マップナビ
夜と霧
〜ナチ強制収容所での心理学者の記録〜
* 恐怖と絶望の象徴として *
 ポーランドの首都ワルシャワから南西に250キロほど行ったところに小さな町がある。ポーランド以外では名も知られていない辺鄙で荒廃したその場所に、当時、最大のユダヤ人絶滅収容所があった。その名をアウシュビッツ強制収容所・・・戦時中、そこで悪魔でさえなし得ない残虐行為の数々が行われた。
 アウシュビッツは、平らな盆地の底に位置し、その周囲を大小の濁った沼に囲まれていた。そのため、湿気が多く悪臭に充ちて疫病が流行る最悪の条件が揃っていた。それは、あたかも何千年も生に身放されたような不吉な場所と言ってよかった。実際、死神が招き寄せたかのごとく、この地に、殺人工場とも言える最大の絶滅収容所が建設されたのであった。そして、ここで300万を下らぬユダヤ人が虫けら同然に虐殺されたのである。かくしてアウシュビッツの名は、おぞましい血塗られた地名として、人々の頭に永久に刻み込まれることになるのである。
 この地獄のような強制収容所で4年間を奇蹟的に生き延びた心理学者がいた。彼はただユダヤ人であるという理由だけで家族ぐるみ逮捕されアウシュビッツに送られたのだ。到着するなり、彼の両親、妻と2人の子供は無惨にもガス室で殺され、彼だけが凄惨な生活を経て辛くも生き延びることが出来たのであった。 彼は戦後、自らの体験を本にすることにした。再び、狂気が支配し人間が人間でなくなり、恐ろしい行為に没頭することがないように。
 この著書には、心理学者だった彼がアウシュビッツ収容所での過ごした4年間に、心理学者としての立場から、限界状態における人間の姿が赤裸々に描写されている。しかし一方、そのような絶望の中にあっても、人間の持つ精神の崇高さを失うことがなく、人間の善意を讃える精神が強く貫かれている。彼はこの絶望的な環境下でも密かに原稿を書き続けた。飢えと絶望という極限の淵に立って、もしも見つかれば即刻処刑という危険もかえりみず、数十枚の小さな紙面に速記用の記号でびっしりと書き綴ったのである。もしも、我々がアウシュビッツのような凄惨な地獄に送り込まれて、こうした勇気と信念を持ち続けられるか疑問に思える行為であった。こうして書かれた著書の題名が「夜と霧」なのである。
 しかし、「夜と霧」とは、もともとはヒトラーによって出された命令の名称で、その目的は、ユダヤ人始め、ナチスに反対するあらゆる人間を、密かに夜間逮捕し、強制収容所に送り込むことであった。一夜で家族ぐるみまるで霧のように消え失せてしまったことから、この名前がつけられたのである。ゲシュタポによって逮捕された家族が、その後、どこに連れていかれ、どうなってしまったのか一切わからなかった。多くの場合、強制収容所に着くなり、ガス室で殺されるか、運よくそれを逃れることが出来ても、身の毛のよだつ重労働を余儀なくされ、ほとんどの者が悲惨な最期を遂げたのである。最初、ヒトラーの秘密命令であった「夜と霧」は、大戦後、もっぱら、ナチス強制収容所における想像を絶する阿鼻叫喚の地獄を象徴する言葉に置き換わることとなった。
* アウシュビッツでの恐怖の儀式 *
 ナチが政権を掌握すると、ヒトラーはかねてからのユダヤ人一掃計画を実行に移し出した。 当初は、マダガスカル島を接収し、そこにすべてのユダヤ人を移住させようという考えもあったが、現実的に問題が多く、やがて、不必要な人間のためにどうして時間と場所と金を費やさねばならないのかという過激な考えに変化していった。こうして、もっと手っ取り早い方法、ユダヤ人絶滅計画、すなわち、狂気の大量虐殺へと動いていくのである。
 絶滅の具体的な方法としては強制収容所の建設であった。ここで、強制労働で激務を与えて死にいたらせるのである。もう一つは、科学的手段による速やかなる大量殺戮であった。収容所はドイツ国内始め、東部に多数つくられたが、その内の最高峰と呼べるものがアウシュビッツであった。アウシュビッツは、他の収容所に比べると、その規模に格段の違いがあった。まず、一度に2千人近くを殺すことが出来る巨大なガス室や焼却炉が何か所もあった。これら大量殺戮の施設は、疑惑を隠ぺいするために地下に建設されたり、地上にあっても外観はそのように見えないように設計されていた。ただ、不つり合いと思えるほど大きい煙突だけは隠しようがなかった。
