切り裂きジャック
〜ロンドンを恐怖に落し入れた連続猟奇殺人犯〜
 今日、様々な性犯罪や猟奇殺人、幼児の虐待死といった痛ましいニュースが報道されている。これは、複雑に錯綜する社会の歪みが持たらす一種の社会現象であろうか?
 今でこそ、この種の犯罪は決して珍しくはないが、19世紀の後半、ようやく産業革命が終わりを告げようとする頃、イギリス、ロンドンのイーストエンドと呼ばれる貧民街の一角で、人々を心から震撼させる気味の悪い事件が立て続けに起こった。わずか3か月という短い期間に、5人の女性が次々と無惨な殺され方をしたのである。その事件は、犯罪史上、類を見ない凶悪で残虐な殺人事件として現代に語り継がれることになった。
 犠牲者となったのは、主に娼婦であった。その殺され方は、一様に、喉を裂かれ、時間をかけて手足を切り刻まれ、内臓をえぐられバラバラにされるという残忍さで、摘出された内臓は、遺体の横にきちんと揃えて置かれていることもあった。それは、まるで、医学生が行なう人体の解剖実験のようにも思えるほどで、これまで起きたどの殺人事件よりも遥かに異常で残虐を極めた事件であった。
* 猟奇犯罪の舞台裏 *
 事件の舞台となった貧民街の一角は、ホワイトチャペル地区と呼ばれていた。
 この地区は、ホワイトチャペル(白い礼拝堂)という美しい響きを持つ名前とは、うらはらに、その実体は、ロンドン中のあらゆる貧困と悪徳と犯罪がはびこる温床のような場所であった。
 曲がりくねって気味の悪い路地が、蜘蛛の巣のように張り巡らされており、薄暗い空き地がそこら中にあったのである。
 人々の多くは、職も住まいもなく、乞食、浮浪者となって、そうした場所で寝起きしていた。貧民街を恐怖のどん底に落とし入れたこの事件は、ホワイトチャペル連続殺人事件と名づけられ、以後の猟奇的性犯罪の先駆けとなる衝撃的な事件であった。
19世紀末の貧民街の様子。ウエストエンドの上流階級社会に対して、イーストエンドは貧民街で人口は10万人ほど。日のあたらぬじめじめした場所で、人と物が、ごちゃごちゃと乱雑に入り組んでいた。
 現在、イーストエンド地区は、高層ビルが立ち並ぶオフィス街に変身してしまっている。
 しかし、地元の人々は、その忌わしい事件の名前を耳にするだけでも心に動揺が走るという。
 それは、120年ほど昔、この地で起こった陰惨な記憶を思い起こすからであろうか? あたかも、猟奇殺人を繰り返した切り裂き魔が、亡霊となって、今も人々の心の中に住み着いているかのようである。
 一体、この切り裂きジャックとは何者だったのか? 
現在のイーストエンドの様子
* 身の毛のよだつ労働条件 *
 19世紀の後半、イギリスは、他国に先駆けて産業革命を達成した。産業革命により、科学と産業が飛躍的に発展した。これまでの人力による生産方法から大規模な工場での生産方法への変化は、物の生産数は飛躍的に増大した。その反面、産業革命の持たらしたものは、想像を絶するほどの貧富の格差であった。
 封建制度は崩壊し、貴族と農民という主だった階級は、資本家と労働者に名前を変え、社会は、まっぷたつに分かれてしまっていた。
 現在のように、労働基準法や労働組合などなかった当時、人々は、信じられない過酷な労働条件のもとで働かざるを得なかった。
 経営者たる資本家は、一方的な条件で労働者を働かせていた。好き勝手にいつでも首にし賃金など最低の暮らしも出来ぬほどの額しか払わなかったのである。
製紙工場で働く子供たち。16時間以上の重労働が強制された。
 子供は、凄まじい条件下で働かされた。
 ある陶器工場で働く少年は、朝の3時4時にたたき起こされ、夜中の10時、11時頃まで働かされた。徹夜しようが手当てなど一銭も出なかった。
 紡績工場では、糸が絡まったり切れたりすると、その箇所を修理するために、幼い少女が機械のわずかなすき間から潜り込まされた。ものすごい騒音と暗くて窒息しそうな息苦しい空間で、子供たちは容赦なく長時間こき使われた。

子供たちの表情から笑いは消え去った。
 特に、煙突掃除には、体の小さい幼児が使われた。5才ほどの子供が煙突の中に入り込み全身真っ黒になりながら14時間も働かされるのである。
 煙突の中で窒息したり転落したりして死ぬ子供が後を絶たなかったという。
石炭の掘り出しは身の毛もよだつ重労働だった。
