宦官の実体
〜宮廷の僕、知られざる素顔とその異常心理〜
* 後宮の美女軍団を管理する役職 *
 中国4千年と言われる歴史の中で、暗躍し続け、中国歴代王朝に多大な影響を与えた存在があった。人は彼らを宦官(かんがん)、または、閹人(えんじん)と呼んだ。彼ら宦官の仕える所は、本来、奥深い宮廷の内部であったが、とき折、現れ出ては歴史の表舞台に顔を出して数々の大事件を引き起した。それはまるで、深海に棲む得体も知れぬ生物が時折、餌を求めて海面に浮き上がってくるようでもあった。一体、彼ら宦官とは何者だったのだろうか?
 宦官の主な仕事は、数千人以上いると言われる後宮の美女たちを管理することだったと言われている。巨大な宮廷内に生活する妾たちはすべて皇帝一人の所有物であった。これだけ宮女の数が増えると、当然、彼女らに奉仕し、皇帝の手足となって、彼女らを管理する存在が必要となって来る。こういうことから、宦官という役職が必要とされたのであろう。
 しかし、膨大な数の女性がいる後宮というところは、嫉妬の嵐が吹き荒れる殺伐とした荒涼とした世界だった。そこでは、友情や愛情などひと欠片も存在せず、日々、やきもちから来る権力闘争に明け暮れる醜悪な世界なのであった。こうした陰湿で謀略渦巻く後宮にあって、宦官が彼女たちの手先となって暗躍することになるのも当然の成りゆきだったとも言えよう。
* 時代が必要とした宦官 *
 世界史に名を残す君主たちは、ほとんど例外なく数多くの妻をめとり、無数の美女に取り巻かれて豪華な宮殿の中で贅沢三昧な生活を送っていた。つまり、君主たるもの、好色でない者はいなかったのである。男として生まれてきたからには、こういう溜め息が出るような暮らしを一度はしてみたいと思うのは当然のはずである。例えば、紀元前10世紀のユダヤのソロモン王は、千人の妻や妾にかしづかれた豪奢な生活ぶりだったし、西アジアを支配したイスラム帝国の歴代のスルタンは、支配下の領土から数百人の美女を献上させ、巨大なハレムの中で夢のような豪華な生活を送っていた。古代エジプトのファラオも、山のような金銀財宝を持ち、数百人の妾を所有する絶大な権力者だったことが知られている。
 しかし、中国の歴代皇帝が侍らせていた后妃の数は、これらの君主のスケールを遥かに凌駕するものであった。まさに、事実を知ったら卒倒するほどの数の美女を独り占めしていたのである。漢の武帝は8千人の美女がいたと言うし、晋(3世紀頃)の武帝などは実に1万人以上もいたらしい。五胡十六国時代の後超国(ごちょうこく)に至っては、后妃の数は3万人を越したというから、もはや驚きの域を通り越している。皇帝たちは、これら全国各地から選りすぐった美女たちを住わせるのに湯水のように資金を使って華麗な宮殿をどんどん建造し拡張していったのである。
 しかし、これほど大多数の宮女がいれば、当然、それにふさわしい使用人も必要になってくる。
 宮女や侍女たちは、王宮内を走リ回ることが許されず、人前に顔を出すことさえも禁止されていた。しかも、宮中には体力を必要とする労働が少なからずあった。つまり、男手が必要だったのである。
 こういう点から、女の奴隷よりも体力があり、かつ皇帝の所有物でもある後宮の美女たちに悪さをしない奴隷・・・すなわち男性器を切除されて、性欲を無くし中性化した奴隷が必要とされたのである。
紫禁城、元時代につくられたものを明の永楽帝の時に改築し、清が滅亡するまで宮殿として使われた。敷地は72万5千平方メートルもあり、世界最大の宮殿であった。
 こうした需要と供給との関係が、宦官を生み出す時代背景となったと言っていいだろう。つまり、宮女と宦官の数は常に正比例の関係にあった。つまり、後宮の制度(ハーレム)が進展すればするほど、宦官の数も増加の一途をたどるのである。
