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蒙古襲来
〜日本を襲った歴史上最大の危機〜
 今を去ること7百年ほど昔、13世紀の終わりになって、日本はこれまでに経験したことのない大規模な国難に対処する必要に迫られていた。それは、歴史上始まって以来の未曾有の外国からの侵略であり、国家存亡の一大危機と呼べる大事件であった。
 広大なユーラシア大陸をわずか半世紀足らずで征服したチンギス・ハンは、国号を元と改め、その凶暴な力を周辺諸国にまで及ぼそうとしていた。
* 二大王朝をまたたくまに征服 *
 当時中国は二つの大国によって二分されていた。北方の女真族によってつくられた金と唐の後を継ぐ漢民族の王朝宋である。金の執拗な波状攻撃に耐えかねた宋は、止む終えず首都を放棄して、南の臨安(南京)に都を移していた。しかしその残忍で強大と思われた金でさえ、ただ一度の戦いでモンゴル軍に破れ去り、徹底的な略奪と殺りくの嵐の中で滅んでいった。かくして彼らモンゴルの恐るべき矛先は、南宋に向けられることとなった。
 チンギス・ハンの後を継いだフビライは、 南に逃げ込んだ宋を追撃して容赦のない攻撃を再開した。黄河を渡って南進してきたフビライの軍はたちまち首都臨安を包囲した。
 攻防戦は3年近くにもおよんだが、ついに宋の力尽きる時が来た。城門が破られ、蒙古軍が雪崩のごとく乱入してきた。天子は虐殺され、その後は、モンゴル兵士らによる徹底的な略奪行為がいつ果てることなく続いた。数えきれない人々が虫けらのごとく殺された。
 こうして、宋の首都、臨安は完膚なきまでに破壊されてしまい、350年間続いた宋王朝は滅亡してしまった。
フビライ・ハン
(1215〜1294)
 ここに至り、二つの強大な国をいとも簡単に滅ぼしたフビライは、ついに広大な中国大陸を征服したのであった。その際、彼は中国全土の都市を完全に廃虚ならしめ、人民は皆殺しにして、その広大な土地すべてを空っぽにして踏みならし、草原化して、家畜を放牧しようとしたが、耶律楚材(やりつそざい)の数度にわたる必死の進言により、フビライのこの決心を思い留まらせることが出来たと言われている。
 この結果、からくも中国は、大陸すべてを放牧化するという途方もない計画化から免れることが出来たのであった。
 宋を滅ぼし中国全土を手中にしたフビライは、未だ征服の手をゆるめようとはしなかった。彼は、さらに南方の国々に侵略の鉾先を向けようとしていた。
  インドシナ半島には当時、パガン朝、大理国などの国家が繁栄していたが、数年を経ずして蒙古軍によって蹂躙され次々と征服されていった。
耶律楚材、遼の王族だったがハンに見込まれて蒙古の国政を担当した
 それより以前、西方司令官ツルイによって率いられた蒙古軍は、怒濤のごとく中東に侵入していた。彼のどう猛な軍隊は、ホラズム、ニシャブール、バグダッド始め多くの都市を次々と陥落させ、虐殺と略奪を欲しいままにしてヨーロッパに迫りつつあった。中東で最大で繁栄を誇っていたこれらの都市は、一瞬にして死の洗礼を浴びて滅んでいったのである。

 蒙古軍の通った後は、血祭りに上げられて廃虚と化した無人の荒野と累々と並ぶ屍の山々だけが残された。それは、底のない巨大な胃袋のようなもので、都市や人間あらゆるものを飲み込みクチャクチャに食い潰しても決して満足することのない得体の知れぬ常識を超越した腹ぺこの胃袋であった。

