シンドラーのリスト
 
〜1200名のユダヤ人の命を救ったドイツ人〜
 強制収容所でユダヤ人が大量に殺されていた時代、ナチス党員でもあったドイツ人実業家が、殺されるはずだったユダヤ人を自分の工場に雇い入れ命を救った。戦争中、彼が命を救ったユダヤ人の数は1200人を数えたという。その実話はスピルバーグ監督の映画にもなり感動の名作にもなった。
* ユダヤ人への迫害がはじまる *
 1939年、第二次大戦がはじまり、ドイツがポーランドを占領すると、ポーランド南部にあるクラクフの町にメルセデスに乗って、30代そこそこのドイツ人実業家がさっそうとあらわれた。その実業家は上質のダブルジャケットを着こみ、背が高く、高額紙幣をポケットにしこたま入れていた。
 彼の名はオスカー・シンドラー。戦争を利用してひと儲けしようとしてこの町にやってきたのであった。
 彼は破産した容器会社を安く買い取り、安価な労働力としてユダヤ人を大量に雇い入れることで利益率を最大にまで高めようと考えていた。またユダヤ人の会計士シュターンに工場の経営全般を任せることで、ユダヤ人たちの信頼を得られるとも考えていた。
 シンドラー自身はもっぱら持ち前の社交術を発揮してSSの上層部に取り入り、軍から特別優遇されるように手回しするつもりであった。実際、彼は酒にはめっぽう強く、ユーモアのセンスもあり、パーティなどにあらわれては、女性客を中心に相手の心を引きつける魅力を持っていたのである。
 この頃、ユダヤ人への迫害は次第に激しさを増していった。最初のうち、ユダヤ人たちは迫害はこれ以上ひどくはならないだろうと考えていた。ところが、迫害は日に日に激しさを増していき、当初の楽観的な考えは過去の甘い幻想となった。ごくつまらないことで殴られ、唾を吐きかけられ、石を投げられるのである。店やクルマ、預貯金、貴金属類、家財道具などはすべて没収され、普通客と一緒に列車に乗ることも、道路を歩くことも許されなかった。ときおり、雪かきとか溝ほり、便所掃除などの強制労働に駆り出されては、現場を監督する親衛隊員に意味なく殴られたり、蹴られたりするのである。
 親衛隊によって、アパートの4階から車椅子ごと突き落とされた老人、母親の大切にしている毛皮のコートを放そうとしなかったばかりに腕を折られた少女、スキー道具を渡すのを拒んで頭を撃ち抜かれた少年・・・こうしたユダヤ人迫害のシーンばかりを見ていると、冷酷無情という親衛隊のイメージがあるが、実際は親衛隊員の中でも行き過ぎた暴力行為には批判的な者も少なくはなかった。たとえユダヤ人であっても、無抵抗の人間を殺したり女子供に暴力をふるう行為に対して、やりきれない気持ちでいた隊員も多かったのだ。しかし、自分たちはドイツの偉大な指導者ヒトラーの命令を遂行せねばならないのだという親衛隊員としての自覚と目の前で起こっている現実とのギャップは深刻な問題でもあった。この心の葛藤に耐え切れずに何人もの親衛隊の将校が自殺していたのも事実なのであった。このため、親衛隊の教導要綱はさらにきびしいものに置き換えられた。
「ユダヤ人が目に見える武器を持っていないからと言って油断してはならない。奴らはもっと恐ろしい武器を持っている。ユダヤ人は経済的、政治的な地位を利用して、これまで国を牛耳ってあらゆる悪徳を蔓延させてきた恐ろしい化け物である。ユダヤ人の子供は未来の時限爆弾であり、女は未来の災いをはらむ生き物である。彼らは成長すると悪徳をまきちらすばい菌になる。それゆえ、諸君はユダヤ人を始末することは害虫駆除と同等であるとみなさなくてはならない。つまり効果的にすばやく駆除せねばならないのだ」
 かくして、わずかな良心の呵責に悩まされながらも、狂気はやがてヨーロッパ全土を包んでいく。もはやどこからが正常でどこからが異常なのか、何が正しくて何が間違っているのか、もう誰にもわからなくなっていった。
 やがて、ユダヤ人はこれまでの自分たちの家を捨てて、ユダヤ人専用居住区(ゲットー)に移り住まねばならなくなった。
