海の武士道 
〜危険をかえりみず戦場で敵兵を救助しつづけた感動の秘話〜
第二次大戦には悲しい話が多い。とりわけ戦争後期には情け容赦のない戦いが南方の島々で行われ、敵味方多くの兵士が亡くなったという悲惨な事実がある。しかし悲しい話が多い中で、晴れ晴れする武士道や騎士道精神を彷彿とさせる、まさに心の洗われるエピソードも戦争秘話として残されているのも事実だ。その中の一つを紹介したいと思う。それは太平洋戦争が始まってまだ間もない頃に起きた話である。
* 激しい戦闘 *
1942年、ジャワ沖。開戦当初から日本軍は破竹の進撃を続けていた。連合国の戦争準備が整わないうちに、日本は早急に南方の資源を手に入れる必要があった。特に、オランダ領のジャワには豊富な天然資源があり、年間一千万トン以上も産出する巨大な油田地帯があった。日本がABCD包囲網の中で経済圏をつくって自給自足をしていくには、是が非でもこれら油田地帯を無傷で占領しなければならなかった。
 そうした状況下のもとで、双方の艦隊は遭遇し海戦の火ぶたは切られた。このとき、連合軍の戦力は巡洋艦5隻、駆逐艦9隻の合計13隻で、一方の日本側は巡洋艦6隻、駆逐艦14隻であった。結果は48時間にわたる戦闘の末、連合国の艦隊はボロボロにされてしまった。大小の艦船8隻が沈み、その他の艦船もかなりの被害をうけたのであった。(日本側は沈没なし)
 夜が明けるとともに、くっきり晴れ渡った水平線上に小さなマストがぽつんぽつんと見え出した。双方の艦隊は遠距離から撃ち合いながら近づき、やがてはっきりと肉眼でわかるまで接近した。敵味方の艦船は大小30隻を数えたが、やがてワンサイドゲームの様相を呈し始めた。連合国の艦船は、多くは半病人のようになってしまった。もはやこうなっては勝敗の結果は明らかであった。
 そんな中、イギリス海軍の駆逐艦エンカウンターもひどい損傷を被った。僚艦エグゼターは沈没し、かろうじて海中に艦尾を残して浮いていた。数分後、エンカウンターも穴だらけとなり沈没寸前となった。艦長は総員退去を命じる。こうして連合国の乗組員数百名が海に投げ出されることになった。
日本側ではこれをスラバヤ沖海戦と呼んでいる。
* 襲いかかる絶望と死の恐怖 *
 戦闘が終わると海は嘘のように静けさを取り戻した。海面には何百という連合軍の兵士が漂流していた。ジャワの海は温かい。その点、夜になっても身体が冷え込まず救われた。恐ろしいサメは音を嫌う性質を持っているので、しばらくは寄っては来ないだろう。なにしろ、長時間もの間、大音響による砲撃戦がつづいたのだから。しかし、船から漏れ出した重油に多くの者は真っ黒になり目をやられてしまった。これでは自力で陸まで泳ぎ着くことは不可能であろう。一番近い陸地まで240キロも離れているのである。
 兵士たちは漂流しながら、思い思いさまざまなことを考えていた。いつ救助は来るのだろうかということ、そして両親や家族のこと、あるいはいつか出会った素敵な金髪娘のことなどを。そして誰もが共通に考えることは死後の世界があったらいいなということだった。しかし、待てども待てども、救助の手が差しのべられることもなく、時間が経つに連れて、甘い幻想はすぼんでいき、絶望と自暴自棄に近い感情がもたげて来るのである。自殺のために薬をくれと哀願する者すらあらわれ始めた。漂流中の軍医はもう少し待ってみようとなだめる。しかし助かる確率はゼロにちかいだろう。そう誰もが考え始めていた。そのとき・・・
 遠くの水平線上にポツンと黒い点があらわれたのだ。それはみるみる大きくなり、一隻の軍艦らしきシルエットになった。旭日の旗がひるがえっているようだ。すると日本の軍艦か? しかし多くの者は半分目をやられており、それが現実なのか蜃気楼なのかも定かではなかった。やがて軍艦は漂流者の群れからわずか180メートルほどまで近づいて来た。もはや疑うことのない現実だと多くの者が悟った。
 漂流者たちからドッとどよめきが起こった。だがそれは喜びでも安堵の声でもなかった。不安と恐怖に近いものだった。軍艦からは機銃が不気味にこちらに向けられており、誰もがまもなく弾丸を雨あられと浴びて撃ち殺されてしまうと思ったのである。漂流者たちはただただ祈りに終始している。
一方、日本の軍艦は何を考えているのか停止したままだ。
* ひとりの艦長の決断 *
漂流者の群れの前にあらわれたのは、日本海軍の一隻の駆逐艦だった。艦名を雷(いかづち)といい、2000トンあった。雷はスラバヤ沖海戦後、別行動を取っていたが本体に合流するべく急行中であった。
 雷は偶然にもイギリス兵たちの漂流の群れに遭遇したのであった。雷の艦橋では思索に暮れ、いろいろな会話がなされていた。

