ヒトラー最期の日
〜謎に包まれたヒトラー最後の一週間の真実〜
* 国会議事堂上空で *
 1945年4月のある日の早朝、ほとんど瓦礫と化したベルリンのはるか上空を一機の戦闘機が飛行していた。その飛行機は、グライダーのような奇妙な形をしており、従来の航空機のシルエットとはかなり異なるものであった。だが、この戦闘機こそ、高高度における世界最高性能を誇こる新型機で、これに匹敵する戦闘機は、まだ世界中のどこにも存在してはいなかった。しかしこの最新鋭機を大量生産する力は、ドイツにはもう残されていなかった。
 ドイツ空軍きってのエースであったラインダース大尉は、この限られた戦闘機を操縦出来るパイロットの一人だった。彼は先週、ベルリンの地下司令室で、ヒトラーからダイヤモンドの入った特別の鉄十字章を授与されるという栄冠に預かっていた。大尉は断末魔にあえぐドイツを見守るかのように高度1万メートルを哨戒飛行中であった。
 その時、はるか下の高度を一機のランカスター爆撃機が飛行しているのを発見した大尉は、反射的に右手で30ミリの機関砲の安全装置を跳ね上げるように解除した。
 同時に、左手でスロットルを全開にすると急降下に移っていった。
 大尉は、グングン迫ってくる敵の爆撃機のコクピットに照準を合わせると満を持して機関砲の発射ボタンを押した。
 ガン!ガン!ガン!ガン!・・・
ものすごい音がして反動で機体が激しく上下に振動した。炸裂弾とえい光弾が、クジラのような爆撃機の胴体に吸い込まれて行く。
 たちまちコクピットが粉砕され、爆撃機の翼の付け根あたりから白煙が噴出したことを確認した。しかし大尉は、撃墜を確認することなく、すかさず急降下を開始した。
 護衛のスピットファイアが追尾している気配を感じたからだ。垂直に近い角度で急降下を続けながら、大尉は、その時、はるか下方で燃え盛る国会議事堂を見たような気がした。
* 迫り来る戦線 *
 ドイツの命は、今まさに燃え尽きようとしていた。ポーランド侵攻以来、戦い続けて来たドイツ軍は、全軍に壊滅的被害を被っていた。45年の春からは、まさに総崩れと言ってもいい崩壊ぶりだった。
 ポーランド侵攻以来輝かしい戦歴は、はるか昔のように感じられた。
 初戦のわずか一年で、ヒトラーの軍隊は、チェコ、ポーランド、ノルウエー、デンマーク、オランダ、フランスを次々と席巻していった。
 唯一つ残ったイギリスも海上封鎖と空襲で降伏一歩手前まで追い込まれていた。
 数千の戦車と数百万の軍隊を動員し、史上最大規模で行われたバルバロッサ作戦は、当初破竹の勢いで進撃し、ソ連の息の根を止めたと思われたが、ソ連を壊滅させるにまでいたらなかった。
モスクワ目指してドイツ軍は快進撃した。(1941年6月)
 やがて、冬の到来とともにモスクワを目前にしながら膠着状態に陥ってしまう。
 冬の装備を用意していなかったドイツ軍は、ロシアの猛烈な冬将軍の前に甚大な被害を被っていた。