  その悪魔のような周到で凄まじいエネルギーは、何ものをも止めることは出来なかった。いったん矛先を向けられると最後、都市は壊滅し、万が一抵抗でもすれば、どんな哀訴をも受け入れられることなく、住民はひとり残らず恐ろしい方法で惨殺されていったのである。記録によると、わずか4つの都市を陥落するごとに5百万の人間が殺されたと言われている。その殺し方は、実に残忍なもので、年令、性別などおかまい無しに、ある者は、面白半分に矢で射られ、あるいは、生皮をはがれ、あるいは、爪の下に釘や木の破片を打ち込まれて殺されたと記録されている。修道女なども、教会の中で陵辱された挙句に虫けらのごとく殺されたのである。
 こうして、モンゴル軍の凶暴な手にかかり、滅ぼされ、瓦礫と化した都市の多くは、修復されることもなく、現在にいたっても廃虚のままになっているのが多い。廃虚には、今でも、無数の骸骨がころがっている。 人々は幽霊が出ると言って気味悪がり、決して近づこうとしないということである。
  このモンゴルの恐るべき残忍さに恐れをなした高麗(こうらい)などは、戦意を喪失して、武器を捨て、いち早く服属 を願い出た。今にして思えば、朝鮮半島にあって属国としての活路を見い出した高麗の生き方は賢明だったともいえるだろう。
* 蒙古から使者来る *
 こうして、13世紀の文明世界の大部分を征服したモンゴルは、ついに海を隔てた極東の国、日本をも支配せんものと使者を送ってきたのであった。
 その内容たるや表向きは貿易をうたってはいるものの、実情は属国として力でもって従わせようとする主旨であった。
 その頃、鎌倉幕府は、北条時宗が執権を握っていたが、彼はこの書状の内容を知るとあまりの怒りに赤面して、これを破り捨てたという。彼はその時、弱冠18才であった。
北条時宗
 時宗は、元の使者を長期間、国内に留め置いた末、結局、返事を持たせぬままに追い返した。それは、まさしくフビライにとっては侮蔑的行為だった。
 こうした日本側の対応に激怒したフビライは、極東の小生意気な小国を力でねじ伏せようと属国高麗に対して、ただちに1千隻の軍船をつくるよう命令を出したのであった。 多くの労働者と大量の食料を抽出しなければならなくなった高麗は、大混乱に陥ったが、フビライの命令は絶対であった。かくして、一年後、数十万という数え切れない餓死者を引き換えに数百隻の軍船が完成した。高麗にとっては、その代償は余りにも大きなものであったろう。しかも彼らには、その船に乗って蒙古の兵士として海を渡らねばならない運命まで背負っていたのである。
 1274年11月(文永11年)、朝鮮半島の南の合浦(がっぽ)を出港した元と高麗の軍隊は、大小9百隻余りの軍船に分乗して、荒れ模様の朝鮮海峡に乗り出していった。彼らは、手始めに対馬(つしま)・壱岐(いき)という小さな島 を襲い、両島を守備していた日本の武士を皆殺しにした。ある島では、今でも鶏を飼ってはならないという言い伝えが残っている。それは、ある農家の一家が裏山に逃げ込み、息を殺して蒙古の兵士から隠れていたところ、鶏が鳴いたため見つかってしまい、老婆一人除いて皆殺しの目に合ったからだそうである。このように、多くの村人が蒙古軍の手にかかり無惨に殺されていった。
* 文永の役 *
 そうして、11月19日 の未明、蒙古の大艦隊は、九州博多湾の沿岸に姿をあらわした。その兵力は3万5千だったと伝えられている。記録によると、蒙古軍は博多湾の北側に上陸した。

 上陸すると、彼らは、太鼓やどらの音を打鳴らすと密集隊形をとって行動を起こした。
 それらは、日本の武士にとって全く見たこともない新しい戦術だった。それに加えて、彼らの持っている武器はすべて強力で新兵器も多数含まれていた。

 鉄砲(てっはう)と言われる大砲は、オレンジ色の火炎の尾をひく弾丸を打ち出した。その弾丸はうなり声を上げて飛来するや大音響をあげて至る所で爆発した。そのものすごい音と爆風で、馬は驚いて暴走し、乗っていた武士は振り落とされた。また、火炎放射機のようなものから、140キロの巨石を遠くに射ち出すことが出来る弩砲(どほう)と呼ばれる重砲類も持っていた。

