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アナスタシア伝説
〜ロマノフ王朝の末娘アナスタシアにまつわるミステリー〜
歴史の闇の中に葬られ、真相が謎に包まれる時、
   ミステリーは、神秘のベールを帯び、伝説が生まれる。
 嵐が始まろうとしていた。革命という嵐が。ロマノフ王朝はまさに風前のともしびだった。民衆の不満は最高頂に達し、宮廷の内外でもテロや陰謀が頻発していた。崩壊はいつ訪れてもおかしくないあり様だった。1914年に勃発した第一次世界大戦も3年目になると、ロシアは戦いに疲弊し、民衆の不満は最高頂に達していた。
 そして、1917年、早春、ついにその日はやって来た。手に手に武器を持った民衆が、粉雪の舞う広場になだれ込んでゆく。彼らの目には憎悪の炎がありありと映っていた。あたりには、殺された警備の兵が折り重なるように無惨な屍をさらしている。人々は口々に「自由を!」「平和を!」などと叫びながら走っていた。民衆が群がる遥か向こうには、独裁体制を象徴するかのように、冬宮殿のシルエットが曇り空におぼろげに漂っていた。
 かくして、3月革命によって樹立された臨時政府は、独裁君主体制の廃止を宣言。ここに皇帝ニコライ2世は退位し、ついに300年間続いたロマノフ王朝も終焉の時が訪れたのである。この日以来、皇帝一家は臨時政府によって逮捕され、長い不自由な幽閉生活を余儀なくされることになる。しかし、民衆にとっては、平和どころか、それ以上に長い苦痛と忍耐に満ちた時代になるとは誰も想像すらしなかった。
* 恐怖と忍耐の日々 *
 臨時政府によってた監禁された皇帝一家は、最初はペトログラード郊外のツアールスコエ・セローにある宮殿に軟禁された。次いで、半年後には、シベリアのトボリスクに移された。さらに翌年の4月になると、ウラル地方のエカテリンブルクに移送され、そこにある大きな館に幽閉された。この館はイバチェフという富商の屋敷だったが、皇帝一家は、死の直前まで、この館に閉じ込められたのである。一体、皇帝一家の苦渋に満ちた死が訪れるまでの足取りとはいかなるものであったのか?
 ニコライ2世には4人の娘と長男がいた。まず、長女のオリガ21才、次女のタチヤナ20才、三女のマリア19才、四女のアナスタシア17才、唯一の男子であった皇太子アレクセイに至ってはまだ14才だった。(1918年7月時点)末娘のアナスタシアは4姉妹の中でも一番小柄で、性格も明るく茶目っ気たっぷりで、よく人の真似をして笑わせるのが好きな子だった。そのためか、夫妻はことのほか、アナスタシアを可愛がった。
 しかし、皇太子のアレクセイは生まれた時から血友病という重い難病に苦しんでいた。それは、皇后アレクサンドラの家系から持たらされたものであった。
 そのためか、アレクサンドラは我が息子の難病に心を痛め、神経をすり減らす毎日であった。おまけに自らも心臓病を患っており心身ともに衰弱が激しかった。
 そのためか、あれほど美しかった容貌も、見る影もなくやつれ果て、あまりの老けように周囲の者も驚くばかりであったという。皇后が神秘主義の世界に浸ることになっていくのも当然であったろう。
ニコライ2世とその家族、手前に皇太子のアレクセイ、後ろ左から3女のマリア、2女のタチヤナ、長女のオリガ。ニコライ2世の左には皇后のアレクサンドラ、右には4女のアナスタシアがいる。
 そうした最中、皇后は、知り合ったばかりのラスプーチンという巡礼僧に心を奪われるようになる。後世でも超能力者として知られることになるこの怪人物は、これ以後、皇后や皇女たち、お付きの女医、さらには、多くの女性の心を魅了して、宮廷内に深く入り込み大きな影響力を持つようになるのだ。それというのも、皇太子アレクセイの難病のせいで、ラスプーチンは、最初宮廷に呼ばれた時、ベッドに横たわるアレクセイに何事かやさしく話し掛けたのである。話の内容は、何か、妖精の出て来る童話かおとぎ話だったのかもしれない。すると、アレクセイは急に見違えるように元気になって、ベッドから上半身を起こし、ラスプーチンの不思議な話に耳を傾け出したのである。今までの医者が相手なら考えられぬことであった。
