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ビリー・ザ・キッド伝説
〜伝説のアウトロー、夢みる殺人者、その短過ぎる生涯の真実〜
* ゴールドラッシュで沸く西部 *
 今から、ざっと150年ほど前のアメリカ・・・東部の文明地域に比べて西部の未開拓地域、テキサス、オレゴン、ネバダ、アリゾナなどはフロンティアと呼ばれていた。ヨーロッパからの移民による急激な人口の増大は、人々に西部への進出を促した。政府が西部の土地を安く払い下げると、人々の西への進出熱はますます加速するようになる。ひたすら西へ進むのは、まるでアメリカ人の天命だと言わんばかりのようであった。
 1848年にカリフォルニアで金鉱が発見されると、人々はそれこそ先を争って西部に押し寄せて来るようになった。いわゆる、ゴールドラッシュである。2万人ほどしかいなかったカリフォルニアの人口がたちまち数倍以上に跳ね上がった。その後も、コロラドやネバダなどで次々と、金の鉱脈が発見されると、一攫千金を夢みる人々の情熱に一段と拍車がかかった。鉄道の線路は西へ西へと伸びていき、それとともに何千何万という人々が幌馬車で殺到して来た。もし、金鉱が発見されると、今まで振り向きもされなかった荒野に一晩で町が誕生するのである。
 町は次第に大きくなり、劇場やホテル、銀行、酒場などが次々と建てられるようになる。店では小麦やベーコン、日常の生活雑貨品が売られ、それを買い求める人々がごった返し、町には幌馬車が絶えず出入りするようになった。
 しかし、金が掘り尽くされてしまうと、たちまち人々はいずこかに去り、人っ子一人いないゴーストタウンとなった。
 確かに金鉱ブームは、多くの人々の中から何人かの大金持ちを生み出しはしたが、それはほんの一握りに過ぎなかった。
 しかし、それでも人々の飽くなき金への欲望は尽きることなく、新たな金鉱を求めて移動を繰り返すのであった。
人々に見捨てられて、ゴーストタウンとなった町。
* 自分の身は自分で守れ! *
 この当時の西部は法などない無法地帯と言ってもよく、人命は軽視され、町ではさまざまな暴力がはびこり、賞金稼ぎ、牛泥棒、銀行強盗と言ったさまざまなアウトローが幅をきかしていた時代であった。町には保安官がいるにはいたが、基本的に自分を守るのは自分しかいないのが現状であった。従って、たいていの男たちは腰にガンベルトを巻き付け、コルト式回転拳銃をぶちこんで歩いていた。
 しかし、拳銃をうまく扱えるようにするためには、かなり練習する必要があった。とりわけ、拳銃使い(ガンマン)にとっては、銃をいかにうまく使いこなすかが死活問題であった。そのため彼らは、自分の感覚にぴったり合ったものにするために、ありとあらゆる工夫を銃に凝らしていた。もし撃ち合いともなれば、いかに相手よりも早く銃を抜くかで運命は決まるのであるから。
 例えば、銃身を短く切り、照星はホルスターから引き抜く際に邪魔となるので削り落とす、ホルスターも体型に合うように加工する、撃鉄は軽くあおる程度で微妙に落ちるように何度も削って調整する、と言ったように、拳銃自体も自分の肉体の一部になるように調整されねばならなかった。その他、銃の手入れを毎日行うのは当然として、相手と向かい合った時の心準備、どのタイミングで引き金を引くかなどのメンタル面でのトレーニングも欠かすことは出来なかった。
 もしも、この時代にタイムスリップでもしようものなら、見栄でもいいから男の意地を通さねばならないだろう。西部ではひ弱で意気地がない男は侮蔑されるからだ。
* ようこそアウトローの世界へ! *
 では、150年ほどワープして当時の世界に行ってみよう。場所はメキシコ国境に近いテキサスにあるエルパソという町だ。空が青くなって、砂塵が舞っているだろう。ここがそうだ。
 まず、勇気を出して酒場に行ってみよう。
 5段ほどの階段を昇るが、ドアはお馴染みのスイングドアだ。それを勢いよく押すと、調子の外れたかん高いピアノの音に混じって、男たちの笑い声と女の嬌声が聞こえて来る。
 中は薄暗く、タバコの煙が渦を巻き、ウイスキーと香水の匂いがむせ返っている。
 奥に丸いテーブルが10個ほど置かれているのが見える。それぞれのテーブルでは、4、5人の男どもがポーカーに興じているのがわかるだろう。