 列車は、直接収容所の入口近くまで、引き入れられるようになっていた。そこまで来ると、列車は引き離され、列車の職員や警備員は地域外に出るように命令される。
 そして、これに代わるように収容所の警備兵が後を受け継いだ。つまり、秘密が外に漏れないようにするための処置である。
 列車が到着すると、駅には、ユダヤ人で構成された楽団が、モーツアルトの美しい曲を奏でていた。親衛隊員も始終にこやかな表情を絶やさず和やかなムードを演出している。
 しかし、これは吐き気をもよおす欺まんの一つだった。グロテスクな中に陽気が同居している光景とはこのことを言うのだろうか。
収容所内にあるユダヤ人で編制されたオーケストラ。アウシュビッツに到着する人々の気持ちを静める欺まん工作に使われた。
 こうした雰囲気の中で、列車で運ばれて来た人々は、ほぼ4日間、立ちっぱなしでクタクタになっているにもかまわずに、ただちに一列に並ばされ最初の選別にかけられた。
 人々の行列の先端には、SS(ナチス親衛隊)の将校がいて、人々を労働に適するかそうでないかを瞬時にふるい分けていくのである。
 人差指をわずかに右か左に倒すのであるが、人々の9割近くが右に倒された。右に倒すということは、労働に適さないと見なされることを意味していた。
 そこでは、幼い子供、赤ん坊を連れた母親、病弱な者、老人、妊婦などが大勢並んでいた。しかし、この時、この列に並んだ人々は、これから自分たちに降りかかる恐ろしい運命をまだ知らない。
死の選別、ほとんどの人が右行きである。
 右の列に並んだ女性や子供は、数時間以内に、ある大きな建物に連れていかれる。彼らはシラミ駆除のために入浴して消毒されるのだと言い聞かされていた。
 いかにも本当らしくぜっち上げるために、そこには見せかけだけのシャワー室があり、人々には小さな石鹸のかけらさえ与えられた。
 しかし、この石鹸は彼らが殺されると取り上げられ、次の犠牲者のために回される代物であった。裸になると、いよいよ、坂道を降りて地下の薄暗い部屋に行くように命じられる。
子供を抱えたこの母親も数時間後にはもう生きていない。
 この時、殺気を感じた母親の何人かは、子供を衣類の陰などに隠したりしたが、大抵の場合、すぐに発見され子供は後を追うように部屋に投げ込まれた。やがて、人々が押し込まれると、不気味な音をたてて大きな鉄製のドアが閉まり、同時に外から錠が降ろされる。裸電球がぶら下がっているだけの薄暗い部屋で、人々は、今にも頭の上から水が流れ落ちてくるものと思って、不安げに天井を見上げているが、いつまでたっても水など流れてくる気配などない。そのうち、水ならず恐ろしい青酸ガス、チクロンBが降り注がれるのである。
 毒ガスが投下されてしばらくすると、絶叫のようなものすごい悲鳴が聞こえて来る。それに混じって泣き叫ぶ子供の声がする。何度も鉄の扉に体当たりを繰り返したり、爪で壁を引っ掻く音が響き渡る。しかし、15分もするとこの騒ぎも治まるのである。30分ほど経って扉が開かれると、もはや生きている者はいない。幼い我が子をかばうような恰好で死んでいる母親や手を握り合ったまま死んでいる姉妹の姿が多く目につく。抱き合って死んでいるのは、おおむね家族で引き離すには至難のわざだった。人々は苦悩の表情を露にして、ピラミッドのように折り重なって死んでいる。それは、死の苦痛から逃れようと、互いの体を踏み台にして、少しでも高い所によじ上ろうとしたためであった。
 扉が開くと、ガスマスクをした同じユダヤ人の囚人が入って来て、死体から、眼鏡や入れ歯、毛髪、貴重品などを抜き取って選り分けする作業が始まる。
 女の死体からは髪の毛が刈り取られ、口はハーケンでこじ開けられペンチなどで金歯が引き抜かれた。
 他にも貴重品が隠されていないか、死体は隅から隅まで調べられた。
 金歯は集められて溶かされ、金の延べ板にされて毎月ごとにSSの医療部に送られた。犠牲者の衣類は、仕分けされた後、クリーニングされて奴隷労働者のために再利用されるのであった。その他のものは、種類ごとに集められて倉庫に貯蔵された。
犠牲者の所持品は、収容所内に35ある倉庫に分類され貯蔵された。終戦前にドイツ軍は29の倉庫を爆破したが、残された倉庫で恐怖の証拠を今も見ることが出来る。
 これらは、まさに死のリサイクルというべきものであった。