 あれほど、元気のなかったアレクセイが、目を輝かせて、じっとラスプーチンの話しに聞き入り、やがて、話の続きをねだるなどとは想像も出来ぬことであった。
 そして、それと同時に出血は治まり、苦痛も嘘のように消え去ってしまったのである。それは、まるで、ラスプーチンの超自然的なパワーが難病を消し飛ばし、逆に生命力を吹き込んだようにも見えるほどであった。
アレクセイ、血の止まらぬ血友病という難病を抱えた非運の皇太子だった。
 そんな息子の姿を見て、母親のアレクサンドラは、目から涙が溢れてくるのを止めようがなかったらしい。
 そんなことがあってから、皇后はラスプーチンの言うことなら、どんな馬鹿げたことでも心から信じて疑わなくなった。いつも身近に置き、何かことあるごとに彼の考えを仰ぐようになった。ラスプーチンの語りかける言葉に耳を傾けていると、いつしか心は安らぎ、身も心も浄められるような感覚を覚えるのであった。しかし、こうした皇后の行ないは、ラスプーチンを嫌う他の聖職者や権力者の憎しみと反感を買うことになった。彼らにしてみると、ラスプーチンによって自らの権威が地に墜ちかねないからである。言ってみれば、ラスプーチンこそ災いの種なのであった。この怪僧の存在こそなければ、陰謀や革命そのものも起きていなかったかもしれなかったからである。
 しかし、彼は宮廷内の上流階級の女性にはたいそうな人気ぶりであった。彼は皇女たちとも親密の関係で、皇女たちの方も、ラスプーチンのことを「ノーヴィ」(新しいという意味がある)と言って親しみを込めて呼ぶことが多かった。宮廷内で、皇女たちがこれほど、心から打ち解けて接した人間はラスプーチンを除いて他にいなかった。ここに、ラスプーチンがアナスタシアに宛てた手紙が残っている。
「アナスタシア、親愛なる姫、私たちのいるところには、どんな時でも、どこにいようとも聖霊はいるのです。神はいつでもあなたの側にいます。悪魔の脅かしに負けてはなりません。そうして、恐怖に打ち勝って生きることを学びなさい。神を讃える歌をいつでも歌って生きるのです」
 ラスプーチンは、人の心の動きを読んで、いかなる心の隠し事も言い当てたと言われている。時に優しく、それは魂にじかに響いて来るようでもあった。ラスプーチンが、こうした内容の手紙を彼女に書いたのも、アナスタシアの自由奔放な性格に漂うある種の不安と来るべく一家の苦渋に満ちた運命を見越していたのかもしれない。
 ラスプーチンを巡るさまざまな伝説から、彼は精力絶倫で大力無双の巨漢といった荒々しいイメージを想像するが、実際は全然違っていた。
 彼はひ弱で痩せていて青白い顔をしていた。ただ、どんな権力者の前に出ようとも、全く臆することなく、言葉を飾ることもなく、相手の心を見透かすような鋭い視線で単刀直入で物を言うのであった。
 そのため、こうした彼のどんな権威をも恐れぬ不敵な態度は、多くの敵をつくり出すことになったのである。しかし、逆に、そうした神秘的な力が皇后を始めとして、多くの女性たちの心を魅了していったのは想像に難くないところであろう。
ラスプーチン(1865?〜1916)超能力者として知られるが身分は農夫であった。ロマノフ家に多大な影響力を持った。
 しかし、1916年12月、彼の宮廷内で発揮する圧倒的な力に脅威と怒りを覚えた反対派は、お茶の会を催すと言ってラスプーチンをおびきだし殺してしまう。毒入りのワインを飲んでも死ななかった彼は、火打ち棒で何度もたたかれ、脇腹をナイフでえぐられるという凄まじい殺され方であった。ラスプーチンの死とともに、皇帝一家にも死の運命が急速に近づいて来る。彼の死は悲劇の序曲というものであった。
