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砂漠に消えた飛行機
〜神に見放された乗組員がたどった地獄の運命〜
* 幽霊船マリー・セレスト号事件 *
 世界には、これまで原因不明の事件が数多く記録されている。原因の究明されない事件は、後に不可解な謎だけが残こることとなり、様々なミステリーを生み出す温床ともなった。
 中でも、1872年に起きたマリー・セレスト号事件は多くの人に知られることになった事件である。発見された時は、船内に水や食料は豊富にあるのに、なぜか人だけが乗っていず、船だけが海上を漂っていたという謎に満ちた事件でもあった。
 マリー・セレスト号には、38才になる船長とその妻、2才になる娘の他、7人の乗組員、計10人が乗り込んでおり、1700樽に及ぶ原料アルコールを積んで、ニューヨークからイタリアのジェノア港へ向かっていた。しかし、発見された時は、無人の状態で、船内は朝食の最中だったらしく、食器類がテーブルの上に置かれたままであった。ゆで卵など、先が割られ食べかけのまま放置されていた。まるで、食事中に急用か何かを思い出してぶらっと席を立ち、そのままになってしまったような状態なのであった。
 船内に残された航海日誌によって、発見されるまでマリーセレスト号が10日間も幽霊船のように大西洋上を4百キロあまりも漂っていたということがわかった。
 その後、調査がなされたが、船そのものには致命的な損傷など見当たらず、さして沈没の危険性もあったとは思えず、どうして乗組員がその船を見捨てることになったのか、また、失踪した乗組員が、その後どういう運命となり、どこへ消えてしまったのか多くの謎を残すことになった。
大西洋上で無人で発見されたマリー・セレスト号は、幽霊船の代名詞にもなった。
 しかし、異常が全くなかったわけでもない。救命ボートが一艘なくなっていたこと、食料倉庫が開いたままの状態で、船の前部のハッチがなくなっていたこと、船の手すりに血痕らしきものが付着していたという事実が認められたことであろうか。
 これらは、恐らく、事件に関係があると思われたが、船を遺棄させるほどのパニックが急に起こったのに違いないと推測され、いろいろな仮説が立てられることになった。
 まず、海賊に捕まって全員が連れ去られたと考える者もいたが、船の積荷は、全く失われておらず船内も整然としており、海賊による仕業とは思えなかった。次に、船員による反乱説も考えられた。しかし、船長のブリッグスは大変なクリスチャンで、人望も厚く乗員にとって不満を募らせるような人物ではなかった。それに、反乱が起こったとすれば、どうして起こした側の人間も一緒に消え失せてしまわねばならないのか。
 麦角菌によって全員が錯乱状態となったのではないかと考える者もいた。麦角菌(バッカクキン)とは、ライ麦などの穀物に付着する菌だが、この菌の持つ毒素は大変強烈で、体内に入ると脳の中枢が冒されて猛烈な幻覚症状に襲われることが知られている。
 麦角菌に冒された人間は、自分が心の中でもっとも恐ろしいと思っている化け物の幻覚に襲われるのである。そのため、場合によっては、恐怖に駆られて自殺に追い立てられることもあるという。
 マリー・セレスト号の乗員は、朝食時に麦角菌の発生したパンを食べたため、全員が発狂し、恐ろしい幻覚から逃れようとして次々と海に飛び込んだというのである。
何かが人々を狂気に走らせた?
 あるいは、船の前部のハッチがなくなっていたことから、船内にメタンガスが充満したために爆発して吹っ飛んだためではないかと考えた者もいた。その爆発は朝食時に突然起きたものと思われた。その大音響に驚いた船長は、今にも船が粉々に爆発するのではないかと考え、急きょ全員にボートに乗ることを命じ、しばらく海上で様子を見ることにした。
 しかし、いくら時間が経っても、船に異常は見られず爆発の危険もなさそうに思えた。
 そこで、船に戻ろうとしたのだが、追い風を受けた船は一人でに勢いよく進み出し、いくら漕いでも追いつくことが出来なかった。そして、とうとう大西洋上に取り残される羽目になってしまった。
 その後、海上を漂っているうち、大波に襲われてボートは転覆し、全員が海の藻くずと化してしまったというのである。
救命ボートに乗ったまま、大西洋上に取り残された?