 どいつもこいつも揃いも揃って、人相の悪い連中ばかりだ。まったく気後れしてしまいそうになる。
 今度は、カウンターに行ってウイスキーを注文してみよう。歩くとブーツのかかとについている拍車がカシャンカシャンと軽い音を立てる。うさん臭そうに一ぺつする奴がいるが、無視しておけばいい。その程度でびびるようではいけないのだ。カウンターには大男が一人こちらに背中を向けて酒を飲んでいる。あなたもウイスキーと一声叫んで、1ドル銀貨をカウンターに転がすのだ。そう、それでいい。その調子だ。これであなたも一端の西部の男だ。
 銀貨をつかみ取った親爺は、面倒くさそうにウイスキーの瓶を無造作につかむと、カウンターの端っこからグラスと瓶を次々と滑らせて来る。それをタイミングよく片手で受け取ればいい。しかし、ああ、何てこった! あなたはグラスを取り損なったばかりか、瓶を落として粉々に壊したあげく隣の男にウイスキーをもろにぶっかけてしまった。言わんこっちゃない。あなたはやっぱり緊張してドジったのである。覆水盆に帰らずとはこのことだ。
 この場合、選択の余地は二つしかない。ペコペコ必死に頭を下げて物笑いの種にされるか、男の意地を見せるかである。だが、これまでのいきさつ上、そういう女々しい真似も出来ないはずだ。ちょいと帽子のつばを上げて軽く会釈するが、それぐらいで済ますことが出来ればラッキー以外のなにものでもない。だが、もしもそいつが立ちの悪い奴だったら、その程度では済まされないだろう。最悪のケースだと決闘という事態にも発展しかねないからだ。だが、ヒゲづらの凶悪そうな男の人相からは同情や憐れみなど期待できないってもんだ。やっぱりその男は太くて野卑な声でこう言って来た。
「 ヘイ、ボーイ! 銃を抜きなって 」
 ついに最悪の事態になってしまった。さあ、これで決闘ということになるが、銃による決闘ほど緊張する瞬間はないだろう。まさに生と死が隣り合わせとなる瞬間だ。アドレナリンはたちまち噴出して呼吸が妙に早くなる。心臓からは血液がドッと送られ、頭の中では、心臓がドックドックと脈打つ音だけが響き渡るのだ。めまいがして倒れそうになるのを懸命にこらえるが、視野が狭まり何も考えられなくなってくる。もう視線は相手の目と腰に釘づけだ。余裕などどこにもあろうはずもない。死神が耳もとでささやくような感覚とはこのことを言うのだろう。
 その男と向かい合った距離は3メートルほど。腰にぶら下がっている拳銃の重量は1000グラムほどだ。決して軽くはない。それを片手で取り出さねばならないのだ。
 撃鉄を起こしながら、すばやく銃をガンベルトから抜き、相手の心臓近くを狙って撃ち、致命傷を与えねばならないのである。
 モーションを起こして撃つまで、0コンマ5秒。その瞬きする短い時間内に、相手よりも早く、以上の動作を完璧にこなさねばならない。
 幸運にも弾を発射するのが相手より先であっても、もし外せば今度は確実に自分がやられることになる。つまり一巻の終わりとなるのだ。
 やはりこの際、「すみません、ごめんなさい!ごめんなさい!」と大声で恥をかいてもいいから土下座して謝るべきなのだろうか? それともいちかばちかの大勝負に出て男をあげるべきなのだろうか? 
心の準備も終わらぬうちにたたみ掛けるように男の声が響いて来る。
「 いつでもいいぜ 、ボーイ(小僧)」
 こうした場面は、西部劇でよく出て来るシーンだ。音楽が高らかに鳴り響き、なるほど見ていても最高にゾクゾクして来るクライマックスだろう。しかし、もし当事者となって現場にいたらと考えると、やはりゾッとして来るにちがいない。だが、法も秩序も存在しない西部の町では、時としてこうした暴力や銃による決闘が日常的に行われていたのである。
* ビリーの生い立ち *
 西部劇にはヒーローは欠かすことは出来ない。ビリー・ザ・キッド、ジェシー・ジェームスは、西部劇ファンなら誰でも知っているお馴染みのヒーローだ。だが、彼らはどんな人間だったのか? そう聞かれると、ほとんどの人は詳しくは知らないはずだ。
 彼らは強盗や殺人を繰り返して西部を荒し回った、言わばならず者のはずだった。それなのに、義賊として祭り上げられ、偉大なガンマンとして西部史上に残るヒーローとなったのはなぜなのか? それはどういう理由によるものなのか? また、彼らはどんな生い立ちで、どんな生涯を送ったのだろうか? 