 ユダヤ人たちは手押し車になけなしの財産をつみこみ、追い立てられるように移動してゆく。
「ユダ公、出ていけ!」ポーランド人のやじ馬がユダヤ人の列にむかって石を投げつける。
 彼らポーランド人のユダヤ人を憎悪する気持ちは占領軍として入ってきたドイツ軍すら驚くほどであった。これまでの安定した生活は消え去り、死と隣り合わせの恐怖と不安ばかりの生活がはじまった。
 1943年、そのゲットーが解体され、ユダヤ人が強制収容所送りにされるようになると、もはやユダヤ人を殺すことは単調な事務的な行為となんら変わることもなくなった。労働に適さない老人、病人、身体障害者は問答無用ですべて殺されるのである。今日もまた、不幸なユダヤ人が家畜を運ぶ貨車にすし詰めにされていずこかへ送られていく。いずこか・・・そこはまぎれもなく死以外には考えられない場所、アウシュビッツであった。
* クラクフの悪夢 *
 このクラクフの町にもゲットーがつくられ、ユダヤ人がそこに押し込められるようになった。ビィスワ川の南岸にある壁に囲まれたわずか240平方メートルの狭い場所に3万5千人のユダヤ人が押し込められるのである。
 こうした最中、クラクフのゲットーにアーモン・ゲートという親衛隊の少尉が所長として派遣されてきた。ゲートの任務はゲットーを解体することで、それが終わった後は、強制収容所の所長として居すわる手はずになっていた。この人物はすばらしい美声の持ち主で、長身、物腰も優雅で、知的な顔立ちであった。が、しかしこの人物はとんでもないサディストであった。女を殴ることが何よりも快感で、また人を殺すことを何とも思っていない男だった。ひどく気まぐれで、ほんのちょっとしたきっかけで人殺しを平気でやってのけるのである。家のテラスから狙撃用のライフルで好き勝手にだれかれ問わず撃ち殺すのを趣味としていたほどだ。手を止めたり休んだりしている者が格好の標的になった。そのため、囚人たちは体を絶え間なく動かしつづけていなければならず、できる限りゲートに目をつけられないようにしなければならなかった。ゲットー内では、この男の気まぐれで残酷な性格をあらわすような出来事が毎日のように起きていた。
 あるとき、親衛隊の宿舎を建てようとしたことがあったが、そのとき現場責任者だった女囚人がゲートに進言したことがあった。彼女は建築技師の資格をもっていた。「所長様、建物はこのままですといずれ倒壊してしまいます。基礎工事が不足していますので、土台をもう一度つくりなおさねばなりません」 「お前は専門家なのか?」
「はい、大学で建築学を学びました」彼女は専門家の自分の意見なら聞いてもらえると考えていた。しかしゲートは彼女の自信たっぷりのしぐさや発言が気に入らなかった。
「おい!曹長、この女を射殺しろ!」ゲートはうすら笑いを浮かべながら言った。曹長はしばらく命令の意味がわからずにじっとしていた。
「おい、この場で射殺するんだ。はやくしろ!」ゲートはイライラしながらくりかえした。彼女は信じられないという表情でゲートを見つめ返し、そばにいた曹長に憐れみの混ざった視線を送った。しかし無駄だった。30秒後、彼女は工事現場の片すみで、仲間の囚人たちの見ている前に乱暴に引き出された。彼女は恨めし気にゲートを見上げたが、次の瞬間、後頭部を銃で撃ち抜かれると、ぴょんと宙に飛び跳ね、もんどりうって死んだ。
