陰陽師の世界
〜呪術と怨霊に支配された奇怪な世界を探る〜
* 陰鬱な闇との戦い *
 日はすでに沈み、あたりには闇が広がっていた。屋敷の周囲には、あかあかとかがり火が焚かれていたが、宮中には陰鬱な空気が漂っていた。御簾の中には美しい姫君が寝かされていた。しかし、恐ろしく青ざめたその表情には、はっきりと死相があらわれていた。紫色になった唇からは、苦し気な息づかいが漏れている。それは、彼女の容態が予断を許さぬ事態に陥ったことを物語っていた。生死のはざまで彼女のいたいげな命は揺れ動いていた。
 死がまさに彼女を捕らえようとする時、祭壇の前で祈祷を続けていた晴明は、やにわに立ち上がって闇の一角を睨み付けた。彼の視線の先には、白いモヤのようなものが次第に形をとりつつあった。
「リン、ピョウ、トウ、シャ、カイ・・・」大声で呪文を唱えながら懐から何かを取り出した晴明はそれに向かって投げつけた。「立ち去れ!悪霊!」「ぎぇー!」漆黒の闇の中で、姿をあらわした物の怪は、突如、悲鳴のような恐ろしい断末魔の叫び声をあたり一面に響かせると霧のように消え失せていった。呪詛が解かれた瞬間だった。後は何事もなかったように、かがり火のパチパチとはぜる音だけが聞こえて来る。次第に彼女の顔色から赤みが戻っていくのが感じられた・・・
 怪異や天変地異、物の怪、怨霊が世を乱すと思われた平安時代。人々は神、霊、鬼、精をものと呼んで恐れた。ものは人に取り憑き、ある時は疫病を流行らせた。どこからともなく現れ、人々に不幸を持たらす妖怪変化、それらと戦い、あるいは前兆を読み、不浄を取り除くことが陰陽道の役割だった。陰陽道をきわめるには、常人にはなし得ない特殊な能力と屈強な精神力が要求された。人々は畏怖の念をもって彼らを陰陽師と呼んだ。
* あらゆる吉凶は縁起に支配されていた平安時代 *
 平安時代は、平安という言葉とはうらはらに闇と迷信が支配した恐ろしい時代だった。今の価値観では到底計り知ることの出来ぬ感覚が根づいていた。遺体の処理にしても現代とは、だいぶ異なるものであった。人が死ぬとそのまま川に流したり、一か所に集められて放置されるのである。もし、疫病が流行ろうものなら、人がバタバタと死に、たちまちどこもかしこも死体だらけとなる。
 何千何万という死体が方々に山積みにされ、野犬が人間の手足の一部をくわえて、街中を走り回るという身の毛もよだつ光景が展開される。
 鴨川は、遺体を水葬にする場所と変わり、世界遺産に登録された清水寺は遺体の集積所に成り果てるのである。
 しかし、いくら川に流すと言っても、あまりに多くの死体を一度に流すものだから、川底に遺体が集積され、そのうち川の流れを塞き止めてしまう時もあった。
 こうした状態で、雨が降って水かさが増すと、半分腐りかけて死蝋化した死体が、プカプカと民家の床下にまで漂って来るのである。
平安時代、今日の観光名所でもある風情ある景観は、おぞましい死体置き場に早変わりする。
 人々の生活も、一日先も読めない不安定きわまる環境の中にあった。いつ、干ばつや飢饉が起こって餓死することになるかわからなかった。朝、得体の知れない熱病で床に伏した人間が、夕刻には冷たい骸と化してしまうのも珍しくなかったのだ。こうした時代では、人間の運命など、目に見えぬ超自然的な存在に操られていると考えられるようになるのも当然だったかもしれない。
 やがて、災害や疫病の大流行などは、恨みを残して死んだ人間の怨霊や悪霊の祟りであり、わけの分からぬ奇怪な自然現象は、物の怪など妖怪変化の起こす仕業であると信じられるようになっていった。こうして、人々は、闇におびえ、ないはずのものに恐怖するようになったのである。貴賎の区別なく、人々はさまざまな魔よけの儀式を生活に取り入れるようになった。大きな屋敷では、悪霊や物の怪が入り込み、人に取り憑くことがないように、随身(ずいじん、護衛の者)が定期的に弓の弦をはじいて大声を上げるというまじないが夜通し繰り返されていたという。