 ここでは、夢見る殺人者と言われ、伝説のアウトローとも呼ばれたビリー・ザ・キッドの短か過ぎる生涯を探ってみたい。  

 彼については、いろいろと調べても簡略化された説明がなされているだけである。ビリー・ザ・キッド、本名ヘンリー・マッカーティ。南北戦争が始まる直前の1859年にニューヨークで生まれる。彼には兄が一人。その後、南部に旅立つが、15才の時、母親が死ぬと無法者になった。生涯21人を殺害し、アリゾナ、テキサスなどで牛泥棒を繰り返した。・・・と、ほとんど、この程度の内容がさり気なく書かれてあるだけである。
 確かに彼には謎が多い。残された噂話は信憑性に欠け、嘘と欺まんに満ちていると言ってもいい。そのほとんどは眉唾ものという説もある。だが、さまざまな伝記物から多角的に見つめていくと、彼の人間像が垣間見えて来るものだ。
 ビリーは身長は5フィート(150センチ)足らずの小男だったという話がある。おまけにかなりの出っ歯であったらしい。ザ・キッド(子供)というニックネームがついたのも彼のそうした容貌によるものであろうか。
 髪は黒で瞳の色も黒だったという。左利きだったというから、拳銃を使う時は左手が利き腕となったのだろう。
ビリー・ザ・キッド
(1859〜1881.7.14)
 しかし、銃を撃つ技術は天賦のものがあったようだ。ビリーは馬を疾走させながら、牧場の杭に止まった鳥を次々と撃ち落としていったという話が残されている。激しく揺れ動く馬上から射撃して、小さな的に命中させるのは至難の技だが、真偽のほどはともかく、こうした噂話が生まれるのも、彼のガンさばきがいかに巧みだったのかを証明する手立てと考えられなくもない。またビリーは無法者にしては、大変、親しみやすいタイプであったようで、誰とでも親し気に口を聞き、とても親しみやすく口達者な若者であったという。こう聞くと、無法者というよりは、茶目っ気があって愛想のいい小柄な若者を想像してしまう。
 ともかく、ビリーが5才の頃、父親が死に再婚するために、母キャサリンとともにニューヨークから700キロほど西にあるインディアナ州に移住して来る。しかし、実際のところは父が彼らを見捨てたいうのが真相のようである。
 そこでアンリトムという農民と再婚するが、当時のゴールドラッシュ熱に駆られて、一家もカンザス、コロラドを経て、ニューメキシコ州の南西部にあるシルバーシティにやって来る。遠路はるばる1500キロほどの長旅である。
 ここで、下宿などをして生計を立てていたようだが、ビリーが15才の時、母のキャサリンは死んでしまった。それ以後、ビリーのアウトロー生活が始まる。
 不良仲間とともに盗みに加担しては捕まり、牢屋に入れられたりしたが、脱走したり逃げたりするうちに、さらに西のアリゾナまで流れて来るのである。この頃からビリーは、ザ・キッドなどと呼ばれるようになっていた。
川の水から砂金を見つけ出す人々。一攫千金を夢みて多くの人々が西部にやって来た。
 17才の頃、ポーカーをしている時、相手の男にヤクザ呼ばわりされたことに腹を立てて、銃を引き抜いて撃ち殺したことになっている。恐らく、イカサマでもしたのであろうか。ビリーはテーブルをひっくり返すと、その男に飛びかかって、首根っこを締め上げ、やにわに男の銃を奪うと腹に一発ぶちこんだのである。
 その後、各地を放浪したビリーはニューメキシコのリンカン町にやって来る。このままだと、ビリーは歴史に名を残すこともなくただのチンピラで終わってしまうことになる。だが、この場所で、彼の名を一躍有名にすることになる、ある事件が待っていたことをビリー本人も知らなかった。
 この時、ビリーは19才になっていたが、タンストールというイギリス商人出身の牧場主に認められ、その牧場でカウボーイとして働くようになっていた。タンストールはまだこの土地に来たばかりで、馬をある程度使いこなして家畜の世話のできる人手が欲しかった時であった。どこの馬の骨だかわからぬビリーを雇う気になったのも、彼の人なつっこさと親しみやすい性格が気に入ったからであろう。一方、ビリーの方も自分を認めてくれたタンストールに好意を感じたようだ。

