江戸の大飢饉
〜この世に現出された凄惨な飢餓地獄を見る〜
 現代は飽食の時代と言われている。ファミリーレストランやファーストフード店などに行くと、より取り見取りの食べ物がところ狭しと並び、注文しさえすれば、どんなものでもすぐに食べることが出来る便利な時代である。
 しかし、客の中には、半分も食べないで席を立つ者もいるし、中には、注文しながら、ほとんど手もつけずに食べ残して去る者さえいる。彼らの頭の中では、食べ物のありがたさに感謝する気持ちなど微塵もないように思える。
 しかし、ほんの百年かそこら前には、一片の食べ物もなかったばかりに多くの人間が死んでいかねばならない悲しくて長い過去があったのである。江戸時代の日本は、そうした犠牲者を数多く出した経験を何度もしているのである。大飢饉は江戸時代だけでも6回もあり、そのうち亨保、天明、天保と呼ばれるものは江戸の三大飢饉とまで呼ばれ、全国的な規模で各地に甚大な被害を持たらしたとされている。

 とりわけ、東北地方の被害は最も深刻で、冷害が続くと、間違いなく凶作となりたちまち飢饉になった。今でこそ米の品種改良などで一大収穫地となっているが、東北地方は、その頃は決定的に食えない地域であったのだ。

 大飢饉の状況下では、人間の心理というものはいかに変化するのであろうか? ある記録では、飢えゆえに餓鬼に成り果てた身の毛のよだつ地獄の世界がこの地上に現出したと述べているものもある。

* 寛永、元禄の大飢饉 *
 寛永の大飢饉(1642〜50)では、会津藩(福島県)の被害は甚大で、餓死寸前に追い込まれた百姓は、田畑や家を捨て妻子を連れて隣国に逃散したと記録されている。その逃げ散りの様は大水の流れにも等しいものであった。その際、7才以下の幼児は、足手まといになるので、川沼に投げ込まれて溺死させられたという。その他、身売りもさかんに行われ、当時の人質証文と言われる書類が数多く残されている。しかし、その内容は農民にとってはむごいものであった。
 ある身売りしたケースは、14才の女の子を担保代わりに金子3分を受け取るというものであったが、利息は大変な高利であり、貧しい百姓にとっては不可能な数字であった。つまり、払えない場合は、我が子は永久に買い取られることになっていた。買い取られた女の子は、女中として永久に奉公せねばならず、後には遊女として売られる悲惨な運命が待ち構えていたのだ。もし女の子が逃げたりすると、返済額は2倍になることもあり、死んだ場合は債務者が責任をとって代わりの女の子を進上せねばならなかった。

 ある村では、4年間に60人が、127両で売られたこともあった。中には親子4人が8両足らずで身売りされたケースも残されている。これらの身売りは、凶作によって年貢が納められず、追い詰められた農民が切羽詰まって売買したものであった。このように、この時代は人身売買が飢餓から逃れるための手段として公然とまかり通っていた時代でもあったのだ。

 この頃の京都の様子を伝えた「福斉物語」によると、朝夕の煙は絶え、人々はさまよう餓鬼のようで、路頭には野垂れ死にした屍骸の山がうず高く積み重なり、軒下には、赤子が捨てられ、幼児は路上に放たれてその多くは飢え死にして、犬にむさぼり食われる運命であったと記されている。

