もし本土決戦が行われていたら?
〜昭和20年8月15日に太平洋戦争が終わっていなければ〜
 もし最終段階で、日本がポツダム宣言を受諾せず、二発の原爆にも屈することなく、戦争継続への道を選んでいたのなら、その後の歴史はどうなっていただろう?
 昭和20年10月の空は抜けるような秋晴れだった。見渡す限りの青い空。まさしく雲ひとつなくすみきった青空がどこまでも果てしなく続いている。遠方にうっすら見えるのは信州の山々だろうか。
 荒れ果てて急こう配になった斜面を、息を切らせながらひとりの少年が登っていた。彼の名は河野康夫、15才だ。ズタズタになったゲートルを巻き、すり切れたズボンをはき、よれよれの服を着て、半分壊れかけた歩兵銃をかつぎ、腰にはひと振りの軍刀を吊っている。服のえりに色あせた黒い桜のマークが見えた。黒い桜・・・それは彼の所属する部隊をあらわしていた。本土決戦のために特別編成された青少年を中心にした部隊。おそらく白虎隊にちなんでつけられたのであろう。その名は黒桜隊だった。
「ちりじりになった部隊は信州の松代に行けと命じられている。そこで僕たちは最後まで戦い抜く。地下の大本営に陛下もいらっしゃるはずだ」少年は歯を食いしばって自分に言い聞かせた。だいぶ上にまで登ったようだ。 目を細めると、遠くに水平線らしきものが見えた。相模湾だろうか?
 そのとき頭上をものすごいプロペラ音とともに真っ黒い影が飛び越していった。 少年は思わず身を伏せた。
青黒く塗られた機体、逆ガル型の翼、カモメのようなシルエット。
 コルセアだ。20ミリ機関砲が両翼から不気味に突き出ている。
 ピンク色をしたパイロットの顔まではっきり見えた。チューインガムでも噛んでいるのだろう。口を動かしながら周囲をゆっくりながめている。
「畜生!なめやがって! 敵の艦載機がこんなところまで飛んで来るなんて!」少年は近くの窪みに身を伏せながら、思わずガタの来た小銃を手にとってかまえた。ボルトを引くが遊底がぎこちない。今度、近くに来たら一発ぶち込んでやりたい!だが、仕損じたらそれまでだ。ここには逃げる場所などどこにもない。
 東京大空襲を皮切りに、日本の大都市のあらかたは瓦礫と化していた。8月になるとソ連軍が怒涛のように満州を南下してきた。戦線はたちまち分断され、関東軍は総崩れになった。二発の原子爆弾は二つの都市を壊滅させ、数えきれないほどの市民が殺された。日本は無条件降伏としてポツダム宣言を受け入れる以外に道がなくなった。そして運命の日、昭和20年8月15日。その日の午後、天皇の玉音放送がなされるはずだった。多くの国民がラジオの前に集まった。ところが時間を過ぎても放送はなく、夕方近くなって臨時ニュースが流れた。
「陛下の玉音放送は重大事故勃発ため取りやめになりました」続いてニュースは未明に起こった事故の内容を伝えはじめた。それによれば、内閣総理大臣鈴木貫太郎大将、ならびに閣僚の多数が原因不明の爆発により不慮の事故死をとげたということであった。
 しかし事実は、徹底抗戦を主張する陸軍の将校によるクーデターが起こり、内閣は鎮圧され、反対派の大部分が殺されたのであった。 かくして日本は連合軍の無条件降伏を拒否し、陸軍の選んだ徹底抗戦の道をひた走りしてゆく。この徹底抗戦こそ、完全なる焦土戦術、一億玉砕とうたわれた本土決戦であった。
 ふと気がつくと、夜空に星がまたたいているのが見えた。コルセアに見つかるまいと、草むらに隠れているうちについ眠ってしまったようだ。腹がグビグビ鳴る。最後の口糧を食べてから丸一日何も食べていないのだ。寒い! 夜の冷え込みがきびしくなって来ている。街道沿いは敵にすべて押さえられている。このまま山づたいに行けるだろうか? 信州まで・・・少年の頭に一抹の不安がよぎる。
 草むらから虫の音が響いて来る。それを聞いていると、これまでのできごとが走馬灯のようによみがえってきた。半年前、19才になる姉は工場に働きに行ったっきり帰らなかった。B29の空襲にあって建物の下敷きになり死んだのだ。遺体はとうとう見つからずじまいだった。その夜、彼はうなだれたまま涙が後から後からあふれ出て来るのを止めようがなかった。
