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奇跡の詩
〜92名中唯一生存した少女が果たした奇跡の生還〜
 乗った飛行機が空中分解し、奇跡的に助かった一人の少女がいる。だが、彼女が放り出されたのは身の毛もよだつ恐ろしいジャングルのまっただ中であった。これまで苦労をしたこともなく幸せそのものに過ごして来た少女が、突如、絶望と危険と死だけが支配する恐怖の世界に放り込まれたのだ。
 しかし少女は生きることを放棄することなく、地獄のような環境と戦って行き抜く方を選んだ。その日を境に壮絶なサバイバルが始まった。少女は、親から教えられた知識をフルに活用し、10日間もの間、地獄のジャングルをさまよったのだ。そして、実に200キロ以上も緑の地獄を突破して生還を果たしたのである。これはまぎれもない実話で、当時「奇跡の詩」として映画にもなり、人々の心に一大センセーショナルを巻き起こした。
 この映画を観た人は生きる喜びと生きる勇気を教えられたに違いない。絶望を乗り越えてひたすら生き抜こうとする彼女の姿勢は、我々に生きることの素晴らしさを教えてくれる。私たちはここに命のドラマ、その名の通り奇跡の詩を見る思いがするようだ。
* 過酷な運命 *
 1971年12月24日クリスマスイブの日のこと、17歳のユリアナは母親と共に、奥アマゾンのプカルパという小さな町でジャングルの生態研究をしている父を訪ねるため、リマの空港から飛行機に乗ろうとしていた。ユリアナはほんの一週間ほど前に17才になったばかりで、美しい金髪を持つ茶目っ気たっぷりの少女である。両親はともにドイツ人で父親は有名な生物学者で母親も鳥類の著名な学者であった。ユリアナは物心がついた時から、父の研究のためにドイツから遠く離れたここペルーに引っ越して来ていたのである。
 日本の3倍以上という面積を持ちながら、ペルーという国はまったく異なった二つの顔を合わせ持っている国でもある。太平洋岸に位置する平野部分は雨が少なく比較的乾燥した気候地帯である。都市から一歩もでると、延々と果てしなく砂漠が続いているのだ。ところが、いったんアンデス山脈を飛び越してしまうと、今度は高温多湿で人跡未踏の原生林がどこまでも続いているのである。こうした文明の手の及んでいない原始林地帯がこの国の実に6割以上を占めているのだ。
 搭乗した飛行機は4発のターボプロップのプロペラ機で目的地はアマゾン川流域にあるイキトスという町である。イキトスは人口5万ほどのアマゾン奥地では最大の町である。生物学者の父がいる所は、途中のプカルパで降りて、さらに車で2日ほどかかる不便な場所にあった。プカルカまでの飛行距離は400キロほどだったが、途中で標高6千6百メートルもあるアンデス山脈を飛び越えねばならない。従って、7千メートルの高度まで上昇せねばならないが、この上空はアンデス山脈の巻き起こす乱気流で飛行機がよく揺れることで知られている空域でもあった。
 この日の便は地元でクリスマスを祝おうとする客で満席状態である。少女の後ろの席に坐っている幼い姉妹は、アメリカから来たらしく先ほどから楽しそうにクリスマスソングを歌っている。離陸してまもなく、母親から誕生日の翡翠の指輪のプレゼントを贈られたユリアナは大はしゃぎだった。しかしお昼頃、アンデス上空にさしかかったとき、飛行機は乱気流にまき込まれて激しく揺れ出した。
 揺れはおさまるどころか、ますます狂ったように上下に激しく振動を繰り返し始める。
 数人の乗客から鋭い悲鳴が上がり、棚からはばらばらと荷物が落ちて来た。突然、ものすごい雷鳴とともに凄まじい閃光が走った。
 「ビシッ!」鈍い音がした。ガンガン、機内が上下に大きく揺れる。「きゃぁー」窓越しに翼からオレンジ色の炎がメラメラと吹き出しているのを見て少女は悲鳴を上げた。
 すべてが非現実的でコマ落としのフイルムのように動いているようであった。すぐ横では母親が両手で顔を覆ってうずくまっているのがちらりと見える。次の瞬間、目の前が真っ白になり、同時に猛烈な風と寒気がワーンと体中に襲って来た。体が宙に浮いているのか、逆さになっているのかさえわからない。体中の力が抜けるような奇妙な感覚になりユリアナは意識を失った。薄れていく意識の中で、少女が最後に見たものは、遠くにそびえるアンデスの山々と灰色の空と眼下に広がるうっすらとしたジャングルの樹海のシルエットであった。