 その他、神かくしにあったとか巨大イカに襲われて、全員が海中に引きずり込まれたのではないかという突飛もない説まであらわれた。しかし、どの説も想像力をかき立てる興味本位の説ばかりで納得のいくものはなかった。こうして、この不可解な事件は、真相が解明されることもなく今日に至っても謎のままなのである。
* 謎の無人飛行機 *
 しかし、飛行機にもこれと全く同じような事件がある。戦後13年も経ってから、広大なサハラ砂漠のまっただ中に一機の飛行機が、不時着しているのが偶然に発見された事件である。飛行機は、その後の調べで、アメリカ空軍のB24爆撃機「Lady Be Good」号(善良な淑女)であることが判明した。恐らく、大戦中に何らかの損害を被り、止むなく砂漠に不時着したものと思われた。
 飛行機は、一個のエンジンが脱落している他、さして大きな損傷があったとも思えず、ほぼ原形を保ったままで不時着していた。
 着陸時に胴体部分が中央からポッキリと折れたのか、あたかも、瀕死の巨象が力尽き、死して横たわっているようにも見えた。
 着陸していた場所は、カランシオ台地と呼ばれる高台で、およそ生物の痕跡など認められない、見渡す限り固い砂と石ころだけが広がる、この世の果てと言ってもよい荒涼とした場所であった。
上空から見た「Lady Be Good」号、ほとんど原形を保っていた。
 ここは、サハラ砂漠のほぼ中央に位置し、空路の盲点というべき位置にあったため、これまで13年もの間、発見されることもなかったのである。しかし、なぜ、方向違いの砂漠のど真ん中に不時着せねばならなかったのかという点が合点のいかぬ所であった。当時の連合軍の基地は北アフリカのベンガジにあり、不時着地点からは7百キロ以上も南にずれていたからである。
 この事件は、他にも多くの不可解な謎がつきまとっていた。まず、飛行機の内部には、水や食料が豊富に残されており、与圧服もそのままで残されていた。
 コーヒーなどポットに残されたままで、13年経過した今でもすぐ飲める状態であった。
 しかし、肝心の乗組員の姿がどこにも見当たらなかったのである。
機内には水や食料の他、たばこやチューインガムまでが残されていた。
 パラシュートがなくなっていたことから、乗組員全員がパラシュートで降下したと思われた。そうすると、乗員のいない飛行機だけが無人のまま飛び続け、一人でにフンワリと着陸したことになる。それを裏付けるように、まもなく不時着地点から、60キロほど北に行った地点で石が3角形に積み上げられているのが発見された。それは、一定の距離をおいて並んでいた。恐らく、乗員が目印とするために石で標識をつくったのであろうか? しかし、砂だけの低地に来ると、標識はプッツリと途絶えていた。すると、乗員は砂の海に入り込んで行ったのだろうか?
 多くの謎の残るこの事件は、いろいろと推測されて、いろいろなミステリーを生むことになった。結局、ヘリコプターまで動員して3か月にわたる大掛かりな捜索がなされたが、肝心の乗組員の遺体はとうとう発見されずじまいだった。
* 日記から判明した事実 *
 しかし、捜索も打ち切られて数カ月も経った頃、5人の乗組員の遺体が砂の海で次々と発見され、一連の謎にも解明の兆しが訪れたのであった。しかも数カ月後には、さらにもう2人の遺体もその先で発見された。発見された場所は、予想も出来ぬほどの遠方であった。そして、この時、遺体が身に付けていた日記によって、乗組員たちがどのような運命に陥ったのかが判明したのであった。手記の内容は、生々しいもので、当時の切羽詰まった人間の心理を表していた。それは、想像を絶するほどの忍耐を要求される、筆舌に尽くし難い過酷な運命だったことを物語っていた。
 1943年、4月4日、当時の枢軸国の一つ、イタリアのナポリ港への爆撃が、「善良な淑女」号に与えられた初仕事だった。実戦の経験もなく、訓練を終えてチームが編制されたばかりの9人にとっても、これが初陣であった。
 任務が終わって、帰投コースに入った頃には、あたりは陽が完全に落ちて夕闇状態であった。
 ナポリから、彼らの基地がある北アフリカ海岸までは、まだかなりの距離が残されており、帰還するまでにはまだ数時間はかかると思われていた。