 子供たちの手足は青白く痩せ細り、つぶらなひとみは、まるで病人のように落ち窪んで石のように無表情になった。そこには、もはや子供らしいあどけなさなどどこにもなかった。
* 恐ろしい世紀末の世情 *
 労働者の住む環境はひどいもので、廃水設備などないに等しく、あるとすれば、道路の中央に走っている溝だけであった。
 人々は悪臭漂う不潔極まる環境で、赤痢や腸チフスと言った恐ろしい伝染病がいつ流行するかも知れぬ恐怖に震えおののきながら生活していた。
 飲み水は赤茶けた色をしていて、どぶのような臭いのする水だった。
産業革命時の労働者の生活環境は最悪だった。
 もし、病気にでもなろうものなら、それで一巻の終わりだった。薬も飲めず、のたうち回って苦しみ抜いた末、死んでいかねばならなかったのだ。貧民街の人々の平均寿命はわずか16才ほどであったという。
 こうして、うらぶれた部屋で、人知れずに息を引き取った遺体は、夏であってもそのまま放置されていた。埋葬しようと考える人間などいなかった。遺体は、やがて、ものすごい悪臭を放ち、ガスで膨れ上がり、蛆が湧き白骨になって朽ち果ててゆくのである。街頭には飢えた孤児たちが狼のように群れをなし、生きるためにはどんな非行にも手を染めていた。
 女性は、貧困から売春婦になる者が多かった。彼女らの多くは酒に溺れ、荒んだ生活を毎日繰り返していた。
 しかし、その売春にしても割のいい仕事で、わずか2、3時間で2日分の食費になるのである。
 彼女らは、恥も外聞もなく真っ昼間から自分の部屋に客を引き入れた。客は、総じて外国の船員や労務者だった。
 その際、赤ん坊は、静かにさせておくために、阿片やら麻薬を飲まされるのであった。
イーストエンドの女性たち。彼女らのアルバイトは売春だった。
 人々に良心など微塵もなく、少し裏通りに入ると、ありとあらゆる犯罪が真っ昼間から行われていた。土地勘のない人間が、うかうかそんな所に行こうものなら大変な目に合った。たちまち、残忍な目つきをして下卑た笑いを浮かべた子供たちが、手に手に、こん棒など振りかざして襲いかかられ、何もかも身ぐるみ剥ぎ取られるのである。骨を何か所も折られたり、命を無くすことも珍しくなかった。
 人々は、そういったゾッとする暴力シーンを目にしても、助けようとする気もなく、ザラザラした眼差しを向けるだけで、もはや何の興味すら示さなかった。
 現代のおやじ狩りなどより、はるかに凄惨で残酷と思えるこの行為も、しかし、社会のひずみと貧困が持たらした結果なのであった。
 このような陰惨な社会背景のもとに、連続猟奇殺人事件は起きたのである。しかし、それは、出口の見えない世紀末の闇にうごめく人々の怨念が形になったものと言ってもよかった。

社会の歪みと貧困の持たらしたもの。路上で寝る子供たち。
* 残忍な犯行 *
 1888年、8月31日の夜明け前が事件の始まりだった。犠牲者は、メアリ・ニコルズという43才の娼婦で、酒場で客取りに夢中になっている姿が最後だった。
 8月と言っても、ロンドンの明け方はかなり寒い。深夜の3時半頃、ホワイトチャペルの暗い路地で、女の遺体が転がっているのを警戒中の巡査が発見したのだ。
 遺体は、路上で仰向けで倒れており、目を大きく見開いていた。死因は、鋭い刃物で喉を切断され、ほとんど即死の状態だった。
巡回中の巡査による第1の犠牲者発見の様子。  殺害は、行われてまだ間がないと見え、喉からは鮮血が後から後からゴボゴボと吹き出していた。
 検死の結果、喉を切り裂いた傷は、血管、声帯、食道が根こそぎ切り裂かれ骨にまで達するほど深いものだった。恐らく、犯人は、女の後ろから近付き一瞬にして、犯行に及んだと思われた。切り傷は左から右に走っていることから、犯人は左利きの可能性があることも判明した。凶器は、刃渡り20センチはあろう細長い鋭利な刃物と推定された。さらに、遺体には、手足を切り離そうとしていた跡があった。恐らく、解体の途中であったものが、巡査の接近に気づいた犯人が、この行為を途中で断念したと思われるものであった。
