真田の抜け穴伝説
 〜狙うは家康ただひとり!〜
* 静寂と闇の中で *
 幸村とその部下たちは、ほとんど真っ暗闇の中、10メートル間隔で一列縦隊のままゆっくりと前進していた。彼らは今、密かに家康の本陣に近づきつつあった。曲がりくねった通路を横に曲がると急斜面になる。確かこのあたりだと幸村は思った。忍びの者からの報告によれば、敵の本陣はこの真上あたり、月江寺ぞいの丘陵地帯に布陣しているはずだ。
 数段の石畳をのぼり、古びた巧妙に隠されたひのきの上蓋をはずせば、妙にかび臭い空気とともにひんやりした冷気が流れこんで来た。ここは寺の空井戸の底になるのだ。敵の気配はないか? 息をひそめて注意深くよじ登っていく。
 出てみると、怒号や馬の鳴き声がひっきりなしに響いており、あたりは騒然としている。
 予定通り、亥の刻にあげた火薬の爆発により、敵は我が方に内通があったと勘違いしているのだ。
 味方の撒いた偽の情報に敵はひっかかり浮足立っている。手薄の状態になっている今がチャンスだ。松の木によじ登って見ると、本陣らしきかがり火が見渡せた。
「殿、あそこに・・・右の方ごらんください」部下の指し示す方角を見やると、地図を前に軍議しているのが見えた。中央の床几にすわっているのが家康本人なのだろうか? もしや影武者ではあるまいかとも思うが、ずんぐりしたシルエット、髷の形から家康本人に間違いあるまい。
「ようし、銃を貸せ!」部下に手渡された銃を取ると幸村は大きく深呼吸した。しくじってはいけないのだ。チャンスは一度限り。
「上様、真田左衛門尉幸村、三度天下進上いたす。南無さん・・・」
 幸村はそうつぶやくと、銃を再び構えなおし、息を止めた。
 照準のためきっと目を見開き、引き金をゆっくり絞ってゆく。照星の遠く向こうには家康らしきシルエットがしっかりとらえられていた。
* 天下の巨城の泣きどころ *
 慶長19年、徳川との交渉が打ち切られ、いよいよ大坂の陣がはじまった。まもなく徳川の大軍が大挙押し寄せて来ることになる。いろいろ談義した末に大坂側は籠城して戦うことを決意した。
 いかに相手が大軍であっても、この大坂城を落とすことは出来ないだろう。そう誰もが考えていたのだ。しかし、天下の巨城と謳われた大坂城にもただ一つと言われる弱点があった。それは、城の南側にあたる二の丸付近の守りが手薄であったということである。
 大坂城は北を淀川、東は大和川、西は大阪湾と三方を水に守られていた。
 当時の海岸線は現在のそれよりも内陸部にあり、九条(大阪市西区)あたりがすでに海岸線であったらしい。
 要するに、大坂城の南側だけが開けており、大軍を動員できるとすればこの場所を除いてなかったのである。
 そして今、迫り来る徳川の大軍は20万を軽く越すと見られていた。おそらく、敵はこの場所に布陣し、巨人の一撃でもって力攻めしてくるであろうと予想された。そこで、大坂城のアキレス腱ともいえるこの場所に、急きょ、補強がされることになり、出城が築かれることになったのである。
 実際、この出城は大坂の陣が始まると、徳川の攻勢を一手に引き受けることになった。この出城は真田丸とも呼ばれ、いびつな半円形をしていたらしい。その規模は東西280メートル、南北200メートルほどで、地上から10メートルほど突き出た状態で土塁が盛られて築かれていた。
 また、真田丸は二の丸と本丸で構成されており、周囲を深さ10メートルはあろう空堀で囲まれ、空堀の外側には柵が三重に張りめぐらされていた。
 弾薬、食料などは外部と通じた地下の坑道によって補給されたと見られており、同時にそこから兵員の移動なども自在にできたと考えられている。
当時の真田丸の予想図
 この真田丸は臨時的につくられた城と思われがちだが、かなりしっかりした構造になっていたようだ。かくして、大阪城の弱点を補強するために築かれた真田丸に、幸村率いる5千名の兵が籠城し、徳川の大軍を待ち受けることになる。