 またある朝など、ゲートは自分の住居の玄関を出るなり、虫のいどころが悪かったのか、いきなりその場にいた女を撃ち殺した。女囚人は喉を撃ち抜かれて仰向けにひっくり返った。あたりに鮮血が飛び散り、彼女は二三度けいれんすると息絶えた。またある16歳の少年は、ロシア民謡を口ずさんだということで、処刑されることになった。ロシア民謡を歌う行為は共産主義をあおる行為だとみなされるのである。少年の首にロープが巻かれた。少年は恐ろしさで歯をカタカタ鳴らせながら必死に命乞いした。「所長様、ぼくは共産主義は大嫌いです。ただ知ってたから歌っただけなんです」もうこれ以上御託は聞きたくないとばかり、台が蹴られた。しかしロープが途中から切れた。げぇっと苦しそうな悲鳴をあげて少年は地面に転がった。うっ血して紫色になった顔でなおもゲートのブーツに頭をすりつけて少年は哀願しつづけた。「所長様、所長様、お、お願いです。ころさないで・・・」ゲートは少年を冷やかに見下ろすと、少年の首をブーツで踏みつけ、頭を撃ち抜いた。これらはゲートがいかに残酷な人間であるか十二分に証明している出来事だといえるだろう。
 1943年3月13日、まだ夜が明けきらないうちに、ゲットーの解体がはじまった。まず老人ばかりが集まっている地区に親衛隊員が乱入してゆく。「表へ出ろ!」「グズグズするな!」拡声器ががなりたてる。「きゃぁー!」「ガシャン!」突然、かん高い女の叫び声があがり、何かが壊れる音がする。「パッパッパッ・・・」銃撃の音がして女の声はとだえた。追い立てられた人々は、身にまとうものもろくにない状態で凍るような寒さの中を整列させられた。泣き叫ぶ赤ん坊を黙らせようと射殺しようとする兵士、身体を張って必死に命乞いをする母親、最後は母子もろとも撃ち殺された。ある老婦人は親衛隊員によって片方の足を持って階段から引きずりおろされたが、片方の足が手すりに引っかかってしまった。親衛隊員はかまわず老婦人の足を引っ張ったので、ばきっと足が折れる音がした。
 療養所では、内臓疾患や手術後の重傷患者がいた。医師と看護婦は来るべきときが来たとばかり、青酸カリを水に溶かしたコップを患者たちに飲ませ始めた。「さあ、これを飲めば楽になりますよ」看護婦が涙をこらえて言う。一瞬、老人たちの目が遠くを見るまなざしに変わった。若かりし日の自分の面影が映ったのだろうか。色とりどりの花が咲く中央広場を恋人とぶらついた初夏の昼下がり、公園の池でユダヤ人の娘と一緒に乗ったボートの感触、茂みの中でそっと交わした甘いキスの味、どうして人生の最後になってあれほど美しかったクラクフの町がこれほど悲惨な地獄に変わってしまったのか、最後は問いかけるようなまなざしとなった。そして全員、目から光が消え失せ静かに息をひきとっていった。
 一部の人たちは親衛隊の捜索をのがれてさまざまな場所に身をひそめた。そこは屋根裏だったり、ベッドの下だったり、床下だったり、果ては便所の中だったりした。しかし親衛隊は彼らが出てくるまで辛抱強くじっと待っていた。そして真夜中、出て来たところを一斉に逮捕し射殺したのであった。「バァン!」「パッパッパッ・・・」夜通し夜空に閃光が走り、機関銃やピストルの発射音が聞こえた。こうして夜明けまでに4千人のユダヤ人が殺されていった。結局、ゲットー内に隠れて生き延びた者は一人もいなかった。
* シンドラーの工場 *
 シンドラーはゲットー内のユダヤ人を自分の工場労働者として大量に雇い入れていた。工場ではさまざまな容器、携帯食器、調理用具、水筒、飯ごうなどのドイツ軍兵士のための装備類がつくられていたが、シンドラーお得意の軍の上層部へのコネによって、それらはうまく契約にありつき、収入はうなぎ上りに増えていた
 しかしこの頃から、金儲けにしか関心がなかったシンドラーの心境にいつしか変化が生じてくる。シンドラーは最初はユダヤ人の命を救うという考えはなかった。ユダヤ人ならポーランド人を雇うより安くて済むぐらいにしか考えていなかったのだ。しかし親衛隊の目に余る暴虐非道な行為は同胞として許せないものであった。もともとユダヤ人嫌いではなかったシンドラーの心の中で彼らを救ってやりたいという気持ちが芽生え始めていったのである。
