水底に眠る黄金
〜水底に沈んだ財宝にまつわるミステリー〜
 世界のさまざまな湖や海底には、莫大な財宝が人知れず眠っているという。それらを追い求める人々は多い。それは、古代に沈んだ大陸の秘法であったり、沈没船の宝物であったりする。水底に眠る財宝は、一獲千金を夢見る人間の野望と情熱を引き付けて止まないものがあるようだ。
* 湖底に眠るナチスの財宝 *
 オーストリアのアルプスの高山湖であるトプリッツ湖には、ナチスの金塊が沈んでいると言われている。1945年、もはや戦争に敗れたと悟ったナチの幹部たちは、これまで、手に入れた膨大な財宝の処分に躍起になっていた。その財宝とは、外貨や美術品、金塊、プラチナなどドイツ占領下で不法に押収したヨーロッパ各国の宝物であった。
 彼らは美術品などの大部分を身内で分配し、残りの金塊、プラチナなどを重要機密書類とともに隠そうとしたのである。そして、それら財宝は、来るべき時期に第4帝国の資金源となるはずであった。ナチの幹部たちは、これら財宝を耐水性のトランクに入れると水深120メートルの湖底に沈めたのである。
 戦後になって、この湖にナチの莫大な財宝が隠されていることを伝え聞いた人間が、幾度となく宝探しに乗り出すことになった。
 しかし、どうしたことか、その多くが原因不明の死を遂げるに至ったのである。アクアラングで潜ったまま水中でわけのわからぬ死に方をしたり、直前になって不慮の事故で変死したりするダイバーが後を断たないのである。
オーストリア内にあるトプリッツ湖、風光明媚な湖として知られている。
 好奇心からこの湖に近寄り、断崖から落ちたり、湖畔で腹を裂かれて死んだ人間も多い。
 西ドイツやオーストリアのチームが調査に乗り出したが、開始後まもなく原因不明の妨害が入り計画自体が中止になってしまった。それでも、文書の詰まった箱が幾つか発見されたとも言われるが、未だに公式発表はされていない。
 こうしたナチの金塊が隠されているという湖はトプリッツ湖だけでない。アーヘン湖、ヒンテルゼー湖などオーストリア内にある周辺の湖にもそういった噂がある。こういうことから、誰言うともなく、これらの湖を「不吉な湖」と呼ぶようになったと言うことである。
1960年代に行われた西ドイツチームによる水底調査。その様子はメディアで公表された。
 古来、湖というところは、財宝のみならず、陰うつな秘密などの隠し場所にもなるようである。敗走する側が見られては困る機密書類や都合の悪いものを湖底深く沈めることが多いからだろうか。1996年には、北海道屈斜路湖の湖底から26発の旧日本軍の化学兵器が引き上げられているのを見てもうなずける。
* ナポレオンの金塊が沈んでいる? *
 ロシアには、ナポレオンの財宝が隠されていると言われている湖がある。その湖の名は、セムレフスコエ湖。別名、「濁って流れない湖」と異名を持つだけあって、確かに、湖面はさざ波一つ立てることもなく、灰色に濁った水面は不気味な沈黙が支配している。湖畔はどろどろの粘土状で気味の悪い湖でもある。
 1812年、大陸封鎖令を破ってフランスに歯向かい、敵対したロシアを討つべく、ナポレオンは遠征軍を動員していた。その軍勢は同盟国の軍隊を合わせると、60万という巨大なものであった。遠征軍はポーランドに侵入すると、怒濤のようにロシア領内に攻め込んでいった。そして、わずか3か月後にはモスクワを陥落させ入城を果たした。一方、ロシアもそれに対抗して徹底的な焦土戦術を取った。ナポレオンの軍隊に食料と休息の場所を供給させまいと、あらゆる建物には火が放たれ穀物は焼き捨てられたのである。おりしも季節は10月、背後には恐ろしい冬将軍が目前に迫っていた。
 10月、補給に行き詰まったナポレオンの軍隊は、ついにモスクワからの撤退を決意する。