* 張り巡らされた地下坑道 *
 徳川の力攻めに対して、幸村は柔軟的な作戦を立てて対抗しようと考えていた。相手の心理を見抜いて、その裏をかこうというやり方である。こうした戦法はもともと真田の得意としていた戦法でもあった。大坂の陣でもこの考えは随所に生かされている。徳川の大軍相手に幸村は地下からの意表をつく反撃を企てていたのである。
 大坂城周辺にある坑道、俗にいう真田の抜け穴は真田側によって掘られたもので、戦の際は、ほうぼうに伸びた抜け穴を利用して、諜報活動を行ったり、敵の背後にあらわれて破壊工作をしたり、神出鬼没の活躍をしたなどと言われている。
 現在も大坂城の南には数えきれないほど多くの神社があるが、抜け穴はそれらの境内の空井戸や本堂の床下などにことごとくつながっていたというのである。事実、三光神社、産湯稲荷、月江寺、真光寺などの石垣には今も柵つきの穴が現存している。それらはかつて真田丸とつながっていたのであろうか。
 昭和の初期、子供時代、よくこの抜け穴に入って遊んだという人の話も残されているし、戦時中には防空壕を掘ろうとして、ぽっかり巨大な穴にぶつかったという話もある。その横穴は、途方もなく東西に長く続いており、途中に十畳以上はあろうかと思える大広間や石壁で区切られた部屋があったりで、果たしてこの先、どこまで伸びているのか見当もつかなかったという。
 一説には、大坂冬の陣の折り、徳川軍が大坂城を地下から攻め落とすために、金堀り衆などをつかって掘らせた跡だとか言われるがはっきりしたことは分かっていない。
 ただ言えることは、意表を突く意外な戦法を得意とする真田にとって、からくり仕掛けや抜け穴などを使って敵を翻弄することは朝飯前であり、こうした事実が伝説となって語り継がれるようになったのではないかと思われるのである。つまり伝説には、真実の核心が秘められている可能性があるということなのである。
 江戸時代の講談にも、幸村が徳川の本陣まで忍び寄り、背後から家康を狙撃したという話が残されている。
* 真田丸の攻防戦 *
 さて、進撃してきた徳川軍は、案の定、大坂城の平野口に布陣した。真田丸の前方には、前田利常、井伊直孝、松平忠直らの徳川の主力が対峙しており、その後方は、伊達、藤堂などの有力大名が側面や背後を固めているという陣容であった。つまりそうそうたる徳川の精鋭が顔を連ねていたことになる。
 そして、いよいよ行動を開始する時が来た。徳川の考えとしては、真田丸の前方にある笹山という小高い丘を占領し、さらにここから真田丸を銃撃しようと考えていた。というのも真田軍はここに鉄砲隊を置き、連日のように徳川軍に銃撃を加えていたのである。しかし夜陰に乗じて攻め入ったところが、笹山には誰もおらずもぬけの殻だった。気をよくした前田勢はそのまま真田丸に接近することにした。
 そのとき、真田丸後方で大爆発が起こった。この爆発音を徳川側はかねて手はずが決められていた裏切りの合図だと受け取った。前田、松平、井伊といった各諸隊は先駆けに遅れじとばかり、ワーッと鬨の声をあげて殺到し、柵を乗り越え、堀を越えて、塀に取りつこうとしてきた。
「ダーンッ!」そのときを待っていたかのように、真田の鉄砲隊が火を噴いた。塀によじ登ろうとした兵士の一人が足を踏みはずして転げ落ちていく音がした。
「ダーンッ!」つづいてもう一発。別の兵士が首をかきむしる仕草をして落ちていく。「ダーンッ!ダーンッ!」今度は暗闇で何十もの銃火が一斉に吹き上がった。たちまち十数人の兵士が倒れて折り重なる。
 雨あられと降り注ぐ弓矢と銃弾の嵐の前に、徳川の兵士の慌てようは大変なものであった。あわてて向きを変えようとして突入してきたばかりの兵とぶつかる者、味方の死体につまずき、もんどりうってひっくり返る者、同士討ちをする者がいたりで徳川軍は大混乱におちいった。