 宦官と呼ばれる男性器を切除された者は、古代から、世界中の宮廷にいたことが知られている。宦官となった者は、姦淫の罪も犯すこともないので、一般人よりも信頼出来るとして珍重されたのである。ギリシアでもローマでもペルシアやインドでも、強大な王のもとには、いつも多数の妻妾が宮廷に群れをなしているのが現実であったので、それらに奉仕し、管理する宦官がどうしても必要だったのである。しかし、中国ほど宦官に関する史料が残っている国もなく、しかも4千年と言われる長い王朝の歴史を宦官の存在なくして語ることは出来ないと言ってよい。
* 宦官になるには? *
 宦官の起源は、紀元前14世紀の慇王朝にまでさかのぼる。最初は、慇の王族や貴族は、家内奴隷を得るために、手っ取り早く戦争で得た異民族の捕虜をそれに充てたのであった。その際、男女の接触を防止し従順にするために去勢、すなわちペニスを切除したのである。そのうち、宮刑で去勢された罪人も使われるようになり、戦争による捕虜と合わせて宦官の一大供給源になっていったのであった。慇時代に出土した甲骨文字(亀甲や動物の骨に刻まれた絵文字の一種)には、ペニス(男性器)の横に一本の小刀を配したような形の文字が発見されている。このことは、慇の時代に、すでに宦官が存在していたことを証明するものである。その後、この絵文字は「閹」という文字の起源にもなっていることから、宦官を閹人(えんじん)とも呼ぶようになったと言われている。
 慇時代の去勢方法は、かなり原始的で死亡率もきわめて高かった。
 古代エジプトでは、死亡率75%だったというから、成功すれば儲けもの的な感覚さえあった。従って、手術に成功し宦官となり得た者は、それだけ希少価値があり高い値で売れたという。
 こうした性器切除の技術は、その後、徐々に進歩したというものの、清朝末期になっても、基本的にはさほど変ることもなかった。
古代の強大な帝国の宮廷には、常に多数の宦官が存在していた。
 古代五刑の一つに数えられた宮刑(きゅうけい)は、肉刑の一種で、鼻や耳と言った身体の一部を削ぐ肉刑の中でも、頭部の次に大事な性器を切り取られることから死刑に準じるほどの重い刑であった。宮刑の『宮』は、風の通らぬ密室を意味し、この刑が密室で行われたことから宮刑と呼ばれるようになったと言われている。宮刑は、姦淫罪を犯した罪人に適用され、原則として男を対象にしたものだが、女にも宮刑はあった。男の場合は去勢(ペニスの切断)という刑罰を受けるが、女の場合は幽閉という刑罰を受けるのである。これはどういうことかと言えば、女受刑者は、手足を縛られ、木づちで腹部をかなり強く何度も繰り返して叩かれるのである。すると、子宮が降りてきて陰道を塞いでしまう結果となる。つまり、その後は、大小便だけは排出可能だが、性行為は永遠に出来ぬ体となってしまうのである。
* 刑罰からはじまった宦官 *
 そうして、哀れな体に変わり果てた彼らには、ひたすら宮廷の奴隷となり、アリのようになって一生奉仕するだけの運命が残されるのである。そこには、仕事に対する意欲や生きる喜びなどあろうはずもなく、ただ、空虚な心のまま、機械的な業務を繰り返すだけの灰色の毎日が淡々と続いているのである。彼ら宦官の性器の欠如から来る自己卑下の心理状態は、異常とも思えるほど過敏なもので、いつも偏狭な心と猜疑心で凝り固まっていた。心に言いようのない寂しさをいつも抱き、自閉的で視野も狭く、冷ややかな性格とでも言えばいいのであろうか。歴史家だった司馬遷(しばせん)は、宮刑に処せられ強制的に去勢されたことを思い出しては、悔しさに涙を流し、その都度、思わず自決の衝動に駆り立てられたということだ。
