだ。剣奴たちの士気は否応なく高まる。こうして反乱軍の戦力は装備の充実により一段と強力になった。
ルーブル美術館にあるスパルタクスの像。
* 士気あがる反乱軍 *
 しかし問題はこれからだ。ローマは本腰をいれてくるだろう。今回、勝てても次は同じ手は通用しないのだ。今後どう行動するか、彼らに指示しなければならない。事実、全員スパルタクスを頼りにしているのだ。
「アルプスを越えよう!アルプスを越えてトラキアに入る。そして我らはローマと戦っている仲間に合流する」 こうしてスパルタクス率いる反乱軍はアルプスを目指して北上を開始することにした。
 行軍が始まった。食料は行く先々から調達した。手っ取り早く言えば略奪しながら行軍するのである。南イタリアは大貴族の別荘地が多いことでも知られていた。剣闘士時代、壮麗な町並みを見て別世界のように思ったスパルクタスであったが、無人の大邸宅となりこうも寒々しいとむしろ不安に思えてしまう。反乱軍がやって来ると聞いて、都市にいた人々は逃げ出していた。金目のものはおおかた持ち出されていたが、それでも保存食料、衣類、酒樽など大量の収穫物が手に入った。
 しかしここでぐずぐずしてはいられない。ローマ軍が追って来ているのだ。反乱軍はイタリア半島を北上しながら略奪をくりかえしながら移動した。もうその頃には各地の農場から大勢の奴隷が脱走してきて反乱軍は雪だるま式に増えつづけた。ポー河の平原に出た頃には12万人という途方もない人数に膨らんでいたのである。これまで何度かローマ軍が立ちふさがったが、何なくこれを撃破する。それぐらい反乱軍の士気は高かったのだ。
 反乱軍はいよいよアルプス越えの準備を始めた。しかし、これだけ反乱軍の規模が大きくなると食料の調達も思うようにならず、天候も反乱軍には味方しなかった。雪が降り始め、気温はどんどん下がってゆく。脱落者が続出した。
 200年前、ローマに攻め込んだカルタゴの名将ハンニバルも苦戦を強いられたアルプス越えである。しかも悪いときには悪いことは重なるもの。スパルタクスの故郷であるトラキアがルクルスの率いるローマ軍の手に落ちたという知らせが入ったのだ。
ルクルス。ローマの政治家、軍人。主に小アジアに遠征する。豪勢な美食家で知られる。
 こうなればもはやアルプス越えの意味はなさない。帰るべき故郷がなくなった今、アルプス越えを断念するしかない。スパルタクスは再び南にもどる決意をする。
* 狡猾なローマの策略 *

 剣奴たちの反乱が蜂起してから、すでに1年半が過ぎようとしていた。元老院は神出鬼没の剣奴たちの反乱に手を焼いていた。なにしろ二人の執政官の指揮する栄えあるローマ軍がスパルタクスに打ち破られたのだ。執政官と言えば、共和制ローマの最高職であり軍団の最高指揮官である。そしてローマ軍と言えば世界最強のはずではなかったか?
「我らローマの市民は早急に答えを待っておる」「奴隷たちの相次ぐ略奪に帝国内からも我らの無策ぶりを糾弾する動きが出ておる」しかし元老院議員たちにもいい案が浮かばない。反乱軍の首謀者はただの剣奴ではない。トラキア生まれのスパルタクスといい相当な切れ者であると聞く。
 かくして元老院は討伐軍の司令官にクラッススを任命した。授けられた兵力は10個軍団6万の重装備の歩兵部隊である。
 まもなく反乱軍はアペニン山脈を南下中との知らせを受けたクラッススはただちに急行。これを攻撃するが逆に大敗北を喫してしまった。
 反乱軍の手強さに舌をまいたクラッススは、以後手出しは控えた方が賢明だと考え、ポンペイウスとルクルスの率いる精鋭部隊が帰還するのを待つことにした。
クラッスス。ローマの政治家。第1回三頭政治の一人。ポンペイウスとは犬猿の仲であった。
 その頃、ルクルスの部隊は小アジアに、ポンペイウスの部隊はスペインに遠征中であった。
 しかしそれまでの間、クラッススは得意な外交戦術で根回しを行うことを忘れなかった。クレタの海賊を金で手なずけ、反乱軍とミトリダデス大王との間を裂こうと策謀を練ったのだ。ミトリダデス大王は小アジアを拠点とし、ローマに対抗するいかなる勢力にも力を貸す存在であった。またローマに反抗的な南イタリアの都市には、市民権を与える代わりに反乱軍に一切協力しないように手を回した。
 おかげで、どこに行っても協力者を得られない反乱軍は次第に孤立化してゆく。かくしてローマの姑息な手腕がじわじわと実を結びつつあった。
 今や反乱軍の味方はキリキアの海賊だけになった。こうなればキリキアの海賊に、イタリア半島から脱出してシチリアに運んでもらわねばならない。ともかくイタリア本土から脱出することが最優先なのだ。その手はずは整えられやっとの思いでたどり着いてみると、レギウムには一隻の船もなかった。キリキアの海賊にも裏切られて、呆然と海の彼方を見つめるスパルタクスの視線の先には遠くシチリアの島影だけがむなしく映っていた。スパルタクスはこの時ほどローマの卑劣さを心から恨んだことはなかったであろう。