 そのうえ、蒙古の兵士一人一人が持つ弓は、コンパクトで強力なものだった。打ち出す力も強く、日本の武士の身に付けている鎧すら打ち抜くことが出来た。しかも射程距離も長く、日本側の2倍以上の2百メートルであったという。おまけに矢には毒が塗ってあり、かすり傷を負っても体は麻痺して致命傷となったのである。
 これまで、戦と言えば一騎討ちしか知らぬ日本の武士は、従来通り自らの名乗りを上げた後、蒙古軍の敵陣に 単騎 で突撃していく戦法をとったが、たちまち馬もろとも無惨に射抜かれて死んでいった。そのため、海岸には無惨な日本の武士の屍が、数えきれないほど多数ころがっていた。
突撃する日本の武士
 蒙古の戦法は、日本側からすると今までの戦のルールを全く無視したような卑怯な戦術としか見えなかった。しかし蒙古側から見ると、日本人のとった戦法は、単純で作戦も何もない無謀極まりない自殺行為と写ったにちがいない。
 熊本地方の 御家人であった 竹崎季長(たけざきすえなが)などは、援軍を待とうともせずに、 わずか五人の家来とともに蒙古の大軍の真っただ中に突撃していった。
 2名の家来はたちまち斬り殺され、彼自身も胸に重傷を負ったが、かろうじて助け出され、九死に一生を得たのであった。
 戦いは、蒙古軍のワンサイドに近く、日本側の死傷者は計り知れず、土塁の後ろまで後退を余儀なくされていた。
単騎で攻撃して負傷する竹崎李長
 日本側はわずか一日の戦闘で、太宰府あたりまで後退せねばならなかった。博多の町は逃げまどう市民でパニックに陥り、多くの住民が捕らえられ惨殺された。夜になると町のあちこちから出火した炎は天高く舞い上がって夜空を焦がし、博多湾を赤々と照らし出していた。
 このままでは、彼らが博多湾に強力な橋頭堡(補給の基地)を築き上げるのも時間の問題であった。いづれ彼らはここを足場として本州に攻め上ってくるであろう。そうなれば、北条時宗は殺されるかその前に切腹するかして自決し、鎌倉幕府は滅亡し、一部の職人を除いてほとんどの日本人は虐殺され奴隷化の道をたどることになる。つまりは日本は世界の歴史から姿を消してしまうことにもなりかねないのである。
 蒙古軍の兵士がいかに野蛮であったかを伝える話が伝わっている。それによれば、彼らは射殺して海岸に累々と横たわる武士の死体の腹を裂くと、手づかみで肝を引きずり出し、それを食べてしまったというのである。また、蒙古軍に捕らえられた住民は生きながらにして、手に穴を開けられて数珠つなぎにされ、船べりに吊るされたと言われている。つまり、住民は生きたまま蒙古軍の矢面に利用されたのである。
 戦いは蒙古軍有利のもとに進展していったが、夕方頃になって、空はどんよりと暗くなり、雲行きが怪しくなってきた。蒙古軍は、日本側の夜襲による不意打ちを恐れ、高麗人の進言で、とりあえず船に戻り陣営を立て直すこととした。しかし、夜半に入って始まったこの時化は、その後大風雨となり、海上は、大いにうねって荒れ狂った。蒙古軍の船の多くは、大波に翻弄され互いにぶつかったり横転したりして、バラバラに壊れ、その多くは沈没してしまった。乗っていたほとんどの蒙古兵は溺死して、海の藻くずと化してしまった。結局、残った蒙古軍は、さんざんになって逃げ帰るはめになったのであった。
 多くの犠牲者を出し、負け戦の連続であった日本側からすると全くラッキーな出来事であった。11月の下旬に起きた低気圧による海の嵐は、この地方では決して珍しいことではないが、起きたタイミングといい、まさに日本側にとっては、ついていたというべきであろう。こうして、日本は自然の力も味方につけ、からくも強大な蒙古の攻撃に持ちこたえることが出来たのであった。しかし、これは、ほんの手合わせ程度に過ぎなかった。このドラマには、もっとすごい第二ラウンドがあったのである。
* 防衛陣地の強化 *
 この手痛い失敗にも覚めやらず、その半年後、フビライは再度使者を送ってきた。その内容は、鎌倉幕府の北条時宗に対し、速やかに大元帝国の首都大都(北京)におもむき、属国たる意志を示せというものであった。これは、蒙古からの最後通牒に等しいものであった。決戦の意を固めていた時宗は、その解答として、使わされた使者を2度とも斬首するという過激な行為で答えたのであった。