 捕虜を救助すれば、作戦上支障をきたすことになるだろう。実際、捕虜の収容中に敵の攻撃に合い、艦の全員が戦死してしまった例も多数あるからだ。また、ある巡洋艦では味方の水上機が帰って来た際、収容のために艦を停止することも嫌がったほどである。
日本海軍の駆逐艦「雷」 最大で38ノットの高速を誇る最新鋭駆逐艦として知られていた。惜しくも1944年に撃沈され、乗組員全員は戦死したと言われている。
そんな折、一人の帝国海軍将校がこの話の主人公となる。その将校の名は、工藤俊作(くどうしゅんさく)海軍中佐であった。工藤は山形県生まれで、身長は185センチもあり、体重90キロ、まことに威風堂々とした体躯をもっていた。しかしその反面、性格は温厚で穏やか、部下には思いやりがあった。工藤は艦内における体罰や鉄拳制裁を一切禁止していた。そのためか部下からは大変親しまれており、艦内のムードも良く、階級の上下の分けへだてなく家族的なきずなで結ばれていたらしい。
双眼鏡を目にしたまま、工藤艦長はつぶやくように言った。
「敵兵が多数漂流しているようだ。艦を停止して救助しよう」その言葉に驚いた専任士官は艦長に進言した。
「艦長、ここは交戦海域の真ん中です。いつ敵潜水艦に雷撃されるとも限りません」確かに士官の言うのも当然のことだった。
この海域には敵の潜水艦が多数入り込んでおり、数日前にも味方の輸送船が撃沈されているのである。しかし、工藤艦長はかぶりを振ってもう一度念を押すように言った。

「今、放置すれば彼らは助からないだろう。もう体力の限界にまで来ているはずだ。敵と言えどむざむざ犠牲にすることは出来ない。艦を停止する!」
こうして、交戦の最中に駆逐艦「雷」は停止して救助活動をすることになった。「雷」は救助活動中を意味する国際信号旗をマストにかかげると、漂流している集団のすぐそばでピタリと停止したのである。
 波間に漂っていたイギリス兵からはため息のようなどよめきが漏れた。最初、彼らは銃口が向けられ自分たちに発砲されて撃ち殺されるものだと考えていた。実際「おお、神さま」思わずそう唱え、天を仰いで十字を切った者も少なくなかった。だが彼らがそう考えたのも無理もなかった。当時は敵味方双方とも相手国への敵意を植え付けるための謀略宣伝活動がさかんに行われる時代だったからだ。多くの連合国の兵士たちの頭の中には、日本人は赤ん坊でも平気で殺す野蛮で無慈悲な民族だという恐ろしいイメージが植え付けられていたのである。
 それが、船の両舷から縄ばしごが降ろされるのを見て、彼らは敵である日本の軍艦が自分たちを救助するつもりだと知ると、二度目の驚きの表情をあからさまに浮かべた。確かにそれは戦闘中に起こった向こう見ずで、まさに捨て身の救助活動とも言える前代未聞の行為であった。1942年3月2日午前10時ごろ、世紀の大救助ドラマはかくして始まった。
* 最前線で行われた命がけの救助 *
 まもなく、縄バシゴの他、竹竿、ロープなど艦に備えられている救助に使えそうなありとあらゆるものが海中に投入された。しかし、イギリス兵たちは体力と気力の限界に来ているのか、艦の舷側にようやく泳ぎ着いても、力尽きて沈んでしまう者が続出した。多くの者は、雷の乗組員たちが懸命に下ろした竹竿やロープに少し触れただけで放心したようになり海中に没し去るのだった。そしてほとんどの者は、それっきり二度と浮かび上がってはこなかった。
「がんばらんか!」「これにつかまれ!」乗組員たちのこうした叫びも届かず、衰弱しきったイギリス兵はつぎつぎと虚しく海中に姿を消してゆく。こうしたシーンが幾度となく繰り返された。日頃、鉄拳制裁と体罰で恐れられていた海の猛者たちも声を枯らしてわめき、最後には涙声になった。
 この光景を見かねた一人の水兵がまなじりを決した表情で腰にロープを巻き付けると、海中に飛び込んだ。「命令だ、飛び込んではいかん!」下士官の怒声が響くが、一度決心した彼らを止めることは出来なかった。ザバンッ!ザバンッ! 水兵は腰にロープを巻き付け、次々と海中に飛び込んでゆく。彼らは立ち泳ぎをしながら漂流者の群れに割って入り、重傷者を見つけると身体にロープを巻き付けて引っ張るよう合図した。
 もうこうなれば敵も味方もなかった。国籍は違っても同じ海軍同士、厳しい大自然を相手にせねばならず、非常な親近感をもつゆえの同胞意識が芽生えたのであろうか。
 一方、イギリス兵たちも体力を振り絞ってロープにつかまり、雷の乗組員の差し出された手を力の限りすがって上がって来た。よれよれの格好ではあったが、それでも士官は弱々しく敬礼をして上がって来る。甲板上はごった返していた。ほとんどの者がひどい脱水症状を呈しており、出された水をがぶ飲みした。その消費量だけでも三トンにものぼったという。
 しかし反面、せっかく救助されながらも毛布に包まれたとたん、安心しきった表情で息を引き取る者も少なくはなかった。
 白い防暑服、カーキ色の半ズボン姿の小柄な水兵たちが、救助されたイギリス兵たちの身体についた油や汚物をアルコールで優しく丁寧に拭き取っていく。
 日本兵は笑顔で熱いミルクやビスケットを配っている。この様子を見て、目の前で起こっていることが到底信じられず、これは夢ではないのかと思って自分の顔をつねったイギリス兵も多い。
救助を求めて殺到する(当時の写真から)
 救出劇は終日続き、雷はこの困難な救出活動に終始しつづけた。夜になれば探照灯を海上に照らして、海上に漂流する生存者をあますところなく収容したのであった。