* 緑の魔境 *
 頬を打つ冷たい雨の感覚と脇腹の締めつけられるような痛みで気がついたユリアナは、最初、何が起こったのかわからなかった。次第に記憶が戻ってきた彼女は、飛行機が墜落し自分がシートごと空中に放り出され、運よくジャングルの木々に引っ掛かったために、それがクッションの役割を果たして生き残ったことを知った。腹が締めつけられる感覚は、自分が逆さまになったシートの横に倒れ込んでおり、安全ベルトが腹に食い込んでいるからであった。
 彼女の周囲には2、3の遺体と飛行機の残骸が折り重なっていた。目に見えるものは黒焦げになった死体と散乱した荷物ばかりである。よろめくように立ち上がって、歩き出そうとした少女は、そばにあった死体につまずいて倒れそうになった。それを見た彼女はぎょっとして思わず手で口を覆った。遺体は機内でクリスマスソングを歌っていた幼いアメリカ人の姉妹だったのだ。彼女らはニューヨークからはるばるきたと言って陽気にはしゃいでいたのである。それが今は、髪を振り乱して目を見開いたままのものすごい形相になってボロクズのように折り重なるようになって横たわっていた。しかし、この姉妹はまだましな方で、目につくものと言えば、手足がバラバラになって人の形を留めていない死体ばかりである。
 「ママー!ママー!」少女は何度も母親の名を呼んだ。それこそ声を限りにして叫んだが、雨の降り続く不気味なジャングルの中に虚しく吸い込まれていくだけである。
 その時になって少女はメガネがなくなっていることに気がついた。彼女は軽い近視だったのである。機内で喜んで左手の薬指にはめた翡翠の指輪もどこかに飛んでしまっていた。
 のどがカラカラで焼け付くようだった。彼女は広い葉っぱについた水滴を集めてそれでのどをうるおす。
 泥に混じって落ちていたキャンディーの袋を見つけた彼女は、それを拾うとびっこを引きながらあてどもなく歩き出した。 キャンディーを一粒取り出して口に含む。たちまち甘酸っぱい味が口中に広がってゆく。彼女は自分に言い聞かせた。さあ、歩くんだ。歩くしかない。少しでも希望があるうちに歩き続けるんだ。こうして果てのないジャングルの中で彼女の生きるための戦いが始まった。
 一般に、緑の魔境と言われるジャングルで、人が2日間生き続けることは不可能だと考えられている。うっそうと茂るジャングル内には想像を絶するような危険がそこかしこに潜んでいるのだ。ジャングルにわんさといる獰猛な蚊は服の上からでも平気で刺してくる。しかも、これらは恐ろしい熱病のもとになる病原菌を媒介することでも知られている。気が狂いそうになるほどの猛烈な蚊とブヨの攻撃に発狂する人間も多い。手の届かぬ傷口に肉バエに卵を産みつけられた時は悲惨そのものだ。ウジは成長するにつれてそこら中の肉をむさぼり食い、骨にまで達するほどにズタズタにされてしまうからだ。最後には皮膚の下は虫食いの穴だらけのスカスカという恐ろしい状態にされてしまうこともある。
 また、木蔭には猛毒を持った蛇が身動きもせずにかま首だけ持ち上げて赤い舌を出し入れしている。朽ち果てた枯れ木や石の下には、何でも食い尽くすという獰猛なアリや数十センチはあろうヤスデやムカデがとぐろを巻いている。
 沼には、20センチはあろう巨大なヒルがいて、手と言わず足と言わず体中に吸い付いて来る。いったん吸い付いたヒルを引き剥がすことは容易なことではない。しかし恐ろしいのはヒルだけではない。肉食の恐ろしいドジョウもいて、これに食らい付かれると、壮絶な痛みとともに肉を深くえぐり取られるのだ。この他、沼や河の至る所には牛でも食い尽くす獰猛なピラニアや馬さえも感電死させてしまうという電気ウナギも生息している。
 水辺にも危険が一杯だ。枯れ木だと思って知らずに近づくと巨大なワニが大きな口を開けて待ち構えていたりする。この恐怖の捕食動物は、頑丈な口で獲物を食わえ込むと恐ろしい力でグイグイと水中に引きずり込んでしまう。
 そして、水中で骨もろとも細切れにして飲み込んでしまうのである。
 水生の大蛇アナコンダは音もなく忍び寄って来る殺人マシーンである。全長8メートルにも達し、胴まわりは巨大な丸太ほどある。
