ヒトラーの野望
〜総統指令第21号 バルバロッサ作戦  ソビエトを すみやかに 地上から抹殺せよ〜
* 宿敵ソ連を片づけろ! *
 1940年晩秋、美しいバイエルンの山々が見渡せるベルヒテスガーデンの山荘で、もう数時間も前から将軍たちを相手にヒトラーの熱っぽい演説が始まっていた。
 イギリスとの戦争に行き詰まったヒトラーは、この際とりあえずイギリスは放っておき、かねてからの理想、大ゲルマン帝国実現のため、ソ連をたたく方が先決だと考え始めていた。
 ヒトラーの考えでは、ソ連の広大な国土はすべてドイツのための穀倉地帯でなければならず、スラブ民族は食料生産に従事する奴隷でなければならなかったのである。
「イギリスなどもうどうでもよい。それよりもソ連をたたく方が先決だ。ソ連はスターリンの粛正のために、政治機構は麻痺し、国力は見かけ倒しになっておる。後はただドアをけるだけでよい。我が精強なるドイツ軍がなだれこめば、腐りきったソ連などたやすく崩壊するであろう。そうなれば、イギリスなど自然と我が第三帝国になびいてくるのだ」
 最後にヒトラーは鋭い眼光で将軍たちをにらみつけてわめいた。
「西部戦線のドイツ軍主力をすみやかにポーランド国境に移動させよ。リッペントロープにはソ連との友好を今しばらく維持し続けよと伝えるのだ。余の千年帝国の始まりはアーリアン民族にとって輝ける年となろう」
 ヒトラーの一方的な演説が終わると、将軍たちからため息のようなざわめきが起こった。全員、無言だが殺気だっている。この後、大作戦の準備にとりかかるべく、将軍たちはあわただしくベルリンに帰っていった。
* 壮大な軍事プロジェクト *
 ヒトラーがソ連をわずか数ヶ月で地上から消してみせると豪語した作戦。これこそバルバロッサ作戦と名づけられ、軍事史上最大の進攻作戦として記録される大作戦であった。
 この巨大オペレーションを実行するために、ドイツの占領地域からわずかな守備部隊を除いて、あますところなく兵力がかき集められた。
 その数・・・戦車3千5百両、航空機3千機、大砲数千門、数十万を数える各種車両。
 兵力はルーマニア、ハンガリーなど同盟諸国まで含めると180個師団以上の兵力にもなった。
 そしてこの巨大な兵力を3つの軍団にわけ、三方向から同時にソ連に侵入し、一挙に赤軍(ソ連軍)を崩壊せしめ、共産主義勢力を地上から根絶してしまおうというものである。
 だが反対がなかったわけではない。多くの将軍は、まだイギリスが降伏していないのに、ソ連と開戦してしまえば、二正面で戦わねばならなくなりドイツの力が二分してしまうと懸念した。しかしヒトラーは聞く耳を持たなかった。
 部隊の移動は細心の注意が払われ主に夜間に行われた。ポーランドの基地には練習機や訓練機がたくさんあったのだが、それらはいつの間にか本物の戦闘機にすりかえられた。ポーランドに移動を終えた部隊は、いまだイギリスとの作戦に従事しているように見せかけ、偽の無電がさかんに打たれたりした。
 この間、偵察機からの報告でドイツ軍の大部隊がポーランド国境沿いに集結中であることが認められ、イギリスの諜報機関からソ連に何度も警告があったのだが、西側に強い不信感を持っていたスターリンはすべて無視し続けた。スターリンとしてみれば、故意にドイツを刺激してソビエトを戦争に引きずり込もうとするイギリスの誘導戦術だと考えていたのだ。
* イタリアのもたつきで作戦延期 *
 当初、この大作戦の開始は5月15日に予定されていた。つまりロシアの春がおとずれると同時に一斉にスタートする計画であったのだが、ここに来て問題が起こった。バルカン半島で、ユーゴスラビアの反乱が起こったのだ。群衆によってドイツ大使館のクルマに唾が吐きかけられたと聞いてヒトラーは激怒し、口から泡が吹き出て、服は汗でびしょ濡れになった。あまりの興奮ぶりに側近たちはヒトラーが脳溢血で倒れるのではないかと思ったほどだ。
「こしゃくな!ユーゴスラビアをただちに粉砕せよ。最後通告など出すな。これは余の復讐なのだ」ヒトラーは拳を振り上げてこうわめいた。
 ただちに待機中の部隊から一部をバルカン鎮圧のために差し向けられた。ユーゴは10日前後で降伏した。同じ頃、ギリシアでは盟友ムソリーニがギリシアのレジスタンスに苦戦を強いられていた。この脆弱な同盟国を助けるためにギリシアの鎮圧にも手を貸すことになる。ギリシアも一週間後に降伏。こうして半月ほどでバルカンの2国はいとも簡単にドイツ軍の軍門に下ってしまった。