 元禄の大飢饉(1695〜96)は、津軽地方(青森県)を中心に大きな打撃を与えた。この飢饉は、典型的な冷害による飢饉で、その上、時の将軍徳川綱吉の生類哀れみの愚令がそれに追い討ちをかけてさらに悲惨の上塗りをしたことでも知られている。飢饉の様子を記録した「耳目心痛記」(じもくしんつうき)は、その時の凄惨な様子を詳細に綴っている。
 ・・・年を越すと惨状は一段とひどくなった。路上では、飢えのために野たれ死ぬ人間が後を絶たなかった。村では、死に絶えて空き家になっていく家が5軒6軒と日に日に増えていく。
 肉親が死んでも、人々に埋葬する体力もなく、屍骸は草むらなどにそのまま放置されたままだった。
 ある貧農の親子4人は、木の葉、草の根を食べていたが、10月になると積雪のためそれすらも出来なくなり、一週間水だけの生活になった。
 苦しみ抜いた両親は、二人の子供を川に捨て、自分たちは、非人小屋に行くしかないという結論に達した。決断した両親は、一人づつ飢えで衰弱した我が子を抱きかかえていき、氷のような川に沈めて殺した。しかし、ついに母親が耐えきれなくなり自分も引き返して入水してしまった。父親もその後を追って死んだ。
 また、ある農村では、10才ほどの女の子を川に突き落とす母親がいた。子供が泣きながら岸に這い上がってくると、今度はもっと深い所に投げ込んだ。それでも上がってこようとする子供に、その母親は大きな石で打ち殺そうとした。これを目撃した農民が、駆け寄ってきて子供を抱き上げ、母親に向かって、たとえ餓死するとも、子と一緒に死のうというのが親の心情ではないのかといさめたところ、その母親は、親兄弟すべて死んでしまった。我も今日明日中には死ぬであろう。幼子を残して憂き目に合わせるより、先に殺して回向してやる方がまだ幸せだと言って涙を流して語ったという。
 こうして、多くの人々が飢えで苦しむ中、生類憐れみの令は、事態をさらに凄惨なものに引き上げることのみ役立った。捨て犬禁止令が出され、あらゆる畜類の殺生と肉食の禁止、さらには犬を飢えさせてはならないという法令が全国に出されたのである。もし、飢饉のために猪、シカでも殺して食べようものなら遠島か死罪になった。そのため、禽獣は人間を恐れなくなり、飢えてさまよう人々に鳥が猛然と襲いかかり、倒れでもしようものなら、野犬が走って来て肉を引き裂かれ食い殺されてしまうのである。万事・万物が逆で道も法もないと嘆いた記録が残されているほどである。
 この時、幕府のしたことと言えば、8万匹の野犬を収容した中野犬小屋を建設し、その建設のために膨大な金銭と食料を浪費しただけであった。食べる物が一切なく、飢餓より逃れたいために身売りや逃散、盗み、人殺しが横行し、果ては飢餓ゆえの人食いまで行われていたのに反して、ここでは、犬一匹につき一日に白米3合、味噌50匁(約187グラム)干しイワシ一合が与えられていたのである。あまりの落差に驚愕など通り越してはかり知れぬ狂気さえ感じてしまうほどだ。
* 享保の大飢饉 *
 亨保の大飢饉(きょうほうのだいききん 1732〜)は、近世に入って起きた最大の大飢饉でとりわけ、西日本を中心にで猛威をふるった。
  この飢饉は、雲霞(うんか)の異常増殖による虫害と言われ、水田の間を飛び回る雲霞は、水の色が醤油のように見えるほど大量発生し、夜中になると稲穂の先に群がり稲を食い尽くした。
 この害虫の繁殖力は、まことに凄まじく、最初、稲の根元に卵らしきものが産みつけられるや否や、一両日中には、水田一杯に増殖し、そこら中真っ黒の雲状になって飛び回るのであった。
 村々では、虫退散の祈祷や虫送りをしたが、全く効き目がなく雲霞のために稲はすべて枯れていったのである。
空中を飛び回るイナゴの大群
 亨保の飢饉では、道路上に行き倒れて死んだ者が数多くいたが、その中に、立派な身なりのまま餓死していた男がいた。男の首には100両もの大金が入った袋が懸けられていたという。つまり、この男は、大金を持っていながら、一粒の米さえ買うことが出来ずに餓死に及んだのである。いくら金銭を持っていても、飢饉になれば人の心は無情ということなのであろうか。
 一方、よく知られるエピソードに作兵衛という農民の話がある。彼は飢饉によってほとんどの者が疲弊して倒れる中で、一人、麦畑の耕作に余念がなかった。しかし、飢えには勝てず、とうとう作兵衛も衰弱して倒れてしまい、まさに餓死寸前となった。隣に住む者が、貯えている一斗(約18リットル)の麦種を食べて命をつなぐべきだと言ったのだが、彼はこれを食べてしまうと、来年は田畑に植えるものがなくなってしまうと言い張って、その隣人の忠告を断り、とうとう麦種の袋を枕に餓死してしまったという。
 彼の自分の一命よりも多くの人々の命を救うことになる種を優先させた義農の精神は、その後、「勤労」ないし「忠君愛国」の鑑(かがみ)のように扱われ、明治時代には国の教科書にもなってもてはやされることになった。
 一方、前述の100両の餓死者の話は、いつなんどき、凶作が来るかも知れず、常日頃から農業をおろそかにしてはいけないという教訓に用いられることになった。
 しかし、これらの話が租税を納めることが本来の民百姓の職分であるとする領主や支配者層の考えに利用されたことも確かである。
作兵衛(1688〜1732)の墓
義農神社(愛媛県)
* 天明の大飢饉 *
 天明の大飢饉(1781〜89)は、有史以来の大量死を記録した悲惨な飢饉である。長期間にわたって全国で天候の不順や天変地異が続いた天明間は、天変地妖の時代とも言われ、人々の間ではこの世の終わりかと騒ぎ立てるほどだった。特に東北地方では、やませ(冷たい風)による冷害で壊滅的被害を受けおびただしい餓死者を出した。天明3年(1783年)には浅間山が大爆発を起こし、火砕流によって、ふもとにあった村を焼き尽くし多くの人々が犠牲になった。3か月間続いた噴火は大量の火山弾や火山灰を吹き上げ、東北地方の冷害に追い討ちをかけ大凶作に拍車をかけたのである。