 これにかかると、生きたまま鵜呑みにされるか、長い胴体で巻きつかれて体中の骨を粉々にされてしまうのだ。
 しかし何よりも絶望的なのは右も左もわからぬジャングルの地形である。日の光も差し込まぬ薄暗い気味の悪い密林の中を歩いていると、自分がどの方角に向っているのかまったくわからなくなる。何度も何度も同じ場所を堂々めぐりしていても気がつくこともない。やがて、妄想がわき、幻聴、幻覚などに襲われ発狂していくのである。
 少女は必死に歩き続けた。歩きながら彼女は生物学者である父の言葉を思い出していた。
「ユリアナ、密林の中で迷ったら、水の流れる方へたどればいい。どんな小さな流れでも、やがては大河となってゆくものだ。大河のほとりには必ず人が住んでいるからね」少女は何度も何度も父親の言葉を頭の中で反すうした。雨のあとに出来た流れを見失わないようにしながら、彼女はひたすら注意深くたどっていくのであった。
* 密林の中で *
 恐ろしい密林での第一夜が始ろうとしていた。密林のあちこちで何かが動き回る気配がする。時おり、猛獣のうなり声や襲われた動物の上げる悲鳴がひっきりなしにする。疲れているが、神経が高ぶって眠れない。こうしている間にも、恐ろしい大蛇や猛獣が忍び寄っているかもしれないのだ。
 「バサッ!」その時、近くの木の枝が揺れると、何かが少女の肩に飛び移って来た。少女は恐ろしさのあまり声も立てず、息を潜めたままで身動きもせずにいた。
 どのくらい時間が過ぎたことだろう。依然、生き物は、肩のあたりにへばりついている。しかし害を与える様子もなく危険がないように思えて来た。
 少女は、そっと顔を起こしてその生き物の方に目を向けた。なんと、その生き物は小さな猿だった。おそらく、親と離れ離れにでもなったのだろうか、おびえたように少女の肩にしがみついてふるえているのである。「きっと迷子になったのね」
眠れないジャングルの恐ろしい夜が来た。
 少女は袋からキャンディーを一粒取り出すと、小猿の方にそっとさし出した。
「お腹空いてるでしょ。あげる・・・」小猿は小さな手をこわごわ差し出すと、キャンディーをつかみ口に含んだ。小猿がおいしそうに食べてくれたので、少女は思わず微笑んでしまった。「おいしかった? またあげるね」小猿も心なしかうなづいているように見える。
 やがて気を許したのか小猿は逃げようともせず、少女の胸の中に飛び込んで来た。

 少女を母親ザルとまちがえたのであろう。抱きしめると、小猿の暖かい感触とドックドック脈打つ鼓動が伝わって来る。

 今まで忘れかけていた生命の息吹き。じいんとするなつかしい感触。少女はもう自分は孤独ではないと思った。同時に生き抜いてどうしても父親に会いたいという衝動が心の底からわき上がって来るのを抑えることが出来なかった。「これからずっと一緒にいてね」少女は小猿を抱きしめてそう誓うのだった。
 その時から小猿は少女の大切な仲間となった。地獄のジャングルで知り合った心を許すことのできる唯一の友達なのだ。少女は起きると、小猿がそばにいるか確かめる。キャンディーの袋を取り出すと小猿は近寄って来る。一粒を自分の口に入れ、小猿にも一つあげる。小猿はもみじみたいな小さな手で受け取ると、口に含んでもぐもぐとおいしそうに食べる。その仕種がかわいいので思わず笑ってしまう。遭難して以来の始めての笑いだ。こうして小猿を胸に抱いてまた一日が始まるのだ。
 時々、小猿が無邪気に胸を引っ掻いて甘えて来ることもある。そんな時、少女はリマの海水浴場で恋人と過ごしたなつかしい日々をなぜか思い出してしまう。抜けるような青い空、白い砂浜、打ち寄せる波、少女はそうした楽しかった思い出を反すうしながらひたすら歩き続けるのだ。また一つ茂みを越え、木の枝を抜けて・・・。
 4日目、少女は小猿を抱きながら、ジャングルの中を歩いている。昨日、キャンディーの袋は大きな蛇を見つけて逃げ出した時に落としてしまった。たった一つの食料源を失ってしまったのだ。食べるものはなく、今は木の葉のしずくをすすることだけであった。陽だまりの小さな空地で眠り込んでしまい、水の流れを見失ってしまったこともあった。だが、川のほとりにだけしかいないという鳥の鳴き声を聞き、自分が川に近い位置にいることを悟った彼女はその方向へ歩き始める。それは鳥類学者だった母親から教えてもらった知恵だった。こうして彼女は、ワニや蛇に襲われながらも、父親の言葉、母親から教えられた知識を思い出しては、ひたすら歩きつづける・・・。