 その日から3か月後、革命の嵐が始まった。それ以来、彼らは臨時政府によって幽閉され、各地をたらい回しにされるのである。それは苦しい受難の長旅であった。皇帝一家を警護するのは、これまでのような宮廷に献身的な兵士ではなく、一家に敵意をむき出しにした革命派の人間であった。彼らは、競い合うように、皇帝一家をいじめて楽しんでいた。アレクセイの玩具を取り上げてからかったり、ニコライ2世が自転車に乗っていると、後ろからわざと突き飛ばしたりした。年頃の皇女たちは、彼らの下品な視線で無遠慮にじろじろと眺め回されて、聞くに耐えない野卑な言葉を浴びせかけられた。
 皇帝一家の最後の地となったエカテリンベルクにあるイパチェフの館は、革命後に政府に没収された屋敷で、二階建ての大きな屋敷であった。ここでは、一家はこの館の中に四六時中、閉じ込められることになった。そこでの生活は何ともひどいものであった。ほとんど、外に出ることも許されず、廊下に出るのも許可が必要だった。おまけに、窓という窓は白く塗り潰され外の景色すら見ることも出来ず、一日の大部分を陽の当たらぬ薄暗い部屋で過ごさねばならなかったのだ。皇女たちにとって、最も辛かったのは、トイレに行く時で、兵士たちの前を通らねばならず、その度に卑猥な言葉で侮辱を受けねばならなかったことである。
 私物は公然と兵士たちによって盗まれ、壁には見るに耐えない落書きをされた。真夜中に一家が寝ていると、酔っぱらった兵士が乱入して、引き出しの中の衣類などを引っ掻き回すこともあった。食事となると、それはもうひどいもので、毎日が薄いスープと黒パン、まずい肉のないカツレツばかりが続くのであった。食器はというと、必要な数も支給されず、従者と家族で使い回しをせねばならなかった。こうしたひどい環境の中、皇后のアレクサンドラは心臓病が悪化して少しでも体を動かすと苦し気に呼吸をするようになった。アレクセイに至っては、両足が麻痺して歩くことも出来ず寝たきりとなってしまった。
 しかし、皇女たちを始め、家族の絆は固く、お互いを思いやる気持ちには格別のものがあった。
 妻のアレクサンドラも、困難に必死に堪えている様子がありありと見てとれた。
 不自由な生活に懸命に耐える彼女たちを、父親のニコライはいじらしく思いつつもじっと見守るしかなかった。
 部屋の外では毎日のように、兵士たちが一家を侮辱する卑猥な歌を大声で歌っていた。そんな時、家族全員で賛美歌を歌って兵士たちの歌が耳に入らないようにするのであった。
左からオリガ、タチヤナ、マリア、アナスタシア。
この写真は1906年に撮られたもので、アナスタシアはこの時まだ5才である。
* アナスタシアは生きている! *
 そして、1918年の7月、悲劇は突然とやって来た。真夜中、寝ているところをたたき起された家族は、白衛軍(反革命軍)が迫っているという口実で地下室に集められたのである。しかし、彼らはそれっきり二度と生きて戻って来ることはなかった。ニコライ2世とその家族は血に飢えた革命政府の手によって地上から永遠に抹殺されてしまったのであった。
 皇帝ロマノフ一家が殺害されたというニュースは、たちまち世界を駆けめぐった。しかし、史実で明らかにされたのもここまでであった。誰一人として、詳しいことは知らなかったのだ。それは、恐らく、当時のボリシェビキ政府が固く隠蔽工作を計ったためであろう。そのためか、この事件の真相は謎とされ神秘のベールに包まれる運命にあった。
 この頃から、誰言うともなく、アナスタシア姫は生きていると信じられるようになった。つまり、一番年下だったアナスタシアだけは、銃撃で傷を受けて意識不明となったが、彼女に好意を持つ兵士によって密かに助けられ、どこかにかくまわれた。そして、この恐ろしい惨事を逃れてロシア国外に脱出し、どこかで生存しているのだという噂が立ち始めたのである。アナスタシア伝説が取り沙汰されるようになったのはこうした由縁による。