 しかし、こうした当時の人々の生活の様子を嘲笑うことは出来ない。あなたも、田舎の古ぼけた屋敷にでも行って、そこで一人っきりになって、真っ暗な部屋の中で蝋燭のわずかな光だけで一日でも過ごせば、その頃の人々の心が少しはわかるだろう。真夜中、自然のつくり出すどんな現象もあなたにとっては、心理的な恐怖以外の何物でもなくなるはずだ。外で吹き荒れる風の音が死霊の雄叫びにも聞こえ、蝋燭の光の届かぬ部屋の隅には奇怪な物がうごめく気配を感じてしまう。天井裏で時たま起こるきしみ音に、心臓をわしづかみにされたような恐怖を覚え、木々のざわめきが怨霊のささやく声にも聞こえて来る。月の明かりでかすかに見える大木が身の丈5メートルほどの鬼の姿にも思えて来るものだ。
* 陰陽五行に支配された貴族の生活 *
 ある平安貴族の一日は、朝起きて、自分の生まれ年に相当する星の名前(これを属星、しょくせいという)を小さい声で7回唱えることから始まった。しかしその時は決して大声を出してはいけない。
 それから鏡を見て時分の顔を確かめる。呪詛をかけられていないか確かめるためである。
 次に、暦を見て本日の吉凶を調べる。洗面を済ませた後、仏名を唱えて自分の崇拝する神社を拝むのである。
 また、手の爪を切る時は丑の日(土曜日)に行ない、足の爪は寅の日(木曜日)に切らねばならない。
 月の第1日目に沐浴をすれば短命に終わり、8日に行えば長寿につながる。庚申(こうしん)と言って日の忌みには寝ずに徹夜せねばならなかった。
北斗七星と属星の配置。貪狼星(たんろうしょう)は子年、巨門星(きょもんしょう)は丑年、禄存星(ろくそんしょう)は寅と戌年、文曲星(ぶんきょくしょう)は酉年、廉貞星(れんていしょう)は辰と申年、武曲星(ぶきょくしょう)は巳と未年、破軍星(はぐんしょう)は午年に当たっていた。
 このように、何をするにも吉凶日が決められており、貴族の生活はさまざまな制約を受けていた。こうした決まりは、日々の細かな生活から、年に幾度か行われる行事に至るまで、すべてに徹底的に浸透していたのである。
 ある所に出かける際にも、運気の悪い時は方違え(かたたがえ)と言って方向を変えねばならなかった。つまり、その目的地に行こうとする際、その方角の神の座を汚すことにより、祟られてしまうのを避けるという意味で、ストレートに向かわず、いったん違う場所に行って、そこから目的に向かうわけである。そうすることにより方角を変える事が出来るのだ。しかし、それも忌遠行(とおくゆかず)という日に重なればそれもできない。その日は遠距離の移動は差しひかえねばならないからだ。また、方忌み(かたいみ)というものもあり、その日はその方角で行うあらゆる活動自体がタブーとなり、その方角に立ち入らないようにせねばならないのである。
 方違えにしろ、忌遠行にしろ、方忌みにしろ、現在の感覚からすれば、何とも非能率的で要領の悪い事このうえない考え方だと思うだろう。何しろ、運気が悪いというだけで、目的地には直接行けず、わざわざ遠回りをして2倍、3倍の時間をかけて行かねばならないし、遠出自体が出来ない時もある。あるいは、やりたいことがあっても、その方角では一切何もすることが出来ない日もあるのだ。まことにあきれるばかりである。だが、これが当時の価値観なのだから仕方がない。
 もし、これを破って、直接向かったり強引に立ち入って行えば、何かとんでもないことが起き、恐ろしい結果を招くことになりかねないのである。鎌倉時代初期の歌人、藤原定家が、ある日、西の湯殿(浴室)を修繕していたところ、何気なく引き抜いた柱を見て、今日が西の方角で地面を掘る作業の忌み日であることを思い出したことがあった。彼は、たちまち青くなって慌てて柱を元に戻したということである。誰しも禁忌(きんき)を破ることには恐怖観念が付きまとっていたのである。