 しかし、この日は違っていた。機は強い追い風に乗って予想以上に早くアフリカの北岸に到達していたのだ。機長はそれに気が付かず、まだ地中海上空にいるものだと思っていた。
「Lady Be Good」の9人のクルーたち。右上が機長のハットン。
 新米の機長にとって、深夜に海と砂漠の見極めをすることは難儀な仕事であった。海面も砂漠もどちらも灰色に見えて、相当に目を凝らしておかないと海岸線を見落としてしまうのである。しかも、作戦上無電封鎖がなされていたので、必要以上の交信は厳禁とされていた。そのため、各機の判断で決定して行動するしかなかった。つまり、この海岸線の見落としが自分たちの現在位置を見失うこととなり、砂漠の奥地に迷い込む原因となったのだ。
 基地上空をすでに通過してしまったとも気づかぬまま、そのまま2時間以上も飛び続けて、機長のハットンがおかしいと気づいた頃には、機はすでにカランシオ台地あたりまで飛行していた。
 つまり、海岸部より7百キロも奥地まで来て、ようやく異変に気がついたことになる。しかし、この時、すでに燃料は底を尽きかけていた。
 ハットンは、夜間の危険な胴体着陸よりは機を捨てる方を選んだ。そして、乗員に落下傘による脱出を命じたのであった。
B24爆撃機リベレーター、大戦中は1万機以上生産され、戦略爆撃に活躍した。
* 隊員たちを襲った壮絶な運命 *
  パラシュートで脱出した9人は、信号弾の合い図で集合した。しかし、集まったのは8名で、一人は連絡が取れずに行方不明であった。結局、8名は、夜明け前に地中海方面と思われる北へ目指して歩き出すことにする。しかし、それは悲劇の始まりであった。
 携行するのは水筒1個だけであった。8人で水筒一個だけ・・・!これが、彼らに与えられたすべての水なのである。一人の割り当ては、一日わずかにスプーン一杯分程度の水だけと決められた。
 日中の砂漠は高熱と乾燥地獄である。灼熱の太陽の下に数時間もいると、ものすごい熱気のために、体中のいたるところから水分が蒸発し、たちまちカサカサのミイラのようにひからびてしまう。目前には、恐ろしい熱気が起こす気流のために、陽炎のようにユラユラと揺れ動く灰色の景色が果てしなく続いているだけである。こうして、死よりも辛い炎天下での行進が始まった。
 ほぼ3日間、彼らは北に進むことだけを考えて行動した。
 歩けども歩けども、眼の前にあるのはギラギラと輝く砂の海がどこまでも連なっているだけであった。
 やがて、疲労と乾きによって、意識も朦朧となった彼らには、もはや、石で標識をつくろうなどという気も遠に消え失せていた。
 喉が詰まって呼吸が出来なくなっても、口の中のどこにも粘液などなく、喉の奥までカラカラに腫れ上がっていて唾を飲み込むことさえ出来ないのである。
アフリカ大陸の3分の1を占めるサハラ砂漠は、生物には過酷な環境である。日中には40度以上にもなり、夜になると零度近くにまで下がるのだ。
 4日目になると、台地が終わり、代わって砂だけの低地が広がっていた。一見、黒っぽく見える砂だけの低地帯は、砂の海と呼ばれ、足を踏み入れるなり彼らにものすごい絶望感を与えることになる。
 砂の海では、一歩踏み込むと膝までズブズブと沈んでしまうのである。そのうえ、時おり、吹き荒れる砂嵐のために、一寸たりとも目を開けていられない状態になる。つまり、盲人同然で手探りのような状態で進まねばならないのだ。そのうち、眼球が突き刺すような痛みに襲われ出す。肺の中が焼け、気官がすべて燃え出したような感覚に襲われ、その度に胸をかきむしらねばならない。
 (水・・・) 誰も考えることは同じだった。(水・・・水・・・)思考力はなくなり、ほとんど機械的に足を交互に動かしているだけだった。
 5日目になると、ついに2人が脱落し、続いて3人が力尽きた。こうして、5人が次々と疲労で力尽き、もはや一歩も進めぬ状態になった。そこで、残った3人だけで北へ進むことにした。ほとんど空になった水筒は動けなくなった5人に与えられた。動けなくなった5人は、救助の望みを3人に託し、砂の上に横たわり苦しそうにあえぐしかなかった。しかし、そこから2日後に、2人も力尽きる運命にあった。それでも彼らは、倒れるまでにさらに30キロも進んでいた。