 2か月後、6才になる弟は防空壕で直撃弾を受けて生き埋めになって死んだ。掘り出されたとき、弟は泥だらけで、半ば口を開けたまま眠っているようなあどけない表情のままだった。彼は通夜のあいだじゅう弟のそばで一晩中声を出して泣いた。アメリカ軍が上陸を開始したとき、代々軍人の家系であった母親は軍刀と遺書を彼に残し自刃した。遺書には、足手まといになりたくないということと戦死した父に恥じない生き方をしなさいと書かれてあった。
 そして少年はついにひとりぼっちになった。そのとき彼はもう泣くことをしなかった。涙は不思議に流れてこなかった。しかし心の中で泣いているもう一人の自分を感じていた。
 少年はゆっくり立ち上がった。行かねばならないのだ。こんなところで弱音を吐くわけにはいかない。夜のあいだに平地に降りてどこかで食いものでもさがさねば・・・
 昭和20年10月、アメリカ軍は25万の兵力で九州の大隅半島、薩摩半島、宮崎の海岸に3か所から上陸してきた。さらに10万人の海兵隊が四国の海岸にも上陸した。
 連合軍の考えでは、九州南部に巨大な橋頭堡を構築し、飛行場を確保する。そして本州各地に上陸した部隊を空から支援する。上陸した兵士は合計100万人を越える大部隊で、うち関東方面では、湘南海岸と九十九里浜から上陸した部隊が、皇居を目指して進撃する手はずであった。上陸した各部隊は、日本軍を火炎放射器、戦車などで順次掃討してゆくという計画であった。
 これに対し、大本営は15才から60才までの動ける国民(男女問わず)を根こそぎ動員した。これは日本国内にいる陸海軍の兵士と合わせると3000万人という途方もない数になる。しかし数だけは連合軍に勝っていたが、装備面では格段の差があった。銃は二百人にひとりの割合でしか行きわたらず、ほとんどが竹やりや鎌、弓矢、クワやスキなどの農機具まで使用してゲリラ戦を行うというものであった。女学生も男子と同様に竹やりで突撃するか、爆弾を抱いて敵に体当たりをするように命令されていた。もし敵の戦車が来れば、下にもぐりこんで自爆するのである。
 特攻機は5千機ほど用意されていた。また敵の上陸してきそうな海岸線の洞窟などには体当たり用の爆装したボートや人間魚雷など様々な特攻兵器が巧妙に隠されていた。しかし、そのほとんどは猛烈な艦砲射撃で木っ端みじんに粉砕されてしまった。夜半に出撃してもほとんどが悲惨な結果となる。人間爆弾を積んだ攻撃機は離陸したとたんにレーダーに察知され、すべて母機もろとも撃ち落とされるのだ。とても敵の機動部隊まで近寄ることなどできない。
 やがて米機動部隊は伊勢湾にその姿をあらわした。空母40隻を主力とする大艦隊だ。連合軍はまもなく三重県の海岸部より上陸を開始した。それと呼応するように敦賀湾にソ連軍2個師団が上陸し、さらに関ヶ原には数千の空挺部隊が落下した。彼らがくさびを打ち込むかのように日本列島を中央部で分断しようと考えていたのは明らかであった。敵の艦隊はゆっくり北上をつづけ、淡路の由良砲台、ならびに友ヶ島の砲台などはただの一度の艦砲射撃で沈黙させられてしまった。近畿と中部を守る陸軍部隊、第15、第13方面軍は圧倒的な敵の火力の前に日夜敗走をつづけ、傷だらけになった数個師団が紀伊半島の山中や六甲山などに立てこもるだけの状態であった。
 そして今、連合軍の矢面に立たされて戦っている日本の地上部隊は黒桜隊と言ってほとんどが15か16の少年たちなのであった。
 黒桜隊は、戦闘時には陣地のはるか前方に配置されることが多かった。つまり彼らは、温存しておきたい部隊というわけではなく、犠牲部隊なのであった。敵の進路上に配置され、時間かせぎだけが目的のどうでもいいちゃちな捨て石なのである。しかし、そうした事実を彼らは知ることはなかった。
 月の光だけを頼りに歩きながら、少年は昨日の戦闘を思い出していた。海岸部は敵の砲撃でほとんどが吹っ飛んでしまった。伝令の少年はやられたのか行ったっきり帰って来ない。まもなく敵がやってくるだろう。これから何が起こるのか? 何をどうすればいいのか、自分がどうなるのか、死ぬことになるのか、皆目わからない。思考が麻痺している。