 こうした噂も手伝ってか、世界中で、アナスタシア姫が難を逃れて生き続けているといったミステリーが数多く出版された。ハリウッドでは、アナスタシア生存を題材にした映画が2度もつくられ、ものすごい反響ぶりであった。
 テレビでもこれを題材としたドラマが何度も制作され、その度に高い視聴率を得た。
 それと平行して、自分こそがアナスタシアだという女性が相次いで現れるようになった。彼女たちは、自分こそが本物のアナスタシアだと言ってはばからなかった。
 しかし、その言動は具体的に欠け証拠に欠けたりで、人々の好奇心を煽っては消えていく運命にあった。こうした女性が、わずか10年の間に30人も現れたほどであった。
追想(1957)、アナスタシアを題材にしたこの映画でバーグマンとブリンナーは最優秀主演アカデミー賞を獲得した。
 まさに、世はアナスタシアブーム一色であった。ただ、こうしたミステリーは話題性には富むものの、やはり、娯楽の中の話のネタに過ぎない・・・誰もがそう思い始めた頃、一つの衝撃的事件が起こった。氷もまだ溶け切らぬベルリン市内を流れる運河のほとりに一人の女性が流れ着いたのだ。その女性は体に深い傷を負い、軽い記憶喪失にかかっており、そのうえ、精神錯乱に陥って衰弱が激しかった。やがて、介抱され自分を取り戻した女性は、信じられないことを口にし始めた。自分は、かのロシア皇帝ニコライ二世の4女、アナスタシアで革命政府によって処刑されるところを運よく逃げて来たのだと言うのである。
 事実、その女性が持つロシア宮廷に関する知識は驚くべきものだった。足がひどい外反拇趾であること、額に小さな傷跡があるという身体的特徴も一致した。アナスタシアが、いつも前髪を切り下げにしているのもこのためなのであった。それに加えて、彼女は、アナスタシアしか知り得ないと思われるようなことを知っていたりした。
 例えば、ロシア革命時に、ある騎兵隊の大佐が負傷して病院に入院していたことがあった。その際、大佐は皇女たちの見舞いを受けたことがあったが、その中にアナスタシアもいた。
 大佐は、ハンカチのたたみ方のようなさりげない仕種から身体的特徴まで、アンダースンのそれとそっくりで、会った時からアナスタシア本人だと思ったと言う。
 一方、アンダースンの方も、その時の大佐の癖、仕種を覚えていたかのように、「あなたは、歩きながら両手をポケットに突っ込む癖があったわね」などと的確に発言したらしい。
アンナ・アンダースン
(1900?〜1984)20世紀最大の王族偽装者と言われる。
 これらの証拠や証言によって、人々は彼女を支持する支持しないのどちらかに二分されてしまった。彼女を信奉する人々にとっては、やはり、アナスタシア姫は生きていた。噂は本当だった。彼女は死刑執行人の魔の手から、辛くも逃れて生存していたのだと思ったに違いない。
 その後、彼女は、アンナ・アンダースンと名乗り、ドイツでロシア王室遺産をめぐる訴訟を起こすことになる。何しろ、ロマノフ王朝の遺産となると、イングランド銀行に預金されている資産だけでも、数千万ポンドの価値があり、時価にすると数百億円を下らぬ巨額な資産となるのである。
 しかし、具体的な証拠を巡って、裁判所ははっきりとした判定を下せなかった。証拠不十分として却下されても、新しい証拠が出たと言って、また再審が要求され、切れ切れに裁判が続けられるのである。そのうち、裁判は長期化する様相を見せ始めた。その間、アンナ・アンダースンは、彼女こそアナスタシアだと信奉する人々から、同情され手厚い施し物を受けて生活する身であった。
 彼女は、1984年に84才で亡くなるまで、最後の最後まで自分は正真正銘のアナスタシアだと言い張っていたという。果たして、彼女は本物のアナスタシアだったのだろうか?