 また、カラスが門や屋根にとまったり、調度箱がネズミにかじられたりすると、怪異だと言って大騒ぎをし、不吉な夢を見たと言っては、物忌札(ものいみふだ)を立てて外部との連絡を断ち薄暗い部屋の中に籠ったりするのである。雷が落ちて人が死んだり、害虫が大量に異常発生したりすると、それはもう大変なことで、不吉な前ぶれと見なされ、加持祈祷をさせたり、その原因究明のために大袈裟に占いの座が設けられるのであった。
 このように、貴族の生活はどこに行って何をするにしても、すべてが不合理な縁起事に影響されていたのである。こうした不安だらけの日常にあって、これら命を脅かす悪霊、怨霊、物の怪などから身を守り、怪異や病気の原因を占い、災いを避けるための呪術宗教が陰陽道(おんみょうどう)なのであった。
* 陰陽師の役割 *
 陰陽道とは、陰陽説、五行説といった中国古代の思想を基本に、天体の運行や方位などから生まれた暦の概念、つまり、十二支、八卦(はっけ)などが組み込まれた、まことに、壮大で複雑怪奇な理論であった。しかも、これは日本に持たらされてさらに独自に発展することとなるのである。
 陰陽説とは、すべての自然現象を陰と陽から判断するという考えで、つまり、基本的にすべての物事は陰と陽のどちらかに区別されてしまうというのである。例えば、太陽と月、夜と昼、現実と夢と言ったふうに相反する性質で成り立っているのである。陰気、陽気という言葉があるが、それにしても気というものが、消極性である陰や積極性である陽を帯びたものとして、変化したものであるという意味で使われるのだ。これは、人の性格として言い表されれば、もっとよく分かるのかもしれない。
 五行説とは、この世は木、火、土、金、水(もっかどこんすい)という5つの物質で成り立っているという説で、これはどういうことかと言えば、木はそれ自体擦り合わせることで火を生じる。火は樹木など燃やし尽くして灰となり、土を生じさせる。土の中から金属が掘り出される。金属の表面に水滴が生じて水となる。水は樹木を育む。
 ということで、つまり、5つの物質はその性質を変えながらも、永久に循環を繰り返すということを意味している。五行説には、それぞれの物質の対立関係をあらわす相剋説(そうこくせつ)と互いに生み出す関係をあらわす相生説(そうしょうせつ)の二つがある。いずれも、5つの物質により森羅万象が成り立っていることを示すものである。
五行の関係をあらわした相生図。5つの物質により森羅万象を説明するものである。
 ここまで、陰陽道とは、陰と陽の二つの変化に、五行という5つの変化の相関関係から成り立っているらしいことがわかった。しかしそれだけではない。これに、十二支、八卦などの天文や暦、時刻、方位といった概念が加わわって来るのである。現在でこそ、単に日々のスケジュールを管理するだけの日程表に成り下がってしまった感がある暦も平安時代では違っていた。そこでは、十二支や時刻、方位などは、当時の人々の生活に重大な影響をおよぼしていたのである。
 まず、八卦とは、古代中国で考案された易で、自然界の現象を八つに分類したものとされる。宇宙の万物生成過程は、太極、両儀、四象、八卦の四段階があるという。
 太極とは陰陽が分かれる前段階で、これが陰陽に二分された段階が両儀なのである。この両儀からそれぞれから新しい陰陽が生じて4つに分かれたものが四象と呼ばれる段階となる。
 さらに、この四象から、それぞれ、また新しい陰陽が生じることによって4番目の段階、八卦となるとされている。
太極図。陰と陽が分かれる前の状態の太極はこのようなイメージで描かれる。