 元の言いなりになって否応なく海を渡って来た高麗の使者は、哀れにも一緒に来た通訳もろとも何ら折衝することもなく、鎌倉で首を斬り落とされてしまった。こうした行為は、蒙古にとって最大の侮辱であった。時宗も多くの日本人も知るよしもなかったろうが、彼らは当時の世界の大部分を残忍な方法で制服した恐るべき民族に最大の侮辱を与えたのであった。折しもその時、司令官ジュチの率いるモンゴル軍は、はるか西方、ポーランドにまで侵入して、勇猛で知られたヨーロッパ騎士団の連合軍4万を一瞬に打負かし、一人残らず皆殺しにしていたのである。
 しかし、幕府も時宗にとっても、蒙古軍が必ず再度攻めてくることは、十分に承知していた。残された時間がどのくらいあるのかは全く見当もつかなかったが、次なる来襲が予想される以上、速やかな防衛処置が急きょ必要であった。
 かくして、そのための防衛計画はなされ、上陸地点と予想される博多湾の広大な沿岸には、進撃を阻む石塁が築かれた。
 それは高さ10メートル、幅3メートルに及ぶ長大な壁とも言えるものであった。それと同時に、小型の船が多数建造され、水夫は船の操舵技術を死にものぐるいで得とくした。
 また、非常時の場合の動員可能な兵力も緻密に調査され、来襲時には、ただちに反撃出来るような体制がとられた。
博多湾海岸沿いに残る石塁跡
 九州のみならず、本州からの援軍もスムースに戦場に行けるように訓練され、指示された武器庫にはあらゆる武器が山と貯えられていた。幕府の資金はすべて国土防衛に回され、京都の朝廷や貴族も自主的に贅沢行為を中止し、瀬戸内海を荒し回っていた海賊は進んで幕府に協力したのである。このように、日本の全国民が一丸となって団結し、未知の国難に対処したことは、歴史上これが最初だった。

 かくして、極東の小国と思われた日本に最大の侮辱を受けて、怒りも頂点に達したフビライは、本格的に日本を征服するための準備を始めた。彼は、計り知れない元の国力を背景に大規模な侵略軍を組織した。高麗には、またもや千隻の船をただちに建造するように命令が出された。中国南部でも同様の命令が出され、数千隻の軍船が建造されつつあった。命令を受けた占領地の人間は、それこそ、日夜奴隷のように働いた。ノルマの果たせぬ労働者や働けなくなった者は、情け容赦なく殺されていった。
 5年という年月が慌ただしく過ぎ去り、やがて、4万の蒙古と高麗の兵士が千隻の軍船に乗船を始め、出撃の準備を開始した。それと呼応するように中国南部の海岸でも蒙古と南宋の10万の兵士が3千5百隻という途方もない数の軍船に乗船しようとしていた。これは、江南軍と呼ばれ、蒙古軍の主力を荷なう大部隊だった。朝鮮半島から出陣する兵力と合わせると軍船、実に4千5百隻余り、兵士は14万以上という巨大な兵力であった。これは、数年前の兵力をはるかに凌ぐ規模であった。まさに第二次大戦で行われ、史上最大と呼ばれたノルマンジー上陸作戦に匹敵するほどのとてつもないスケールと言ってよかった。軍船の中には、モンゴル産の小型の軍馬を始め、農耕用の家畜、器具類も多数積まれていて、これらは日本を征服した後に活動を始める予定であった。

