忍びの世界
〜知られざる忍者の実体とは?〜
 ある時、ある場所で死を賭けた壮絶な戦いが繰り広げられていた。色づき始めたカエデの根本、その茂みにカムイは敵の気配を感じ取っていた。
(距離は三十メートルほどか、敵は少なくとも3名はいる・・・しかも、恐ろしく腕の立つ連中ばかりだ。空蝉も逆歩も変身も奴らには通用しない)
 すべてに静寂が支配していた。かすかに聞こえる風の音、木の葉のざわめき、小川のせせらぎ・・・それらに五感のすべてを集中して時間だけが過ぎ去っていく。一瞬なりとも気を緩めてはならない。茂みに残されたわだち、風に混じるかすかな気配、それら自然の中に漂う敵のかすかな気配を察知するのだ。・・・それは、忍びの術を会得し、感覚を異常なまでに研ぎすました者だけが感じることの出来る特別な能力なのだ。この非情な空間で生き延びることは並み大抵のことではない。集中力の途切れた時が死ぬ時だ。そう、先にしびれを切らした方が負ける。彼にとって、美しい小鳥のさえずりも虫の音も死の旋律を彩る伴奏以外の何物でもなかった。
 死闘はすでに三日三晩以上続いていた。沈黙の中で鋭い殺気同士が交錯する。彼はすでにかなりの体力を消費しており、これ以上の長期戦になることは是が非でも避けたい状況であった。遥か向こうの草原で、一人をかすみ斬りで倒し、後方の森でさらにもう一人を飯綱落で仕留めたものの、残りの手裏剣も少なくカムイは心理的に追い詰められていた。
 遠くでかすかに雷鳴が聞える。地平線から真っ暗な雨雲がむくむくと頭をもたげ出し、たちまち空一面を覆い尽くそうとしていた。この分では、夜半には嵐になるにちがいない。
(夜陰に紛れて逃れるべきか? ここで決着をつけるべきか?)
彼は思案に暮れた。
 にわかに木の葉がざわめき出した。
(風向きが変わりつつある・・・ここにいれば春花の術に陥る危険がある。これ以上の長居は禁物だ)
 カムイは、傍にあったカエデの大木に身を隠すと、一転して身をひるがえして枝に飛び移った。どこからか風を切って手裏剣が飛んでくる気配がする。カン!カン!カン!・・・と大木の根本に鋭い音を響かせて手裏剣の突き刺さる音がこだました。しかし、彼の姿はもうそこになかった。再び、何事もなかったように木の葉のざわめきとせせらぎの音だけが聞こえてくる。こうして、命をかけた息詰まる死闘は沈黙の中で続けられて行く・・・
 非人の世界から逃れようと自由を求めて忍びの世界に入ったカムイだったが、その忍びの世界でもカムイの求める自由などどこにもなかった。それゆえ、抜け忍となったカムイだったが、忍びの社会は裏切り者を断固として認めぬ非情な社会でもあった。次々とあらわれる追忍と死の罠だけが彼の命をつけ狙うのだ。それは、追う者にも追われる者にも栄光のない孤独な戦いなのだった。
 天敵に追われる獲物がどのように逃れようとしても、追い詰められ最後には敵の歯牙にかかるのが宿命である。そして、それが自然の掟というものだ。例え、自由を得ることががどんなに困難であろうとも、カムイはその壁を乗り越えねばならない。万に一つの望みを託して、彼の孤独な戦いは続いてゆく。自由への夢を夢で終わらせないためにも・・・
 (「忍法カムイ外伝」より)
 別名、透波(すっぱ)、乱波(らっぱ)、草者、隠密などとも呼ばれる忍者は、影で歴史を動かしたと言われ、一昔前には子供のあこがれの的であった。コミックで有名なサスケやカムイと言った主人公、また講談で知られた猿飛佐助や霧隠才蔵など真田十勇士は想像上のキャラクターだが、伊賀の忍者、服部半蔵や百地丹波(ももちたんば)、藤林長門などは実在した人物とされる。忍者の世界とは、本当に「カムイ外伝」のような世界だったのだろうか? 忍者の真の姿はどうであったのだろう?