 十二支は、一年12か月の順序をあらわすとされ、それぞれが相当する動物で表記されるのはよく知られているところである。これは、歳の他、月、日もあらわし、さらに方向や時刻もあらわす。
 つまり、陰陽道とは、陰陽五行説と言った空間的概念に天文、時間などの暦が加わった日本古来の呪術体系なのである。
 自然界の陰陽と五行の変化を観察して、そこから人間界に起こるさまざまな吉凶を読み取ろうとする考えとでも言えばいいのだろうか。
 すなわち、物事に吉凶が発生するのも、森羅万象とそれらを取り巻く天体の運行や宇宙の動きの因果関係の中で起こるものと考えられていたのである。
 しかも、運気は不変ではなく、時と場所が変われば、当然、変化する。つまり、吉凶が逆転することだってあり得るのである。
 昨日、運勢のよいと思われた方角や場所でさえ、明日になれば不吉な災厄を持たらす場所に変化する可能性だってあるということなのだ。
陰陽道は、中央の属星をあらわす北斗七星と天盤と地盤の組み合わせによって占いがなされていた。これを六壬式盤(ろくじんしきばん)と呼んだ。
 このように複雑に日々刻々と変化する気という性質を読み取り、対応し、降りかかるであろう災難を予知したり、あるいは、呪文を唱えて災厄を未然に防いだり、方位などに当てて運勢や方位の吉凶を占うのが陰陽師の仕事であった。中でも、式神を操作して悪霊や妖怪変化を退治することは陰陽師の重要な役割だった。
 式神(しきがみ)とは、陰陽師の手助けをする精霊のようなもので、獣や鳥、ある時は童子の姿となって陰陽師の手となり足となっていろいろと働く存在である。
 つまり、陰陽師の能力は、この式神をいかに使いこなすかによってその優劣が決まって来るといっても過言ではない。
 陰陽師は、この式神を使って、相手に呪術をかけたり、あるいは、妖怪変化と戦ったりするのである。
晴明が祭文を読み上げて祈祷している様子。晴明の後ろは、供え物をもらいに来た付喪神(つくもがみ)の姿が見える。
 しかし、この式神という存在、使い方が難しく場合によっては自分に跳ね返って来ることもあった。宇治拾遺物語にはそういった話がある。ある時、若く美しい蔵人の少将を妬んだ者がいて、陰陽師に頼んで少将を亡き者にせんとしたことがあった。ところが、少将は気の毒に思った晴明によって助けられることになる。晴明は徹夜で呪文を唱えて加持を行い、少将の命を守ったのである。結局、晴明の力が勝っていたために、少将を殺そうとして放った式神が、逆に戻ってきてしまい、陰陽師を殺してしまうことになった。これなど、式神が両刃の剣的存在であることを示す良い例と言えよう。この他、家相や墓相などと言った地相を占う技術、すなわち、風水も陰陽師の担当であった。
* 最強の陰陽師、安倍晴明 *
 平安時代には、多くの陰陽師が活躍したが、その中でも最強の力を誇ったのは、何と言っても、安倍晴明(あべのせいめい)であろう。
 晴明は921年に生まれ、1005年に84才で死去したことになっている。つまり、彼はかの紫式部や清少納言と同じ頃に生きていたのである。出生地は定かではない。
 幼い頃から、陰陽道の大家、加茂忠行(かものただゆき)の弟子となり、地道に修行を続けて術を磨いたと言われている。
 その後、宮廷陰陽師として、花山、一条天皇、中宮彰子(しょうし)などの王室や3人の娘を天皇に次々と嫁がせて、絶大な権力を手中にした藤原道長などの摂関貴族のための顧問役のような存在となり大活躍をした。
安倍晴明(921〜1005)平安時代を代表する陰陽師、右に松明を持っているのは式神。  何か祭祀や行事がある度に、日時の選定や占いなど一手に引き受けたのも晴明であった。