 1週間後の9月7日、この衝撃も覚めやらぬ内に2人目の被害者が出た。犠牲となったのは、アニーと呼ばれる47才のアル中の娼婦で、深刻な肺病を煩っており、事件に巻き込まれなくとも長くはないと思われていた女性である。彼女の遺体も、前回の犠牲者と同様に、喉を鋭い刃物で一文字に切り裂かれて即死状態であった。遺体は、血まみれ状態で雑草が生い茂るボロアパートの裏庭で発見された。遺体の状態は、酸鼻を極め腹部を裂かれて、そこら中、血まみれの内臓が散らばり、腸だけが一本引き出されて右肩に掛けられていた。そのひどい殺され方は、遺体を検分することに慣れた検死官さえも、顔を背けるほどで、こんなことをする奴は、気違いだけだとつぶやくほどであった。
 急きょ、心理学者などが動員され、犯人像を推測した。その結果、ある者は、ユダヤ人の肉屋であるとか外国の船員であるとか熟練した医者だとか言い張った。
 また腕のいい外科医だと言う者もいた。その外科医は、解体に適した様々なメスを黒い鞄に入れて持ち歩いていると言うのである。
 ついには、切り裂き魔は、警官だという仮説を主張する者もあらわれた。警官であるからこそ、怪しまれずに夜の街をうろつき回れるというのがその理由であった。
恐怖は恐怖を呼ぶ。外国人やユダヤ人に容疑の目が向けられた。
 恐怖の切り裂き魔は、それからしばらく鳴りを潜めることになる。しかし、9月30日に再び犯行が行われ、人々をパニックに落し入れた。
 3人目の犠牲者は、のっぽのリズと呼ばれるスウェーデン生まれの娼婦で、これまでと同様に喉をかき切られて殺されていた。
 発見したのは、荷馬車の従者で、彼は、ホワイトチャペルロードから道を一本隔てた小路内を荷馬車を走らせていたところが、突如、子馬が何かに怯えるように動かなくなった。よく見ると、子馬の進行方向に血まみれの女の遺体が横たわっていたのであった。
午前1時頃、荷馬車の従者が進行方向に女の遺体があるのを発見する。
 遺体は、まだ暖かく殺されて間がなかった。しかし、これまでの遺体と違って、切り刻まれている状態ではなかった。ところが、胴着の上部のボタンが外され腹がむき出しになっていることから、犯人が腹を切り裂こうとする直前だったと考えられた。恐らく、まさに、切開しようとする時に、荷馬車という邪魔が入り、止むなく逃げ出したのであろう。すなわち、犯人は、思いを遂げることなく中断せざるを得なかったのだ。欲求不満をつのらせた犯人が、腹いせに新しい獲物を見つけようと血眼になっている恐れがあった。
 まもなく、それを裏付けるように、その現場からほんのわずかのところで、再び殺人が行われた。それはリズが殺されてわずか40分後の出来事であった。
 犠牲者の遺体は、犯人の欲求不満を癒すかのように、これでもかと言わんばかりに徹底的に切り刻まれていた。顔は深くえぐられ、目は潰され耳の片方は切り取られていた。
 被害者は40代の娼婦と見られ、うつ伏せの状態で倒れていた。路上には、まだ生暖かい内臓やら遺体の一部やらが散らばりあたり一面血の海である。
 巡査が15分前に巡回した時には異常はなかったので、その隙を縫って行われた犯行と思われた。つまり、殺して切り裂くまで、恐ろしいほどの素早さで行われたのである。
キャサリン・エドウズ(1842〜1888)
4人目の犠牲者である。
* 犯人からのメッセージ *
 この事件の起きる2日前、犯人からと思われる一通の手紙が警察に届いていた。その手紙には、警察を嘲笑するかの文言で綴られており、次のような内容であった。
「俺は、淫売女には恨みがあるんだ。まだまだ、切り裂くのはやめる気はねぇぜ。この手紙も殺した女の血で書くつもりだったが、あいにく取っといた血が全部固まっちまったので、使いもんになりゃしねぇ。赤インクで書くしかないってわけさ。今度は、女の耳を切り取って警察に送ることにするぜ。旦那衆のお楽しみにな。ワッハッハ・・・」
 最後に、親愛なる切り裂きジャックという名前がサインされていた。
 こうして、切り裂きジャックという名前は、犯罪史上、最も有名な名前となって、人々の心に刻まれることになるのである。
 まさに地獄から届いた犯行声明文であった。この手紙の全文は、各新聞の一面に掲載されてイギリス全土に配布された。
切り裂きジャックの手紙。血の代わりに赤のインクで書かれている。
 切り裂きジャックの名は、イギリス中に知れ渡り、あらゆる人の知るところとなった。いつまでも外で遊び惚けて帰らぬ子供やだだをこねる子供に「そんなことしてると、切り裂きジャックにさらわれてしまうよ」などと言おうものなら、即座に泣き止み、すっ飛んで帰って来るほどの効果があったという。この切り裂き魔のニュースは、イギリスだけでなく、当時のメディアに乗って海を渡り、パリ、ベルリン、ニューヨークでも脚光を浴び、噂で持ち切りになったほどだ。