 その際、モスクワ中の寺院から金銀の飾り物、宝石、聖像の類いを略奪したのである。記録によれば、それらの宝物は輸送車に載せられ、その列は延々二キロに及んだという。
 しかし、退却するナポレオンの軍には、きびしい冬将軍とロシア軍の執拗な追撃が食い下がった。
ロシアのぬかるみ状態となった荒野を退却するナポレオン。
 ロシアの冬将軍ほど恐ろしいものはない。初雪が降ると、たちまち風が吹きすさび氷一面の寂漠とした荒野に一変してしまうのだ。やがて、恐ろしい寒さが人々を襲い出す。零下40度という猛烈な寒さは、血液はシャーベット状になり吐く息さえも凍ってしまうほどの寒気である。木でつくられた家は、夜中になると縮こまってバリバリと音を立て、もし疲れてうずくまろうものなら、たちまち、そのままの姿でコチコチに固まって死んでしまう。退却中、空腹と疲労で倒れたフランス兵は容赦なく見捨てられていった。
 見捨てられた彼らには、さらに凄惨な運命が待ち構えていた。飢えた狼の群れによってバラバラに引きちぎられて殺されるか、復讐の鬼と化したロシア軍によって八つ裂きにされるかのどちらかだった。
 まもなくフランス軍は、マロヤロスラベェラ近郊で壊滅的な敗北を帰してしまう。この時、フランス軍は、軍旗などあらゆるものを焼き、車両は爆破して、散り散りになって敗走した。
 こうして、当初、常勝軍とうたわれ、60万の陣容を誇った遠征軍も、飢えと疲労のためにそのほとんどが死に絶え、かろうじてフランスに逃げ帰ることが出来たのは、わずか5千名に過ぎなかったと言われている。
ロシア遠征の大敗北は、常勝ナポレオンのイメージを地につけた。
 しかし、不思議なことに、フランス軍に略奪された膨大な財宝は、何一つロシア側に取り戻されることもなかったばかりか、その行方すらわからなくなってしまったというのである。その後、ロマノフ王朝のニコライ1世までもがこの財宝の行方を追ったが、手がかりすらつかめなかった。それ以来、この戦場から30キロほど離れたセムレフスコエ湖の湖底に、これらの財宝が沈められたという噂が立つようになったという。
 近年、この湖の水質調査がなされたが、それによれば、金銀などの貴金属の成分の含有量が異常に高いのである。このことから、この湖には、湖底に多量の金塊が沈んでいるのではないかと考えられるようになった。何回かアクアラングによる潜水調査が試みられたが、湖底はどろどろの泥土が15メートルも層をなしており視界も悪く財宝探しなど到底出来る条件ではなかったという。
 この湖が、どうして金銀の含有量が多いのかは、依然、謎のままだが、それがナポレオンの財宝が沈んでいるためなのかどうかは、今なおわからない。神のみぞ知るというところであろうか。
* 潜水艦に積まれた謎の金塊 *
 一方、大西洋の深海には、金塊2トンを積んで沈没した軍艦が横たわっている。旧日本海軍の伊52号潜水艦である。この潜水艦は、ドイツとの技術協力により、黄金と引き換えに数々の秘密兵器を日本に持たらすはずであった。
 伊52号が日本に持ち帰ろうとしていたのは、ドイツご自慢の最新の技術であった。40ノット(時速74キロ)も出せる高速魚雷艇のエンジン、音速で飛べるロケット戦闘機の設計図、対空用レーダー、その他高度な電子兵器の数々である。どれもこれも、敗戦濃厚の日本にとって、喉から手が出るような秘密兵器ばかりであった。当時、連合軍よりも十年は進んでいたと見られるこれらの技術が日本にもたらされれば、その後の戦局にどう影響するかわからない。金塊2トンは、これらドイツの最新技術を獲得するための資金であった。
