ローマの女剣闘士
 〜円形闘技場で行われた知られざる女剣闘士の記録〜
 古代ローマ時代、コロッセウムで連日連夜くり広げられた血なまぐさいショーの数々。残酷ショーのスターであった剣闘士とは、戦いに勝つことのみ生きることを許されるいみじくもはかない存在であった。
 今日、女性剣闘士の存在も明らかにされている。女性剣闘士たちは羽飾りのついた兜をかぶり、盾を持ち、金属製のすね当てをつけて武装し、円形闘技場で死闘を繰り広げていたのである。
 それを裏付けるかのように、ローマ時代の墓地からも女性の剣闘士だったと思われる人骨も発見されている。副葬品もかなり豪華なもので、通常、身分の高い人間の墓でもないのにこうした副葬品が添えられるということは、この女性は生前、高い人気を得ていたものと思われた。
 ローマ時代、女性の地位は低く、奴隷や娼婦などは墓がつくられることもなく、ただ一つの例外をのぞいて歴史の表面にはあらわれることはなかった。その例外とは女性が人気剣闘士であった場合だ。そして、人気とは民衆に支持された強さと勇気を持ち、美しさを兼ね備えていた場合であると考えられた。
 当時の剣闘士の養成所の跡からは武器の類や、甲冑、槍、短剣などが発見されている。すると彼女たちはここで訓練され剣闘士として巣立って行ったのであろうか。
 今から2千年ほど前のコロッセウムで一体なにが行われていたのだろうか、めくるめく時間の流れを逆らって古代ローマ時代にまでさかのぼってみることにしよう。
 ラッパとホルンの音が高らかに鳴り響いている。いよいよ開幕だ。皇帝の演説が始まる。「栄えあるローマ市民よ。このたびの催しは余が精魂かけて準備させた祭典だ」
 つづいて司祭長が声を大にして叫ぶ。「いよいよ次なる催しは本闘技会の最高の見せ物である。このアマゾネスどもは我らローマの敵対する地より駆り集められた者どもである。我らローマの神々にたてつく愚かで野蛮なアマゾネスどもがぶざまに蹴散らされる様をとくとご覧あれ!」
「皇帝陛下万歳!」「ローマよ永遠なれ!」ローマ市民の割れんばかりの大歓声が何度も響き渡る。
「ふん!アマゾネスか・・・」エリッサは一人つぶやくと回りを見渡してあらためて驚いた。観客は何万といる。今まで戦って来たけども、これほど大きな闘技場は始めてだ。
 私のことを少し話そう。私の先祖はカルタゴ滅亡後、ローマに奴隷として連れて来られたらしい。
 両親は私にいつもエリッサと呼んでいたからこれが私の名前なのだろう。何でもフェニキアの言葉で「愛らしい」という意味の言葉なのだそうだ。
 でも皮肉なことに私のしていることはちっとも愛らしくはないのだけど。今自分のことで話せることと言えばこれぐらい。とにかく私は剣闘士として今まで生きて来た。
 戦いの開始を意味するホルンの音が鳴り響いた。いよいよ運命の時が迫って来る。エリッサは剣を握りしめると身構えた。左手には頑丈な盾が、右手には短剣がしっかりつかまれている。銀色の兜は目のところだけが開いているタイプだ。
 我々は全部で5名いる。後ろにいる二人はガリア生まれのトータとトラキア出身のアイだ。トータは黒い目が印象的だ。彼女はエジプトまで行ったことがあるという。アイは小柄ながら敏捷な戦士だ。それ以上のことはよく知らないが、二人とも強い精神力と優れた技で試合に勝ち続けて来た強運の持ち主なのだ。ほんの数時間前に知り合ったばかりでそれ以上のことはわからない。
 エリッサは左右にいる戦士たちを一瞥した。どうせなら死ぬ前に、せめて彼女たちの名前だけでも知りたいと思ったからだ。栗色の髪をした女にたづねる。
「名前は?」「ヂューダ」ギリシアなまりだ。
「どこから来た?」「キプロス」
「なぜ剣闘士に?」「物心ついたときから」
「あなたは?」右にいる黒人女にもたずねた。
「ネルブァ。生まれはゲルマニアよ」ハスキーな声が返って来る。