 それらが終わると、死体を焼却炉に運ぶ作業となる。鈎のついた棒を死体のあごに引っ掛けて乱暴に運ぶのである。貨車で運ばれることもあったが、焼却炉に直結しているガス室では、そのまま昇降機によって自動的に運ばれた。そして、死体は数時間以上かけて焼却されるのだが、人間の焼ける臭いというのは、胸のむかつく特有の臭いで、それは風のない日でも収容所中に充満したという。最後の仕上げとして、焼却炉の中に残る骨の山を一掃する作業が残されていた。すべての骨は、熱いうちからシャベルでカートなどに盛られ、コンクリートの床まで運ばれると、そこにぶちまけられ平たくされた。次いで、よつばいになった囚人たちが重い木づちを使ってゴンゴンと骨を粉々に押し潰してゆく。白い粉状になった骨は、袋に詰められてトラックでビッスラ河まで運ばれ、そこで川の中に投げ込まれるのであった。
 こうした作業の繰り返しが、アウシュビッツのごく平均的毎日であった。略奪と殺戮は、取るに足らない単調な仕事のように黙々とこなされていった。毎日、千五百人以上を乗せた列車が2、3回到着するが、このような死のピストン輸送は、数年間も飽くことなく続けられたのである。
 人類の長い歴史の中で、未だかつて、このように周到に計画された悪の組織は存在しなかった。これは人類への冒涜にも等しい行為であった。
 一方、一時的に死をまぬがれたわずかな人々は、強制労働に従事するために、「働けば自由になる」と書かれた門をくぐって収容所に入って行った。
 しかし、自由などどこにもなく、そこでも死と同等か、それ以上の辛くてむごい日々が待ち受けているだけであった。
アウシュビッツ強制収容所の正門。労働は自由への道と書かれてある。
* 心理学者から見た人間の心理 *
 アウシュビッツで囚人として、凄惨な日々を生き抜いた心理学者、フランクルは、この時、強制収容所内での人間の異常な心理を冷静、沈着に分類し記録した。そして、この中で人間の心理というものは、いろいろな過程を経て何段階にも変化していくものであることを述べている。
 あらゆる人間は、絶望的な条件下でも、最初はかすかな希望を抱いていた。自分だけは特別だとか最悪の事態にはならないだろうと言った恩赦妄想という心理である。つまり、これから死刑にされるという時に、直前になって何かが起こり自分は救われるのではないかという心理である。しかし、こうした甘い幻想は、過酷な現実によって一枚ずつ引き剥がされていった。
 まもなく、すべての所持品が奪われた上、身体中の毛を残らず剃られ、粗末な囚人服を着せられ、腕には入墨の番号が彫られるのであった。もはや人格などなく、今後は番号のみの扱いとなるのだ。
 収容所に入れられて数日も経つと、恩赦妄想は跡形もなく粉砕されてしまう。その時は、誰しも失望で感情の激昂が起こり動揺するが、それも過ぎると、すてばちになった心理に好奇に充ちた感情がめばえ始めるのである。
 それは、人間を距離を置いて見る、自分さえも冷徹でながめることの出来る冷たい好奇心であった。すなわち、自らの身体に起こる過酷な環境への驚異的な順応性への発見とでも置き換えられるものであった。
アウシュビッツ強制収容所内のバラック群
 例えば、一糸まとわぬ裸体で、水に濡れたまま寒い晩秋に一晩中立たされたことがあったが、誰も鼻風邪ひとつひかなかったということ。また、収容所に入って以来、一度も歯を磨くことなく明らかな栄養失調とビタミン不足にもかかわらず、歯肉は栄養をたっぷり取っていた頃よりも色艶がよかったということ。また、ずっと同じシャツのまま風呂に入ることもなく不衛生な環境下でありながら、土木工事で傷だらけになっても一度も傷が化膿することはなかったということなど。こうした驚きは、これまでの既存の医学書にかかれてある内容が間違っているとしか言いようのないものだった。恐らく、つまらない傷をして労働が出来なくなれば、それはすぐに死を意味していたために、常に生死の崖っぷちに立っていた精神状態が関係しているのであろう。こうした驚異的な発見は生理的順応にも見られた。
 アウシュビッツでは、寝る時は三段のベッドで、各段には板が渡されており、その上に9人の人間がじかに寝ることになっていたが、枕などなく掛ける覆いは9人共同で、おまけに、板の幅は2メートル半しかなく、上を向いて寝ることが出来ず、各人が横を向いて互いに密着して寝るしかなかった。寝返りなど出来なければ、足を曲げることすら出来ず、ほとんど脱臼しそうにまっすぐな姿勢のままで寝るしかないのである。