* リンカン群戦争 *
 ようするに、彼としては更生のきっかけをつかんだようだったが、これも長続きしなかった。ビリーはここである事件に巻き込まれ渦中の人となる運命にあった。
 その事件というのは、リンカン郡戦争と呼ばれた権力争いであった。当時のリンカンは、戦争によってメキシコから譲渡されたばかりでまだ州にもなっていない状態であった。リンカン郡とはその南部にあたる地域で、まことに広大ではあったが、わずか数百人ほどの人口しかなかった。人種もメキシコ人、インディアン、アングロ(アメリカ人)と入り混じっていた。そのリンカン郡を二つの勢力がしのぎを削っていたのであった。
 その二つの勢力とは一方は、チザムと呼ばれる大牧場主で、伝統的な古風で素朴なアメリカ型気質の牧場経営者であった。
 もう一方の勢力は、ローゼンタールという首都に根を張る経済、司法、政治などの権力者を抱き込んだ都会型の精肉販売者であった。
 言わゆる、前者が素朴な自然派であるのに対して、後者は権威に象徴された文明派の対決と言ってよかった。
牛肉販売を巡る勢力争いの図式

ニューメキシコ州リンカンの町で起きたこの争いは牧場戦争とも呼ばれ、半年の間、血で血を洗う事件にまで発展した。
 事の発端は、チザムが牛肉販売に手を広げようとしたところが、その販路をローゼンタール派が阻もうとして衝突が起きたことから始まった。
 ビリーを雇ったタンストールという牧場主は、イギリス人らしく法の秩序を重んじる真面目な男であった。まだリンカンの町に来て日にちも浅く、町の実情に精通していなかったタンストールは、しばらくすると、判事や保安官、銀行の頭取と言った連中が裏でつるみ、利益を上げるために不正を行っていることに気づくようになる。
 例えば、人殺しをしても判事への賄賂次第で無罪釈放になり、逆に、無実な貧乏人が罪を着せられ絞首刑送りにされることもあった。正義感の強いタンストールは、こうしたことにとても我慢できる男ではなかった。彼は不正をあばき非難する投書を新聞紙上でぶち上げたのであった。当然、この行為は町の権力者と密接に結びついているローゼンタール派の怒りを招くことになる。
 判事や保安官と裏で密接につるんでいたローゼンタールは、逆にタンストールのこの行為をでっち上げの偽証罪と決めつけ追放処分にしてしまった。そればかりか、手下のドラン一味に殺害を依頼して、密かにタンストールの後をつけさせ撃ち殺してしまったのであった。
 この事件がきっかけで、もともと、ローゼンタールと敵対関係にあったチザムはタンストール派を援護するようになる。かくして、敵の敵は味方という図式に乗っ取って、タンストール派は、チザムの後ろ盾のもと、ローゼンタールの息のかかったドラン一味と激しく対立することになった。真っ二つに分かれた両陣営は、これ以後、武力闘争に発展し文字通り戦争にふさわしい血で血を洗う争いとなっていくのである。
* 激しい銃撃戦の果て *
 ビリーはと言えば、これ以後、タンストール派の要として活躍することになる。彼は小柄ではあったが、向こうっ気が強く、何事も行動的で抜け目がなかった。タンストールを殺した犯人を捕らえて主人の仇とばかりに撃ち殺しただけではなく、後を追って来た保安官や助手させも待ち伏せて撃ち殺してしまったのだ。保安官と言っても、名ばかりで、ローゼンタールの息のかかった悪党と言ってもよく、とても法を守る番人などではなかったのであるが。
 こうして両派の間で報復の応酬が続き多数の死傷者が続出するようになる。そのうち、この戦争のクライマックスが訪れる。しびれを切らしたドラン派はタンストール派の皆殺しをはかり、40人の部下を集めてタンストール派が根城としていたマクスウィーンの屋敷を包囲したのである。
 籠城するのはビリーを含めて総勢17人。籠城する側と包囲する側で激しい銃撃の応酬が行われた。
 5日目の朝、なかなか決着のつかないことにいら立ったドラン派は騎兵隊の援軍を要請、騎兵隊は大砲やガトリングガンまで持ち込んでぶっ放す始末であった。