 零下30度という厳しさでは、戦車や銃を始め、あらゆるものが凍りつくのである。兵士の大部分は凍傷にかかってしまった。ドイツ国内では、急きょ、冬用の衣料がかき集められたが、もはや手後れだった。
 その間に、ソ連はウラル山脈彼方の安全地帯に工場群を疎開させてしまった。やがて、そこから繰り出される圧倒的な数の戦車の前にドイツは撤退を余儀なくされ出した。
対戦車壕を掘るモスクワ市民
(1941年11月)
 スターリングラードでも、クルスクでも圧倒的な物量のソ連軍の前に敗北し、その後は守勢一方に立たされてしまった。ドイツに出来ることは、傷つき弱体化した寄せ集めの部隊をいかに温存し、敵の進撃を鈍らせるかだけとなった。
 すべての命運を賭けて行われたアルデンヌの戦いも、結局は多数の死者と大損害を出して失敗に終わった。3月に行われた春の目覚め作戦も怒濤のように押し寄せるソ連軍を食い止めることは出来なかった。同時期、レマゲン鉄橋を渡って来たアメリカ軍は、ついにドイツ国内に侵入した。
 こうしてドイツは、東、西、南の三方から連合軍に包囲されてしまい、本土決戦の様相を呈して来た。人的資源は尽きかけ、子供や老人までが徴用されていた。彼らはろくな訓練も受けずに、またまともな兵器も持たされずに前線に駆り出された。
* 遅すぎた新兵器の登場 *
 しかし皮肉なことに、アルベルト・シュぺーアが軍需相に着任してからは、ドイツの兵器産業は息を吹き返しつつあった。ドイツは絶えまない爆撃を受けながらも、逆に航空機や戦車の生産量は急ピッチで上昇カーブを描いていたのである。特に1944年の夏には、戦車や航空機の月間生産量は過去最高を記録するほどであった。
 しかし、いくら兵器を生産出来ても、それを動かすための動力、つまり石油が枯渇してきた。
 ベテランのパイロットはあらかた戦死してしまい、訓練もままならぬ新米が大部分を占めるようになっていた。
 せっかく、つくられた新兵器ロケット戦闘機は、乗員も燃料もなくその爆発的な性能を発揮するチャンスもなく林の中に隠されている始末だった。
コメート(彗星)と名づけられたこのロケット戦闘機は、始めて時速1000キロの壁を越えた驚異的な秘密兵器だった。
 また、ヒトラーの誤った判断により、戦局を逆に不利にしてしまったことも少なくなかった。連合軍がノルマンディーに上陸して来た時など、ヒトラーは睡眠薬を飲んで就眠中だった。誰もヒトラーの怒りを買いたくなかったので起こさなかったのである。そのために、ノルマンディーから連合軍を追い落とせたかもしれない貴重な24時間がふいになってしまったのだ。
 制空権を奪取出来ると思われた有力な切り札だったジェット戦闘機は、彼の無理な注文により実戦に参加するのが数カ月も遅れてしまった。
 もし、これらの秘密兵器がすぐに実戦配備されていれば、ヨーロッパ全土は再び、ヒトラーの足下に平伏すことになっていたかもしれない。
メッサーシュミットMe262、あらゆる点で連合軍の戦闘機を凌駕していた。