 三重県と滋賀県にまたがる県境には、険しい山々に囲まれて外の世界と遮断されたような場所がある。南北に鈴鹿山脈が走り、北に伊吹山地、南に布引(ぬのびき)山地と言った標高1000メートル以上の山岳地帯にズラリと囲まれたその場所は隠れ里には持って来いの環境でもあった。その場所が伊賀・甲賀と言えば、今でも忍者を思い浮かべる人は多いと思う。
 ここは京にも近いことから、大きな戦がある度に、敗残兵や亡命者などがよく逃げ込んで来た所でもあった。
 逃げ込む方からすれば、追手を振り切り、行方をくらます好環境がそろっていたわけである。敗残兵や政治的亡命者などは、この地に流れ込むと、地元の諸豪や国人たちと混ざり合って、何百年か経つうちに独特な気風に成長していった。
 伊賀は一国の規模だが、国とは言えわずか8里四方そこそこの広さしかない。甲賀は郡なので伊賀よりもう一回り小さい。このような狭い地域に、一癖も二癖もある人間がひしめき合うものだから、独特な文化圏が生まれ育つのも無理からぬことであろう。
 人々の中には、再起して天下を目指す者、一旗あげようと虎視眈々とチャンスをうかがう者、虚々実々の駆け引きに日々明け暮れる者などが多く、おまけに反抗心と闘争心の塊と来ては、特異な社会になって行かざるを得ないのも当然だ。それに、この伊賀という土地は豊かでもなく、どうしても手に入れねばならぬような戦略上の重要拠点でもなかった。一度、織田信長がこの地を攻め取ろうとしたが、複雑な地形の上、神出鬼没の伊賀忍者軍に反撃されて損害を出しただけで得るものはなかった。つまり、攻めると手厳しく反撃され、例え、取ったところでたいして利益が望めるわけでもないのである。
 こういうわけで、伊賀・甲賀は、どの領主の配下にも置かれず放って置かれることになった。一種の独立国のような自治体制と言えば、聞こえはいいが、その実情は、小さな士豪が絶え間なく争っている状態であった。ひっきりなしに起こる小規模な戦闘は、速く走ったり、飛んだり、隠れたりする身体的能力の優劣がものを言う。そこで、それらを基本にした特異な武術、つまり忍術が発展することになったのだ。
 領主たちの方も彼らを力づくで支配しようという気はなくなり、その代わり戦が勃発し緊急事態になった時には、彼らの並外れた武術、つまり忍術で協力してもらうという暗黙の協定が出来上がってゆく。つまり、領主たちは彼らを戦専門の傭兵部隊として手なづけて置けばいいと考えたのである。
 国交が断絶して、風雲急を告げるようになると、彼らの出番となる。相手方の国情、軍事力、などの機密情報を盗み出し、味方に有利になるように持って行くこと、つまり諜報活動が彼らの主な任務であった。機敏ですばしっこい彼らは、商人などに変装して相手国に潜入し、地形、砦の配置から兵力、武器、弾薬、食料の備蓄具合までを探ったのである。こうして持たらされた情報をもとに、綿密な攻撃作戦が練られたのである。このように、戦雲がたれ込めて来れば来るほど、彼らの仕事が増えたのは言うまでもない。
 忍者の位には、上忍、中忍、下忍の三段階があった。上忍とは、戦略などを練る頭脳忍のことで、組織のリーダー格にあたる。下忍は命令を実行するための行動部隊である。中忍は、これら下忍と上忍とのパイプ役であり、言わば下士官のような存在であった。忍者が、最も活躍したのは戦国時代で、有力大名は、こぞって忍者を使って敵方の内情を探らせることに躍起になっていた。何しろ、彼らの持たらす情報によって戦局がどうにでも左右されたからである。
 織田信長が桶狭間の合戦で今川義元の大軍に奇跡的に勝てたのも、信長に重要情報を持たらした影の存在があったからだという。彼に今川の本陣の正確な位置を教えたのは武田信玄の軍師、山本勘介だと言われる。桶狭間という所は峰が深く谷が蛇のようにうねっている場所である。
 ここで陣を張る際には大軍と言えども細長く伸びてしまうのだ。要するに敵にとっては奇襲攻撃をかけやすい最適な地形であった。