 この頃の戦局は絶望的だった。毎日、数百機からなるB29の大編隊が、日本の各都市を片っ端から焼け野原にしてゆく。孤立無援の太平洋の島々では、悲惨な玉砕があいついでいた。大きく敵方に傾いた勝運をこちらに戻すためにも、伊52号に与えられた使命は重大であった。それは一か八かの賭けであった。
 大戦も押し迫った1944年、3月、伊52号は隠密裡に日本を離れた。金塊は、146本の延べ板にされ、それぞれが箱に入れられていた。
 伊52号は、まずシンガポールに入港した。そこで大量のゴム、スズ、タングステンなどを積載した伊52号は、いよいよ一路ドイツ向かって出港したのであった。
 それは、2トンの黄金を携えて、インド洋、大西洋を横切り、延々、3万数千キロ彼方に出かける気の遠くなるような高価な買い物旅行の始まりであった。
重大な使命を帯びて、伊52号は出港していった。
写真は伊400型、伊52号よりもさらに大型で世界一周の航続能力を誇っていた。
 様々な困難を乗り越え、2万キロ以上の道のりを走破した伊52号は、約2か月後には、北大西洋の沖合いまで到達していた。
 そこで、ドイツのUボートとのランデブーに成功した伊52号は、最新のレーダーを受け取った。こうして、空からの脅威にも万全な備えをした伊52号にとって、後は、敵の対戦哨戒網をかいくぐり、フランス、ロリアン港(当時、Uボートの軍港になっていた)までの道のりを慎重に航海するだけでよかった。
伊52号は、ロリアン入港目前にアベンジャー雷撃機の攻撃により沈没した。
 もう、目標は目の前であった。ここまで来た以上、無事にこの任務は果たせそうに思えた。ところが、伊52号がロリアン港に到着することはなかったのである。伊52号は、ロリアン到着を目前にして撃沈されてしまったのだ。そして、技術者を含む125名の乗員と2トンの金塊とともに、大西洋の水底深く沈んでしまったのだった。それは1944年6月24日のことであった。
 かくして、最後の頼みの綱も切れ万策尽きた日本は、これ以後、瓦解するように敗戦への道を転がっていくのであった。そして、二度と潜水艦による連絡便を繰り出す余裕も残されてはいなかった。
* 5千メートルの海底に眠る伊52号 *
 これまで伊52号が撃沈された場所は謎のままであった。それが戦後50年経った1995年になって、伊52号の撃沈された場所が明らかとなった。それによると、その場所は、北緯15度15分、西経39度55分・・・すなわち北大西洋のど真ん中、実に5千メートルもの深海であった。これは、あの有名なタイタニック号が沈んでいる水深よりもさらに千メートルも深い海底である。
 アメリカの冒険家チームが、最新技術を持ち込み金塊引き上げを計画したが、残念ながら成功しなかったようだ。このような深海ともなると、全くの闇の世界で、例え強力なサーチライトを使っても光が届く範囲はわずか3メートルほどに限られている。そのうえ、少しの衝撃でも、ヘドロのような沈殿物がもうもうと舞い上がって視界を閉ざしてしまうのである。おまけに、水中カメラや機材が海底に到達するだけでも3時間以上もかかるのだ。
 仮にもし、金塊を発見して順調に引き上げることが出来ても700万ドル(約8億円)の費用がかかるそうである。伊52号の積み荷である金塊が時価30億円ということであるから、恐ろしい手間ひま、その後の所有権問題などを考えると、たいして割りに合う話でもないからであろうか。
 伊52号には、我々日本人の大戦へのいろいろな思いが秘められている。こうした金塊もまた、狂乱の時代への真実を刻んだ記憶の一部と考えるなら、海底の残骸とともに、手を触れずにそっとしておくのが、ふさわしい存在と言えなくはない。
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