大空のサムライ
 〜日本の撃墜王にまつわる感動のエピソード〜
 坂井三郎と聞けば、少し戦記に詳しい人ならああ零戦のエースだなと思い出すはず。事実、坂井三郎の著書「大空のサムライ」は54年に出版され、100万部以上の世界的ベストセラーとなった。彼の名はサムライ・サカイとして世界の人々に知られることになり、海外で知られている最も有名な作家の一人でもある。またサムライという言葉をこれほど世界中に知らしめたのも彼の功績だと言えよう。
 坂井はパイロットとして零戦に乗って200回以上も出撃し、敵機64機の撃墜スコアーを持つとされるが、戦時中には彼にまつわる興味深いエピソードも少なからず残されている。それらを二つほど紹介することにしよう。
 太平洋戦争が始まってすぐの頃、坂井はオランダ軍の輸送機が飛行しているのを偶然発見したことがあった。輸送機といえど、敵の重要人物が搭乗しているかもしれず、拿捕、もしくは撃墜せよという命令が出ていた。坂井はオランダ軍の輸送機に近づいていった。
「護衛はいないようだな・・・」坂井は周囲に目をくばりながらつぶやいた。 撃墜すべきか警告射撃をすべきか、思案しながら近寄ることにする。用心のため太陽の方角から接近した。近寄ると、機体は陽光にギラギラ輝いている。窓があって多くの顔が自分に向けられているようだ。
 坂井はさらに零戦を接近させた。陽光がさしこみ暗い飛行機の内部を照らし出す。窓を通して飛行機の内部がすみずみまで見渡せた。
 なんと機内は負傷者ばかりで、彼らは恐怖でひきつった表情でこちらを凝視しているではないか。
 彼らは鬼のような日本軍の戦闘機に飛行機もろとも撃ち落とされるかもしれないと恐怖におののいていたのだ。
 窓越しに看護婦らしき女性と5才ほどの少女が抱き合ったままおびえた表情で見つめているのも見えた。
このとき坂井は心の中で自問自答した。「坂井三郎。そうだ、お前は大日本帝国海軍の栄えある戦闘機乗りだ。相手が敵機なら存分に戦いもしよう。しかし負傷者と女子供の乗っている飛行機は敵ではない。お前は敵を見なかった」
 坂井は自分のこの言葉に一人うなづくと、女の子と女性そして多くの負傷者たちに軽く手を振り、翼をひるがえして輸送機から離れ、大空の彼方に消えていった。
 これは軍紀からすると命令違反であったが、坂井は基地に帰ってからも飛行中に何ら敵らしきものは発見せずと報告しただけであった。この出来事は誰にも知られることもなくこのまま過去の闇に忘れ去られるはずであった。
 ところが戦後50年もたってから、この話は多くの人々に知られることとなる。当時その輸送機に乗っていた看護婦だった女性の一人が、偶然、坂井の著書を見て、零戦に描かれたマークから彼がそのときのパイロットだと探しあてたのである。
「私があのとき見た飛行機の胴体にもこれと同じマークがあったわ。私たちの輸送機に近づいたのはこのパイロットにまちがいない」彼女はそう確信すると、国際赤十字を通じて照会を依頼した。するとまもなく事実確認がなされ、坂井だったことが判明した。こうして運命的な出会いは実現することになった。女性は坂井に言ったそうだ。
「あのとき輸送機に乗っていた人々は、ほとんどが負傷者、病人、老人、女性や子供でした。みんなあなたの飛行機を見て悪魔が来たと思いました。でもあなたは笑って手を振って遠ざかっていきました。みんなは歓声をあげてそれこそ抱き合って喜びました。そして全員あなたに心から感謝したのです。あそこにいた人々は、その後、多くの家族を持ちました。あなたは多くの人々の命を救ってくれたんです。かけがえのない命の恩人なのです」
そう言って、女性はあらためて50年前のシーンを思い出すと涙を流して坂井の手をとったという。