 北に上杉謙信、東に北条氏康と手強い相手との睨み合いを続けていた甲斐の武田信玄としては、駿河の今川義元に京に上らせることは是が非でも押さえたい心境であった。
 そこで、山本勘介に命じて今川軍の動向を探らせたのである。忍者の持ち帰った情報により、義元が緩やかな谷あいの一軒の百姓家に本陣を構えたことを突き止めた勘介は、この機密情報を織田方に売った。
 この時、織田側は、義元の大軍の前になす術もなく次々と味方の砦が陥落しまさに風前のともしびであった。信長はこの極秘情報を入手するといちかばちかの賭けに出た。彼はにわかに起こった豪雨にも助けられたが、わずかの精兵だけを率いて発見されることなく敵の本陣に肉薄し、敵の総大将一人に照準を定めて全軍突撃し、見事、義元の首級をあげることに成功したのであった。
 また、本能寺の変がぼっ発した時、危険きわまりない敵だらけの山道を家康が無事に自国の三河まで逃がれることが出来たのも、伊賀の忍者、服部半蔵が先導したからだとされている。明智光秀は本能寺で信長を殺すと、取って返すように、その兄弟や子供にも大軍を差し向けていた。同時に、信長の同盟者を討ち取るために全軍あげてしらみつぶしの捜索を開始していたのである。家康は事件が起こった時、大阪の境に見物に来ていた。彼は、光秀が自分を捕らえようと血眼になっているのを知って愕然とした。街道沿いは光秀の兵に押さえられており危険であった。そのため、家康は伊賀の山中を突破し、伊勢の白子浜まで到達し、そこから海路で一気に岡崎まで逃げ帰る最短ルートを取ることにしたのである。家康はからくも逃げおおせることに成功したが、その間、ずっと生きた心地がせず、後日、この時の伊賀越えが自分の生涯で最も危険な数日間であったと述べているほどだ。
 これらの影の協力者がなければ、当時うつけ者あつかいされている信長が、桶狭間で義元の大軍相手に勝てることなど出来るはずもなく、土地勘のない家康が危険きわまる夜の山中から無事に逃げおおせることなど到底不可能であったろう。つまり、こうした影の存在がなければ、その後の日本史はずいぶん変わったものになっていたに違いないのだ。九死に一生を得て、忍者の必要性を痛感した家康は、これを機会に忍者の養成に全力を注ぐことになる。また、伊賀越えで家康を助けた服部半蔵は、江戸城の裏口、西側の門の警備を任されるまでになり、8千石の旗本まで昇進したという。彼の警備した西門は緊急の際、将軍の脱出口となる門で重要な役割を担っていた。現在、その門は彼の名を取って半蔵門と呼ばれ今にその名残をとどめているということだ。
 忍者の発祥の地はなにも伊賀・甲賀だけでない。全国にはそういった場所は何カ所かある。これらは歴史や風土などにも影響されて独特な個性を持つようになった。紀州の根来流、雑賀流、柘植流、北陸の義経流、美濃流、信濃の戸隠流、甲陽流、関東の風魔流、北条流、などが知られているが、それぞれの忍術には他には見られない特徴があり、また得意技も違っていた。
 伊賀と甲賀と言った流派は、土地柄上、似たようなものだと思われがちだが、それでも、それぞれに特徴があった。まず政治的には、甲賀忍者の方がすべてに要領がいいのに反して、伊賀忍者は自分の主義主張を貫き通すという頑固な面があった。狭い伊賀の小国内だけでも300ほどの砦があり、服部、百地、藤林といった勢力争いに加え、諸豪がひしめき合い、常に小規模な戦闘が絶えなかったのもその理由であろう。それに対して、甲賀は、まとまりがあり、領主、六角氏との間にも軍事協定が取り交わされており比較的安定していた。天正に起きた伊賀の乱の際にも、甲賀は信長の凄まじい攻撃を受けずに無傷で済んでいる。それは家康の口添があったからだとも言うが、こういうふうに、万事に処世術に長け、うまく立ち回ったということが言えるだろう。