 しかし、こうした条件下でも、睡眠は意識を奪い苦痛をも消し去るのである。そして、以前は少しの物音にも目覚めて二度と眠れなかった人間が、自分の耳の数センチのところで、仲間が恐ろしいいびきを響かせていても目を覚ますこともなく、横になればたちどころに深い睡眠に陥るのであった。
 一方、心理面はゆっくりと次の段階に滑り込むことになる。
アウシュビッツ内の三段ベッド
 次に移行するのは、第ニ段階と呼ばれるもので比較的無感動の段階である。これは、苦悩に充ちたもろもろの感情を自らの中で殺し始めることで、とりもなおさず、内面の死滅が始まったことを意味している。つまり、無意識のうちにあらゆる感情生活を、生存という目的のみに集中させようという心理的順応が始まったのである。これは言い換えるなら、外圧からの心の防御方法のようなものであった。
 感動の鈍麻は、あらゆる醜悪に対する嫌悪感を押さえ、カポーの注意を引かぬことにも役立った。便所掃除などの労働の際、汚物や糞尿などが顔にかかって、顔をしかめたり、あるいは拭き取ろうとすると、それは「お上品振り」と取られ、腹を立てたカポーに棒で思いきりぶん殴られるからである。カポーに嫌われ目をつけられたら大変であった。カポーとは、囚人を取り締まるために囚人から選ばれた者であるが、彼らは栄養にも恵まれ同じ仲間を見下していた。彼らに良心のかけらなどなく、その実体は親衛隊員よりも卑劣で残酷な存在ですらあった。
 生命維持にのみ集中する心理的状態のもとでは、精神生活は原始的な段階にまで移行してしまう。やがて、収容所の囚人が見る夢は食べ物の夢に限られるようになる。収容所の食事はひどいもので、日に一回与えられる水のようなスープとこぶし大のパン一つだけであった。それに、時おり、わずかなマーガリンかチーズの小片がつくぐらいである。これは、通常の成人男子が必要とされる栄養摂取量の20分の1以下であった。戸外で恐ろしい重労働に従事する者にとっては、お話にならない内容である。こうした最悪とも言える栄養不足により、やがて、身体が自らのタンパク質を食い尽くすという現象が始まる。その結果、筋肉組織や脂肪が消えてなくなり、骸骨の上に皮膚が張り付いているだけのような様相になってしまうのだ。囚人たちは、夜寝る前に、自分たちの哀れな身体を見て、これは本当に自分の身体なのか、それとも、自分はとうに死んでいて、これは屍なのだろうかと考えるのであった。このような状態では、食欲のみが前面に押し出されてもはや性欲などなくなってしまい夢の中でも出て来ない。
 やがて、無感動の段階は感情の鈍麻に加えて無感覚へと移行していく。しかし、この無感動、無感覚こそが人の心を守る必要な防御手段でもあった。収容所内では、ごくつまらないことからカポーや警備兵に殴打されるからである。ある時など、食事時で列をなして順番を待っていた時、誰かが一歩ほど横にはみ出していたことがあった。それは、でこぼこの地ならしされていない地面に立っていたのだから仕方がないことだった。しかし、そのことが視覚的に気に入らぬのか、その囚人は突然監視兵にこん棒で殴打されてしまった。しかし、いくら無感動になったとは言え、訳もわからず突然と受ける殴打や、もはや人間とは見なされず、嘲笑しながら石ころを投げつけられた時などは、身体的苦痛よりももっとひどいダメージを受けることもあった。
* 絶望的な環境で生き抜く心理 *
 この非情な世界にあって、外的には原始的で単純なものに変化していく反面、人によっては、著しい内面化への傾向が見られることもあった。これはどういうことかと言えば、元来、精神的に高い仕事をしていた感じやすい人、つまり感受性の高い人間は、この過酷で悲惨な環境下でも、はるかに自分より頑丈な身体を持った人間よりも耐えていけたという事実である。たとえ、物理的活動面では何一つ勝るものがなくても、持ち合わせた繊細な感情素質ゆえに、自己の内面に愛する人間の精神的な像を想像して自らを充たすことが出来たということである。彼は自らの体験の中でそれを知ることになった。
 彼は毎日、強制労働に従事する傍ら、常に自分の内面にだけ存在する愛する者、妻との対話を試みるようになっていた。精神的な会話を続けるうち、やがて、彼は自分のそばに妻がいて優しく見守ってくれている気配を感じるようになった。凍った地面を何時間も堀り続けながらも、その強い感情は次第に強くなっていった。そして、何千回もの妻との会話を重ねていくうちに、彼は、一つの真理の持つ意味を悟ったのである。つまり、例え、地上が荒廃しもはや何も残っていなくても、人間は、愛する人間の像に心を深く捧げ、自らを充たすことが出来た時、浄福となり全く慰めのない世界をも乗り越えることが出来るという真理である。