 これも権力につるんでいたドラン派が大物政治家の口添えを利用した結果であった。
 これが籠城側に不利に傾き、さすがに夕刻になるとビリーたちは風前の灯火となった。それでも、籠城側は降伏の説得に応じることなく銃撃戦は続けられた。
ガトリングガン、銃身を6本束ねて手動で回転させた。弾は連続発射できるので機関銃の元祖ともいうべき兵器である。
 ドラン派はついに屋敷に火を放つことにした。めらめらと屋敷は燃え上がり火炎が吹き出したが、それでも銃撃戦は続けられた。あくまで徹底抗戦を主張するビリーは、降伏に応じようとする者を容赦なく殴り倒したという。しかし、比我の差はいかんともしがたく、夜陰に乗じて脱出することを決意する。そして、夜になって、ビリーを先頭に必死の脱出劇が敢行された。それは見事に成功しビリーと生残りの何人かはいずこかに姿を消したのであった。
 だが、この戦いでタンストールの勢力は粉砕されてしまい、リンカン郡戦争は事実上終わった。事の成り行きを見守っていたチザムは、流血沙汰には巻き込まれたくないらしく、ビリーたちに手助けすることなく卑怯にも日和見を決め込んだのであった。ビリーはそれ以後、牛泥棒や悪事の数々を働きアウトローとして生活をすようになる。ビリーは自分たちを見捨てた仕返しからなのか、チザムの牧場からも牛を100頭以上も盗んだと言われている。この当時、牛を一頭でも盗めば縛り首という時代だったのでこれは重罪である。
* 両方から追われる身に *
 当然、今度はチザムが怒った。こうして、ビリーはドラン派からもチザム派からも追われる身となった。
 彼らはパット・ギャレットというかつてのビリーの友人を保安官として雇い追跡させることにした。
 パット・ギャレットという男は、ギャンブル好きで、昔はビリーとつるんでよく悪事を働いたこともあったが、打算的で権力者の指示には盲目的に従うという調子のいい男でもあった。
 彼らとしてみれば、ビリーの潜伏先、行動パターンなどを熟知しているギャレットを追手の頭にすえた方が仕事がはかどると考えたのであろう。
ビリーにかけられた賞金。生かすも殺すも捕らえた者には5000ドルと書かれている。
 その人選は功を奏し、その年のクリスマス・イブの夜には、ギャレットはメキシコ国境に近いフォート・サムナーの近くでビリーとその仲間を待ち伏せして、1人を射殺、見事ビリー本人の逮捕にも成功したのであった。ビリーは裁判にかけられることになったが、牛泥棒、ならびに保安官殺しの罪で絞首刑になるのは分かり切ったことであった。こうして、リンカンの刑務所の牢屋に監禁されて、死刑を待つばかりとなったビリーだったが、運のいいことにどこからか銃を手に入れて脱獄に成功するのである。ここで一気にメキシコに逃げてしまえばよかったのだが、どういうわけか前回自分がギャレットに捕まった同じ場所に舞い戻ってくるのであった。恐らく、そこに気のひかれたスペイン娘がいたからであろう。
 ギャレットは、ビリーがいずれ女のもとに舞い戻ってくると計算していたようだ。隠れ家をつきとめたギャレットは、深夜、寝静まってから部屋に忍び込んだ。床がわずかにきしみ、暗闇で「誰だ?」というスペイン語の声が響いた。ビリーの声をよく知っていたギャレットは躊躇することなくその声のする方向に向かって一発ぶちこんだのである。弾はビリーの胸を貫き一声も発することなくもんどり打って倒れた。悪運の強いビリーとしてはあっけない最期だった。この時ビリー21才。大好きだったスペイン娘が忘れられずに舞い戻ったことが命取りになった。1881年7月14日早暁の出来事であった。
* 時代とともに美化されるイメージ *
 小男でおまけに出っ歯、流れ者でさっぱり見栄えがしない悪党でチンピラのビリーがいかにヒーローになっていくか、その第一の理由はリンカン郡を二分して争った流血事件にあったようだ。