 今昔物語や宇治拾遺物語には、晴明の驚くべく超能力が記されている。例えば、晴明が草の葉を摘み取って数匹のガマガエルのいる方に投げたところが、葉が触れたとたんにガマガエルは、すべてうら返って死んでしまったという話や花山天皇の出家を遠く離れた場所から察知したという話などがそれである。まだ、晴明が加茂忠行の弟子だった頃、真夜中、百鬼夜行の接近を察知して危うく難を逃れたという話もある。
 その当時は、京の街と言えども、夜もふけると恐ろしい鬼どもがばっこする時代であった。まだ幼い晴明は、向こうの闇から異様な一団が近づいて来るのを察知した。どれもこれも身の丈5メートルはあろうかと思われる鬼どもで、赤や青のもいて不気味なことこの上ない。しかも口々に「諸行無常・・・」と声を上げながらこちらに歩いて来る。もし、見つかれば、たちまち、取って食われてしまうのは間違いなかった。そこで、急いで横で眠っていた師匠の忠行を起こしてそのことを告げたのである。忠行は、目を覚ますと、急いで鬼どもから自分たちを見えなくする術を使った。そして、間一髪のところで難を逃れることが出来たのであった。その他、日照りがつづいた時、雨乞いの儀式を行ない、見事、大雨を降らせたことも記されている。このように晴明の非凡な力を讃えた話は多い。
* 晴明と道満の息づまる術くらべ *
 しかし、晴明に並び称される陰陽師がもう一人いる。蘆屋道満(あしやどうまん)である。道満は、播磨の国(兵庫県加古川市付近)の陰陽師で、その卓越した能力は他に並ぶ者がないと言われているほどであった。性格はわがままでごう慢であったが、人々は彼を恐れて敬っていた。しかし道満は、都に宮中一と噂される陰陽師がいるのを知って内心穏やかではなかった。誇り高い道満としては、自分よりも力のある陰陽師の存在を許すことが出来なかったのである。そこで道満はその陰陽師と術比べをして、どちらが天下一の陰陽師か白黒を決着させるために京に上ることにしたのである。無論、その相手とは安倍晴明である。
 多くの説話集で道満と晴明の術による対決が物語られている。仮名草紙には、晴明と道満の術比べの話が紹介されているが実に圧巻である。
 対決は帝の南殿の庭先で行われることとなった。すでに、帝を始め、公家、殿上人が残らず勢ぞろいしていた。女房たちも御簾の中から見守っている。
 庭の周囲にはいろいろな役人連中が取り囲んでいた。人々はこれから起こる晴明と道満の対決を固唾を飲んで見守っているのである。
 道満はまず、庭の白い小石をむんずと握りしめると、気合いを込めて空中に放り投げた。すると、どうだろう。白い小石は、たちまち数十匹のツバメとなって、勢いよく宙を舞い始めたではないか。人々の中から息を飲むようなどよめきが起こった。
安倍晴明の活躍を描いたという江戸時代の仮名草紙。浅井了意作。
 それを見た晴明は、ゆっくりと立ち上がると、何事もないような仕種で扇を広げてポンと軽くたたいた。すると、今まで風を切るように舞っていた数十匹のツバメは元の小石となってたちどころに落ちてしまった。この光景に、すべての者は感心してただただ溜め息をつくだけであった。
 今度は、晴明が陽明門の方に向き直ると、やにわに呪文を唱え始めた。
 すると、どこからか真っ黒な雨雲が現れ、たちまち空を覆いつくしていった。あたりは真っ暗となり、まるで夜にでもなってしまったかのようである。
 突如、目もくらむような閃光がほとばしり、続いて耳をつんざくようなけたたましい雷鳴が響き渡った。殿上人の何人かは、びっくり仰天して尻もちをついてしまった。
 たちまち、天と地がひっくり返ったようなどしゃぶりとなり、南殿の庭先は水びたしになってしまった。あまりの凄まじい雨音に耳を覆いたくなるほどである。雨の勢いはものすごく、みるみる南殿の床下まで水かさが増して来た。
 庭先にいた役人たちは、腰まで水に浸かってどうしていいものか戸惑っている。人々の着物はびしょ濡れになり、おろおろするだけである。道満がさかんに念じているが、それを止めさせることが出来ない。