 江戸でも大風のため大火災が続発し、特に丙午(ひのえうま)であった天明6年(1786年)には、3月には箱根山が噴火し地震が相次いだ。

 4月になると長雨と冷気によって稲作に悪影響を及ぼした。7月には大洪水が起こり家々を押し流し、あたり一面海のように変わり果てた。水害は、江戸だけでなく関八州に及ぶほどの広範で、あらゆる河川が氾濫したとある。

 この現象は全国的規模で起こり、各地の田作に大被害を与えたのであった。この年だけでの日本国中の米の収穫は、例年の3/1以下と言われ、米価が15倍にまで跳ね上がった。
 この飢饉の様子を記録した「後見草」(のちみぐさ)によると、津軽地方が特にひどく、日々に2千人前後の流民が発生し、他領に逃散していったが、そこでも一飯もない状態ですべて餓死に追い込まれた。ここでは、先に死んだ人間の屍体から肉を切り取って食べる者もあらわれ、人肉を犬の肉と称して売る者もいたという。
 おまけに、疫病がまん延して、田畑は荒れ果て原野のようになり、そこら中、腐乱した白骨死体が道ばたに積み上げられる惨状であった。
 この有り様を中世で限り無く続いた戦での死者と言えども、このたびの飢饉の餓死者に比べたら大海の一滴に過ぎないと評しているほどだ。
 ある説では200万以上の人間が、この飢饉によって餓死したとも述べられており、戦乱や他の自然災害を含めても、有史以来の未曾有の大量死であったと考えられている。
道ばたに散らばる腐乱死体
 「天明卯辰簗」(てんめいうたてやな)という飢饉の様子を記録した書は、飢餓下における人間の身の毛もよだつ恐ろしい話を残している。
・・・この頃になると、人を殺して食うことも珍しくなくなった。村人の一人が墓を掘り起こして人肉を食べたのがきっかけで、ついには人肉を得るための殺人があちこちで起こっているのだ。ある一家が、人を殺して食べたという罪で処刑されたが、この家を捜索してみると恐怖の真実が明らかとなった。大量の骸骨が散らばり、桶には塩づけにした人肉が山盛り保存されていたのである。人肉は焼き肉や干物にもされていた。首だけでも38個も見つかったのだ・・・このような話が実話であると言うこと自体信じられないことだが、現世における餓鬼道の現出以外の何物でもないことは確かだ。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図を見るようで背筋が凍りつく思いである。
* 天保の大飢饉 *
 天保の飢饉(てんぽうのだいききん1832〜39)は、連年の凶作の結果、全国にその影響が及ぶほど凄まじいものであった。しかも、飢饉は7年間の長きに渡って延々と続いたのであった。鶏犬猫鼠の類まで、すべて食べ尽くし後には人を食っているという噂が広がっていった。人々の心は荒廃を極め、盗人は見つけられ次第、かます(むしろの袋)に入れられて川に沈めて殺された。
 この飢饉では、疫病も猛威をふるいおびただしい死者を出した。青腫(あおばれ)と言われる栄養失調の状態では、疫病が襲うとひとたまりもなく、例えば、秋田藩では、傷寒(発熱性の腸チフス)が流行り達者な者までかかり、多くの人々が病死した。
 しかもピークが田植え時と重なったことから、田畑は耕作されないままに荒れ放題になっていった。
 この頃、津軽では、食べるものがなく松の皮ばかりを食べ、一家心中や集団自殺といった悲劇が相次いだ。さらに、留まって餓死するよりはと、数万人の農民が乞食、非人化して山越えして逃げ出したとある。
人々の行き倒れを描いた絵
「奥の細道」の作者松尾芭蕉は、東北地方のある村で飢饉による恐ろしい光景を目の当たりにしている。