 今思えば、全く取り返しのつかないことをしてしまったが、今さらいくら後悔してどうにもなることではなかった。その間にも、日に日に戦線はベルリン目指して容赦なく迫って来る・・・

 

* 凄惨なベルリン市内 *
 1945年4月20日、この日はヒトラーの56回目の誕生日だった。ソ連軍の先鋒がついにベルリン郊外に姿を見せたのもこの日だった。夕食時に陽気で調子のいい冗談が飛び交っていたのははるか昔のことのようである。つい、3か月前まではこんなジョークが交わされていたのに。
「地下鉄に乗って東の前線から西の前線まで簡単に往復できるようになったんだから考えようによっては便利になったものだよ。兵站の心配がいらないからな。空爆にしても古い建物を壊す手間が省けるというものだ」 思えば、その時のヒトラーはこうした冗談を飛ばす余裕があった。ヒトラーは勝利に対する自信をまだ持っていたのである。
 ところが今はどうだろう? 東の戦線からは、ソ連軍の手に落ち、男たちや子供が殺され、女性がレイプされたという凄惨な報告ばかりが持たらされるようになった。一方、西の戦線は押し寄せる米英軍の前に各都市は次々と降伏し白旗一色となっていく。軍団は逃亡する兵隊で機能が麻痺状態になってゆく。見せしめに逃亡兵の一人を処刑したぐらいでは無駄なのだ。部隊全部がこつ然と消えてしまうのだから。
 ヒトラーはいつもラジオをかけっ放しにしていた。流れて来るのは敵機の来襲に関するろくでもないニュースばかりである。ラジオを聞きながら彼はいつもこうがなりたてていた。
「あの文化も持たない野獣どもめが! ヨーロッパに侵入するなどとはもってのほかだ。余は最後の砦となるであろう。いずれ、世界はこの戦いの真の意味がわかるはずだ。まもなく、あの畜生どもを一人残らずベルリンから蹴散らす時が来るのだ!」
 そう言う時のヒトラーの表情は、憎悪と怒りの炎にギラギラと燃えたぎっていた。そのうち、左手は常に痙攣したように震え、絶えずイライラし、いつでもどこでも癇癪を起こすようになった。撤退をヒトラーは許可しなかった。命令を守らぬ将校は、ただちに処刑せよという命令が前線に出された。狂気が前線を支配するようになった。やがて瓦礫と死体に混じって、絞首刑にされた将校の遺体がプラカードとともにぶら下がっている光景が普通となっていた。
* 押し寄せるソ連軍 *
 市街戦は、街の奥深くにまで広がり苛烈を極めていた。ベルリンには住民の数は、だいぶ減ったとは言え、まだ175万人も残っていた。
 その大部分が女、老人、子供であった。市街戦は、市民が密集している真っただ中で行われていた。
 瓦礫に混じって、バケツや壷を持った女性がたくさん死んでいたが、彼女らは水を求めて地下室から出てきたところを殺されたのであろう。
連合軍の爆撃で廃虚になったベルリン市内
 毎日、ソ連軍の戦車が街路を一つずつ占拠してゆく。ヒトラー・ユーゲントの少年たちが橋やビルの一角を死守するように命令されていたが、重戦車から撃ち出される巨砲の威力はすさまじく、すべてが木っ端微塵に粉砕されていった。
 もうもうと上がる塵と白煙の瓦礫からは、もはや少年たちの体の一片すら見当たらない。時おり、地雷や対戦車砲でソ連軍の何台かの戦車が燃え上ることもあったが、もはやその程度では何の意味もなさなかった。後から後から、それこそ何百台という戦車の大軍が無限に続いていたからである。
ソ連軍の重戦車に対して、捨て身の攻撃を行う少年兵と古参兵
* 迷路のような地下防空壕 *
 その頃、ヒトラーは、総統官邸の庭園の地下に建設された防空壕にいた。この地下壕は、最初、空襲の一時の避難場所として建設されたが、その後、拡張され、今やヒトラーと幕僚たちの居間になっていた。この11メートルあまりの分厚いコンクリートで覆われた巨大な地下施設は、まるで蟻の巣のようにはり巡らされた地下都市のようでもあった。まさか、庭園の地下にこのような大規模な防空壕があるとは思えず、地上には1メートル足らずのコンクリートの台盤が露出しているだけだ。
 地下に続く階段を降りていくと、左右に隊員の寝泊まりする室がたくさんある広い廊下に出る。 
さらに階段で地下に降りていくと、今度は、医務室やスタッフの寝室、通風装置の機械室、電話室などがあるもっと広い廊下に出る。
 廊下の節目には、重い鉄の扉があったが普段は開いていた。この廊下をくぐり抜け、さらに地下深く降りていくと、ヒトラーの執務室に通じる廊下に出くわす。
総統官邸の地下壕の出入口
 その廊下には赤いライナーが敷かれており、左右の壁面には高価な絵画が飾られていた。この廊下の果てがヒトラーの生活空間なのである。
 彼の執務室は、小じんまりした殺風景な部屋で机と青と白の模様の入ったソファがあるだけで家具は見当たらない。ラジオがポツンと置かれているだけである。
地下壕の地表の様子(1946)
 右のドアを開けると、彼の寝室で、その隣は作戦会議室となっていた。エバ・ブラウンの部屋とは、浴室の通路の向こうでつながっていた。こうしたややこしい構造は、ちょっとやそっとでは、とうてい覚えることなど出来るはずもなかった。まさに複雑怪奇に入り組む地下の大迷宮のようであった。
* もうそこまでソ連軍が! *
 4月22日、その日は地下壕の会議室は、朝からずっと閉まったままだった。何か重要な会議が行われているのか、時たま感情的になったかん高い声が高くなったり低くなったりして聞こえて来る。ヒトラーが何かがなりたたてているのだ。