 この間にも、クラッススは奴隷たちを半島に閉じ込めようと包囲網を構築中であった。長さ55キロにわたって深い溝を掘り、その上に城壁と柵を築いたのだ。まもなく北と南からもローマの精鋭部隊が帰って来る。それまで奴隷たちを動けなくしておくのだ。
 そして、ついにスペインから百戦錬磨の精鋭部隊を率いてポンペイウスが帰還してきた。ここにおいて反乱軍とローマ軍の力関係は逆転する。
ポンペイウス。ローマの政治家。第一回三頭政治の一人。カエサルに敗れて暗殺された。
* 命尽きるまで *
 包囲網に閉じ込められた奴隷軍はどこに向かえばよいのか。このとき、小アジアからルクルスの遠征軍がブルンデシウムに上陸したという知らせを受けた。これで反乱軍は背後をも突かれたことになった。北からも南からも敵は迫ってくる。反乱軍は挟み撃ちのかっこうとなった。スパルタクスの鉄の包囲網はギリギリと締めつけられはじめた。まさに前門の虎、後門の狼である。
「いよいよ追い詰められた。我らはどうするべきか?」全員殺気立っている。スパルタクスは自分に言い聞かせた。蜂起して足掛け2年にも及ぼうとしている。自由と引き換えに絶望をも味わった。しかし悔いはなかったはずだ。
「小手先の戦などしない。力の限り戦うだけだ。これまで我らは強固の意思のもとに団結して来た。勇気は我らの合い言葉でもあったはずだ。最後まで奴らに人間の尊厳とは何なのか知らしめてやろう」仲間の口々からスパルタクスを賞賛する声があがる。
「オレたちがこれまでやって来られたのも、スパルタクス。お前のおかげだ」
「帰郷は果たせなかったが、今はもっと大事なことのために戦うだけだ」
 スパルタクスはこう考える。確かに勝算は少ない。どちらのローマ軍と戦うにしても、おそらく我々は敗北濃厚だ。決戦の相手はやはりクラッススがいいだろう。あとは突撃あるのみだ。自分が燃え尽きたと思えるまで戦うだけなのだ。
「馬をひけ!北に向かう」スパルタクスは大きく息をすると短い号令を発した。仲間は全員無言でうなづく。それで十分だった。
 戦いは凄惨をきわめた。彼我の差は明確だった。次第に反乱軍は劣勢になって追いつめられていく。
 スパルタクスは一隊を率いてクラッスス本陣に突進した。こうなれば冥土の土産にクラッススを討ち取るのみだ。
 しかし追従する部下は次々と戦死してゆく。なおも単騎で突進するも槍で突かれて落馬、ついにローマ兵に囲まれてしまった。
スパルタクスの最期。19世紀の絵画から。
 追いつめられたスパルクタスに降伏はあり得なかった。激しく抵抗し、最後は誰の死体か判らないほどにめった斬りにされたのであった。
 スパルタクスが倒れてからは一方的な殺戮になった。今まで苦杯を飲まされていたローマの復讐は残酷だった。6万人が惨殺された。捕虜となった6千人にはもっと過酷な運命が待ち構えていた。カプアからローマに続くアッピア街道沿いに延々200キロにわたって磔にされたのである。彼らの遺体は鳥についばまれ朽ち果てるまでそのままにされたという。そしてこれ以後、大規模な奴隷の反乱は二度と起きることはなかった。
* 生き続けるスパルタクスの魂 *
 一人の偉大な剣奴に率いられた反乱の記録はここまでだ。しかしスパルタクスが起こした衝撃はローマに多くの影響をもたらした。まず、これまでの奴隷への待遇は大幅に改善されることになった。鎖をはずされ、結婚して家族を持てるほどにもなったのだ。財産を持つことも許され、やがて収穫の一部を自分の所有物にできる小作人になっていく。ローマ人に人間の尊厳が何たるかを知らしめようとして戦ったスパルタクスの精神は彼の死後、生かされたのである。またこうした変化は、政治機構にも異変をもたらした。
 この反乱を鎮圧したクラッススとポンペイウスは、カエサルとともに第一回三頭政治を行うことになる。権力者どうしの争いは第二回三頭政治にも受け継がれ、それはすなわち共和制から帝制へと向かう流れとなってゆく。
 がんらい民主的であったはずのローマは大きな流れの中でゆっくりと皇帝独裁の中央集権化へのかじ取りを迫られていくのであった。
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参考文献
「剣闘士スパルタクス」 佐藤賢一 中公文庫

参考資料サイト
スパルクタスの乱 http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a05_roma/spartacus.html
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