* 弘安の役 *
 1281年5月(弘安4年)戦機は熟したと見たフビライは、まず朝鮮半島の東路軍に出撃を命じた。4万の兵を載せた大艦隊は、満を持して九州目指して出陣していった。これら蒙古軍の動静を日夜探っていた幕府の密偵(スパイ)は、この艦隊が港を離れるなり、状況を逐一報告してきた。
決戦に駆けつける日本軍
 一方、迎え討つ日本軍は、総兵力12万の兵で、そのうち、最も上陸の予想される九州北部には4万人の武士が頑強な石塁の後方に布陣していた。この精鋭は、鎮西軍と呼ばれる九州武士団で、これを指揮するのは北条実政であった。彼は、博多防衛の重大任務を帯び鎌倉幕府より直接派遣されていたのである。
 さらに、北条宗盛は2万5千の兵力で中国地方を固め、その後方には、日本軍主力6万の兵が京都から西国方面を守り、鉄壁の陣を敷いていた。さらに、鎌倉には、北条時宗直轄の武士団もおり、これらの兵力は、蒙古の上陸地点が明らかになった時点で、速やかに駆けつけるよう手はずがなされていた。
 5月に朝鮮半島の合浦港(がっぽ)を出発した東路軍は、前回と同じく対馬、壱岐を、侵略し、その一部は陽動作戦をかけて長門(山口県)の海上に姿を見せたりしたが、主力は、ひたすら九州北岸に迫っていた。
 そして、出航して1か月後の6月6日、蒙古の大艦隊は博多湾の海上に姿をあらわした。
博多湾に姿を見せた蒙古の艦隊
 蒙古の大艦隊が現れるや、日本の武士はただちに攻撃を開始した。
 日本側は、前回の戦闘から得た教訓を十分に生かしていた。6月6日の夜半から6月13日まで、海上で凄まじい戦闘が繰り広げられた。
 死をも恐れぬ日本軍は、小舟に乗り込んで蒙古の大型船に斬り込んでいったのである。
 蒙古の大型船は40メートルもあり、日本の軽快な小型船の動きに対応出来なかった。
 闇の海上より不意に現れる日本の船は、まさに神出鬼没で、突然と乗り込んで斬り掛かってくる武士に、さすがの蒙古兵も恐れをなした。
蒙古の大型船に斬り込む日本の武士
彼らは、斬り込んだ後、火を放ち船もろとも燃やすとサッと阿修羅のように闇の中に溶け込んでしまった。このような戦いをされると、蒙古軍は、彼らの得意とする集団戦法も強力な重火器も使えなかったのである。
 いっぽう蒙古軍の主力である江南軍は、この時点で東路軍と壱岐付近の海上で合流する予定であったが予定が1か月近く遅れていた。蒙古側の計画では、両軍はこの海上で合流し、4千5百隻という大艦隊で一挙に博多湾に突入する作戦であった。しかし、江南軍が、中国の慶元を出航したのは6月18日だったのである。この誤差は、後になって日本側に奇跡の勝利をもたらす原因となるのである。
 戦いは、1か月以上も続き、海上でも陸上でも激しい戦闘が重ねられていた。しかし、戦闘は一進一退で決着は着かなかった。決戦が続いている間、日本の寺という寺では、日本の勝利を祈願する祭事が行われていた。亀山上皇は、昼夜を分かたず祭事を行うように指示を出し、時の後宇多天皇は、自ら筆をとって祈願文を書き、伊勢の大神宮に奉納した。まさに、日本中、戦っている者も、銃後にいる者も一丸となって日本の勝利のために祈りを捧げていたのである。そして、蒙古軍は、ついに九州の海岸線より中には侵入出来なかった。日本軍の凄まじい防戦にあって東路軍は、いったん海上に退避して、後続の江南軍を待つこととした。
 やがて、7月も下旬になる頃、ようやく蒙古軍の主力江南軍が到着した。海上で合流を終えた蒙古の大艦隊は、船団を組み直すと、再度、九州博多湾目指して進んだ。それは、大海原を覆い隠さんばかりの大艦隊であったと想像される。この狭い海域でこれほどおびただしい数の船がひしめくことは歴史上ないことであった。

 博多湾に突入して日本をねじ伏せて蹂躙すべく、このとてつもない数の大艦隊は行動を開始した。湾内に入るや、たちまち海上でも陸上でも壮絶な戦闘が始まった。戦いはますます激しさを増し、本州にいた日本の主力は、海を渡って博多湾の決戦場に急行しつつあった。鎌倉でも急きょ援軍が編成され、精鋭とうたわれた鎌倉武士団が九州を目指して向いつつあった。