 最後の一人となった21才のムーア軍曹は、9人の乗員の中でも一番若く体力があった。2人が砂の中にうずくまって動けなくなった後も、彼は前進することを止めなかった。
 目前には、一際高い砂丘がそびえ立っていた。そして、恐らく、自分の越えることが出来る最後の砂丘だということもわかっていた。
 彼は、膝まで沈み込んだ足を交互に引き抜きながらさらに前進した。一歩一歩、それこそ、血のにじむような努力で前進した。
 彼は、朦朧とする意識の中で自分自身に言い聞かせていた。
(俺たちは、ここまで来るのに死にものぐるいでがんばった。もう、かなりの距離まで来ているはずだ。あの砂丘を登り切れば、遠くまで地平線が見渡せるだろう)

(恐らく、オアシスか、地中海のかすかな水平線ぐらいは望めるはずだ・・・)

(ゴールは・・・もうすぐだ・・・)
 彼は、こうして自分に叱咤しながら、渾身の力を振り絞り砂丘を上り詰めていった。事実、彼らは、7日間で百数十キロを歩き通していたのであった。

 そして、ようやく砂丘の頂上についた時、息も絶え絶えになった彼が見たものは、見渡す限り、延々と続く果てしない砂漠の地平線だけであった。オアシスなど朦朧と立ち上がる熱気の中に、どこにも存在しなかった。頭上には、残酷な太陽がギラギラとまぶしく輝いているだけだった。その瞬間、彼の脳裏からすべての希望が音を立てて崩れ去っていった。彼は神に見放され死の宣告を受けたのだ。もんどり打ってその場に崩れ落ちた彼は、息も絶え絶えに神を呪う言葉を吐き出した。そうして、そのままの姿勢で息絶えたのである。

 

 こうして、一人、また一人と力尽きて倒れていき、ついに8人全員が悲惨な最期を遂げたのである。彼らが全員死に絶えた後も、太陽は容赦なく遺体を焼き尽くし、1滴の水分さえも残さず奪い取っていった。やがて、カラカラに乾涸びた彼らの遺体は、時間とともに熱砂の中に埋もれていったのである。最後の一人となったムーア軍曹の遺体は、今なお発見されていない。恐らく、恨みを残したまま今も熱砂のどこかに埋もれているのだろう。行方不明であった一人は、その後の調べでパラシュートが開かずに墜死していたことが判明した。
* 運にも見放された悲劇 *
 ・・・以上が、「善良な淑女」号の乗組員に降り掛かった地獄の運命のあらましである。経験不足と幾つかの不備が重なり合って、彼らの運命がかくも悲惨なものとなってしまったと見るべきであろう。
 彼らがもう少し広い地域をカバー出来る地図を持っていたら、このような悲劇を防ぐことも出来たのかもしれなかった。
 南の方角へ歩き出せば、すぐに飛行機を発見できる位置であったのだ。機内に残っている水や食料を補給することが出来れば、生き延びることが出来ただろうし、そう遠くないところにオアシスすらあったのである。
 しかし、彼らとしてみれば、無人の飛行機が有人さながらに、見事に着陸をやってのけるなどとは想像すら出来なかったに違いない。
17年経って発見された乗組員の遺体には、アメリカの国旗が被せられた。死しても彼らの不撓不屈の精神は今なお讃えられている。
 一方、アメリカ軍の方でも、「善良な淑女」号が反対方向のサハラ砂漠の奥深くに迷い込んだとは想像すら出来ずに、もっぱら、地中海方面にばかり捜索機を出し、救命ボートが洋上に漂っていないかだけに気を取られていたのである。そして、ついに、敵の対空砲火に撃墜されたらしいという結論に達し、乗員の遺族には戦死認定が出されたのであった。
 思えば、水も食料もなく過酷な砂漠で、彼らが7日以上もの間、ぶっ通しで歩き通した事実は驚嘆に値すると言える。通常、そのような過酷な自然環境のもとでは、人間の限界は40キロほどだと考えられているのだ。しかし、彼らは実にその3倍以上の距離を歩き通したのであった。つまり、彼らは、自らの命と引き換えに偉大な記録達成をやってのけたことになる。まさに、前人未到の驚異的な金字塔を打ち立てたと言っても過言ではない。
 しかし、見方を変えれば、死に直面した人間の飽くなき生への執着心のなせる業だと言い換えることも出来るだろう。これも、戦争の残酷な歴史に隠された悲しい史実の一コマと言い切ってもいいのかもしれない・・・
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