* 明らかにされた恐ろしい真相 *
 ところが、1991年になって、皇帝一家の遺体の埋められている場所を知っているという人物が現れた。その人物は、地質学者だったアヴドーニン博士と彼の同僚で、さまざまな資料をもとに推測し、密かに皇帝一家の遺骨を発掘していたのであった。それは、10年以上も前の1979年のことだった。ただ、当時は、ソビエト政権下にあり、秘密警察(KGB)も証拠隠滅に躍起になっていた時でもあった。党としては、都合の悪い証拠を歴史の闇に葬ろうとしていたのである。
 なぜならば、ニコライ2世一家に加えられた冷酷で残忍非道な共産党の行為は、今後、世界革命を推進するのにマイナスのイメージになりかねないからである。
 殺害現場でもあったイパチェフの館を取り潰したのもそのためである。
 皇帝一家が逃走を試みたため、止むなく射殺した。これが表向きの発表であった。
1975年、都市改造計画の一環と称してイパチェフの館は取り壊されてしまったが、それはソ連共産党の欺まん工作であった。
 こういうわけで、身に危険がおよぶことを懸念した彼らは、再び、遺骨を埋め直して堅く口を閉ざすことにしたのであった。
 ところが、ペレステロイカの時代が始まり、ソビエト政権崩壊の兆しがあらわれると、博士らは、この衝撃的な事実をマスコミに公表することにした。それと同時に、博士の入手していた当時の目撃者の証言や文書などから、皇帝一家の虐殺状況の詳細も明らかにされた。そこには身も凍るような惨事の様子が記されていた。彼らの証言や文書を頼りに事件当日をたどってみたい。
 その日、1918年7月16日の深夜、皇帝一家は突然、監視兵に呼び起こされた。町に暴動が起こり、いつ何時、暴徒が襲って来るかもしれないので、安全な場所に避難するということであった。輸送の車がここに向かっているから、それまでの間、地下室で待つようにということであった。しかし、それからわずか30分後に、その地下室で彼らに身の毛のよだつ出来事が振りかかろうとは、この時、誰も気づく者はいなかった。
 皇帝一家は急いで衣服を身に着けて出て来るように言われた。最初に、病弱で足の不自由なアレクセイが父ニコライ二世に抱かれて出てきた。次に、皇后と4人の皇女たちは白い衣装を身につけハンドバッグを携えて出て来る。アナスタシアはジェミーという小犬を胸に抱いていた。皇后の女中がソファの枕を持っていたが、これは、自動車で運ばれる時に揺れるので枕を持参したものであった。その後から、コックと従者が続く。全部で11名だった。彼らは寄り添うように地下室に降りていった。
 地下室には椅子がいくつかあるだけで何もない部屋だった。そこに3人が部屋に入って来た。彼らは死刑を執行するように命令を受けていた。彼らは皇帝一家に向き直ると、リーダーらしき一人が、無表情でおごそかな口調で言った。
「当ソビエト執行委員会は、ロシア人民に対して犯した罪により、あなたがたを死刑に処すことを決定した・・・」一番、驚いたのはニコライ2世だった。彼は信じられないという表情で、なぜというふうなデスチャーで、その死刑執行人に詰め寄ろうとした。しかし、彼は問答無用とばかり無言でピストルを取り出すと、近寄って来る皇帝の顔めがけて一発撃った。銃弾は皇帝の脳天をぶち抜き、脳漿をあたり一面にまき散らした。即死であった。次に彼は、その時、椅子に座っていた皇太子を撃った。皇太子は椅子から転げ落ちてヒクヒクと痙攣してのたうち回った。
 一方、もう一人の処刑人は、1メートルほどの至近距離から隣にいた皇后を撃った。弾は彼女の口を無惨に貫き、皇后は、一瞬、のけぞって飛び上がると、床に崩れ落ちて目を見開いたまま死んだ。次いで、彼は侍医を撃った。彼は両手を頭の上にかざしていたが、弾は容赦なく彼のあごを貫通した。誰が撃ったのか、コックはすでに頭を撃ち抜かれてこと切れていた。
 3人目の処刑人は、皇女たちを床に乱暴に押し倒すと、その上から銃弾を盲めっぽうに雨あられと浴びせた。暗闇の中、悲鳴とうめき声が響き渡った。銃撃は弾がなくなるまで続けられた。こうして処刑はあっという間に終わってしまった。薄暗い部屋は、ゾッとするような地獄の光景に成り果てていた。銃弾の硝煙が立ち込め、床は血の海だった。ハンドバッグや帽子などの所持品が血まみれになって浮かんでいた。
