ナポレオンのロシア遠征
〜80万の大遠征軍が見たロシアの地獄〜
* 彗星のごとく登場した革命の落とし子 *
「余の辞書に不可能という文字はない」この言葉が誰のものかわからぬ人はいないだろう。そう、その言葉の主はナポレオン・ボナパルト。フランスの独裁者だ。瀕死のフランスを救った英雄としてこの名を知らぬ者などいない。ナポレオンが民衆から絶大な支持をうけることになった理由として革命後の差し迫った社会状勢にあった。
 ブルボン王朝への反発からはじまったフランス革命は、数年後には陰惨なものへと変化していった。革命を押し進めているのは、ロペスピエール率いる山岳党と呼ばれる過激な一派で下層階級に支持されていた。山岳党はこれまでの貴族たちの華やかな文化を憎み、貴族や王族の私有地を強制的にとりあげては農民に分配しようとしていた。
 しかし何事もこのような強引なやり方は無理があるものである。だがこの連中は他の考え方を聞き入れることはなく、反対派は力でねじ伏せるという方法をとった。たれ込みや密告が横行し、反対派の烙印をおされるや否や、弁論の機会も与えられず、拷問されてかたっぱしからギロチン送りにされるのだ。広場に備えつけてあったギロチン台は昼夜休まず稼働し続けて人間の血を吸い続けた。
 ギロチンの重い刃が落下する「ドシン!」という地鳴りにも似た音が絶えず街中に鳴り響いていたという。
この間、4万人以上の人々がギロチン送りにされたと言われている。山岳党の恐怖政治に人々はビクビク夜も眠れぬ恐ろしい日々を過ごしていた。
 このような悲惨な革命が自分たちに及ぶことを心配した各国の政府は、革命を封じ込めるために、四方八方からフランスへの侵略を開始した。
 フランス国内は革命による恐怖と疲弊にくわえ、外国からの侵略で崩壊寸前に追いつめられた。
マリーアントワネットの処刑の様子。革命はその後、過激化してゆく。
 こういう社会状勢の中からナポレオンは彗星のごとく姿をあらわしたのである。
民衆は疲れきったフランスを蘇らせてくれる英雄としてナポレオンに夢を託したのであった。やがて山岳党は内部分裂し崩壊してしまう。
 ナポレオンは天才的とも思える軍事的手腕で各地に進撃し連戦連勝し侵攻して来た外国の軍隊を次々と打ち破った。こうしてまたたくまにヨーロッパの大部分を手中におさめていったのであった。
* 余にたてつく者は容赦しない! *
 1804年、ナポレオンはついに皇帝の地位までのぼり詰めた。今やナポレオンの絶頂期がおとずれようとしていた。ヨーロッパの大部分を力でねじ伏せ巨大な帝国を築き上げたのだ。もはやナポレオンにたてつく国は存在しなかった。
 かくして弱冠24才の青二才の下士官だったナポレオンは、水を得た魚のように、たった10年で皇帝の地位にまで上り詰めた。こうなるにはいくつかの偶然と奇跡が必要だったが、ヒトラー、織田信長などの例があるようにいくつかの要素が合致した時に、この種の現象がまれに起こることは歴史が証明している。
 しかし同時にいろいろな問題点も噴出し始めていた。ヨーロッパ各地にフランス軍が点在してしまった結果、維持費だけでも馬鹿にならず、戦費調達のため台所が火の車になっていたのだ。
 特にスペインではゲリラ活動に悩まされ、30万近いフランス軍が釘付けにされていた。
 しかも大陸の大部分は押さえたとは言え、海の向こうのイギリスだけは相変わらずナポレオンに敵対し続けている。
ナポレオンの戴冠式の様子。ナポレオンは自ら王冠をかぶり、皇后のジョセフィーヌにはナポレオン自身が王冠をさずけた。
(この油絵はルーブル美術館所蔵の大作である)

 ではどうすれば、イギリスを屈服させることが出来るだろう? 産業革命をなしとげ、今や通商貿易がメインとなったこの国の生命線を断つことだ。つまり経済的に孤立させて息の根を止めることが効果的と考えられた。かくしてイギリスを海上封鎖して兵糧攻めにしようとナポレオンは大陸封鎖令を発令したのであった。
* 裏切り者には死の制裁を! *
 しかしこの命令にロシアは従わなかった。ロシアはナポレオンにことごとく歯向かっていたのだ。その侮辱とも取れる態度は、誇り高いナポレオンの心を傷つけた。少年時代からかんしゃく持ちであったナポレオンは激怒した。
「余の命令に背くとはこしゃくなロシアめ! 思い知らしてやる。大軍でたたきのめしてくれよう」

 こうしてロシア遠征の計画がなされた。かくして、ヨーロッパ中から兵力が集められた。ドイツ、イタリア、ポーランドなどからかき集められた兵力、その数、実に80万を下らぬ巨大な軍勢になった。これは、19世紀当時、地上で考えられる最大にして最強の軍団と思われる。
 ナポレオンは、この巨大な兵力を怒濤のごとくロシアになだれ込ませ、裏切り者のロシアを一挙に粉砕してしまおうと考えた。