「どうだ。余はわずか一ヶ月で2つの国を屈服させたのだぞ」怒りがようやくおさまったヒトラーは今度は上機嫌であった。しかしおかげでバルバロッサ作戦は5週間ほど遅れることになった。結局、この大作戦の開始は1941年6月22日に決定した。これは奇しくも129年前のナポレオンのロシア遠征と同じ日である。ナポレオンを意識したヒトラーはあえて同じ日を選んだのであろう。そしてユーゴスラビアとギリシアを撃破し終えた部隊は再び戦列に復帰し、ドイツ軍はついに全軍待機状態になった。
 かくして日付は1941年6月21日になった。まさに世紀の火ぶたは切って落とされようとしていたのである。しかし、何も知らないソ連側は協定にもとづき、その日も小麦、石油などを満載した貨車をドイツに送り出していた。
* 初戦は快進撃 *
 6月22日未明、まだ地平線にほのかな明るみすら感じられない時刻、突如「ヒュー!ヒュー!ヒュー!」という蚊の鳴くような音とともに、ロケット弾の嵐がソ連の前線に落下し始めた。大地を揺るがす大音響にソ連兵は寝ぼけ眼で下着だけで飛び出してきた。どの兵もドイツ軍が攻撃してきたとは考えずにただうろうろするばかりである。まさに寝込みを襲う完璧な奇襲攻撃であった。
 この日を境にドイツ軍の猛烈な攻撃が始まった。北、南、中央の三方向から侵入したドイツ軍の兵力は数百万有余。
 主力であった中央軍にはモスクワをはじめ多くの主要都市を陥落させていくためにとりわけ巨大な兵力が与えられていた。
 作戦は順調そのものだった。熱いナイフでバターを切るごとくロシア平原を席巻してゆく。ソ連兵はろくに戦わずに降伏してきた。長い捕虜の列の横を戦車が土煙をあげて前線に向かってばく進してゆく。
 わずか2ヶ月間でドイツ軍は何百キロも前進した。開戦2ヶ月でドイツはこれまで手に入れた領土の2倍以上を占領したのだ。そして7月初旬には、モスクワまでの道のりの2/3を走破した。
Ob's stmt oder schneit,Ob die Sonne uns lacht,
Der Tag glend heiァ Oder eiskalt die Nacht.
Bestaubt sind die Gesichter,Doch froh ist unser Sinn,
Ist unser Sinn;
Es braust unser Panzer Im Sturmwind dahin.
嵐の日も雪の日も、太陽 我らを照らす日も、
炎熱の真昼も極寒の夜半も
顔が埃に塗れようと、我らが心は快活ぞ。
我らが心は快活ぞ。
戦車は轟然と暴風の中へ驀進す。
http://gunka.sakura.ne.jp/mil/panzerlied.htm
 戦死者は驚くほど少なかった。ドイツ軍の明るいニュースが毎日報道され、ベルリン放送は凱歌をくりかえし流した。ドイツ国民は勝利に酔いしれた。国民の一部はフランスの時のようにソ連もあっけなく片付くだろうと楽観視していた。モスクワ攻撃もまだしていないのに、もう戦争は終わったものと決めつける者もいた。それほどまで誰も彼も対ソ連戦を楽観視していたのである。
 確かに、初戦のドイツ軍の勢いはすさまじく、スモレンスク、ミンスクと言った大都市を次々と陥落させた。
 この戦いだけでもソ連は数千の戦車、多数の航空機を失った。捕虜も数十万を数えている。
捕虜となった赤軍(ソ連軍)の群れ。
 ドイツ軍はひたすらモスクワを目指して進撃する。パニック状態におちいったソ連は工場の資材をトラックに積んで東に撤退を開始した。ドイツ軍の手のおよばぬウラル山脈の彼方にまで工場群を退避させ、そこで兵器の大量生産を開始するのだ。ただ、今はドイツ軍の攻勢を食い止めてなんとか時間をかせがねばならなかった。
* 立ちはだかった新型戦車と冬将軍 *
 ここでドイツ軍の進撃を鈍らせる重要な役割を果たしたものがいくつかあった。T34、KV-1と呼ばれる新型戦車の存在である。この戦車はまだ量産が始まったばかりで少数しか配備されていなかったが、この戦車の装甲は非常に厚くドイツ軍のあらゆる火器を寄せ付けなかった。街道の真ん中にいすわったKV-1戦車のために、ドイツ軍の部隊が丸一昼夜も釘付けを余儀なくされたこともあった。
 もう一つ、ソ連側に有利に働いたのはヒトラーがモスクワを目前にして、主力を南に向けさせたことであった。ヒトラーはロシアの南方に広がるウクライナの石炭、穀物地帯、コーカサスの油田地帯を是が非でも手に入れたいと考えていた。モスクワは空軍だけでも叩ける。いやモスクワは風前のともしびに過ぎない。それよりもドイツ軍の血液になるべき石油を手に入れておきたいと考えたのである。
 そのため、モスクワ攻略はひとまずお預けになった。このことは、ソ連側としては喜ばしいことであった。苦境に立たされていたソ連軍にとってはいい時間かせぎになった。
 10月、ようやくヒトラーのモスクワ攻撃の命令が出た頃には、すでに冬の始まりを告げる初雪が降り出す頃になっていた。雪はやがて泥だらけのぬかるみ状態になり、たちまち車両は立ち往生しはじめる。
