サン・ジェルマン伯爵
〜時空を越えた不死の人〜
 華やかなサロンでの舞踏会にその男はあらわれた。パリっとした仕立てのいい衣装を着こなし、身のこなしそのものも大変ダンディだ。髪は茶色で目は知的な感じでクリックリッとよく動く。柔らかな物腰とデリケートさ、すばやい反応は貴夫人たちには大受けだ。あちこちで彼のうわさがされ、そんなとき決まってあらわれる。
「あら、それで伯爵はご覧になられたのですか?」優雅な口調でしゃべっているのはポンパドゥール夫人のようだ。
「ところがですよマダム。そうではなかったのです。あったのは小さな水瓶があるのみ」伯爵はそう言って咳払いをすると喉元を軽く右手で押さえた。
「はい。わたくしが思いますところ、あれは到底、ぶどう酒ではありませぬな。ですから私が賢者の石を使って差し上げたと言うしだいで」
「奇跡というのは伯爵の錬金術?」目をまん丸にした夫人は口を押さえて言う。
「シッ!声が高うございます。マダム。カナの婚宴の話ですよ・・・」
 その男は話の合間に上品そうにグラスを少し口に付ける。天井にはクリスタルガラスのどっしりしたシャンデリアがキラキラ輝いている。
 ロココ調のデザインのテーブルは白のマーブル基調の大理石だ。その上に銀色の豪華そうな食器、器、宝石箱などがならんでいる。
 貴夫人たちの上品そうな笑い声が周囲からもれる。
「それで、大王ですが、ラム酒のラッパ飲み。たいそうな飲みっぷりでございました。あれは、確か・・・キーティとか言ってペルシアの地酒らしいですな。ギリシアの言葉でトールーと呼びます」
「アレクサンダー大王はナイーブなお方でしたの? そう聞いたことがありますけど」夫人は目を輝かせる。
「それがここだけの話。大王様はとても気前のいい方です。ですが酔うとお人が変わります。またおだてにすぐ乗ってこられる。余のことをどう思うかと聞かれましたので、マケドニアの言葉でこう答えました」「ベレニ、アレシオス、ダンボワァー!」
「それ、どういう意味ですの?」
「あなたは偉大なお方だという意味ですよ。マダム」
 バイオリンの奏でる静かな曲がエレガントなムードをかもし出している。向こうにいるのはルイ15世のようだ。その前でひざをついて挨拶している外国大使の姿が見えた。
 向かいの公爵と目が合った伯爵はグラスをかたむけて軽く挨拶をする。
ポンドゥワール夫人(1721〜1764)ルイ15世の公妾。ルイ15世をあやつった影の実力者。
「それで・・・伯爵は東洋にもいかれたとか?」
「はい。マダム、インドに3回ほど参りました。ムガール王朝のアクバル帝にお会いして以来ひさしぶりでございましたな。それと・・・日本という国にも」
「にほん?」きょとんとして夫人が言う。
「それは清国のとなりにある小国のことですか?」
「左様。よくご存知ですな。彼らは農耕民族で大変勤勉です。ただ少し、鎖国のせいか、世界状勢が何たるかを知ってはおらんですな」
「にほんって国王はいませんの?」
「日本は国王ではなく将軍です。マダム。政府に相当する機関にバクフというのがございます」
 18世紀特有のユーモアや品のいい小話が盛り込まれて、貴夫人たちの好奇心をくすぐる会話がつづいてゆく。中肉中背、指には高価な宝石の指輪を4つもはめている。12カ国語を自在にあやつり、化学、錬金術の知識は言うに及ばず、知らないことはないという博識ぶりに会う人会う人が舌を巻いたらしい。いろいろなサロンにひょんとあらわれては人気を独り占めしていた。各国の国王、大臣にも通じており、そのバックアップは大変なものであった。
 たちまち、宮廷の名物男になり、上流階級の夫人たちを中心にすごい人気者になったという。
 ある人は彼のことをミステリアスなダンディーと呼び、ある人は当代きっての錬金術師と言った。その男の名前はサン・ジェルマン伯爵と言う。