「どうして剣闘士なんかに」「今は答えたくない」
彼女はゲートから目をそらさずに言う。まあいいさ、もう話す時間もないのだ。目前のゲートが不気味なきしみ音をあげて開かれようとしているのだから。
 扉の闇の向こうから何がやって来るかわからない。血に飢えたライオンなのか、凶暴で巨大なクマなのか、百戦錬磨の殺し屋なのか、それはわからない。でも命をかけて全力で戦うだけ。勝つしか生き残る道はない。負ければそのときすべてが終わるのだから。

「みんな! 私の言葉がわかるよね。単独で戦わずに力を合わせる。でなければ生き残れない。いい?」「おう!」全員の叫ぶ声がした。
 重々しい扉が開かれる。剣を握りしめる手に力が入る。地鳴りのような重い響きとともにドドッと駆け上がるように飛び出して来たのはローマ軍の戦車だった。その数、1台、2台・・・全部で4台だ。私たち5名の剣闘士を葬るだけなのに。なんて大げさなんだろう。思わず舌打ちしてしまう。
 戦車には従者と弓兵の二人が乗っている。彼らの放つ恐るべき飛矢に気をつけねばならない。甲冑ごと貫いてしまうほど強力なのだ。
 それともっと注意せねばならないのは、車輪の外側に突き出したギザギザの刃物だ。これに触れると瞬時に身体が引きちぎられてしまう。
 戦車はそれぞれ2台ずつ左右に分かれてエリッサたちの周囲を回り始めた。中央に追いつめ、あらゆる角度から矢を射かけて来るつもりなのだ。こうなると一人では防ぎようがない。
「みんな集まれ! 亀甲密集隊形!」
 うずくまって互いに盾で援護し合う。そうすれば死角はなくなる。恐ろしいうなり声をあげて矢が飛んで来る。たちまち十数本の矢が金属音をひびかせて盾に突き刺さった。そうだ今はこのまま耐えるのだ。しびれを切らした戦車が一台向かって来た。戦車のスピードが少しゆるむ。チャンスだ。伸び上がって剣を投げた。それは見事従者に命中し戦車は躍り上がってかく座した。トータが走りよってローマ兵を討ち取る。いいぞ! あと3台だ。
 もう一台突進して来た。距離は約30メートル。ローマ兵が矢を放った。思わず身をひねらせる。剣闘士の訓練で得た反射神経だ。「ヒューッ!」目にもとまらぬ速さで顔の横を矢がすさまじい音を立ててかすめていった。続けてもう一本。エリッサは間一髪のところで矢をよけると、戦車のすれ違いざま仲間の手を借りて大きく跳躍した。空中で一回転して身体の向きを変えると、ローマ兵目ざして斬りおろす。「ザクッ!」という肉を斬る手応えがした。ローマ兵が前のめりに倒れる。エリッサはその勢いで戦車に飛び乗って従者をも袈裟掛けに斬り捨てた。
 戦車を奪ったエリッサは、手綱を引き寄せ戦車の向きを変えようとした。向こうでヂューダの姿がちらっと見えた。彼女は素晴らしい身のこなしで戦車の従者を槍で仕留めていた。従者のいなくなった戦車はコロッセウムの壁に激突。黒人の女剣士ネルブァが投げ出されたローマ兵にとどめを刺そうと走り寄る。ところが別の戦車から狙われているのを彼女らは知らなかった。ヂューダは倒れたローマ兵の弓を奪おうとして身をかがめていた。
「あぶない!うしろ!」しかし遅かった。ヂューダは振り向きざま、ローマ兵の放った弓矢が胸に命中した。ヂューダは地面にもんどりうって倒れた。ネルブァも背中を射抜かれてうつ伏せに倒れてしまった。二人とももうぴくりとも動かない。しかし仲間の死を痛んでいる暇はない。この間にも弓矢が雨あられと飛んで来るのだ。
 奪った戦車でアレーナ(闘技場)の中を縦横に走りまくる。向こうの戦車の残骸のそばで仲間が二人倒れているのがちらっと見えた。その横ではローマ兵の遺体が横たわっている。アイもトータもやられたのか? おそらくローマ兵と刺し違えたのだろう。ついに生き残りは私ひとりになってしまった。もうこうなったら破れかぶれだ!
