信長の狂気
〜日本史を血で塗り変えた虐殺王の伝説〜
 和歌山県、秋葉山公園は、「市民の丘」とも言われ、山頂には広場やフィールドアスレチックがあって、大人も子どもも楽しめる憩いの場所となっている。
 今から、50年ほど前、まだ公園になっていなかった頃、秋葉山の小高い丘のふもとに小さな池があった。その場所は、子供たちの遊び場所でもあったが、子供たちはその池だけは決して近づくことはなかった。というのも、地元のお年寄りたちが、あの池は、底なし沼で、夜になると血まみれの亡霊が出て、近寄る者を池の底に引っ張り込むと子供たちに言って聞かせていたからであった。事実、その池の周囲は、うっそうとして、陰気でいつ亡霊が出てもおかしくないムードを漂わせていた。例え、昼間であっても、大人でさえ、近づくのをためらったであろう。
 ところが、昭和30年代半ばにして、県営のプールをつくることになり、駐車場や施設の候補地として、その池のある場所が選ばれたのであった。池は、埋め立てされることになり、工事に際して、池の底をさらったところが、何と、池の底から、おびただしい大量の人骨が引き上げられて周囲は騒然となったのである。人骨は、1千体以上もあると見られ、幼児や女性なども混じっており、老若男女の区別なく打ち捨てられたようにごちゃごちゃになって散在していた。これら、累々とした白骨死体とともに、無数の武具や刀、槍、折れた矢なども数多く発見された。
 鑑定の結果、これら、身の毛のよだつ白骨死体は、約4百年前のものであり、織田信長によって惨殺された雑賀衆の一部だったことが判明した。秋葉山はその当時、日本最強の鉄砲集団といわれた雑賀衆ゆかりの地でもあったのだ。彼らは、弥勒寺山(みろくじやま)に城を築き本陣としていた。彼ら雑賀衆は、熱心な教徒でもあり、石山本願寺の守りの要的存在でもあった。本願寺を攻めた織田信長の軍勢は、彼ら、雑賀衆の鉄砲の前に再三、大損害を出して撃退され、苦汁をなめさせられ続けていたのである。まさに、彼らの鉄砲を打つ技術は、天下一品で、百発百中の腕前だったのである。
 怒りと憎悪に燃えた信長は、矛先を変え、ついに天正5年(1577年)、彼ら、雑賀衆の本拠地である秋葉山を十万の大軍勢で急襲した。雑賀衆は、果敢に防戦したが、相手の信長の軍勢はあまりにも数が多すぎた。殺気だった織田の兵士は、町に乱入し、女子供を始め1万人を惨殺したのである。町はことごとく焼き払われ、死臭はあたり一面に漂っていた。生き残って逃げ延びることが出来た者はごくわずかだった。遺体の一部は、ぼろ布のように池に投げ込まれた。
 その後、恐ろしい殺戮が終わって、時間だけが静かに経過した。この事実を知っていた者が死に絶えた後も、伝説だけは生き続け、やがては、血まみれの亡霊が出る呪われた池として、人から人へ語り継がれることになるのである。4百年も経って、これらの遺体が発見されることになるまで・・・

* フロイスの信長像 *
 彼の狂気と残忍さは、ルイス・フロイスの話や信長公記などから、推して知ることが出来る。
 ルイス・フロイスは、ポルトガル人の宣教師で1563年に31才で来日して以来、信長にたいそう気に入られ、長年つき合った宣教師である。彼は語学の才能にも恵まれ、人を見抜く鋭い観察眼を持っていた。その彼が独自の感性で身近で見た信長の印象を書き記している。
「信長さまは、中くらいの背丈で体格は華奢で、いつも憂鬱そうな表情をしておられました。髷(まげ)は少なく、よく響き渡る声をお持ちでございました。また信長さまの家来に対する態度は、真に尊大であり、またシンプルなものでございました」
「信長さまの前に出た家臣たちは、いつも大変緊張したご様子で、信長さまが手で少しでも合図をしようものなら、重なりあうように消え去って行くのでございました。それはあたかも、一刻も早く凶暴な獅子の前から遠ざかりたいようにも見えました。逆に信長さまが、小さなお声で一人を呼んだだけでも、百名ほどの人間が外からただちに大声で返事をしたのでございます」
横瀬浦(西九州)にあるルイス・フロイスの像