 いつしか、ドイツの実業家がユダヤ人を大量に雇用している。そこに行けば安全だといううわさが広まっていった。人づてでいろいろなユダヤ人がシンドラーの元に家族を雇って欲しいと懇願に来るようになった。実際、シンドラーの工場では、食事も上等で量も多く、一人の犠牲者も出なかった。これはシンドラーが警備兵が一歩でも工場内に踏み込もうものなら、「司令官に電話をかけるぞ」「ここは私の工場だ」などと言ってわめきちらしたからに他ならない。したがってここでは暴力行為は皆無で安穏とした生活が保障されていた。ところが、他の工場ではそうはいかなかった。ファルベンにある合成ゴム工場などでは、鞭打ちや飢え、強制労働などで3万5千人のうち、2万5千人ものユダヤ人労働者が悲惨な死を遂げていたのである。
 しかしユダヤ人をかばっているという噂が広まれば、シンドラー自身にも危険がおよぶ可能性があった。たとえドイツ人であっても国家反逆罪の罪をきせられ、ゲシュタポに逮捕されて強制収容所送りにされるのだ。実際、彼は事情説明のため、親衛隊の本部に連行されたり、留置場に放り込まれたこともある。しかし日頃の賄賂や手土産などが功を奏してからくも釈放されてきた。しかしこの手がいつまで持つかシンドラー自身にも先は読めない。
 身におよぶ危険を感じながらもシンドラーは最後までユダヤ人を助けることをはばからなかった。労働に適さない子供たちが殺される際にもこう言ったそうだ。「この子供たちは兵器の熟練工なんだ。私が何年もかかって仕込んだんですよ」 
「嘘をつくな。この9歳や10歳の子供がどうして熟練工なんだ?」親衛隊の下士官が言う。
「その子供たちは45ミリ砲弾の内側を磨くんだ。ほら、見ろ!この子はこんなに長い指をしている。この小さな手で45ミリしかない砲弾の内側を磨くのだ。お前にこの子の代わりが出来るのか?」シンドラーは泣き叫ぶフィラ・ラートという女の子の手を無造作につかむと親衛隊員に見えるように差し出した。
 砲弾の内側を磨くために子供の手が必要だというのは、根拠も何もないでたらめだったが、彼はときどきこの口実をつかっては子供たちの命を救ったという。
* 命のリスト *
 ドイツの敗戦が濃厚になった1944年秋、シンドラーの工場で働くユダヤ人たちにも危機が迫っていた。この場所にいるかぎり、いずれ戦火に巻き込まれ、証拠隠滅の命令を受けている親衛隊は工場のユダヤ人を根こそぎ殺してしまうことは確実であった。シンドラーは工場をうまれ故郷のチェコのブリンリッツに移転しようと考え始めていた。そこなら、戦火も当分およぶこともない。そして、それまでには戦争が終わるだろうと考えていたのである。このとき、従業員たちもいっしょに連れて行こうと考えた彼は、連れていくユダヤ人のリストの作成を決意する。
 シンドラーはユダヤ人の命を救うためにありとあらゆる手段を使った。ユダヤ人ひとりにつきゲートにかなりの金を支払ったし、監視兵たちにもふんだんに賄賂が手渡された。ギャンブラーだった彼はゲートとたびたびゲームをし、かなりのつけをつくらせた。シンドラーはそれらを棒引きにする代わりに、ユダヤ人の何人かを私に渡してほしいとも言った。
こうして、つくられたリストには、1200名のユダヤ人の名前が刻み込まれていった。それはただのリストではなかった。かけがえのない命のリストでもあったのだ。このリストによって1200人のユダヤ人の命が救われたのだ。
 ブリンリッツの工場では砲弾の外殻がつくられた。戦争の悪化にともない、工場は軍需省の要請によって容器の生産から軍需品の生産に切りかえられたのだ。ところが、工場では何も生産されなかった。つくられた砲弾の規格がことごとくパスしなかったのである。口径もまちまちで鋼鉄も規格内でつくられておらず、テストで破裂してしまったのである。
「まだ稼働して間がないからな。最初のうちはこんなもんだよ」シンドラーはそうこぼしていたが、何度も不合格になるにつれて、こうした言い逃れも通用しなくなっていった。やがては、しびれを切らした役人どもが査察におとずれるのも時間の問題になって来た。わざと欠陥品をつくっていると判断されれば、シンドラーは逮捕され、アウシュビッツ送りにされてしまうだろう。