 遠くでゴォンゴォンとうなるような音がした。「キュラキュラキュラ・・・」不気味なキャタピラの音がし、少しづつ地響きが伝わって来る。身体全体ががくがくと揺れだした。「戦車だ! 戦車だ!」うわずった誰かの声がした。口の中がカラカラだ。全身からどっと汗が吹き出して来る。手足の感覚がまるでない。やがてモヤの向こうに黒い固まりが見えた。一つ、二つ、三つ・・・まだ来る。
 タコツボの中には、痩せこけた中学生たちが平べったい対戦車地雷を胸にだいて息をひそめていた。これを敵の戦車が通り過ぎるのを待って下に放り込むのである。ひもを引けば5秒後に爆発する。その間に逃げればいい。そう簡単だ。訓練ではそのはずだった。しかし現実はまったくちがっていた。
 ドゥン!・・・突如、腹の底に応える振動がした。バーン! 彼のうしろですさまじい破裂音がし、赤茶色をした何かが目の前を飛んでいくのが見えた。見るともげた少年の手足であった。ドゥン! バキッ!今度は彼のすぐ近くの木がなぎ倒された。バラバラと小石まじりの土砂が大量に頭上に降りそそいで来る。頭蓋のない少年の遺体が塹壕の中にすべり落ちて来た。
「カタカタカタ・・・」軽機の音がして、タコツボから飛び出そうとしていた中学生がもんどりうってひっくり返った。見ると口から血を吹いてもうピクリとも動かない。
 ゴーッ、シュワァーッ! 火炎放射器から吐き出されるすさまじい炎のシャワーがなめるように大地を横にふり払っていく。
 後には人の形をした黒焦げの死体が無数に転がっており、ぶすぶすと煙がくすぶっている。
 硝煙と肉の焼ける嫌な臭いにムカムカして吐き気が込み上げて来た。周囲はどす黒い煙で何も見えない。腹に響く振動と猛烈な破裂音で頭の中がぐらぐらする。
 死ぬってどういう気持ちなんだろう。一瞬そんな考えが頭の中をよぎった。もはや夢なのか現実なのかわからない。
 気がついたときはひたすら山中を走っていた。どこをどう逃げたのか記憶になかった。彼の陣地内の中学生は火炎放射器と榴弾でみんな死んでしまった。タコツボから飛び出そうとして頭を吹き飛ばされた少年。戦車に押しつぶされてミンチ状になった少年。榴散弾で腹をやられ腸をひきずったまま死んだ少年。全員手足がばらばらになった悲惨な死に方だ。
 だが不思議なことに、片腕を吹っ飛ばされても彼らは悲鳴ひとつあげなかった。ほとんどの中学生は一瞬びっくりしたような目つきになる。自分の片手片足が吹っ飛ばされた傷口をまるでめずらしいものでも見るかのように一瞥する。そして小さく息をもらしてそのままこと切れてしまうのだ。彼らは叫ぼうにも声が出ない様子だった。
「畜生! 赤鬼どもが!」どうしようもない気持ちに思わずうわずった声がついて出る。「負けるわけはない。何のための本土決戦だ? ここで戦うためにこっちからおびきよせたのではなかったのか?」少年は自分に言い聞かせるように口走る。
 だが、これからどこへ行けばいいのか? そのとき彼は、部隊がつぶされた兵は信州に行けという上官の言葉を思い出していた。そこでは陸軍の10個師団が陛下とともに立てこもっているはずなのだ。そうだ、そこで最後のご奉公をせねばならない。
 だいぶ平地に降りたようだ。田畑の向こうにかすかな光が見えた。きっと農家だ。彼は淡い光を目じるしにそっと近寄っていった。
 母屋から離れたところに離れがある。室内には一人の少女がいた。
 部屋の奥にピンクと赤の服がかかっているのが見えた。鏡の前で化粧でもしているのだろうか、そう思ってじっと見ていると、少女は気づいたのか、はっとしたようにふりかえった。
 まだ幼い。年は彼とさほど変わらないだろう。コテコテに白粉を塗り、眉を引き、唇には毒々しくぬっている。
 少女は最初、驚き、次に困ったような表情となり、最後に笑おうとした。しかし、不自然でぎこちない笑いだった。
「食い物をくれ。丸一日なにも食ってないんだ」「あんた、本土決戦の兵隊さん?」少女が咳き込んだように言う。