戦車に引っ張ってもらう。(捕獲したT−26)
 この悪路を走れるのはキャタピラを履いた戦車だけであったが、その戦車でさえ濃厚な泥にはまると動けなくなった。それと平行して、ソ連軍のおこなった徹底的な焦土戦術も、ドイツ軍兵士の士気を低下させた。ドイツ軍はある村に到達してもそこは焼け野原で何もなかった。暖もとれず、食料、燃料も調達できないドイツ軍はすべての補給を後方からの輸送に頼るしかない。しかし、補給線は何百キロと伸びきっており、その伸びきった補給ラインをパルチザンが寸断しようと攻撃してくる。全く心の落ち着く場所もなくドイツ軍将兵の心労は蓄積するばかりである。そうこうするうちに本格的なロシアの冬が到来しつつあった。
 ここにいたり、ドイツは慌て出した。ドイツはロシアの冬に対する備えを何も用意していなかったのだ。ベルリンではゲッペルスが冬用の防寒着の拠出を国民に訴えかけはじめた。ドイツ国民は事態が思っていたより楽観的でないのを感じ始め出した。不吉なものを感じはじめていたのは国民だけではない。多くの将軍もそうだった。
 ソ連軍は開戦当初とちがって、しぶとさを見せ始めていたのだ。前線が何百キロと広がってしまったのもそれに輪をかけた。ドイツ軍はこの広い前線に散らばってうすく張り付いているだけで、実に頼りない存在なのである。ドイツ軍の首脳部はソ連軍の戦力をおよそ200個師団程度であろうと予測していた。しかしやっつけてもやっつけても新手の師団が地平線の彼方からあらわれて来る。すでに前線からは360個師団の存在が報告されていたのである。
 そして11月の下旬、冷酷な敵ロシアの冬将軍がドイツ軍に襲いかかった。気温はどんどん下がった。それは恐ろしい現象を生み出した。零下20度ほどにもなるとガソリンは凍ってしまい、飛行機も戦車も動けなくなる。銃も遊底が凍ってしまい弾を打つことさえできなくなるのだ。凍傷にかかる兵も続出した。もう戦争をするどころではない。
 この頃、東京にいたソ連のスパイ、ゾルゲは日本はアメリカとの開戦に踏み切ろうと準備していることを伝えて来た。スターリンはそれを信じ、日本のために極東に配備していたシベリア軍団をモスクワ防衛用に回す決断をしたのである。この部隊は激しい寒さにも慣れており装備も優秀で日本軍をノモンハンでこてんぱんにやっつけた精鋭ぞろいなのだ。
 予期しない計算外の事態の噴出に、ドイツは日本に背後からソ連を攻撃して欲しいと執拗に要請してくるようになった。しかし日本はすでにアメリカとの開戦準備でそれどころではない。こうしてドイツ軍がもたもたしているうちに、ソ連は貴重な時間かせぎをすることができ、おおかたの工場資材をウラル山脈の彼方に移動させることが出来たのであった。
* 打ち砕かれたヒトラーの野望 *
 12月、ソ連の名将ジューコフはついに満を持して総反撃に移った。シベリア軍団の精兵が疲れきったドイツ軍に襲いかかって行く。
モスクワまでわずか数キロまで迫っていたドイツ軍はまたたくまに突破され撃破されていった。
ドイツ軍は1千両以上の戦車と数万の車両をはじめ多くの資材を投げ出し、モスクワから遠く200キロも撃退されてしまった。
この瞬間、ヒトラーの野望は東方の夢と消え去ったのである。
 かくして悪夢は実現してしまった。もう誰の目にも明らかであった。まもなくウラル山脈の彼方に疎開した工場群から大量の兵器が生産され始めるのだ。その数、戦車だけでも年間2万両、航空機2万機以上。そしてブルドーザーのごとくベルリン目指して進撃を開始するのである。ドイツにはこれを食い止めるだけの力はなかった。ただそのスピードを遅らせることだけが出来うるすべてなのである。こうしてドイツ第三帝国崩壊への序曲がはじまった。
 モスクワを目前にドイツ軍が反撃にあって敗走をはじめた時、日本軍は真珠湾を奇襲攻撃。ここにいたり、ドイツはアメリカにも参戦せねばならなくなった。
 この日を境にヒトラーの持病が悪化してゆく。気違いのようにわめき、同盟国や将軍の無能さを徹底的にののしるかと思えば、椅子にどっと疲れきった様子で座り込み、何時間もぶつぶつと自分を哀れむ言葉を吐きつづけたりするのだ。そしてヒトラーの異常な行動は戦線がベルリンに近づくにつれてますます手がつけられなくなり、奇怪なものになっていくのである。
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参考文献
「モスクワ攻防戦」「ヒトラー」第二次世界大戦ブックス  サンケイ新聞社出版局
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