 唯一のなぐさめは胸に抱いた小猿だった。彼女は小猿に語りかけたり、眠る時は子守唄をうたう。でも今はもうその小猿にあげることの出来るキャンディーすらない。水の流れをたどっていくうちに、それは小川になった。小川の周辺は茂みがものすごく歩くことは出来ない。少女は小猿を抱いたまま小川の中を歩くことにした。雨はまだ降り続いている。
 「ゴー!」その時、後ろで何かがつぶれるような音がした。振り向くと濁流が渦を巻いて襲いかかって来る。雨で水かさが増し、それを塞き止めていた古木が欠壊し鉄砲水となったのだ。一瞬の出来事だった。少女は濁流に押しながされそうになるところをとっさに近くのツルにつかまった。「キー!キー!」水につかった小猿はおびえて彼女の肩から枝に飛び移るとスルスルと木の上に逃げて行く。
「行かないで!私をひとりにしないで!」少女は叫んだが無駄だった。もうどこを見回しても小猿の姿はない。小猿はそれっきり少女のもとには帰って来なかった。こうして少女は再びつらい孤独と戦わねばならなくなった。
* かすかな希望 *
 6日目、やっと雨があがり日が差し込んで来た。少しだけ希望がわいて来る気分だ。少女はちいさな空地を見つけると、そこで横たわった。日の光が全身に降り注がれる。緑の草がクッションのようだ。あれほどみじめだった気分がちょっぴり晴れやかになって来た。少女は背中に羽があればいいのにと考えたりする。
 だが、彼女の体力はもう限界に達しようとしていた。体のふしぶしがズキズキ痛む。背中の傷口にはいつの間にか肉バエが産みつけたウジがわき、傷口を食い荒らしているのである。もう疲れ果てて動くことさえも難儀なことだったが、ここでじっとしているわけにはいかない。
 彼女は死力をふりしぼって川岸に出ると、水辺に漂っている大きな木の枝を見つけて、それらをツルで縛ってイカダをつくり始めた。イカダというよりも木の枝を束ねた浮き輪のようなものだったが、これにつかまって川を下るのである。
 川はこれまでの雨でかなり増水している。今なら流れに乗って川を下っていけば、やがて大河となって人の住むところに流れていくはずだ。だが、体力がいつまで持つのだろう。
長い雨の後、雲間から日が差して来た。ジャングルでたった一人の少女の心にも少しだけ希望が差す。
 ツルで枝を縛っていると、突然、胸にしびれるような痛みを感じて少女はのけぞった。自分の胸を見た少女は恐ろしさで総毛立ってしまった。何と20センチもあるヒルが数匹も乳房のつけねあたりにぶら下がっているではないか。ヒルは血を吸って小豆色に変色しているのもあった。少女は悲鳴をあげてむしり取ろうとした。しかしヌルヌルとした気味の悪い感触がするだけですべって引き離せない。彼女は木の枝を拾うと、貝殻をこじ開けるようにして一匹、2匹、3匹と渾身の力で引き剥がしてゆく。ようやく全部引き剥がし終えた時、全身から力が抜けて行くようだった。少女はあまりの恐ろしさにその場にへなへなと座り込んでしまった。

 しばらくは川に近づきたくもなかったが、夜が来るまでに何とかせねばならない。やがて気を取り直すと、流木を探そうとして水草の生い茂る水辺に入っていった。そのとたん、今度は足に猛烈な痛みを感じる。恐怖で顔をゆがめ、よつばいになってやっとの思いで岸にあがってみると、ふとももに大きなかみ傷ができて血がボタボタと流れていた。獰猛な肉食ドジョウに食いつかれたのだ。背中の傷はますます悪化して盛り上がって熱を帯びている。中でウジがうごめいているらしく、その度にズキンズキンと強烈な痛みが走る。苦痛に懸命に耐え、絶望と恐怖に戦いながらも、どうにかイカダらしきものが出来き上がったのはもう夕方近くになってからであった。

 一方、捜索隊は8日目にしてやっと機体の破片を発見した。現場に到達した捜索隊は、あまりにも酸鼻をきわめた現場の状況に生存者はいないとの結論を下さざるを得なかった。機体は細かく広範囲に散乱しており、時たま発見される遺体にしても、腐乱してほとんど原形を留めていなかったのだ。恐らく、飛行機ははるか上空で爆発して空中分解を起こし、粉々になって落下したと考えられた。この知らせを聞いた少女の父親は、涙はすでに枯れ果ててしまったのか、顔を両手で覆ったまま何時間も何時間も椅子に腰をおろしたままであった。