 身動きが取れず、逆に退くことも出来なくなった徳川軍は、その後、ひたすら真田の鉄砲隊に狙い撃ちにされた。家康は退去命令を三度も出したが、パニック状態におちいった徳川軍はそれどころではなかった。
 結局、この日の戦闘だけで、徳川軍は死傷者1万5千という大損害を出した。家康は各武将を召集し、今後は銃弾よけの盾や竹束なしには行動してはならぬと厳令したという。
 それにしても、ことごとく裏をかくような戦いぶり、心理を見透かしたような戦法をとる敵の攻撃に、家康はくちびるを噛みしめる思いであった。
「出城で指揮をとっている敵将は誰か?」家康は今一度、念を押すようにたずねた。
「真田でございますが」「どちらだ?昌幸か、せがれか?」「左衛門佐でございます」それを聞いた家康は一瞬、ほっとしたような表情になった。しかし次の瞬間、ふたたび困惑したような表情に変わった。というのも、そのわずか数時間ほど前に、何者かによって銃撃を受け、家康は九死に一生を得て神経過敏になっていたからだ。
 それは近侍の者に命令を伝えようとした一瞬の出来事であった。遠くで銃声がして、ほんの目の前を一発の銃弾がものすごい音を立ててかすめていったのである。左の耳に少し難のあった家康は話をする際、顔を左に傾ける癖があった。そしてこのことが彼の命を救うことになったのである。まさに間一髪であった。
 どこから狙撃されたのか? 本陣の中に敵が忍び込んでいたのか? わしを狙撃したのは誰だ?  真田か? だとしたら、昌幸のせがれ幸村だったのだろうか? 疑心暗疑におちいった家康が心穏やかでいられるはずがなかった。かくして家康は神出鬼没でどこからともなく突如あらわれる真田の影に常におびえるようになる。
* 真田を大の苦手とする徳川 *
 徳川の真田に対する苦手意識は相当なものであった。とりわけ昌幸にいたっては、徳川は二度も辛酸をなめさせられている。
 1600年の第二次上田攻めでも、昌幸はわずか4千ほどの兵で4万近い秀忠の大軍を相手に、さまざまな陽動戦術で翻弄し、大損害を与えている。
 その方法も出来る限り、時間を引き延ばし、相手を怒らせて冷静さを失わせ、その足元をすくうというやり方である。相手からすれば、非常に狡猾で腹立たしい戦法である。
 9月3日に着陣し、簡単に落とせると考えた秀忠はまず降伏勧告を行った。すると、城を出て降参するからしばらく待ってほしいと願い出てきた。気をよくした秀忠は機嫌よく承知するが、待てども待てども、降参する気配がない。苛立った秀忠は使いを送った。すると意外な答えが返ってきた。「よく考えて降伏はやめることにした。おかげで、この間に戦の準備も整った。かたじけない」
 22歳の秀忠は完全に頭に血がのぼってしまった。「おのれ!よくも虚仮(こけ)にしおって!かくなるうえはひねりつぶして見せようぞ!」冷静さを失った秀忠は力攻めで押しつぶしてやるとばかり、出城の一つを攻撃してきた。
 しかし、攻撃しようとしてやってくると城はもぬけの殻であった。拍子抜けしてしまったが、敵は戦意のないものと受け取った秀忠は、そのまま本城を攻めることにした。ところが、このとき背後に伏兵が回り込んでいることを知らなかった。
 つまり出城をあっさり放棄した理由は伏兵をしのばせることにあったのである。若い秀忠はそこまで読むことは出来なかったのである。
 伏兵によって背後からいきなり奇襲を受けた秀忠の大軍は、パニック状態になった。しかも同時に城からも撃ち掛けて来る。とりあえず態勢を立て直そうと撤退しようとしたそのとき、上流に潜んでいた別動隊が堤防を切った。せきを切ったように怒涛のような河水がどっとばかり押し寄せてきた。兵士たちは、武器を放り出し、ほうほうの体で逃げ出すのがやっとで、多くの兵が溺れ、あるいは討ち取られてしまったという。
 結局、上田城攻略に手間取った秀忠は、関ヶ原の決戦に参加できなかった。関ヶ原に到着したのは、決戦が終わって2日も経ってからで、小早川などの裏切りがあったから勝てたものの、もし三成の指示通り各武将が動いていれば、東軍は間違いなく負けていたところであった。かくして秀忠は家康から大目玉を食らい、会うことも許されず、完全に面目を失ってしまうことになったという。