 最後通牒をも無視したロシアに堪忍袋の尾の切れたナポレオンはここに大遠征の開始を命令する。「余の平和の願いを袖にするとは・・・屈辱には血の洗礼でつぐなわせてやる」
ときに1812年6月23日、大遠征ははじまった。
* 立ちはだかるロシアの大平原 *
 フランス軍とその同盟国の軍隊は、ロシアの大平原目指して進撃していった。何万と言う軍馬、大砲、弾薬、食料を満載した馬車がつづく。一方、これに対峙するロシア軍も帝国のすみずみから農民などをかき集め、100万近い大軍となってナポレオンを待ち受けるのであった。
ロシアに侵攻したナポレオンの軍隊は見渡す限り広大な大平原ににとまどってしまった。風景に特徴らしきものもなく、進めども進めども、同じような景色が永遠につづくのである。こうした張り合いもなく広大な大自然はヨーロッパの兵士たちに、心理的不安を引き起こした。これはまさに未知の体験であった。しかも、ロシア軍は故意からか積極的な戦闘を控えていた。おそらくロシア軍は持久戦にもちこみ、補給がのびきったところをたたこうと考えていたのだろうか。
 これはナポレオンにとって今までに経験したことのない戦いであった。やがて大陸軍の兵士はまともな戦闘もしないうちに、強行軍に疲労こんぱいし、飢え、逃亡などにより脱落する兵士が後を絶たなくなってきた。
 侵攻して4ヶ月が過ぎた。9月14日、ようやくモスクワに入城。しかしモスクワはすでにロシア軍によって火を放たれ、市街は灰燼と化していた。当時は占領した都市などで食料、燃料などの現地調達が行われるのが普通だったので、ナポレオンの軍隊はたちまち途方に暮れてしまった。
 食料も燃料もなく一ヶ月ほど無意味にとどまったが、ロシア軍はいっこうにあらわれない。やがて悪魔の雄叫びのような風の切り裂く音とともに恐ろしいロシアの冬将軍が到来しようとしていた。気候は急速に悪化をたどり、猛烈なふぶきが容赦なく襲いかかる。栄養失調からか疾病がはやり、飢餓と厳寒で死傷者が続出しはじめた。
 もはや我慢出来ない。これ以上モスクワにとどまることは全滅を意味する。しかし敵はいずこにいるのか。果たして真の敵は人間であったのか。このとき、ナポレオンの心境はいかばかりであったろう。かくしてナポレオンはモスクワからの退却を決意した。
* 総崩れになる遠征軍 *
 退却するナポレオンの軍隊にここぞとばかり、ロシア軍は追撃に移った。大自然の魔の手がこれに追い打ちをかける。食料がついに底をつき出した。軍馬を殺しその肉を食料とする。軍馬は20万頭以上が殺されたという。騎兵は徒歩で歩くしかなく、1000門以上の大砲は破棄された。脱走兵も急増する。
ロシア軍の焦土戦術の前に撤退するナポレオンを描いた19世紀の油絵。
 数百人の兵士がたった一晩で消え失せてしまった。しかしどこに逃げようと脱走兵の運命も悲惨そのものである。捕虜になっても生きられる保証などなく、鋤や鎌などを持って襲って来るロシアの農民に殺されるかのどちらかなのだ。
 一日の大半は暗い夜が占め、あらゆるものが凍りつく恐ろしいロシアの冬が本格的に襲いかかった。零下40度まで下がる恐ろしい寒さだ。しかもナポレオンの軍隊は防寒着を用意していなかった。凍傷で歩けなくなり見捨てられた者は一晩で凍死する。花崗岩のようにコチコチに凍ってしまうのだ。オオカミの群れが凍死した兵士の遺体をまるでペンチでむしりとるかのように食いちぎる。
 こうして最初、80万を数え、最強をうたわれた輝ける皇帝の大陸軍はことごとく壊滅してしまったのであった。疫病、飢えによる死者30万、またその同数が戦死し、残りは敵の軍門に下るかロシアの農民などにことごとく殺されてしまったのである。ライン川を越えて、命からがら故国フランスまで逃げ帰ることが出来た者ははたしてどれくらいいただろう。史実では5千にも満たなかったと言われている。
* 見捨てられた悲運の天才 *
 この後、ナポレオンは急速に運にも見放されてゆく。このロシア遠征での失敗で、もともと、ナポレオンに反感を持っていたオーストリア、プロイセンなどが反旗をひるがえしたのだ。ナポレオンの軍隊は善戦したが、傷つき、次第に疲弊し、その結果、ナポレオンは失脚しエルベ島に追放されるのだ。
 しかし1年後、ナポレオンはこの島を抜け出し再び王座に返り咲いた。だが運命の神は二度とナポレオンに味方しなかった。天王山と呼ばれたワーテルローの戦いにも敗れ、今度は南大西洋の孤島セント・ヘレナ島に流されるのだ。わずか100日の天下であった。そしてナポレオンはきびしい監視のもと永久に幽閉される運命にあった。
 失意のうちに病魔に冒され、やがて死を待つだけとなったナポレオンの胸のうちはいかなるものであったろう? 彼の脳裏にはラ・マルセイエーズの歌が鳴り響き、これまでの出来事がめまぐるしく再現されていたことだろう。
 ただの一下士官から皇帝にまで登りつめ、ヨーロッパ中を敵に回してひたすら戦いにあけくれた日々、かつての愛人ジョセフィーヌへ綴った甘い幻想の一瞬、そして自分の栄光と夢を無惨にも奪い取ったロシアの荒涼とした光景が脳裏に浮かんでいたのにちがいない。ナポレオンの最期の言葉がそれを物語っている。
「全軍退却だ・・・余は・・・軍の先頭に・・・」そうつぶやき死の世界へ旅立っていったという。おそらく彼の意識は、燃え盛るモスクワを尻目に撤退を余儀なくされたロシアの大地をさまよっていたのだろう。かくして栄光の英雄の時代は幕を下ろしたのであった。
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