* 流れのなかで *
 少女はイカダとともに流れを下っている。流れは増水のためかかなりのスピードで流れていた。川幅も次第に大きくなっていくようである。
 もうどのくらいイカダとともに流されているのだろう。時たま見え隠れする曇った空、濁った灰色のしぶきが容赦なく顔にかかる。今が夕方なのか朝なのかさえもわからない。
 下りながら彼女は眠ったり、変な夢にうなされたり、幻聴と幻覚が交錯し、現実と夢の区別もつかなくなっていた。
 もうだめ、いよいよ私の最期よ。苦しいのは一瞬、それさえがまんすれば、後は楽になれるんだ。絶望と苦痛のあまり何度もそう思って手足を投げ出して死を受け入れようと考えたこともある。
増水した流れを少女はイカダにつかまり、ひたすら下っていく・・・
 しかしその都度、母親や父親や恋人の幻があらわれ、彼女の耳もとで叫ぶ声が聞こえる。「ユリアナ!もう少しだ。がんばるんだ!」「ユリアナ、私の分まで生きて!」「ユリアナ、希望を捨てるな!」
 9日目の朝、もうろうとした意識で少女は小さなカヌーが岸につながれてあるのを目にする。また幻覚なのだろうか。イカダにつかまってほぼ2昼夜、彼女は気力だけで持ち堪えていた。弱々しく手と足を使ってやっとの思いで岸にはい上がる。小さな小屋があるのが見えた。人影はなかったが、うっすらと煙が立ち上っているのが見える。焚き火だ、誰かがいる! こう思うと、彼女はよろめきながら最後の体力を振り絞って小屋に向かっていった。もう体力はほとんど尽きかけていた。まるで頭の中に白いモヤが張りついているようですべてがぼんやりしている。彼女はフラフラで小屋の入口まで来るとついに意識を失って倒れ込んだ。
 この時、この小屋の中には二人のインディオの青年がいたのだが、彼らは血まみれで泥だらけの得体の知れない生き物が倒れ込んで来たので驚いてしまった。その泥だらけで猿のような生き物が少女だとわかるのにかなり時間がかかるほどだった。介抱されて意識の戻った少女が飛行機の乗客の一人だと言っても彼らは容易に信用しなかった。何しろ墜落以来9日間も経過している上、墜落現場から2百キロ以上も離れていたからである。
 インディオの青年は、彼女にお粥を進めたが少女は食べることは出来なかった。お腹の中はほとんど空っぽのはずなのに食欲が出てこないのだ。その代わりに少女は水をガブガブとひたすら飲んだ。一人が彼女の背中の傷にわいたウジをとってくれる。ガソリンをかけて、苦しまぎれになって出てきたウジを1匹、1匹、根気よく取り除いていくのだ。傷は骨まで達していて、取るときには死ぬほど強烈な痛みを伴う。驚いたことにウジは全部で35匹もいた。すべてが終わった時、少女は始めて自分は助かったんだという実感に目頭が熱くなって来た。今、私は生きている、こう思うと涙が後から後から溢れて来るのだ。夜になって、もう一人の青年がこのことを町に知らせるため危険を顧みずカヌーで下っていった。
 残った青年は自分がここで番をしているから安心して休めばいいと言ってくれた。心の優しいインディオの青年たちだ。しかし、彼女は眠れなかった。体は衰弱し疲労でクタクタに疲れているはずなのに、眠ったと思うとすぐ目が覚める。母のことを思い出して泣いたり、一緒だった小猿は無事でいるだろうかと心配してみたり、父のこと、恋人のことなど、まるで次から次へと走馬灯のように思い出されて来るのだ。でもそうこうしているうちに、いつの間にか眠りが少女を捕らえたようであった。
* 私は生きている! *
 翌朝、彼女は毛布にくるまってカヌーで川を下っていた。依然、体は衰弱して体中の傷はズキズキ痛み、立つこともできないが気持ちはすっきりと落ち着いていた。
 川はいつもと同じように濁ってよどんでいたが、小川のせせらぎのように快適にさせてくれる。
 頭上で輝いている太陽も、風にそよぐ緑の木々のこずえも、遠くで鳴く鳥の声も、すべてが少女の帰還を祝福してくれているように感じるのだ。
 すべてのものが、どうしてこんなに美しく輝いて見えるのだろう!