 その間にも、ソ連軍の撃つ大砲のゴロゴロする音、キューンという蚊みたいな音がひっきりなしににこだまする。遠くに爆発する音や建物が崩れる音がそれに混じる。時おり、ズダーンというものすごい音がして地下壕全体が揺れ、天井から塵やペンキの粉が降って来る。外がどういう状態になっているのか知るよしもない。隣の小会議室にはマットが敷かれ、そこで着の身着のままで秘書やエバが仮眠している。

 わずか数日前には、地上の総統官邸の庭園内を歩く事も出来た。その時、ヒトラーの愛犬ブロンディは、新鮮な空気と日光にありついて、嬉しそうに芝生の上を駆け巡っていた。
 エバ・ブラウンは大きく深呼吸して煙草をふかしてたのが印象的だった。しかし、今やそれもできなくなった。いつ砲弾が降って来るかわからないからだ。 
 その時、チラッと見た光景は、美しかった芝生はどこもかしこも穴だらけで折れた枝やら石が散乱していた。白くモヤがかかった彼方に、塹壕と守備隊の対戦車砲の一部が見えたが、あんなもので守りきれるのだろうかというのが正直な感想だった。
愛犬ブロンディと戯れるヒトラー、隣はエバ・ブラウン(山荘にて)
 だしぬけに会議室の鉄製のドアが開いた。ヒトラーのがなりたてる声がはっきり聞こえて来た。中には将校たちがいて、全員真っ青で石膏のようにコチコチの表情をしている。

「もう終わりだ! 国家社会主義は壊滅した。ドイツは敗北したのだ。ドイツ民族は、私の要求に応じるだけの力もなければ成熟してもいなかったのだ」

 まもなく重要書類が箱に詰められては焼却処分されはじめた。もう夜も昼もなかった。くたびれ疲れ果てた伝令が、たまにやって来ては、ろくでもない報告を持たらすぐらいである。女性がソ連軍の戦車の弾受けに使われているという報告を受けても、無関心になったヒトラーにとってはどうでもいいことだった。すでにうつろになった瞳は、もう何も見ていない。ヒトラーはもはや死だけが唯一の逃げ道だと考えているようにも見えた。
* 死へのあこがれ *
 砂を噛むような何とも殺伐とした夕食時には、やりきれない心の虚しさだけが充満していた。誰も顔を上げずにしゃべろうとしない。いかにすれば楽に死ねるかという話題の時だけ話に花が咲くのである。
 最も楽で確実なのは口の中を銃で撃つことだとヒトラーが口にすると横にいたエバが言う。
「そんなの嫌だわ。私はきれいな死体になりたいのよ」と困ったような表情で口にするのであった。
 彼女はポケットから真鍮の小さなカプセルを取り出して言った。
「青酸カリって苦しいのかしら? 私、長く苦しむのは嫌だわ」
「大丈夫だよ。この毒薬は全く苦痛を伴わない。数秒の内に死に至るはずだ。何にも感じないよ」 ヒトラーが言う。
 まもなく、ゲッペルスの妻と6人の子供が宣伝省の防空壕から移って来た。急きょ、貯蔵品で一杯詰まった部屋が一つ空けられることになった。
エバ・ブラウン、死の直前、ヒトラーと結婚式を挙げた。
 幼い5人の女の子と一人の男の子は、おもちゃをたくさん抱えてやって来た。
 彼らはヒトラーおじさんの元に連れていかれて無邪気にはしゃいでいる。子供たちは、これから降りかかる運命をまだ知らない。わずか一週間後には、青酸カリを注射されて殺されるということを。
 4月26日、外の騒音は一段と激しさを加えていた。エバ・ブラウンや側近たちは、例えヒトラーがそばにいようがいまいが煙草を吸いまくっていた。禁酒、禁煙をモットーとするヒトラーも、もはやもうもうと籠る煙草の煙りに何の関心も払わなくなっている。
ゲッペルスとその家族、彼らはヒトラーの後を追って自殺した。
* あいつぐ側近たちの裏切り *
 ヒトラーは、のろのろと立ち上がると足を引きずって部屋から部屋にさまよい歩くことを繰り返していた。彼が一体何を考えているのか誰にもわからなかった。一方、エバ・ブラウンは、自分の部屋で遺書を書いていた。彼女は、一見、ゆったりとした落ち着きを見せていたが、その目にはあらゆる苦悩が露にされていた。
 4月28日、ヒトラーに最後の一撃とも言えるニュースが持たらされた。忠義者の一人ヒムラーが彼を裏切り、独自に連合国と休戦交渉を始めているというものだった。そのニュースが持たらされた時、再び、ヒトラーは荒れ狂ってわめきちらした。しかし、それは最後の狂乱とも言えるものだった。再び、冷静になった彼は、怒りの炎も燃え尽きたのか、抜け殻のようになって表情自体に変化がなくなりデスマスクのようになってしまった。また、その3日前には、ドイツ空軍大臣ゲーリングが、反逆罪の罪で逮捕されていた。これまで、一枚岩のようにヒトラーに忠誠を誓っていたナチス幹部が次々と彼を見捨て始めたのだ。
 その日の午後、ヒトラーは医者のハーゼ教授とともに愛犬とその子犬たちの寝ている場所に行った。医者が犬の上にかがみ込むと、甘酸っぱいようなアーモンドの香りが漂ってきた。青酸カリを使ったのだ。ブロンディと子犬たちはもうピクリとも動きはしない。引き返してきたヒトラーの顔は青白く全く無表情そのものだった。