「そうだ。黒桜隊1077部隊。ぼくの小隊は昨日の戦闘で全滅した。君たちも逃げた方がいい。上陸した敵がここにもやってくるかもしれないから」
 そう言って少年はぎょっとした目つきになった。
 彼女の背後に、銀色の缶や英字の刻まれた木箱が見えたのだ。その箱には、ビスケット、クラッカーなどがきちんと並べられて詰めこまれている。キャンディーの類やチューインガム、煙草まである。少年は一目見て、それが敵の糧食であることがわかった。少年の表情がみるみる恐ろしいものに変わっていくのを見て、少女はうろたえ後ずさりした。
「Cレイション、アメ公の野戦物資じゃないか! これをどこで?」少女は少年の突き刺すような視線に思わず目をそらした。
「貴様、敵の妾だな! 許せん! 恥辱を受けてなぜ死なん? 母は・・・ぼくの母は、上陸の前に自刃したんだぞ! 売国奴め!」
 頭の中で母親の顔が思い出され、思わず涙があふれてきた。自分が何をしようとしているのか自分にも理解できぬまま、手はひとりでに安全装置をはずし、銃の引き金に指を入れていた。
「馬鹿たれ!」怒りにも似た少女の思わぬ罵声に少年はたじろいだ。彼は今、自分の怒りよりもさらに激しくて理解のできない怒りにうろたえていた。そして次の瞬間、肩をふるわせて泣き出した少女にどうしていいかわからなくなった。自刃して死んだ母親のイメージと激しい怒りを全身でぶつけてくる少女のイメージとのギャップに彼の心は引き裂かれ、少年は理解できない壁にぶつかってためらっていた。しかしそうした女の気持ちを15才の少年が理解できるものではなかった。
「キーッ!」そのとき突然、遠くでジープの止まる音がした。ジープから忙しなく降りる音がし、数人が近づいて来る気配がした。
「Who are there ?」米兵の声がする。少年は息をひそめて半越しになって銃をかまえる。見つかったか? 
「ドクン!ドクン!」頭の中で心臓が早鐘のように脈うっている。
「Be careful !」「Hey ! Jap、there !」 畜生、見つかった!
「お逃げ! そこをまっすぐ行くのよ。街道に出られる!」
 少女はそう言ってCレイションを投げてよこした。少年はすばやく口糧を小脇にかかえると闇の中に飛び込んだ。
「長生きしてね!」涙声で叫ぶ少女の悲し気な声がかすかに聞こえてきた。
 懐中電灯の光が暗闇でめまぐるしく交差する中を、木の枝や根っこにつまずきながら少年はやみくもに走った。
「Surrender ! Jap !」 「Hold up !」 
 米兵のわめく声が聞こえる。
「畜生!」少年は振り向きざま銃を撃った。遠くで少女がドッとくずれおちるのが見えた。 「ダッダッ!・・・ダッダッダッ!」閃光が走り、背後から米兵の撃つ自動小銃の音がこだました。
 凄惨な肉弾攻撃は全国のいたるところで行われていた。千葉のある村では、兵隊たちにまじって女子学生たちや農家の人々が竹やりや手りゅう弾で武装して深夜に斬り込みに出かけていった。しかし帰って来た者は誰一人いなかった。
 練馬では迫りくる戦車隊に女子学生たちが挺身隊となって捨て身の自爆攻撃を行なった。
 鉢巻をして爆弾を背負って壕から飛び出した彼女らは、何名かがシャーマン戦車の下に潜り込むことに成功した。二台の敵戦車を擱座させることが出来たが、結局、彼女らも全員が戦死した。
 一方、米兵も多くの女性や子供が次から次へと自殺攻撃して来るのに耐え切れず、精神に異常をきたす者が後を絶たなかった。
 追いつめられた人々は、洞窟や防空壕などに身をひそめた。敵が近づくにつれ、発見されるのを恐れた将校は、泣き叫ぶ赤ん坊の口をふさいで窒息死させることを母親に命じたりした。狂乱した母親が母子もろとも自爆する道を選んだこともあった。
 いたるところで婦女子や老人の遺体が転がっていた。やがて飲まず食わずで隠れていた老若男女の群れが、亡者のように素足でトボトボと歩いて収容所に向かう光景が数えきれないほどくりかえされた。しかし、こうした人々はまだ幸いであった。多くの人々は火炎放射器で火だるまになるか自決の道を選んだのである。