「また信長さまは、日本のすべての公家大名を軽蔑し、話をする時は、卑しい人間に対するように肩の上から話をされました。公方様(足利将軍)のような方でさえ、信長さまと語る時は、顔を地につけたままでございました」
「信長さまの日常は、規則正しく睡眠時間は短く、早朝に起床されました。完全主義者で私生活は、ひじょうに潔癖でお酒はたしなまれず、食にも質素な方でございました。人との対談に関しては、だらだらとした前置きや間延びした会話を嫌い、足軽のような卑しい家来とも親しく話をされました」
「信長さまは、大の戦好きで、日頃から軍事修練にいそしみ戦術においては、きわめて老練で性急なものがよく目につきました。苦戦に落ち入っても、忍耐強く明せきな判断力をお示しになりました。とりわけ、信長さまは名誉心に富んでおられ、受けた侮辱ははらさざるを得ない性分でございました」
織田信長
(1533〜1582)
「信長さまは、一切の神仏を信じることはなく、宗教的なもの、偶像などは見下しておられ、来世や霊魂の存在などは完全に否定されておりました。殿が愛好したのは、名器と言われた茶の器、良馬、刀剣、鷹狩りなどで、ご自分の面前で卑賎の区別なく裸体で相撲をとらせることをたいそう好まれました」
 これらの書簡から、信長という人物が恐ろしいほどの合理主義者で仏心など微塵もなかったことがわかる。日頃から、人々に敬われて崇拝されている石仏の類でさえも、築城の折には、荒縄をかけて引っ張り回し、無雑作に叩き壊して城壁や石塁の材料にしてしまうのである。神をも恐れぬ信長は、自分に敵対する者は、僧俗問わず皆殺しにしていったのもうなづけよう。
* 血も涙もない合理主義者 *
 人間の命など微塵の価値もなかった時代だが、今日、彼の狂気と残忍さを伝えている話はあまりにも多い・・・
 信長にかつがれただけの足利将軍が、密かに彼の打倒を考えて、浅井、朝倉氏を始め石山本願寺などに密書を送って、信長包囲陣を結束させた時など、彼の怒りは、それらすべてに向けられていった。特に浅井、朝倉を支援した比叡山延暦寺は情け容赦のない攻撃にさらされて焼き打ちされた。多くの堂や伽藍はすべて焼かれ、僧侶を含む老若男女合わせて数千人を虫けらのごとく焼き殺し、比叡山を焦熱の生き地獄と化したのである。

 その後、朝倉義景、浅井親子を討取った時などは、彼は正月の祝いで、三人の頭がい骨を金箔の盃にして、部下たちに酒を回し飲みさせたという。また、浅井長政の母親を数日かけて指を一本一本切断していくという何ともむごいこともしている。
 二条城御殿の造営が急ピッチで進められていた時など、ゾッとする出来事が起こっている。
 それは、将軍足利義昭に献じる館の大工事で、2万5千人が働き、普通なら、4、5年はかかるのをわずか70日で完成させようという超過密なスケジュールで動いていた。事件はその最中に起きた。
 張り詰めた雰囲気の中、信長は、虎の皮を腰に巻き籐杖を手に自ら陣頭に立って工事の指揮をしていた。離れた現場の一角で、一人の兵士が通りがかりの女に軽く戯れていた。
二条城(当時の館は、京都御所の横にあった)
 信長はそれを目ざとく見つけると、どこからか風のようにサッと駆け寄って来た。そして目にも留まらぬ早業で、一刀両断、その男の首を刎ねてしまったのである。男の首は最後の表情をとどめたまま宙を舞い、もんどりうって地面にころがった。シューッ!と猛烈な血しぶきを吹き出しながらも、首を失った胴体だけはしばらくはそのままの姿勢で佇んでいた。それは早春の昼下がりに起こった一瞬の出来事であった。
 また、信長が琵琶湖の竹生島に参詣のために留守にしたことがあった。
 侍女たちは、近くのお寺参りや城外に見物に出かけ一晩城を開けたところが、一泊するはずの信長は、往復120キロを日帰りで帰って来てしまった。帰って来て、侍女たちが出払っているのを知った信長は烈火のごとく怒り狂った。
 そして外出した女たちを全員、数珠つなぎにして、老若問わず、次々になで斬るように首を斬り落としてしまったということだ。
琵琶湖北部にある竹生島