 真夜中になって日付けは4月29日になった。ヒトラーは秘書に政治的遺言と称する告白を口述筆記させた。それは千年帝国の掲げた理想、訴え、要求などから始まり、新政府のメンバーの列挙などであった。そして自分の死後における所有物の配分にもふれた。最後に、自分の死後、ドイツにはもう国家は成立し得ないであろうなどいう内容も付け加えられた。

 その夜、ヒトラーとエバ・ブラウンの結婚式が行われた。ヒトラーの部屋は式場となり、隣の会議室は臨時の戸籍役場となった。結婚式に参列した幕僚たちは、ヒトラーと彼の夫人となったエバのために祝福のグラスを挙げた。お祝いのパーティは、ソ連軍のカチューシャ(多発式ロケット弾)が立てる身の毛のよだつ伴奏入りだった。
* 打ち砕かれたかすかな期待 *
 真夜中、ヒトラーは今一度奇跡を信じて3つの軍団あてに最後の電報を打った。これらはベルリン郊外でソ連、米英軍と激戦中の軍団である。ベルリンはソ連軍に完全に包囲されていたが、ヒトラーはこれらの軍団に自らを救出する任務を与えていたのである。
 1、第20軍団の現在地は? 攻撃再開のメドは?
 2、第9軍の現在置は? その突破方向は?
 3、第41機甲軍団の先鋒はどこにあるか?
 まもなく、それに対する返答をカイテル元帥が持って来た。彼は感情を込めることなく、片めがねをいじりながらヒトラーに報告した。

 1、第20軍団は強力なソ連軍に阻まれており、攻撃再開は不可能。
 2、第9軍は敵の包囲下にあり、敵陣突破するのは不可能。
 3、第41機甲軍団はブランデンブルク地区で防戦中。進撃は不可能。

 これらの内容は、まさしくすべての終わりを意味していた。ベルリン救出のためのいかなる進展も見られなかったのである。ここにすべての希望は潰え去った。
* 別れのとき *
 4月30日の午後、ヒトラーが全員と別れの握手をし始めた。彼はひどく腰を曲げ、一人一人に手を差し出した。握手をしながら目を見つめるが、もはや彼の視線の先は遠くの方に向けられている。弱々しい声で何かを口にするが、何を言っているのか聞き取れない。妻となったエバは、胸空きのバラ模様の黒いドレスを着て髪はきれいにセットしてある。それらはヒトラーの好みでもあった。彼女は始終微笑んでいたが、目には涙が流れていた。
 やがて、ヒトラーとエバが総統の部屋に入ってゆき扉が閉められた。10分ほど経った午後3時30分頃、一発の銃声が響きわたった。ヒトラーとエバが自殺したのだ。