 根来(ねごろ)や雑賀(さいか)といった流派は、火術に優れていたと言われ、特に鉄砲を用いたゲリラ戦術に秀でていた。当時鉄砲は火薬を使った強力な飛び道具とされ革命的な兵器であった。
 彼らの射撃術は天下一品の腕で、この特技を生かして有力な大名に取り込み、傭兵部隊として活躍することになる。
 石山本願寺攻略の際、彼らを敵に回した信長などは、何度攻めても撃退され、しかも、その度にものすごい死傷者を出したことが知られている。
 例えば、無人の陣地に自動的に発射する火縄銃を仕掛けておき、信長軍がそこに殺到すると、先を鋭く尖らせた竹筒の落とし穴が待ち構えているというのもあった。うろたえたところを今度は別な角度から狙い撃ちにするのである。味方の損害のあまりの多さに激怒した信長は、憎悪のあまり矛先を一転して彼らの本拠地を奇襲し、根絶やしにしてしまおうとばかりに、そこにいた女子供老人を皆殺しにしてしまったという。
 北条家に仕え、風魔と呼ばれた流派は、奇襲、策略、放火、流言などのゲリラ戦が得意だったらしい。この風魔忍者が最も活躍したのは、1581年に武田軍が伊豆に大挙侵攻して来た時で、風魔は北条軍の別働隊となって昼夜の区別なく奇襲を行い武田軍を大混乱に落し入れたことが記録されている。
 例えば、わら人形だけを乗せた馬や人の乗っていない馬を何度か武田の陣内に突っ込ませたりしたのだ。しかし、わら人形かと思って油断していると、その次は本当に夜襲を仕掛けて来たりする。
 また、誰も乗っていないと思えば馬の横腹に隠れていたりする。そして、陣中に侵入すると、手当たり次第に略奪、放火を繰り返したのである。しかも、武田軍の格好をしてそれをしたものだから、武田軍は敵味方の区別がつかずにパニック状態に陥った。
 睡眠不足から来る疲労も加わって、疑心暗疑に陥った武田軍は、同士討ちを何度も行ない大損害を被ったのであった。
 武田信玄も忍者を上手に活用した武将であった。信玄が用いた甲州忍術は、甲陽流とも呼ばれ、特に諜報活動に威力を発揮したことで知られている。この忍術の特徴は、女の忍者、くノ一を多数用いたことであろう。信玄は身よりのない少女をたくさん集めると、これに忍びの術を覚え込ませたのである。表向きは巫女ということだったが、その実体は相手国の国情を探るスパイであった。
 信玄は、こうした女忍者を全国に多数配備して広範囲な情報網を張り巡らせていたという。くノ一は、通常、手裏剣を投げたり忍者の格好をして行動しない。
 信玄は居ながらにして全国の情報をくまなく入手できたわけで、古文献などで信玄が脚長坊主と呼ばれるようになったのはこうした由縁なのだろう。
 また、特に美しい少女の場合は、側女として密かに敵方の城主に送り込まれたようである。もしも女が城主の妾にでもなればしめたもので、気心の知れた城主は財宝の隠し場所とか非常の際の脱出口とか軍事機密にいたるまで口にしてしまう。こうして得た情報は本国から来た連絡役の忍者にそれとなく手渡されたと言われている。
 真田家も忍者をよく使ったことで知られている。信州には戸隠流という忍法があり、軍略家と言われた幸村のもとで目覚ましい活躍をした。関ヶ原の合戦の時は、真田幸村、昌幸父子は、徳川秀忠の率いる4万とも言われる大軍に、わずか3千の手兵だけで真っ向から立ち向かった。
 その陽動戦術は実に巧妙で知略に富んだものであった。例えば、撤退すると見せかけて、敵をおびき出しとんでもない所から狙撃したり、せき止めておいた川を、上流で切ったりして大洪水を起こし、多数の敵を溺れさせたりしたのである。
 秀忠としては、当初、簡単にひねり潰せる相手だと判断したようだが、あにはからず、逆に大損害を受けて敗退してしまうことになった。
 結局、関ヶ原の決戦にも遅れるわで家康から大目玉を食らい、踏んだり蹴ったりの目に合うのである。
真田幸村、昌幸父子の居城だった信州の上田城