 こうして、噂は疑心暗疑を呼び、人々を恐怖のどん底にたたき落とした。誰が切り裂きジャックかわからなかった。病人と子供以外はすべて容疑者の資格があったのだ。
 人々は、異常なほど過敏になり、お互いを信じなくなっていった。夜は人通りが絶え、昼間でも女性は懐にナイフだか自衛の武器を忍ばせて歩くようになった。
 切り裂きジャックの正体について様々に論議された。狂った医者であるとか、娼婦に恨みを持つ産婆だとか言われたが、しかし、どれも確証を得るものではなかった。
 捜査に優秀な狩猟犬が導入されたりしたが、一向にらちを得ない状態だった。
人々は切り裂きジャックの亡霊におびえた。
* 凄惨な殺害現場 *
 そうこうしているうちに、11月9日、またしても犠牲者が出た。そして、これがこの一連の事件の最後の犠牲者でもあった。
 今度は、メアリ・ジェーンという若い娼婦だった。家主に頼まれて未払いの家賃を取りに行ったところが、いくらノックしても返事がないので、男は、窓の方に回り、窓を押し開けてカーテンを引き開けたのであった。ゾッとする恐ろしい光景が目の前にあった。彼は、家賃のことなど頭の中からすっ飛んでしまい半狂乱のようになって逃げ出すしかなかった。
 室内は想像を絶するほどひどいものだった。あたり一面血しぶきが飛び散り、誰でも、一度目にすると、卒倒してしまうほどの残酷極まる現場であった。
 ベッドには、大きな血だまりが出来、その中に、遺体が全裸で浸るように横たわっていた。しかも遺体は人の形を留めていなかった。首などほとんど切断寸前で、皮一枚でかろうじてつながっていた。
 顔は、鼻も耳も削がれた上、メタメタに切り刻まれていた。切り取られた乳房は、枕のように遺体の頭の後ろに置かれていた。内臓はこっそりえぐり取られており、テーブルには心臓や腎臓と言った臓物がきちんと積み重ねられていた。
凄惨を極めた殺害現場の様子
(当時の現場検証の写真)
壁の額絵には、血だらけの腸がダラリとぶら下がり、ベッド横のサイドテーブルには、切り取られた太腿の一部が、まるでオブジェか何かのように置かれているのである。それは、まさしく悪魔でしか成し得ない悪業であった。
 しかし、どうしたことか、この事件を最後に切り裂きジャックは、闇の世界に姿を消してしまうのである。それは、突発的に始まり、不可解な幕切れとも言うべき終わり方であった。
* 猟奇殺人の犯人は? *
 こうして、喉を掻き切り、腹を裂き内臓をつかみ出すという前代未聞の猟奇的犯行は、その後の警察の徹底的な捜査にもかかわらず、犯人を捕らえることが出来ずに、ついに迷宮入りとなってしまうのである。
 もっとも、警察は、多くの容疑者から何人かを絞り込み、次の3人にアタリをつけていたようだった。まず、3人の妻を毒殺したというポーランド商人、狂気から何度も傷害事件を犯したというロシア人医師、そして、最も有力な容疑者が、親戚に多くの医者を持つという若手弁護士であった。
 彼の名は、モンタギュー・ドルイットといい、オックスフォード出の秀才だったが、家系的に精神錯乱の傾向があったと言われている。もしそうだとすれば、表向きは、スポーツマンで何不自由のない優秀な青年が、その実体は狂気の性的異常者だったということになる。
 しかし、ドルイットは、最後の事件が終わって2か月後に、テムズ河で水死してしまったので、彼が本当に切り裂きジャックであったのかは永久にわからなくなってしまった。 
モンタギュー・ドルイット(1857〜1888)
 死因は、発作的な自殺であった。
 だが、今日、良識ある市民を装いながら、意外な人間が犯罪者だったというニュースがやたらと多い。我々は、そうした事実を見るにつけて、人間に隠されたもう一つの恐ろしい顔が存在することを認めざるを得ない。それは誰にでも狂気が宿る可能性があるということであろうか?
 その意味で、切り裂きジャックは、人間の深層心理に潜む狂気や欲望が、頭をもたげる時、それがいかに恐ろしい悪魔となりうるかを身を持って証明して見せたとも言えよう。
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