 重傷だ。肩と足に銃弾を受けている。動くことはできない。意識がもうろうとしている。後頭部に重みがありそれが次第に下に移動していくのが感じられる。死とはそうしたものなのか? もし死が永遠の眠りにも近いものであるならば怖くはない。15才と6か月にしては今までよくやってきた方だろう。父も母も姉も弟も死んだ。友だちもみんな死んだ。僕もまもなく死ぬ。やがて日本人は女も子供も一人残らず鬼畜米英と戦って玉砕する。悠久の大義に準じて生きるんだ。
 少年は手りゅう弾のピンをはずすと腹の上に押さえ込んだ。こうすれば苦しまずに死ねる。日ごろから先輩たちが言っていた言葉を思い出したからだ。まもなく熱と閃光が身体を粉々に打ち砕くことだろう。
 満天に輝く星空がぼんやり見える。そのとき、ふと郷里のことが頭をかすめた。国語の授業で先生がよく言ってた言葉があったな。眼鏡をかけた優しそうな先生だった。
「人は何のために生まれ、これから何をしてどう生きるのだろう? 人間は今何ができるかということが一番大切なんだよ 」あのとき、先生の言ったこの言葉の意味がわからなかった。しかし今、なんとなくわかるような気がする。
 もし・・・もし、戦争がなければぼくは絵を描きたかった。のんびりした田園風景を描いて、毎日、牛やにわとりの世話をして、読みたかった本もたくさんある。そう考えた瞬間、心の中に安らぎにも似た気持ちが広がっていくのが感じられた。
「なぜ、人は殺し合いをしなければならないのだろうか?」最後にそんなことがちらっと少年の頭の中を駆けぬけた。しかし次の瞬間、身体は熱と閃光に包まれ、少年の意識はそこで途絶え、虚無の世界に溶け込んでいった・・・。
 闇の中を光の束がふり注いでいる。点滅する光。暖かい感覚。遠くでざわざわと音がする。草を踏みつけて近づいて来る音だ。
急に顔に温かいものが触れた。子供の手だ。
「お父ちゃん、これ拾った・・・」
 そこで目が覚めた。うとうとしてつい寝ってしまったようだ。
息子の康彦が拾ってきたもの。古ぼけたエボナイト製のバッチだ。
それも黒い桜の形をしたバッチ。
「どこで拾ったの?こんな汚いバッチ」
「ポチと遊んでたら拾ったの。向こうに落ちてた」
 彼は、そのとき、記憶の片すみで何かなつかしいものを感じた。
昔、ずっと以前に、何かとてつもない決意をしてひたすらがんばったような・・・
あれは何だったのだろうか? 何かむなしくてやりきれなくて、それでいて、今よりもっと充実感のあったような感覚。
その感覚は本当に体験したことなんだろうか? 何だったのだろう?
 しかし彼の意識は急速に現実のものとなっていった。連休も今日で終わり。
寝そべって見上げる空には、10月の秋晴れが広がっている。
雲ひとつない見事な平成の秋晴れだ。
 きっと、平和という倦怠と退屈に満ちた毎日の連なりがそうしたおかしな感覚を呼び起こしたのだろう。一種の脱出願望なのかもしれないな。
河野康夫はそう思った。

「でも今の平和がほんとうの幸せなんだろうか?」 
息子の手を握りながら、彼の脳裏にそんな考えが一瞬よぎったことも確かだった。
 もし本土決戦が決行されていたのなら、東京は死の荒野と化し、途方もないほどの多くの人命が失われていたことだろう。連合軍にも相当な死者が出ていたはずだ。
 太平洋戦争での死者数は約250万人だと言われる。しかし本土決戦が行われていたら、その十倍以上の犠牲者が出ていたにちがいない。そうなると、今こうして生きていられる人々も、その何割かは生まれては来なかったのである。
 今年で戦後70年になる。私たちは平和というものが、多くの人々の犠牲のもとに成り立っているという認識を強く持たねばならない。そして敵味方にかかわらず、戦争の犠牲になった多くの人々に常に感謝の気持ちを忘れてはならないだろう。
ページトップへ
参考文献 小松左京著「時の顔」早川書房
私が尊敬する小松左京氏の作品「地には平和を」に若干の脚色をさせていただきました。
アクセスカウンター

inserted by FC2 system