* 知略と策謀に富んだ真田戦法 *
 従来、真田は知略に富んだ戦法をつかって相手を惑わすことが得意であった。また信濃の小大名でもあった真田家にとって、周囲を上杉、武田、北条と強力な大名に囲まれた環境下で生き延びるには、少ない手勢でいかに大きな敵と互角に渡り合えるか、また狡猾と言われようが、抜け目のないしたたかな外交戦術に頼るしかなかったのである。
 それにくわえて、忍者などを使って独特な諜報活動にも力を入れていたらしい。よく幸村が真田十勇士といわれる家臣たちを手足のごとくあやつったという話があるが、変幻自在に敵を惑わすことに長けていた幸村に、尾ひれがついたりして、こうした伝説が出来上がっていったのかもしれない。
 また幸村は奇想天外な兵法を練ったり、新しい武器の開発にも惜しげなく時間をさいた。九度山にあった真田の屋敷は、そこら中に仕掛けのある不思議な屋敷だったようで、二重の部屋や武器を保管した隠し部屋があったり、とんでもないところに秘密の通路があったりしたという。また非常の際は掛け軸の裏から秘密の通路を通り、すばやく戸外に脱出できたということである。
* 家康を震撼させた武将 *
 夏の陣がはじまると、幸村は宿許筒(しゅくしゃづつ)という最新ハイテク兵器をたずさえ、馬上から家康を狙撃しようとしたという。この銃は従来の鉄砲の半分ほどの銃身しかないが、その分、軽量小型で弾倉を付けることで、8発の弾丸を10秒おきに発射できたという。
 まだ一度の射撃に一発しか撃てなかった時代に、幸村は連射が可能なセミオートマティック式の短銃をたずさえ、家康一人に標準をさだめて乾坤一擲の大勝負に出たのである。
馬上宿許筒、当時としては画期的な銃で、火縄の付け根部分に回転シリンダーを設けることで、連射が出来るようになっていた。
 しかし残念ながら、家康の面前に迫りながら、狙撃しようとしたまさにその瞬間、馬が動揺したため、宿許筒を落としてしまったというのだ。
 しかしその後も、幸村とその部下3千名は、家康の本陣に三度突撃を敢行したという。それは嵐のような突撃であった。死を覚悟したような凄まじい真田軍の突撃の前に、家康の本陣は蹂躙され、旗本たちは驚き慌て、旗やのぼりを投げ出して10キロも後方にまで逃げ出したという。
 このとき家康は自決を覚悟したらしいが、部下にいさめられてかろうじて逃げおおせることが出来たと言われている。この夏の陣で壮絶な突撃をした真田幸村は、敵からも日本一の将として絶賛されることになった。
 もし、歴史に 「if」という考え方が許されるならば、あのとき幸村が見事家康の狙撃に成功していたならば、その後の日本史はどのように変わっていただろうか? こうした疑問はいつも私の頭をよぎって止むことはない。
* 幸村は庶民が求める英雄像 *
「花のような秀頼様を ♪ 鬼のような真田が連れて ♪ 退きものいたよ加護島へ ♪」大坂の陣が終わり、豊臣家が滅亡した後も、長らく、京や大坂の庶民でこんな歌がはやったという。
 また、島原の乱が勃発した折は、天草四郎は秀頼の嫡男に違いないなどと言われたりした。秀頼や幸村の死を信じたくない庶民は、その後もことあるごとにいろいろと噂し、いつしか噂はこうした伝説に形を変えていったのだという。
「英雄永久に死なず・・・栄華ともに滅びることなし」 庶民の幸村への夢と願いは現代の私たちの心の中に引き継がれ、今も生き続けているのである。
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参考文献・・・「大坂の陣」二木謙一 中公新書
「猫の首」小松左京 集英社文庫
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