 大坂の陣でも、幸村の神出鬼没の奮戦ぶりに家康は切歯扼腕し、何度も煮え湯を飲まされたという。幸村のもとで活躍した戸隠流忍者は、神出鬼没のゲリラ戦を得意にしたと思えるが、この活躍ぶりがやがて真田十勇士の物語を生み出していくのも理解できるというものである。
 次に忍術の具体的な技術にはどのようなものがあったか検証してみる。まず、忍術とは攻撃の術ではなく、隠密裡に侵入して重要機密を盗み出すことであるから、もし、感知されそうになると、巧妙に隠れて逃げねばならなかった。
 そのために敵の目をけむに巻く隠遁(いんとん)術がいろいろ考案された。噸(とん)とは逃げることを意味する。
 中でも、樹木や草木を利用して身をくらます木噸(もくとん)の術、水かき、水蜘蛛などの水器をつけて川を渡ったり、筒を加えて潜水して逃げる水噸(すいとん)の術、大音響を発する投げ玉を投げて敵を驚かせる音噸(おんとん)の術、蛇、ガマ、蜘蛛、トカゲなどを放って相手の注意を向けさせる虫噸(ちゅうとん)の術、火のついた手裏剣などを放って敵の注意をそらせる火噸(かとん)の術、などがよく知られているところである。
 それでも、ひつこく食い下がられたら、どうするべきか? その場合、目つぶしや菱まきという方法で追手の足を封じ込める方法が取られる。ヒキガエルは皮膚から毒液を出すことが知られているが、この粉には麻酔成分が含まれていることが分析でわかっている。これを煎じて粉末状にしたものを、トンガラシの粉末、木炭などとともに、タマゴの殻や竹筒に仕込んでおき、敵の顔目がけて投げつけるのである。敵がこれで目をやられ盲目状態になって慌てふためく間に、逃げるわけだが、鉄製の菱を巻いておけば効果はいっそう増す。暗薬(あんやく)と呼ばれて煙を大量に発生させる装置もあり、これで姿をくらますこともあった。
 次に、怪しまれずに敵国に潜入し情報活動をするために、変装術はなくてはならぬ技術であった。普通は、虚無僧、商人、遊芸人、猿楽師などの職業人に化けることが多かったようだ。そのうえ、身なりを変えるだけではなく人相そのものも変えてしまわねばならない。そのために、大魚のうろこをコンタクトレンズのようにはめて盲人を装ったり、薬品を使って顔面に傷跡のようなあざをつくったり、人工的に腫瘍をつくって病人のふりをしたりすることもあった。また、あご髭やかつらを用いたり、義歯を用いて出っ歯にしたり口元を変えたりもした。白粉や眉墨、朱土、おはぐろなどで化粧をしたりすれば、他人に与える印象はがらりと変るものである。
 さらに声帯訓練も必要不可欠である。姿形を変えても声を変えることが出来ねば意味がない。声帯の微妙の締め付け具合いにより、高い声、低い声などを自由自在に出せるように研究せねばならない。
 それによって、人間の声のみならず猫や犬の遠ぼえからフクロウや虫の音まで、あらゆる擬声を出せるようにするのだ。なにしろ、暗闇で怪しまれずに仲間に合図を送ったり、敵をあざむいたりするのに必要不可欠だからである。
 また、忍びの術は、言語術にも精通しておかねばならない。昔は今とは違って地方色が大変強く方言になると外国語なみにわからぬほどであった。
 したがって、閉鎖的な地域社会に潜入する時は、よそ者と見破られないように方言もマスターせねばならない。しかし、実際問題、あらゆる方言に精通することなど簡単に出来ることではない。島原の乱の時、甲賀忍者衆が、島原農民の立てこもる原城の奥深くにまで潜入したまではよかったが、いくら聞き耳を立てても農民が何をしゃべっているのかさっぱりわからず、がっかりして引き上げて来たという話も残されているほどだ。
 五感を高める訓練も欠かせない。そのために、真言密教などの修行をひたすら繰り返すことにより、研ぎ澄まされた精神統一と集中力が備わるのだそうだ。それによって、聴覚、視覚、嗅覚、味覚などが十数倍にも高まると言う。例えば、雪のひらひら落ちる音や線香の灰が落ちる時のかすかな音さえも聞こえるようになるという。味覚一つ取ってみても、獣道か人の通る道かの区別が出来るようになるらしい。人の通る道の土は嘗めると塩っぱい味がするからだそうである。