 やがて、彼らの死を確かめるために、外で待機していた地区の委員たちが入ってきた。委員たちは、まだ生きている者がいないか一人一人確かめ始めた。その時、皇太子は虫の息ではあったが、まだ生きておりかすかにうめき声をあげた。兵士の一人がサッと近づくと、口の中に弾をぶち込んでとどめを刺した。女中は部屋の隅に逃げ込んで枕に顔を埋めて隠れていたが、まもなく兵の一人に見つけられた。女中は恐ろしさのあまり悲鳴をあげようとするところを、枕ごと銃剣でのどを刺し貫かれて殺された。
 一方この時、アナスタシアはまだ生きていた。彼女だけはまだ無傷で、3人の死んだ姉たちの死体に混じって息を潜めていたのだ。しかし、衛兵の一人が足で彼女を転がして仰向けにした時、アナスタシアは恐怖に駆られて、きゃーと悲鳴を上げてしまった。衛兵が銃の重い台尻で彼女の顔と言わず頭や腹を容赦なくめった打ちにした。哀れなアナスタシアは、たちまち、頭を割られ、口からは鮮血を吹き出して、顔面血だらけとなって見るも無惨な屍と化して息を引き取った。彼女が可愛がっていた小犬も兵士の一人に殴り殺された。
 こうして、一家とその付き人11人はことごとく殺されてしまった。 全員の死が確かめられると、遺体からは、時計やネックレスなどの貴重品が剥ぎ取られた。兵士たちは、皇女たちが身に着けていた宝石類を奪い合った。それらは、救出された後の生活のために、コルセットなどに縫い込まれていたものであった。次いで、遺体は毛布に包まれて外に待機していたトラックに積み込まれた。そして、そこから18キロほど離れた廃坑まで運ばれて焼却される手はずになっていた。
 ゴトゴトと山道を行くこと1時間余り。しかし、どうしても真っ暗闇の中では廃坑を見つけることが出来ない。そのうち、東の空がうっすらと白んで来る時刻になり、彼らはそれ以上動き回ることが出来なくなった。幸い、近くの森に深さ2メートルほどの穴が見つかったので、遺体をいったんそこに隠すことになった。そこで一日置かれた後、別の廃坑に移送して、そこで焼却し隠蔽工作をする予定だったが、その日、またしてもアクシデントに見舞われる。つまり、トラックが途中のぬかるみにはまり込み立ち往生することになってしまったのだ。
 仕方なく、ここで、穴を掘って埋めることになった。白衛軍(反革命派)の意表をつくために、わざと道の真ん中が選ばれた。2メートルほどの穴が掘られると、まず、遺体が横一列で並べられた。遺体はすべて衣服が剥ぎ取られており、血まみれで全裸の状態だった。最初に、バケツ2杯分の硫酸が遺体の顔にかけられた。識別不能にするためである。ジューという何とも嫌な音がして遺体から白い蒸気が立ち上った。それが終わると、急いで土がかけられた。一方、皇后とアレクセイの遺体だけは、別の場所で焼却されて埋められた。
 これがロマノフ一家虐殺のあらましである。結局のところ、これが事件の真相のようである。遺骨は博士の証言通り、即刻、掘り出された。そこは、エカテリンベルク近郊、コプチャキ村に向かう街道の真下であった。
 掘り出された遺骨は、その後の鑑定で皇帝一家のものであると判定された。ただ、皇后とアレクセイの遺骨だけは今だに発見されていないという。
 その際、アナスタシアの遺骨も確認されたというから、そうなると、アナスタシア伝説の根拠も消えてしまうことになる。
現場検証をもとに描かれた遺体の配置。全部で9体あった。
* 心の中で生き続けるアナスタシア *
 しかし、アナスタシア伝説を信ずる人々は、発見されていないのは皇后ではなくアナスタシアの方で、彼女はやはり、別の運命をたどったのだと主張してはばからない。
 こうした中、アナスタシア生存の伝説を信ずる人々には、さらに駄目押しと思われる結果が出た。1994年に自らをアナスタシアだと名乗って死んだアンダーソン夫人が本当にアナスタシアだったのか、白か黒を判別するために遺伝子鑑定が行われることになったのである。アンナ・アンダースンは生前、手術をしたことがあり、摘出された小腸の一部が病院に標本として残っていたのである。
 分析の結果、得た結論は彼女の正体はフランツィスカ・シャンツコフスカというポーランド人農夫の娘でアナスタシア本人ではないと判明したのであった。これは、夫人が生前中から付きまとっていた疑惑でもあった。