 そして、7月30日・・・その日は両軍にとって運命の日となった。夜半から始まった時化は、やがてものすごい暴風雨となり、一昼夜にわたって荒れ狂ったのである。そのものすごい大波は、蒙古の巨船と言えど木の葉のように翻弄して海中に引きずり込んだ。すさまじい暴風雨が海上を吹き荒れ、鎖で相互に結ばれていた蒙古軍の軍船を木っ端みじんに粉砕した。巨船同士はぶつかり合い、マストはなぎ倒され、乗っていた兵士は、海上に放り出され、ほとんどが大波に飲み込まれて海の藻屑と成り果てたのである。恐らく、九州沿岸を襲った強力な台風がこれらの蒙古軍をなめ回し、いたぶるようにして壊滅させたのだと考えられている。
* 神風伝説のはじまり *
 ようやく、台風が過ぎ去り、嘘のように晴れ上がって穏やかになった海面には、もはや見るべき艦隊の姿はなかった。ところどころに船の残骸らしきものが漂っているばかりで、横倒しになって半分沈みかけている船や無数の蒙古兵の屍が木材の破片に混じって浮いている光景であった。博多湾の海岸には、何万という溺死した蒙古兵の死体が打ち上げられていた。中には、息絶え絶えになっている者もいた。逃げ帰れることが出来たのは、ほんのわずかだった。
 これ以後の日本側の掃討戦はすさまじく、かろうじて生き残った敗残兵も、日本人に見つけられしだい容赦なく殺された。
 戦いは、自然が手を貸したとは言え、日本側の完全な勝利で終わったのである。こうして、フビライの日本征服の夢は潰え去った。
 かくのごとく、無敵をうたわれた大艦隊が、完膚なき敗北を帰した例は歴史上そうざらにあることではない。
 古代ではサラミスの海戦、近世ではアルマダの海戦、トラファルガーの海戦などが挙げられるが、スケール的に見てもこれらをはるかに凌駕するものと思われる。
敗れた蒙古兵を斬首し、集めた首を埋めたと言われる塚
 もしも、あの時、蒙古軍の主力江南軍が遅れずに予定通り到着し、東路軍と無事合流を果たし、そのとてつもない大艦隊で一気に博多湾に突入していたら、どうなっていただろうか?
 恐らく、遅かれ早かれ、彼らは、九州北部に強力な橋頭堡を構築したにちがいない。7月30日に台風がまちがいなく起こるとしても、1か月もの時間のずれはそれを可能にしていただろう。日本軍の主力にしても、到着するにはかなり時間がかかったはずだ。そうなれば、蒙古軍は大陸より運んで来たモンゴル産の軍馬に乗って、機動力を使った彼ら本来の戦いの仕方を展開していたはずである。
 きっと、水を得た魚のごとくモンゴル兵は縦横に暴れまわったにちがいない。この展開になると、決死の覚悟の日本武士をもってしても到底かなわう相手とは思えない。九州はまちがいなく彼らの手に落ちていただろう。そして、九州の住民は残虐な扱いを受けたにちがいないのである。当然、そこを足がかりにして、彼らは本州をも席巻していくことになるが、考えても恐ろしいことである。我々の大部分は生まれてこなかったかもしれないし、その後の日本史は、想像を絶したものになっていただろう。
 しかし奇跡は起こり、日本は救われたのであった。この大敗のため、中国江南地方では、多くの出征した兵士が帰らずに、民衆の不満がぼっ発して、大規模な反乱が起きたという。そのためフビライは、鎮圧にかなりの時間を裂かねばならなかったらしい。しばらくは遠征するどころではなかったのである。

 この出来事以来、日本人の頭の中には危機に陥った際、神仏に祈祷を行えば、必ず神風が吹き荒れ、日本を救ってくれるという考えが定着するようになった。
 そして日本という国は、特別に神に守られているとする神国思想が信じられるようになったのである。
 そのため、こうしたラッキーな大勝利も、数世紀後には、大きなツケとなって日本人全体の運命にはね返ってくるのは皮肉な話である。

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画像資料参照サイト フリー百科事典「ウィキペディア」 その他
元の襲来様より「参考画像一覧」「蒙古襲来絵詞」
蒙古来襲・・・「日本」ライフ人間世界史 
「ウインク」早川書房 小松左京
参考文献

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