 その他、普段から悪食に慣れて身体を強健にしておくことも絶対条件であった。そのための訓練として、食べられる動植物は何でも口にした。必然的に動植物に含まれる成分とか、それが人体にどのように効果を及ぼすかを身を持って体得するわけだが、薬効の知識も必要で日頃から研究していた。その結果、忍者は、さまざまな薬の作り方にも精通していたようで、毒消しの薬、胃腸薬、喉の乾きや便秘に効く薬、眠たくなる薬、眠れない薬、一時的に心がうつけ状態になる薬など、忍者はそうしたさまざまな用途に効く薬を携行していたという。
 次に、忍者がよく用いた武器だが、まず、刀は狭い室内で素早く動き回る必要上、普通よりも短く40センチほどで刀身は幅広で直刀系が多かった。さやは潜水時には筒として呼吸できるようになっていたし、つばは四角形で大きめにつくられていた。というのも、塀などを乗り越える際に、刀を塀に立て掛けて、つばに足をかけて踏み台としたからである。
 忍者の武器は何と言っても手裏剣であるが、種類は小刀型と車型などがあった。車型というのは、十字や八方、流れ卍の形をしたおなじみの手裏剣である。
 小刀型の手裏剣は、持ち運びは便利だが、狙った所に正確に飛ばして突き刺さるようになるには相当の練習をしなくてはならない。つまり習熟するのに時間がかかる。
 それに反して、車型手裏剣だと殺傷能力は低いがともかく前に飛ばせれば何とかなる。しかも短い時間で実戦レベルに上達することも可能だ。ただし、製作するのに時間がかかり携帯しにくく、持っていて見つかれば忍びの者だとばれるという欠点があった。
手裏剣の種類(小刀型と車型)
 しかし、車型手裏剣は、忍者にとって最もポピュラーで効果的な飛び道具であった。暗殺の場合は、この車剣の先にトリカブトなどの毒を塗っておき、十数メートルの至近距離まで接近し、息を止めて一発必中の構えで前に重心をかけ、敵の急所目がけて一気に投げつけるわけである。
 その他に、角手、鉄拳、分銅、独鈷(どっこ)、十手などの武器があった。角手とは指や手にはめるメリケンサックのようなもので、敵の白刃を受け止めたりする。
 分銅とは鎖の先に銅の固まりがついており、これを回転させて敵の刀に巻き付けたりして動きを封じ込める。その際、右手には角手をはめて保護し、セットで使用するケースが多かった。
 鎖かたびらは防弾チョッキのようなもので、鎖で編まれたチョッキ状のものを上半身に着て使用するが、とにかく重い代物で動きが相殺されてしまうので、隠密裡に潜入しなければならない時には使用されることはなかったらしい。
角手と鉄拳(上)忍び鎌(下)
 さらに、火薬と小石を混ぜて箱に入れ、その上に火縄を絡ませた地雷のような兵器もあった。これは埋火(うずみび)と呼ばれ、土の中に埋めて使用するが、敵がその上を踏むと、火縄の火が内部に点火され大爆発を起こすというものである。こうした仕掛けを応用して、ホウロクの火と呼ばれる時限爆弾なども考え出されていた。城などに忍び込んだ時、ある時間が来ると爆発させ、その大騒ぎの間に重要機密を手に入れて逃げ去るのである。その他にも、煙硝や硫黄をミックスした一種の催涙ガス弾のような手投げ式の弾とか取火(とりび)という火炎放射器のような武器、各種の火矢(ロケット式噴射弾)まであったというから驚きである。
 当時は火と言えば、炭とか薪ぐらいしか知らなかった時代である。それが、原始的とは言え、現代のゲリラ戦に使用される兵器の原型をすでに考案し実用化していたのだから、忍術の驚くべき斬新さがわかるというものである。
 当時の人々にとって、怪しげな忍術を駆使する忍者が魔法使いか妖術師のように映ったとしても無理のないことであろう。