 また、ひょんなことから信長の機嫌を損ねた茶坊主が、信長に追い回されたあげくに斬り捨てられたこともある。茶坊主は、涙を流し、悲鳴を上げながら俵の隅や縁の下などに逃げ回ったが、怒りに燃えた信長は、鋭く光る太刀を振りかざしてどこまでも追い掛けて、ついに茶坊主を真っ二つに斬り裂いてしまったという。
 信長は、寝返った部下に対しても、敵以上の憎しみと怒りをぶつけた。信長の左遷を怨み、本願寺側に寝返った荒木村重の家族などは、彼によって見るも無惨な殺され方をしたのである。捕らえられたのは、荒木の妻、二人の娘、彼女の近親たちであったが、彼らは、全員、都に送られ処刑場となっている寺の広場に集められた。
 まず、第一日目に、荒木の妻、二人の娘など親族34名が刀でなで切りするように次々と斬首された。翌日は、城の女房たち120名が磔の刑に処せられた。その中には幼児も多く含まれていたが、母親の胸にともに縛られて、槍で母子ともに突き殺された。同時に、第三の処刑も行われていた。四つの小屋が用意され、514名の老若男女(ほとんどが女性と子供)を4つに分けて、閉じ込めたのである。
 やがて、小屋の周囲には、薪や木材が山と積み上げられた。そうして、一斉に火がつけられたのである。小屋はたちまち無気味な音をたてながら燃え上がった。灰と火の粉は、風に煽られて舞い上がり、メラメラ、パチパチと薪のはでる音が業火の音に混じって響き渡った。その中から、泣き叫ぶ子供の声や我が子の名を呼ぶ母親の声が絶叫し続けた。やがて、肉の焼ける嫌な臭いが漂い出す頃には、もう悲鳴も聞こえなくなり、後は、不気味な静けさの中で、風に煽られた業火の音だけがいつまでも続いたのであった。まさに、想像を絶するこの世の地獄絵図とはこのことであろう。
 天正3年(1575年)、越前で起こった一向一揆制圧では、信長は、十万の軍勢を率いて侵攻を開始した。一向衆は防戦したが、たちまち粉砕されてしまった。信長は降伏を一切、受けつけずに男女の区別なく、すべてを皆殺しにする命令を出した。民家はもとより、神社、寺も焼き尽くされ、樹木、草にいたるまですべてに火がつけられた。一向衆は、苦し紛れに山中に逃げ込んだ。しかし信長の追手は周到で、おおよそ人が隠れそうなところは、草の根分けてしらみつぶしに捜索された。そうして見つけられた人々は、その場で斬り殺されていったのである。

 こうして、約4万人の男女が殺されていったという。その際、殺した人間の数を勘定するために死体から鼻が削がれたという。削がれた鼻は大きな袋に入れられた。何万という鼻が、何百袋にも入れられ、足軽たちによって信長のもとに送り届けられたのである。府中の町は死体がそこら中に転がっているという地獄のような光景となり、真夏ゆえに死臭で息が出来ないほどになったが、当の信長は大変満足しきった様子で、高らかに笑いながら、この現場を見せたいものだと勝ち誇って、部下に手紙を書いたという。もはやここまで来ると、猟奇を愛する快楽者というのか、次元を越えた得体の知れぬ怪物以外の何ものでもない。
 信長公記では、この壮絶な地獄絵図を「骸骨地に布いて、府中の町は足の踏み場もない・・・」と伝えている。
 このように、信長はわずか10年ほどの間に、敵対する勢力を次々に、情け容赦のない残酷な方法で潰していった。伊勢の長島本願寺を攻めた時など、兵糧攻めにして、和を申し入れて開門して出て来たにもかかわらず、約束を違えてフラフラになった2万人に襲いかかり、アッと言う間に皆殺しにしてしまったのである。もはや彼の進んだ後には、それこそ計り知れないほどの白骨が、怨みを残して累々と残されるだけであった。
 信長の傲慢さと尊大さは想像を絶するもので、やがては天下の頂点に立とうとする最終段階で、こともあろうに彼自身が神格化され礼拝されることさえ望むようになった。彼は城に近い寺の安置所に、自分を象徴する石を置き、万人が礼拝し、参詣するよう命令を出したのである。

 徹底した合理主義者で神仏など微塵も信じなかった信長だが、ついに途方もない狂気と盲目の末、不合理極まりない神格化の道を選んだことは、もはや悲劇以外のなにものでもなかった。古今東西、権力の頂点に立った人間が、誰しも、財宝、快楽、の次に求めて止まないもの、それは、名誉欲の成れの果てとも言える自己崇拝である。彼も、やはり、例外なく、人間の悲しく避けられない業に落ち込んだのである。