 ・・・事態は悪化の一途を辿り、冬になり朝晩の気温が低下すると、着の身着のまま路上で次々と死に始めた。そのほとんどが、栄養失調と疲労による凍死だった。夜が明けてみると、路上で生活している何人かが死んでいるのである。行き倒れとなった死体には、たちまち、鳥が舞い降りてきてついばみ始めた。

 ひっそりと静まり返った空き家をのぞいて見ると、そこには、とうに飢え死にしてミイラ状になった家族が抱きあったまま、あるいは壁にもたれたままの姿勢で横たわっているのであった。空腹に堪えきれず、路上でみさかいなく物乞いしていたお年寄りは、一夜明けると、物乞いする姿勢のまま息を引き取っていた。

 腹を減らしてどう猛になった野犬は、腐りかけた死体の手足を食いちぎり、市中を食わえたまま走り回った。通りは死体と食いちぎられた手足が散乱し背筋も凍るような光景が広がっていた。親を失って泣き叫びながら町中をさまよう幼児は、たちまち野犬に襲われて食い殺された。

 死体は、 最初、空き地に穴を掘って埋めたり、川に流したりしていたが、一日に何百人も死ぬようになってから、とても追いつかず、大きな穴を掘ってどんどん投げ込まれるようになった。川に流された死体は、水底で渦高く層をなして川をせき止めた。そのために、大雨が降るとたちまち土手が浸水して、そこら中、汚水で溢れかえることになった。村は、半分水没し、半分屍螻化した死体が、民家の軒下にまで流れ込んでくることもあった。
 荒れ放題の田畑や朽ち果てた空き家などに、累々と散らばる白骨死体の山を見るとき、そこには、現実世界の無常観しか見えてこない。
 この時、深刻な事態であるはずの秋田藩や八戸藩(はちのへはん)などが、どれほど窮民救済に本気で取り組んでいたのかは極めて疑わしい。
 八戸藩などは、1万8千両もの金をもって越後に米を買い付けに行ったが、その帰りに米の相場が高いと知ると、その一部を売却して藩の財政を肥やすことのみ熱心であったのである。
 「人の命は地球より重い」という言葉があるが、「人の命はチリよりも軽い」というのが悲しい真実のようである。
荒野に散らばる餓死した遺体の群れ
* 悲惨な過去を知ること *
 このような凄惨な飢餓地獄は、ほぼ50年ほどの周期で繰り返し起きて来たのである。農業技術が進歩した江戸後期になって、飢饉による犠牲者がこれほど増加した理由として、中世は、下層農民は、すべて大農経営に組み込まれていたために、何とか飢えを凌いでいたのに対して、小農が個別に自立した江戸時代では、飢饉ともなると、抵抗力の弱さをさらけ出してしまい被害がここまで苛烈になってしまったと考えられている。

 江戸時代が終わって、明治、昭和の時代になっても東北地方を中心に凶作が繰り返され、そのたびに飢饉は起き、人々に計り知れない不幸をもたらすのである。
 昭和9年の大冷害を発端とする凶作では、東北地方を中心に6万人以上の女性が身売りや出稼ぎに出なければならなかった。この年、3月に起きた函館の大火は、昭和に入って記録した大火災であり、5千人以上が死傷し、焼失した世帯2万2千という大惨事だった。この時、遊女として身を売って東京に来ていた25才のあさ子という女性は、この大火災で弟、妹の4人が焼け死んだと知るや、生きる望みを失って自殺したという。これも飢饉ゆえの隠された痛ましい悲劇の一こまに違いない。

 今日、我々は物が豊富にある中で生活をしている。しかし、いくら技術的物理的に進歩しようが、過去の人々の体験した苦労や悲惨な経験を踏まえなければ、今後の生きていく指標など見えてこない。飢饉のために、間引かれ、あるいは、野山に捨てられたり親に殺されたりした多くの幼児の霊は、今も常闇の空間をさまよっているに違いないのである。

 現実世界に生きる我々は、過去の人間の痛みや切実なる心を知ろうとする努力が必要である。その時こそ、自ずから謙虚さや物を大切にする気持ち、さらには、いたわりの精神の真の意味が理解されて来るのではないだろうか?
 トップページへ
参考文献
江戸の大飢饉・・・「近世の飢饉」菊地勇夫 吉川弘文館 1997年 「明治百年100大事件」松本清張監修 三一書房1980年
アクセスカウンター

inserted by FC2 system