 結局、ブリンリッツの工場は稼働して以来、生産量はゼロのままだった。つまり働くふりをしていただけであった。チェコ人が経営する会社の砲弾を買い上げて、それを自社の製品だと偽ってまで出荷した。その間、役人への隠匿のための賄賂と工場で働くユダヤ人たちの食費は数百万マルクにもおよんだという。そして彼の会社もついに破産するときが来た。しかし、同時にドイツも力つき連合軍に無条件降伏したのであった。ソ連軍が目前に迫る中、シンドラーは工場で最後の演説した。
「ドイツは降伏した。君たちは自由だ。もう何も恐れることはない。まもなくソ連軍がやってくるだろう。私はナチスの人間としてここを逃げねばならないが、どうか許してほしい」そして、死んでいった数えきれないほど多くの人々の冥福を祈って、全員で3分間の黙祷をささげた後、工場のものをすべて全員で分配するように言い残した。
 別れのとき、工場の1200名のユダヤ人はシンドラーの身の上を案じて、全員の署名入りの手紙を手渡した。
 この手紙があれば例えナチス党員として逮捕されてその罪を問われても、無実の証となるであろう。 
 会計士だったシュターンがシンドラーに一つの指輪を差し出した。
 受け取った指輪には、「一人の人間の命を救う者は全世界を救う」というユダヤの尊い教えが刻まれていた。シンドラーは指輪をじっと見つめながら自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「もっと救ってやりたかった・・・あと5人、いや、せめて、あと一人は救えたはずだ」
「できたはずだ。それなのに私は一体何をしていたんだ・・・」最後の方は涙声になった。
 おそらく彼の脳裏には、これまで何万人もの子供や女性、病人、老人などが無慈悲に殺されていった忌まわしい出来事が回想されていたにちがいない。
「こんなに救えたんです」 「ここにいる1200人はあなたに救われました。あなたは私たちの子孫を救ってくれたんですよ」 「あなたは私たちに命と未来を与えてくれたのです」シュターンが言う。
 周りにいる1200人は感謝の気持ちを込めて静かにたたずんで、じっと二人の会話に耳を傾けていた。そして、最後の握手をする際、多くの人々は泣きながらシンドラーとの別れを惜しんだのであった。
* 永遠の祈りをこめて *
 戦後、シンドラーはイスラエルに招待を受け、最高名誉にあたる「正義の人」の章を受けた。しかし彼の人生は運に見放されていた。結婚には失敗し、あらゆる事業にも手を出したが、ことごとく失敗した。1974年10月、彼はフランクフルトの安アパートの狭い一室で心臓発作を起こして死んだ。遺書により、シンドラーの遺体はエルサレムのカトリック教会の共同墓地に葬られることになった。元ナチス党員でこの地に葬られたのはシンドラーをのぞいていない。彼の墓は苦難の谷と呼ばれるヒノムの谷を見下ろす小高い丘にある。現在も、墓には献花が絶えることはない。その墓碑銘には「1200人のユダヤ人の命がシンドラーに救われた」と記されてある。
 生前、シンドラーはホロコースト記念館前に植樹を行った。その木は今も成長をつづけている。彼の植えた木は一つの戒めを私たちに投げかける。「戦争は人間の欠点ばかりを増幅させる。憎しみの輪は蛮行につながってゆく。それは人間の業に刻まれた深い悲しみの連鎖なのだ。ドイツのような文化水準の高い国でさえこの過ちを犯した。世界中どこの国も決して油断をすることはできない」ホロコーストの悲劇はその真実を私たちに伝えてくれる。
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参考文献 
「シンドラーズ・リスト」 T・キニーリー著  磯野宏 訳  新潮文庫

画像
「schindler'list」米映画1993

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