 残る一台の戦車の土手っ腹に体当たりした。戦車はひっくり返り、相手のローマ兵も投げ出された。ちくしょう仲間の仇を討ってやる! 近寄ろうとしたそのときエリッサは右肩に鋭い痛みを感じた。とっさに見ると、矢が後ろから突き刺さっている。「ボキッ」根元から引きちぎると起き上がろうとした。そのとき、今度は左の太ももに焼けるような痛みを感じてエリッサは大地にひっくり返った。動こうとしたが、身体は言うことを聞かない。落ちた剣を拾うとして伸ばした左手が何かに押さえつけられた。見るとローマ兵に踏みつけられている。
 もはやこれまでか・・・エリッサは地面に仰向けで倒れたままで大きく息をついた。頭上の太陽が目にしみる。
「私は力の限り戦った。よくやったつもりだが勝てなかった。仲間はすべて死んでしまった。でもいいさ、今日で私の人生も終わるんだもの」ローマ兵がのぞき込んでいる。まもなくとどめを刺されるのだ。コマ切れのような人生がようやく終わるのだ。
 地鳴りのような音が耳につく。ざわめきなのか怒号のような声が聞こえる。観客が早く止めを刺せと催促しているのだろう。エリッサは目を閉じた。耳の中に飛び込んで来るすごい罵声。それらは耳が慣れるにつれ言葉になってはっきり聞こえて来た。え? 何だって! それらは罵声ではなかった。
「剣闘士を自由にしてやれ」「女を殺してはいけない」
「その女に自由を与えよ!」
 観衆のどよめきは続いている。ローマ兵が手を差しのべて来た。よろよろとローマ兵の肩を借りて立ち上がった。エリッサは身体をぐるりと回転させてコロッセウムをなめ回すようにながめた。赤い布や白い布を振りかざしている民衆が見える。どの民衆も右手をこぶしのようにして上に激しく振っている。それは皇帝に慈悲を求める意思表示であることは彼女にもわかった。
 やがて、皇帝が立ち上がった。潮が引くようにどよめきは静かになった。

「栄えあるローマ市民よ。勇者のしるしとして、余はこの奴隷に寛大なる処置を行おうと思う。余はこの奴隷にローマの市民としての尊厳と自由を与えよう」
そう言って皇帝は右手を高々と差し出すと親指を立てた。
 再びものすごい大歓声がわき起こる。
 エリッサは思わず天を仰いだ。そこには抜けるような青空があった。その真ん中で、太陽がさんぜんと光り輝いている。
「私はゆるされて晴れて自由の身になれた」
 突然、熱い涙がほほをつたった。
「ありがとう。みんな・・・」
 たった今、死んでいった仲間の顔を思い出して、エリッサは天に向かってつぶやいた。
 左手を空いっぱいにのばして太陽をもぎ取る仕種をしてみる。
 身体が急に軽くなった気分だ。涙の次ぎは自然と笑みが漏れてくる。そしてエリッサは、あらためて死んでいった仲間の分まで生きねばならないと思った。
 今度はエリッサを讃える怒号のような歓声が聞こえて来た。
 その日、紀元87年7月のよく晴れた日。巨大円形闘技場コロッセウムが完成して女性剣闘士が始めてローマ市民として認められた日であった。
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参考文献
映画「グラディエーター」「ローマの女性剣闘士」(ディスカバリーチャンネル)
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