* 壮絶な最期 *
 しかし、人生において、成功の直前ほど危険な時はない。勝利を確信し成功への道をひた走っている信長の前に、恐ろしい落とし穴は用意されていた。
 1581年6月2日の未明、信長は、本能寺で腹心の部下、明智光秀の裏切りによって非業の最後を遂げるのである。

 信長は、中国の強豪、毛利に苦戦していた秀吉の援軍要請に応えるために、光秀を総大将とする1万3千の軍勢を派遣したのだった。その軍勢は、近江地方を守りとする、言わば、信長の近衛部隊であった。光秀の軍団を出陣させた今、信長の周囲には、約百名ほどの護衛の兵がいるだけであった。まさか、謀反が起ころうとは予想だにしていなかった信長は、その前夜、夜遅くまで、僧の日海らと碁に興じ夜が白んでから寝床についた。まさにその頃、光秀の大軍が信長のいる本能寺を取り囲もうとしていたのである。
 信長の腹心と言われる光秀であったが、彼の心の中は度重なる信長の癇癪ために、ズタズタに引き裂かれていた。
 かつて部下の面前で蹴り倒され、非情にも接待役を解任され、面目を完全に失ったこともあった。その原因も光秀にあるのではなく、信長の無理解によるものであった。
 こうした所かまわず起こす癇癪と無理解極まる激情のため、光秀は、ことあるごとに6才も年下の信長に3度も部下の面前で足蹴りを食らわされているのである。
明智光秀
 あまつさえ、教養人で文化人でもあった光秀は、伝統を重んじ古いものを愛する武将であった。彼の考え方は信長の考え方とはあまりにも違い過ぎるものであったのだ。
 本能寺の乱は、こうした度重なりで起きたのである。折しも6月2日は、彼の母親の3周忌にあたる因縁の日でもあった。三年前、光秀が波多野氏の八上城を攻めた時のことである。光秀は、波多野氏に投降をすすめた際、信用させるために自分の母親を人質に差し出したことがあった。
 しかし、安土に入るなり波多野兄弟は、約束を違えた信長によって無惨にも殺されてしまうのである。
 その報復として、光秀の母親は八上城の松の木高くに磔にされて殺されてしまった。
 年老いた母親が見せしめのために、処刑されるのを間近に見た光秀の心境はいかばかりであったのだろう?
八上(やがみ)城跡 (兵庫県篠山市)山城で難攻不落を誇った
 その上、今回の中国出兵も自分の領地であった近江、滋賀郡を信長に没収されたあげくの非情な出陣命令であった。信長は、代わりに出雲と石見の国を与えるなどというとんでもない命令を光秀に下していた。というのも、それら二国は未だ敵である毛利の領地であったのである。ここにいたり、光秀の怒りは頂点に達し、ついに我慢の緒が切れたのであった。
 本能寺に殺到した光秀の軍勢は、怒濤のように乱入していった。信長はちょうどその時、外に出て顔と体を洗い終え、身体を拭いていたところであった。彼を見つけた兵が、すかさず矢を射かけた。それは鋭い音を立てて信長の背中に突き刺さった。ところが、信長はそれには動じず、その矢を力づくで引き抜くと、奥に入って鎌のような形をした長刀を手にして出て来た。
 しばらく戦っているうちに、今度は腕にも銃弾を受けた信長は、自らの部屋にこもり、鍵をかけて切腹したと伝えられている。
 森蘭丸、坊丸、力丸ら小姓の三兄弟を始め、近侍の者は、ただちに御殿に火を放ち、全員生きながら焼死した。
 燃え盛る業火は、あまりにも巨大であったためか、信長の身体のほんの一部でさえも発見することは出来なかったという。
 しかし、紅蓮の炎に包まれて、遺体を全く残さずに死んだ信長は、大魔王としての最後を飾るにふさわしいものであったと言えるだろう。
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参考文献
「日本史20の謎」浜洋 大陸書房
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