晴明と道満の術比べ。帝の南殿の庭先で行われた東西最高の陰陽師同士がぶつかり合う対決シーンは圧巻である。(江戸時代の仮名草紙から)
 やがて、洪水のようにあたりは濁流が轟々と渦を巻き始めた。人々はうろたえ始めた。これでは舟が必要なほどである。
 やがて、頃合いを見計らって、晴明が何事か唱えると、今までの悪夢のような嵐は、嘘のように晴れ上がり、たちどころに水は引いていった。気がついてみると、今までびしょ濡れだと思われた人々の着物は、完全に元に戻っているではないか。人々は互いに驚きの表情を隠せず、あっけに取られてざわめくばかりであった。
 形勢が悪いと見てとった道満は帝に申し出た。
「このような術比べは、ただムチャクチャなだけで意味がございません。次ぎなる占いで勝負を決めた方が良いと思います」
 そこで、長櫃(ながびつ、長方形の箱)が奥から引き出されて来た。その中に何があるか当てて見よというのである。まず、道満が中に大柑子(だいこうじ、夏ミカンのこと)が15個入っているはずですと言った。

晴明は、長櫃に近づくと目を閉じて何やら念じて言った。
「いいえ、この中にはネズミが15匹いるはずです」

 この瞬間、前もって中身が柑子であることを知っている帝以下の殿上人は、晴明が占いを仕損じたと思った。誰もが道満の勝ちだと思った。だが、誰もが晴明に勝たせてやりたかったので、蓋を開けるのをしぶっていたところ、当の晴明自身が早く開けるように促して来るので、仕方なく役人が長櫃に近づいて蓋を開けた。すると果たして、入っているはずの柑子はなく中には15匹のネズミがいるだけだった。ネズミは蓋を開けたとたん、チュウチュウと鳴きわめいて四方八方に逃げ出していった。つまり晴明は、中に柑子が入っていることを事前に見ぬいた上、術でそれらをネズミに変えてしまったのであった。こうして、術比べは晴明に軍配が上がり、道満は恐るべき晴明の力の前に負けを認めて、ただただ脱帽して晴明の弟子になったということである。
 芦屋道満は、民間の陰陽師として実在していた人物だとされているが、江戸時代になると、晴明の悪役的なライバルとしてかなり脚色されてしまうことになる。事実は、道満の生きた頃には晴明は生存しておらず、二人が術比べをしたことはない。1021年の法隆寺建立の時にも、晴明が道長を呪詛した者を見破る話も出て来るが、法隆寺建立の時と言えば、この時、すでに晴明はこの世におらず、これも超能力者としての晴明を際立たせるためにつくられた逸話に過ぎないのである。
* 廃止された陰陽道 *
 安倍晴明の影響で、陰陽師は平安時代の特産物だと思われている節があるが、陰陽道がもっとも普及したのは江戸時代で、その頃、陰陽師は人気の絶頂であった。
 しかし明治維新になって、宗教政策が変更され、太陽暦に移行すると陰陽道は廃止され、それまで絶大な権威を誇示していた陰陽師は消え去る運命にあった。
 こうして、病気や災害の占い、日時や方角の吉凶の判断を主軸として、約1千年もの間、民衆の生活に深くかかわってきた日本固有の呪術宗教、陰陽道は社会の表舞台から消えてゆき、世に存在しなくなったのである。
京都上京区にある晴明神社。晴明没後1000年にあたる2005年には、ブームに乗じて、信じられないほどの人々が殺到した。
 今では陰陽師というと、占いや憑きもののお払いなど、まるでエクソシストのような感覚で捉えられている面も否定できない。まるで、陰陽道成立の背景となった社会の実情が無視されたかのようである。そこでは、かつて人々が喜び悲しみ、恐れ敬って生きた赤裸々な生活感情があったのである。何かもの悲しく感じてしまうのは私だけではないだろう・・・
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