サン・ジェルマン伯爵
 しかし、この伯爵、生まれも素性もあやふやで正確に知っている人など誰もいなかった。高貴な生まれと言う人もいれば、ユダヤの私生児で貧民街の出身だという人もいて確証など何もないのである。
 18世紀は神秘的な色合いの濃い時代とも呼ばれ、山師のような人物がたくさんいたが、その中でもサン・ジェルマン伯爵はその最たる人物であった。
 これまで素性のわからぬ伯爵だったが、いつのまにかブルボン家のおかかえ同然にもなり、ベルサイユ宮殿にも自由自在に出入りを許される身分となる。とりわけ、ルイ15世のダイヤモンドのキズを伯爵が消してやったことから、ルイ15世の厚い信頼を受け、今では揺るぎない地位を確立していた。
 住居としてシャンボールの城を提供された伯爵は、そこで召使いとともに移り住み、大貴族のように悠々自適の生活を送っていたらしい。
 そして、城の中に設けられた部屋の一角で錬金術とか訳の分からぬ研究をして過ごすこともあったという。
シャンポール城
 伯爵はルイ15世の宮廷に出入りするようになってポンパドゥール夫人の絶大の支持を得て、宮廷の社交界に頭角をあらわすようになった。ベルサイユ宮殿で催される晩餐会での席上では、伯爵は得意な弁舌で貴族、貴夫人たちを思うがままに煙にまき、彼らの好奇心をいつも独占していた。話題は各国の政治、経済の話から、若返りの秘薬、錬金術の話にまで多方面におよんでいたという。
 彼はことあるごとに、自分は不老長寿の秘薬のおかげで、もう2千年も生きており、聖書の世界に出て来る、シバの女王やソロモン王、バベルの塔をつくったネブカドネザル大王などとも会ったといい、ついこの間のことのように、カエサルやクレオパトラ女王とも謁見してきたなどとしゃべったりする。しかも話の細部までリアルで豊富な知識に裏付けされているものだから、ついつい引き込まれてしまうのである。でも、それが不老不死の秘薬のおかげで、本当に伯爵が何百年も何千年も生き続けているのだとしたら・・・・。
 サロンでの優雅な会話はつづき、宮廷での長い夜はゆっくりふけてゆく。
 ポンドゥワール夫人にお別れの挨拶をした伯爵は鏡の間に移った。
 今日も大勢の外国の賓客でにぎわっている。重々しく美しいシャンデリアがいくつもぶら下がり、見事な大理石の彫刻がところどころに置かれている。絢爛豪華な鏡の回廊である。
ベルサイユ宮殿の鏡の間
「あらまあ、伯爵、サン・・・サン・ジェルマン伯爵ではありませんの?」
 一人の貴夫人が声をかけてきた。
「おお、これは、おひさしうございます。マダム! いつも麗しうございますな」
 伯爵は少しひざまずいて夫人の手をとるとにこやかに挨拶した。
「伯爵のご子息の方でいらっしゃるのでしょう?」
「いいえ、私には息子はございません。あのとき、ベニスでお会いしたサン・ジェルマンでございます。マダム」
「え? でも・・・まさか、この前お会いしたのはずいぶん前だったような・・・」夫人は思い出そうとして急に驚いたような表情になる。
「はい。もうかれこれ、52年も前になります」
「まったく・・・お変わりになりませんのね。伯爵はあのときのまま・・・」
夫人は目を大きくして言う。
「あの秘薬のおかげで私は年をとらないのです。マダムもあのときお分けした秘薬のせいでまったくお変わりにならない。お美しいままです」
そう言って、伯爵はにこやかに微笑んだ。夫人もわかったというようにうなづくとにっこり微笑み返したという。
 かくして18世紀の宮廷サロンを中心にサン・ジェルマン伯爵の話題は持ち切りであったらしい。いったい彼は何ものだろうか? 彼はどこから来たのだろうか? そして彼は本当は何才なのだろうか?