 このように忍術とは、自然界の現象を最大限に利用する反面、化学や物理、果ては人間の心理にも熟知しておかねばならなかった。役者なみの演技力も必要だし、月の満ち欠けなどの時刻を正確に知り、夜の山中でも現在位置を把握せねばならない。つまり天文学と地理学にも通じておかねばならないのだ。こう考えると、忍術とは人智の限りを尽くして到達した精神修行と科学的闘争手段の結晶と言えそうだ。
 戦国時代が終わり、泰平の世になると、忍者は本来ある姿を変え始めた。家康は、伊賀忍者や甲賀忍者の目覚ましい働きに感謝して、その功労に報いるため、江戸城の本丸、大奥、大手門といった重要部門の警備を任せるようになったが、これは敵方に潜入して命がけで諜報活動をする従来の忍者の仕事とだいぶ違うものであった。
 これでは、もはや忍びの者ではなく警備員かガードマンである。
 また、最初のうちこそ、隠密役として、各地を放浪して幕府にたてつく大名がいないか内情を探らせたこともあったが、諸大名は、おおかた従順で、幕府の怒りに触れて取りつぶしの目に合うのを恐れるばかりに、必要もないのに、城の見取り図から濠の深さ、井戸の数など自分から申告してくる始末であった。
 こうなって来ると、忍者はもはや用済みであった。つまり、敵対する勢力もなく探るべく秘密もないのに、黒装束の忍者をわざわざ城に潜入させる必要もなかったのである。
 こうして、忍者は本来の仕事では食って行けなくなり、特技を生かしてさまざまな職種に鞍替えすることを余儀なくされていった。薬に通じた甲賀忍者の場合、全国を渡り歩く薬販売の行商人となり、火術に秀でている忍者は花火師になったりした。風魔の頭領だった小太郎は、盗賊となり江戸の町人に恐れられたという。庭師に化けて大名の邸宅に入って情報活動をしていた者は、今度こそ本当の庭師になった。古着屋になったり吉原で遊郭を開いた者もいる。後は宿屋、風呂屋、古物屋などといった職種が多いようだ。資金もなく顧客にも恵まれない忍者は虚無僧や大道芸人になるしかなかったようである。
 明治時代になると、ある老人が、生活に困った忍者が、江戸城の堀に潜水して鯉を手づかみにして見せて通行人からなけなしの見物料を取っているのを見て、忍者もついにここまで落ちぶれたかと情けなく思ったという話もある。忍術とは戦いのための技術であり、戦いそのものがなくなってしまえば、忍者も存在する意味がなくなるという、言わば需要と供給の原理がいつの時代でも貫かれているということだろうか。
 しかし、今日、忍術が残したものも少なくなく、現代の日常生活に溶け込み生き続けていることも確かだ。日常、「すっぱぬく」とか「すっぱ抜かれた」という表現で何気なく使われる言葉も、忍者を意味する隠語「すっぱ」から来ているものだし、忍びの術は現代人の処世術にも通じるところが多い。つまり、忍びの術の心得は、高度に複雑になった現代の情報社会を生きて行く上でなくてはならぬものだと言ってよい。
 忍術とは、状況の変化に応じて、時に耐え忍び、時に相手の心を読み、時に奇想天外な手段に出る。つまり、目標に到達するために変幻自在に対応できる精妙で合理的な考え方なのである。
 決して、不正をして人を惑わし陥れる術ではなく、最高度に完成された人間業の極地とでも言い換えることのできる戦術なのである。
 さらに突き詰めれば、弛まざる精神修行によって研ぎ澄まされた集中力の中にこそ、秘められた人間の最大の力があることを証明した科学的理論とも言えよう。
交際、仕事、外交、日常の細々した事柄まで、すべて忍びの心得を基本にすればうまくいく。
 交際や勉強、仕事上の取引から国際間の外交に至るまで、忍術の理念を知り、それを身につけて応用すれば、必ず成功し勝てると言い切っても過言ではない。その時、きっと、あなたの未来は画期的なものに変化するはずだ。
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画像資料参考・・・伊賀流忍者屋敷パンフレット

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