 今日では、タンストール派は善玉、ドラン一味は悪玉と描かれることが多いという。それはなぜか? 一方が素朴で自然派の牧場主チザムを代表としているのに対して、もう一方のローゼンタールは、町の権力者たちをバックに控えた都会の精肉業者だったからだ。言い換えれば、素朴な自然派に対して権威を傘に着た都会派の争いという風にも置き換えられる。後者に必要以上の悪徳の匂いを感じたのは庶民にとっては当然であった。というのも、メキシコ人、インディアンなどの被支配者層からみれば、大牧場主は仕事をくれる雇い主になることはあっても、都会の資本家からは、何も得るものはなくただ自分たちの生活を圧迫し排斥するだけの存在に過ぎないからである。
 彼ら資本家から生活を圧迫され続けるうちに、やがて庶民の怒りが激しい憎悪と化すのは時間の問題であった。ここに、ビリーが庶民から同情され支持される由縁があったように思う。恐らく一般庶民の目から見れば、ビリーの取った行為はローゼンタールという支配者層への毅然とした挑戦と映ったのであろう。きっと、そこに胸のすく思いを味わったにちがいない。
 こうして、タンストール側に立って戦ったビリーは正義の味方という風になってゆくのだ。後にチザムの牧場から牛を盗み、かつての味方から追われる身分と成り下がっても、彼のイメージは色あせることはなかった。むしろこのことが、よけいに庶民の同情をビリーに集めていくことになる。ここに、血なまぐさい復讐劇は壮大な復讐ロマンとなって生まれ変わった。
 その後、彼を主人公とした本が出版される度に、彼のイメージは一段とカッコの良いものに置き変えられていった。やがて黒髪は輝く金髪となり、出っ歯は引っ込み、目もとは涼しく、黒い瞳は澄んだブルーになった。メキシコ娘たちには愛され、身長も20センチほどすらりと伸びた。本当はすぐカッとなって銃をぶっ放し、獰猛さだけが目についた粗野な性格も、忠実で寛大、勇気があって魅力的な夢みる若者になって変化してゆくのである。
 かくして、ビリーは伝説のアウトローとなりハリウッドのスターとなって殿堂入りを果たしたのである。
 日本でも源義経、真田幸村などが時代劇のヒーローに祭り上げられているのは周知の事実だ。
 悲劇的で同情を誘うような哀愁ただよう最期、個人的打算を越えたスケールの大きな行動、つまりは民衆の判官贔屓によって民衆からの同情票を獲得した結果なのである。
ポール・ニューマン主演の映画、原題名は「左ききの拳銃」1958年
 そうなれば、さしずめ、ビリー・ザ・キッドもこの口であろうか。
 現在、彼の墓石はゲージの中に囲われている。
 有名人によくありがちなように、墓石を記念品として削って持ち去る人間が後を断たないからだそうである。
 墓碑銘には、生涯で21人を殺害。銃に生き銃で死んだ少年殺人王、と並みの犯罪者らしからぬ言葉が刻まれているということだ。
ニューオリンズのフォート・サムナーにあるビリー・ザ・キッドの墓。
* フロンティア精神の負の遺産 *
 西部の開拓物語は、その後フロンティアの消滅とともに幕を閉じることになる。アメリカ人の目は、今度はほどなく遠く太平洋の彼方に向けられることになるのだ。ペリーが黒船を率いて日本にやって来るのもそれからまもなくしてからであった。
 さまざまな困難を克服して、未開拓地域を切り開いていった開拓者魂は、今日のアメリカ人の価値観に受け継がれている。決して妥協せず何ものにも屈しないという正義感は、現在のアメリカ人の根底に流れているものだ。同時に伝統や家柄などに捕われることなく自由で独立した考え方は、アメリカ民主主義の基盤になっていると言ってもいい。確かに、何を決めるにも他人に頼らず自らの考えで判断し、自分独自の生き方を貫くという姿勢は、成熟した大人の価値観と言っても過言ではない。
 だが、自らの力で自らの財産を守り抜くという当時のフロンティア・スピリットは、皮肉なことに今日の銃社会を生み出すことになり、今ではアメリカの凶悪犯罪の温床にもなっていることは誰もが認めるところだろう。
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