 性器を切り取った彼らの体は、男性ホルモンの影響を受けることがなく、肉体的に大きく変化する。肌は次第に柔らかくなり、もはや髭も生えることなく、声も細くてとがったものになってくるのである。中年ともなると、太りやすくなり、臀部と大腿部に脂肪がつき、尻は上がって女性のような歩き方となる。しかし、その身体は、男でもなく女でもなく奇怪きわまる存在でしかない。こうした変化は、彼らの精神にさらなる打撃を与えることになる。しかし、苦痛はそれで終わりではなく、死の間際まで続くのである。つまり、宦官になる際、切除した性器を死ぬ前に、再びおのが体に縫い付ける作業が残されているのだ。もし、肉体が不完全なまま、あの世に旅立つことになれば、来世は惨めなラバとして生まれ変わるからである。そのためか、彼らは防腐処置して壷に入れられた自らの性器を後生大事に保存しておくのである。もしも、盗まれるかなくしてしまうようなことがあれば一大事であった。それこそ、高価な値を張ってでも、自前でない他人のものを購入するしかなかったのである。
 当然、宦官になった彼らに、自殺者は絶えなかったらしい。人生における喜びも愛情も知らずに、終生、嘲りと陵辱の限りを受け続けた結果なのであろう。しかし、自殺は厳禁されており、そうさせないために、恐ろしい予防措置が考え出された。自殺した者の遺体は、荒れ地に置き去りにされ、野犬に食い散らかされて朽ち果てるまで野ざらしにされたという。また、自殺者を出した血縁者は、異民族の出没する辺境の地に送り込まれ一生奴隷にされることもあった。
* 次第に特権階級として台頭 *
 しかし、本来は宮廷内の雑務の奴隷同然だった宦官であったが、年月が経過するにしたがい、次第に権力を手中にして、その役割が変質し権勢を欲しいままに動かす存在となってゆく。つまり、ついには皇帝を脅かす特権階級に成り上がって行くことになる。これは、どうした理由によるものなのか?
 権力の頂点に立つ皇帝にとって、地方勢力の台頭や宰相の圧力、将軍の横暴などは、自らの地位を脅かす存在になりかねない恐れがあった。そのために、猜疑心に凝り固まった皇帝は、こうした官僚どもを信頼することが出来なくなり、逆に宦官を頼りにしていったのである。かくして、皇帝に取り入って権力を手中にしたトップクラスの宦官の中には、軍事、外交、政治、宗教に至るあらゆる分野で権力を欲しいままにした者も出現するようになった。唐の玄宗皇帝の時代に仕えた高力士(こうりきし)などは、その典型とも言えよう。当時、あらゆる部門の重要課題は、まず高力士が目を通し、それから皇帝に差し出されるのが常であった。つまり、宦官であった高力士は、皇帝の化身とも言えるほどの絶大な権力を手中にしたのである。高力士は、玄宗皇帝に楊貴妃を見つけ出して紹介し、安禄山の乱がぼっ発した際には、楊貴妃を皮肉にも自らの手で絞め殺したことでも知られている。

 唐の晩期になると、帝位についた10人の皇帝のうち9人までもが宦官に擁立されるほどで、宦官の横暴は目に余るほどになった。中には、宦官同士の内部分裂に応じて一挙に宦官勢力を一掃しようとした皇帝もあったが、逆に、宦官の反動に合いついに皇帝の権力は地に落ち、宦官が事実上権力を掌握するまでになった。皇帝は、宦官のあやつり人形になり下がったのである。ある皇帝などは「これでは、私は奴隷同然ではないか!」と声を高らかに上げて泣いたほどである。唐の晩期の皇帝たちは、唐全盛期の輝かしい時代とは打って変わって、毎日毎日、毒殺や策謀から来る陰惨な死の恐怖がいつ自分に降り掛かって来るか、怯えながら宮廷生活を送っていかねばならなかった。皇帝と宦官、どちらが最高権力者かわからぬほどであった。
 宦官になるために、自ら性器を切断する者も現れ出した。こうした者は自宮者(じきゅうしゃ)と呼ばれたが、14世紀、明の時代になるとその風潮は、ますます強まって行った。明代では、宦官は増殖の一途をたどり、最初、100人に満たなかったのが、明代末には、ついに10万人にものぼったと言われている。その際、食料がすべてに行き渡らず、日々、餓死者が出たと記録されているほどだ。明代の各皇帝は、幾度となく自宮禁止令を出したが、その数を止めることは出来なかった。その理由は、宦官になれば労役をする必要がなく、もしも、権力を持とうものならその宦官の親族の羽振りは、飛ぶ鳥を落とす勢いとなるのである。従って、農民はこぞって子供を去勢して宦官にしたがった。つまり、貧困にあえぐ農民にとって、宦官になることは、立身出世と金持ちへの最短距離であり、虐げられた現実から逃れられる唯一の手段なのであった。清代では、性器を切除する専門の職人も現れ、去勢代は銀6両(約30万円)だったらしい。