 伯爵については、1710年頃にサロンに見かけるようになってから、ヨーロッパ中の上流階級の間で有名になった。そしてフランス革命の起こる頃にどことなく姿を消した。ただ、伯爵が薔薇十字軍に属していたらしいということはわかっているが、それ以外のことは、まったくと言っていいほどわかっていないのだ。これほど有名人でありながら素性がわからない人物もめずらいいという他ない。
 交通手段と言えば、馬と馬車ぐらいしかなかったこの時代に、伯爵はヨーロッパ中のいろいろな都市にひょっこりあらわれた。パリやベニスのみならず、ウィーンやベルリン、ロンドンなど矢継ぎ早にあらわれるのだ。それはルイ15世のスパイとなって各国の動向をさぐっているのか、あるいは逆にプロシアのフレデリック大王やロシア皇帝にフランスの情勢を報告に行っているのか、もしくはヨーロッパ中の薔薇十字軍の支部に連絡をとりに行っているのかさっぱりわからないのだ。
 ロンドンで暴動を指揮していたと言っては逮捕され、フランスの対立国と無断で和平交渉をすすめていると言っては逮捕される。ところが逮捕されてもいつのまにか無罪放免になって釈放されるのが落ちだった。これは伯爵には何か大きな力をもった後ろ盾が存在すると考えられた。
 フランス革命の直後、伯爵はいずこかに姿を消した。うわさではドイツの錬金術愛好家のもとにかくまわれてそこで死んだともいう人がいた。しかし革命後、恐怖政治がフランス中に吹き荒れていた頃、ギロチンの処刑広場で伯爵を目撃したという人がいるし、ナポレオンがロシアに遠征する頃、伯爵を見たという者がいる。そしてメッテルニヒの主催するウイーン会議上にも伯爵をみたという高官があらわれた。そして伯爵らしきその人物は、いつもさまざまな言語を流暢にしゃべるのだ。少しのなまりもなく。
 フランス革命が起こった直後、伯爵はマリー・アントワネットにも手紙を残している。アントワネットにとって伯爵は一番の甘えられる叔父さんのような親しい存在であった。なにしろ14才でフランスに来てから、20年以上も宮廷に顔を出しては不思議な話を聞かせてくれたのだ。それもアントワネットの母国語でもフランス語でもお手のものだった。
「拝呈 マリー・アントワネット様 もう今はご自分の安全を考えた方がいいでしょう。民衆はもう貴女を愛してはおりません。革命はどんどん過激化してゆくでしょう。その前にお逃げなさい。命のあるうちに。サン・ジェルマン拝」
 しかし、アントワネットはこの手紙にしたがって行動したものの、母国オーストリアへの逃亡に失敗して連れ戻され、翌年、国王ルイ16世とともに断頭台の露と消えてしまうのである。
 姿を消す直前に伯爵が友人に向けて言った言葉があるそうだ。
「これからは時代が変わるよ。もう錬金術は過去のものになり、戦争と革命の時代になるだろう。私は俗事から離れて神知学に専念できるところに行くことにしよう。少し休みたいのでね」
 きっと好奇心旺盛な伯爵のことだから、ポンパドゥール夫人と話した「小国にほん」があれからどういう国に成長したのか知りたいと思ってそろそろどこかにあらわれるような気がしないでもない。
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参考文献
「奇人怪人物語」 黒沼健 河出書房新社
「東西不思議物語」 澁澤龍彦  河出書房新社
「妖人奇人館」 澁澤龍彦  河出書房新社
参考資料サイト
http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hsg/_st_germain.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/サンジェルマン伯爵
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