 死を恐れぬ不屈の戦闘員でありながら、常に命というものを大切にした坂井三郎。彼のとった行為こそ、まさにサムライの真意ではなかったろうか。
 坂井がニューギニアのラエという基地に配属された頃の話。戦局は次第に難しい局面をむかえつつあった。
 このラエという基地は地獄といわれたラバウルよりもさらに南にある基地で、当時この場所は日米の最前線に位置していた。対峙するのはポートモレスビーにある連合軍の一大基地で、標高4000メートルのオーエンスタンレー山脈をはさんで向かい合っていた。当時、連合軍は夜になると、定期便のように爆撃機をくり出し爆弾を落としにやって来た。日本側も夜明けとともに奇襲をかける。こんな必死のつばぜり合いが毎日のように行われていたのである。
 いくら歴戦のパイロットぞろいとは言え、補充のきかない日本側は連日の出撃で、少しずつ確実に戦死して戦力が低下していく。今日亡くなったパイロットの御前で手を合わせて冥福を祈っても、ひょっとすれば明日は我が身かもしれないのだ。
 坂井は死ぬまでにどうしてもやりたいことがあった。それは敵の上空で僚友たちとはなばなしく編隊宙返りをしてみせることだ。その気持ちはつのるばかりで、今度出撃した際、帰る途中でこっそり抜け出してやろうということになった。
 その日は出撃しても敵はたいして出て来なかった。戦闘機隊は爆撃が終わると、護衛しながら帰途につく。これで任務は終わった。 坂井はかねてからの計画を実行するために敵地上空にまで戻っていった。まもなく示し合わせたように仲間の機が2機飛んで来るのが見えた。
 坂井は同僚の2機で編隊を組んだ。はるか眼下に敵の飛行場がかすかに見える。坂井は大きく息をついた。さあ、やるぞ! 操縦桿を力の限り手前に引く。たちまち機体が急上昇していく。すごい荷重だ。目の前でニューギニアのジャングルが、オーエンスタンレーの山々が、紺碧の海が、コバルトブルーの空にとけ込んでグルグルと回転していく。頭の芯がしびれるようだ。振り返ると、2機の零戦も糸でひっぱったかのようにぴったりついてくる。まさにあうんの呼吸とはこのことだ。
 坂井の頭の中は澄み切っていた。気持ちは充ち足りていた。ついに念願の敵地での宙返りをやってのけたのだから。
 こうして、坂井は二人の僚友たちとともに、敵地上空4千メートルで大きく編隊宙返りをした。
 もう一回、さらに一回。大空に大きな飛行機雲の輪が3度描かれた。しかしどうしたことかいつもなら猛烈に打ち上げて来る敵の対空砲火だが一発もない。
 僚機が一機近づいて来た。見ると同じくエースとして知られた西沢の操縦する機だ。西沢の目が笑っている。西沢はコクピット越しに右手で大きく輪を描いて見せた。そして下を指さした。
「高度を下げて、今度は敵さんのすぐ上で宙返りをやろうというんだな。よし、やろう!」
茶目っ気のある坂井は西沢のデスチャーをすぐ理解した。こうして太田、西沢の三機でぴったり編隊を組むと今度は、敵のすぐ頭上で見事な宙返りを再び三度繰り返したのであった。
 それは苛烈な戦闘の間に起こったさわやかな一コマであった。1942年5月27日、その日ポートモレスビー上空は一片の雲もなくどこまでも青く澄み切っていた。
 いつ死ぬかわからない日々に青春を送った彼ら。それからまもなくして、坂井は負傷して内地に帰り、太田はソロモンの海に散り、西沢も終戦直前に惜しくも戦死してしまう運命にあった。何度も大空に描かれた大きな輪。これこそ彼らにとって生きている証でもあったのだ。
 そして一方、連合軍もこの快挙に一発の砲火もあげずただただ地上から静観を守っていた。あっぱれ武士道、そして心にくきかな騎士道精神というところであろうか。
トップページへ
参考文献 「大空のサムライ」坂井三郎著  光人社
アクセスカウンター

inserted by FC2 system