 ゲッペルスやボルマンらが部屋に入り、従兵が遺体を外に運び出した。外は爆撃と砲撃が激しく危険な状態だったが、地下壕からわずか数歩のところにちょうどいい適当な弾痕の穴があったので、遺体はそこに並べて置かれた。
 護衛兵の一人が二人の遺体にベンジンをかけ、火のついたぼろ切れを投げ込んだ。ヒトラーとエバの遺体はたちまちメラメラと燃え上がった。
 それはちょうどソ連軍が国会議事堂に突入を開始した頃だった。
占拠した国会議事堂に国旗を     かざそうとしているソ連軍兵士
* 廃墟のベルリン上空で *
 1945年5月1日、ラインダース大尉は5機の僚機とともに出撃していた。燃え盛るベルリン上空を飛行しながら、恐らく、これが最後の出撃になると大尉は感じていた。

 まもなく大尉は、B17爆撃機の大編隊が飛行中なのを左下方に発見した。しかし、その5百メートル上空には数百機の護衛のマスタングの大群がいて陽光を受けてキラキラ輝いている。それは、空飛ぶ飛魚のように美しい景観だった。爆撃機の編隊は少なくとも二百機近くはいるだろう。このような大規模な集団にわずか六機で攻撃をかけることが、いかに無鉄砲で自殺行為に等しいかはわかっていた。しかし大尉はためらわずにバンク(機体を左右に揺する)を振った。それは攻撃開始を意味する合図だった。大尉の機体がヒラリと急降下を開始すると次々と仲間の機体もそれに続いて急降下に移っていった。

 瞬間的に天と地が逆転し、続いて見渡す限りの廃虚が眼下に広がった。連合軍の無差別爆撃で完膚なきまでに破壊されたベルリンの成れの果てであった。大尉の心に、突如どうしようもない怒りの感情が込み上げて来た。

( 畜生!ちくしょう! 味方が一機もいないなんて! だが、俺の戦いはまだ終わったわけではないぞ!) 大尉は心の中でそう叫び続けていた。

 距離が急速に狭まって来る。敵はまだこちらに気づいていない。照準器に巨大な爆撃機の尾翼の部分が目一杯に映った。急降下の重圧を感じながら、大尉は頭の中で恐らく十中八九、生きて帰れないだろうという思いがチラッと脳裏をかすめた。だが次の瞬間、手は反射的に機関砲の発射ボタンを押し続けていた。たちまち、ものすごい反動が伝わって来た。
 それは戦闘機パイロットの本能だったのかもしれなかった。しかし皮肉なことに、前日にヒトラーが自決し、第三帝国が壊滅したこと、まもなく新政府のもとに無条件降伏が調印されるという事実を彼らが知るはずもなかった。
* 最期の瞬間 *
 その後、一年あまりも経って、ヒトラーとエバの遺体を焼却したと見られる場所から、頭蓋骨の断片と思われる骨の一部が奇跡的に発見された。
 発見された骨は、鑑定の結果ヒトラーのものであることがわかった。つまり通常人の骨は黄色なのに灰色がかったブルーをしていたのである。
 これは生前、菜食主義者であった人間に見られる固有の現象である。
 また、指で押したと見られる窪みが幾つか見つかった。このことはヒトラーが生前、非常に重い頭痛に悩まされていた事実を如実に物語たる証拠でもあった。
ヒトラーの遺体が焼却された穴を調査する兵士
 また、頭蓋骨の断片によって、ヒトラーがその時、どのように自決したのかが判明した。ヒトラーは青酸カリを飲み、カプセルを噛み砕くと同時にワルサーを顎の下から撃ち抜いたのである。銃弾は喉から頭がい骨の右側面に向かって貫通した。頭蓋骨は割れ、彼の脳漿はあたり一面に飛び散った。一方、エバ・ブラウンはヒトラーの肩に頭を持たげていたが、青酸カリを飲んだ直後、死の苦痛で身をよじって体は仰け反った格好になったのである。
 ヒトラーが千年続くと豪語した第三帝国は、わずか12年で幕を閉じた。彼がドイツ国民に残したものは、累々と続く都市の廃虚、数千万の死者・・・そして、永久に拭い去ることの出来ぬ戦争責任だけであった・・・
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参考文献
「私はヒトラーの秘書だった」トラウデル・ユンゲ著 
足立ラーベ加代・高島市子 訳 草思社
「戦場漫画シリーズ 我が青春のアルカディア」松本零士 小学館
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