 1920年当時、ベルリンの爆弾工場で働いていたというフランツィスカは、誤って安全ピンをはずしてしまい手榴弾を爆発させるという事故を起こしたことがあった。その際、隣にいた同僚は爆死し、彼女自身も重傷を負ってしまったのである。そのことがあって、彼女は精神錯乱に陥ってしまい、精神病院に収容されたが、まもなくそこを脱走し行方不明になってしまったということであった。これは、彼女がアナスタシアと名乗って登場する数週間前のことである。
 病院を抜け出したアンダーソンは、精神錯乱の末、市内を流れる川に飛び込み自殺を計った。しかし、彼女は運よく助けられることになった。しばらくして回復した彼女は、自分はかのロシア皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタシアで、ボルシェビキ政府によって殺されるところを、間一髪、命からがら逃げ出して来たと主張し始めたのであった。その際、ベルリンの爆弾工場の事故で負った体の傷を、処刑から逃れる時に出来た傷だとでっち上げたのは言うまでもない。
 こうして、DNA鑑定という最新の法医学の判定によって、謎に包まれた神秘のベールも払拭されてしまい、数十年の長きに渡って論争されたアナスタシア伝説も、ようやく幕を閉じることになった。
 全く、彼女ほどこれほど長期間にわたり、人々の好奇心を捉えて疑惑に富んだ話題を提供した人物も歴史上多くはない。彼女は死の直前まで自分がアナスタシアだと言い張っていたのである。そして、人々も賛否両論に分かれて最後まで彼女に引きずられていた。しかし見方を変えれば、彼女は本当に自分がアナスタシアだと信じ込んでいたのかもしれない。
 今となっては、彼女の心の中を探ることは出来ないが、激しい思い込みによって、いつしか願望と心が一体化して、全く別のキャラクターになることはあり得ることである。そして、彼女を取り巻く周囲の哀れみや同情心がそれを助長したとも言える。つまり、この世に未練を残して死んだアナスタシアの魂が、自分に果てしない願望を抱く人間の心に招き寄せられていったようにも思えるのだ。その心が、例え精神を病んでいたものであったとしても、アナスタシアを強く慕う本質に変わりがあるとは思えない。もしそうであるならば、これも生まれ変わりの一種と見て取れないことはないだろう。
 今日でも、アナスタシア伝説はロシアの人々の心に深く根づいている。アナスタシアは、処刑を逃れどこかで生存して無事にその人生を終えたのだと。それはロマノフ王朝への哀悼と郷愁の入り混じった気持ちと誤った過去への後悔の念から来るものなのかもしれない。専制君主体制をあくまで守ろうとして、ロマノフ家は悲惨な運命を迎えた。
 しかし、その後に到来した74年にわたる全体主義体制は、もっと、それこそ、人々にとっては取り返しのつかない巨大な悲劇となったのであった。
 それゆえ、人々の心の底に、自由のない陰惨な過去を呪い、逆に、明るく天真爛漫でおてんば娘だったアナスタシア姫を慕う気持ちがどこかに芽生えるのも当然ではないだろうか?
 事実、アナスタシアこそ一番皇女らしくなく、いつもひょうきんで誰にでも愛される性格であった。今も、アナスタシアは人々の心の中で永遠に生き続けているのである。
 現在、ロマノフ一家を惨殺したという忌わしい場所には、奇麗な教会が建てられているということである。しかし、そこに行くと、90年ほど前に起きたロマノフ家に降り掛かった恐ろしい夜の出来事を思い浮かべることが出来るに違いない。いつしか伝説となり語り継がれることになる深い悲しみに満ちた事件のことを・・・
 事件後、殺害現場で一冊の聖書が発見されたという。そこには皇女たちが書いたと思われる願いが記されてあった。不自由きわまる生活の中、粗暴な兵士たちの嘲り、侮辱にも負けず、ひたすら神を信じ、お互い懸命に励まし合ったと思われるものであった。

 神さま、どうか 私たちに耐え忍ぶ力をお与え下さい。
   彼らの迫害と拷問をも赦せるほどの、
     強い意志を私たちになにとぞお与え下さい。      

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参考文献 「最後のロシア皇帝」植田樹 筑摩書房
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