 その数、実に422名! これは雷の乗組員の二倍以上である。
 このような交戦海域のまっただ中でおのれの危険をかえり見ず、大規模かつ徹底的な救出活動がなされたのは海軍史上これまでにも例がなく空前絶後のできごとであった。

生きている!「サンキュー、サー」ボロボロになってはいたが、英国海軍士官は決して誇りを失わなかった。(当時の写真から)
その後、工藤艦長はイギリス兵たちを甲板に集め敬礼し流暢な英語でスピーチした。「諸君は勇敢に戦われた。諸君は日本海軍の名誉あるゲストである。私は貴国、イギリス海軍を尊敬している」
 どよめきと同時に、多くの捕虜たちの中から「オー、ワンダフル!」「サンクス!」という叫びがあがるのが聞こえて来た。
* 元イギリス士官が語った真実 *
 当時敵側であったイギリス駆逐艦「エンカウンター」の乗り組み員だったサム・フォール氏は戦後外交官として活躍したが、戦時中、自分たちを命がけで救助してくれた日本海軍の一士官のことをひと時も忘れることはなかった。おそらくそれは艦長一人の勇気にもとづく英断であろう。しかしそのために、いつ潜水艦の攻撃を受けてもおかしくない危険な海域で救助活動が行われ、多くの人名が救われたのも事実なのであった。
 かつて天皇のイギリス訪問に際し、退役軍人たちによる謝罪を求める反対運動が起き日本に対する非難中傷が盛り上がっていたことがあった。激しいブーイングが沸き起こり、路上には卵や火炎瓶が投げつけられた。サム・フォール氏はこの時も自分が戦時中に当時の日本軍がいかに我々の救助に懸命に尽くしてくれたのかと言う内容をタイムズ紙に投稿した。氏の手記が紙上で掲載されると、これまでの嵐のような抗議や非難は嘘のように静まり急速にしりすぼんでいったという。
 退官後も、サム・フォール氏は人生最後の締めとして、この海軍士官に会って、礼を言うのが自分の最後の使命だと信じるようになった。右足が不自由な氏は車イスに乗っての来日になった。しかし残念なことに、工藤は8年前に他界していることが判明した。
 生前、工藤に親しかった人々の証言によれば、工藤は毎朝、死んでいった部下の冥福を祈ってひたすら仏壇のまえで手を合わせる毎日であったという。雷の乗組員たちは工藤の退艦の後、まもなくグアム沖で魚雷攻撃を受け全員が戦死してしまったのであった。
サム・フォール氏は帰国の際、工藤の墓におもむき、墓前でこれまでの経過報告と長年の感謝のメッセージを伝えた。それは2008年1月中旬のよく晴れた日で、冬晴れの空はどこまでも青く澄み切っていた。
 最後に、サム・フォール氏はインタビューに涙ながらにこう語った。

「私の人生はあのときジャワ沖で終わっていたはずでした。しかし私は生き延びることが許されたのです。今日の私の人生をかくも幸運に恵まれたものにしてくれたのは、かけがえのない家族です。
 しかし、それにも増して一番かけがえのない命の恩人だったのは大日本帝国海軍の一人の将校でした」
サム・フォール氏 当時、エンカウンターに乗っていたときは23才。戦後は外交官として活躍した。
 サム・フォール氏は回想録の結びとして、命の恩人、工藤俊作中佐に捧げるものとすると銘記して本の冒頭にこの言葉を置いた。この本は「ありがとう武士道」と題され世界中で出版されたのであった。
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参考文献

「敵兵を救助せよ」恵隆之介著 草思社
「ありがとう武士道」サム・フォール著 麗澤大学出版

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