* ピンからキリまである宦官の暮らしぶり *
 トップクラスの宦官の中には、莫大な財産を手にして、広大な土地を買って豪邸を建て、多数の妾を囲うことも珍しくなかった。それは、まるで宮廷のようで、高楼が幾つもそびえ、広大な庭には、見事な池や庭園が広がっていたという。
 西太后の仕えた高級宦官、李蓮英(りえんれい)などは、清王朝が滅び中華民国になると、民衆から搾り取って貯めた金で広大な土地を手に入れて豪邸を建て、もう無用だとばかりに自らの官職を銀1万両で売り飛ばした。彼の所有する財産は、各種の動産まで含めると諸王に匹敵するほどの巨万の富であった。
 同じく、小徳張(しょうとくちょう)は、銀20万両以上(約100億円以上に相当する)の資本金を元手に、北京に絹織物店や質屋を多数持った上、工場まで設立し、早々に資本家に鞍替えしたのであった。これらはすべて、西太后が権力最盛期の頃、全国の官僚から贈られた賄賂を抜け目なく貯め続けた結果なのである。
 しかし、すべての宦官がトップになれるはずもなく、大多数は下級宦官のままで終わらざるを得なかった。下級宦官でいる以上は、何ひとついいことはなく、それはまるで生き地獄のようなものであった。しかも、いったん、後宮に入れば牢獄に入ったのも同じことで、外に出ることは愚か、宮廷内部の事情を口外することも厳禁されていた。もし、この掟を破る者があれば、関係者はすべて捕らえられ、生きながら肉を少しずつ削がれて殺されるという壮絶な死が待ち構えていたのである。
 宦官は、病気になったり年を得て働けなくなったりすると、容赦なく宮廷の外に放り出された。放り出された彼らは、身を寄せる親兄弟とてなく、寺廟などを仮のすみかにするのが常であった。社会保障も何もない当時、多くの宦官が、みじめな野垂れ死をしていったことは想像するに難くない。今日、北京郊外の寺廟には、当時の宦官の共同墓地とも言える墳墓群が数多く存在している。
* 歴史から消え去る運命 *
 中国4千年の長い歴史は、宦官と官僚、時には外戚(皇帝、皇后の親戚)を交えた三つどもえの陰惨な権力闘争の歴史に他ならない。政治事に干渉するのを厳禁された明代以降においても、彼らは、権力を得て増殖し暗躍し続けたのである。その陰謀渦巻く過程の中で、時には、人々の恨みや憤りを買った挙句に、宦官の大虐殺という血塗られた事件が幾度となく引き起こされたが、彼らの存在は、決して消滅することはなかった。
 皇帝の権威と強欲の象徴でもある後宮の制度が存在する以上、宦官なくしては成り立たなかったのがその理由であろう。彼らはまさしく歴史の要求する必然性の奥底にしっかりと根を降ろしていたのである。事実、皇帝の身の回りの雑務(掃除から食事やベッドの用意まで)は、すべて宦官が取り仕切っていた。つまり、日夜、皇帝の身近にいる宦官は、皇帝権力を後ろ盾にすることも、また皇帝を骨抜きにして、あやつり人形同然にすることも容易だったのである。
 しかし、かくも、しぶとく生命力を誇った彼らも、ついに歴史上から永遠に消え去る時が来た。20世紀になって、清王朝が滅亡し、新政権、中華民国が後宮(ハーレム)を必要としなくなったからである。
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参考文献・・・「宦官」顧蓉、葛金芳 尾鷲卓彦 徳間文庫 2001年
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