 生きていることがこれほど素晴らしく思えるなんて!
カヌーで運ばれながら、少女はそこに生命の詩を聞いたような気がした。
 こうして、丸一日カヌーで運ばれた彼女はそこから飛行機に乗せられ、プカルパの町に運ばれることになった。少女が生存しているという知らせにプカルパの町では大騒ぎになっていた。一人娘のユリアナが生きているということを聞かされた生物学者の父親は呆然と立ちすくんでいた。「まさか、あの地獄のジャングルで10日間も死なずにいたなんて・・・」生物学者の彼は、日頃からジャングルのことを知り尽くしており、人がジャングルの中で迷って2日も3日も生きられるはずはないと口癖のように言っていたのである。博士は信じられぬという表情のまま病院に向った。
 少女が担架に乗せられてプカルパの町に着いた時、人々の中から「奇跡だ!」「奇跡が起きた!」「神さま!」という声があちこちでささやかれるのが聞こえた。地面にひざまずいて祈りをあげている人もいる。少女を幼い頃から知っていた修道女は、泣きながら奇跡が起きたと言って少女の体をきれいに洗ってくれた。日頃から、何かと言えば奇跡、奇跡を口にしたがる修道女のおばさんを、少女もよくからかったこともあったが、今は不思議に何の抵抗もなくその言葉を聞くことができるのだ。
 少女の傷を丹念に調べた医者は、放心したようにつぶやいた。「全身に切り傷、刺し傷20か所、両目は眼底出血、左鎖骨骨折、肉食ドジョウに食いちぎられた傷、全治1か月・・・よく助かったものだ。これくらいの傷だけで・・・」

 病室でユリアナは駆け付けてきた父と再会した。父親の顔を見ても少女は何もしゃべることが出来なかった。「ママが、ママが・・・死んじゃった・・・」それだけ言うとその先はもう声にはならない。ただ涙が止めどもなく溢れて来るだけである。父親の方も流れ出る涙を拭おうともせずに言った。
「ママは死んでもお前が生きている。よくがんばったね。・・・ユリアナ、お前が生きているんだ。天国のママだってきっと喜んでいるだろう」

 もうこれ以上言葉を交わす必要はなかった。二人はしっかりと抱き合った。

 92名中たった一人生き残ったユリアナ・ケプケ。彼女が語った言葉がある。
 人間の偉大さは大きな石を運んだり、巨大な建物をつくったりすることだけではない。人間のちっぽけな体からは想像も出きないような力が秘められている。それは絶望の淵に立たされていようとも、体力の限界に来ていようとも、いざとなれば湧き出て来る不思議な生命力なのだ。こうした底知れぬ力が私たち一人一人に秘められている。これが神から与えられたものかどうかわからない。ただ、どんな苦境に陥ろうとも決して忘れてはならないことがある。

幸運にめぐまれ、たゆまざる努力があるとき、そこに奇跡が起こるということを・・・   
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参考文献  奇跡の詩   ジュゼッペ・スコテーゼ、 上条 由紀訳 集英社文庫
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