 この場合、彼にとって、妻が生存しているか否かは問題ではなく、この愛する者への精神的な像に心から身を捧げることがすべてなのであった。(この時、彼の妻は、アウシュビッツ到着と同時にすでに殺されていた)彼は、人は愛する人の像を心に重ねることにより、あらゆる苦難にも打ち勝っていくことが出来るのだということを確信したのである。そして、この瞬間、彼は聖歌の中の一節「我を汝の心の上に印のごとく置け・・・そは愛は死のごとく強ければなり」という真理を心から悟ったのである。
 内面化の傾向は、自然や芸術への賛美にもなってあらわれた。ある時など、過酷な労働で疲れ果てバラックの土間に死んだように横たわっていた時、一人の仲間が飛び込んで来て、極度の疲労と寒さにもかかわらずに、ちょうど、彼の目に映った美しい日没の景色を見逃させまいと急いで出て来るように催促してきたこともあった。外に出てみると、そこにはバイエルンの美しい夕暮れの光景が広がっていた。燃えるような雲が青銅色から真紅の色に変化していく様は、まさにこの世のものとも思えぬ幻想的な芸術であった。感動の数分後、誰言うともなく「世界ってどうしてこんなに綺麗なんだろう」とタメ息まじりの声でつぶやくのである。自分たちの背後には、荒涼として灰色で泥だらけで殺風景きわまる収容所があるだけなのに。
 しかし、苦難と過酷な強制労働の日々の中、絶望と困難な外的状況を、内的な心の試練の時期と受け取れずに自らを放棄して低下していく者も少なくなかった。
 彼らは、以前の日常生活では、決して到達することの出来ぬ人間的成長をそこに見い出すことが出来なかった。
 内的に自己崩壊していった者は、自ら死を選んでいった。死ぬことは簡単だった。朝、点呼の時に監視兵目指して体当たりをするか、有刺鉄線の張られた鉄条網に突進するだけでよかったのである。
 たちまち、高圧電流で感電死するか、機関銃で蜂の巣にされるかのどちらかであった。
鉄条網は二重で高圧電流が流されていた。
 過酷な環境で生き抜くには、多くの人間に見られるように自らを放棄して貧しい生活をするか、少数ではあったが内的に勝利を得るかのどちらかであったと言えるだろう。
* 自己犠牲が意味するもの *
 収容所の囚人に未来の目的に目を向けさせることは、内的療法に一層の効果があると彼は感じていた。自己放棄と自己崩壊は、自分が信じていた通りに望みが叶えられない時に起こりうるもので、すなわち失望や落胆がその人間の心を打ち負かすのである。そのような時、病気にでもかかっていれば、身体の免疫力は極度に低下し死に至るのである。
 どのような生活でも、そこに何の内容も目標も持たぬ人間ほど哀れなものはない。つまり、頑張り通す意義もなく自分の存在意味は自ずから消えてしまうからだ。人生に何かを期待するのではなく、自分が人生から何を期待されているかという根本的な本質を知ることこそ、絶望の淵に沈む人間を救う唯一の手段であると彼は感じていた。そして、あることがきっかけで、彼らにそれを呼び掛けることで心理療法として試せる機会が訪れることになった。
 それは、身も凍るほどの寒い夜に停電したある日のことだった。運悪く、その日は食料を盗もうとした仲間がいた。しかし、彼をかばって誰もその者の名を言わなかったので、全員に一晩の食事抜きの罰が与えられた。ただでさえ、ひどい食事でありながらも、食事を抜かれるというのは、かろうじて生命を保っていた者には最悪の罰であった。完全な飢えは、何よりも人間を弱気にさせてしまう。絶えまない痛みが胃を襲い、いくら強固な意志でも簡単に崩れてしまうのである。それに加えてこの停電である。たちまち、仲間の不満は最高潮に達した。
 この時、仲間にとって、何かためになる話をしてくれないかと彼は求められた。何か、少しでも気が紛れ、出来れば心に希望をいだかせるような話をと懇願されたのである。仕方なく、彼は真っ暗の中で話をする羽目となった。話など到底できる気分ではなかったが、収容所にいる全員は、寒さに震え、飢えてぐったりしていらいらしていた。彼らは今やかつてないほどに救いを必要としていたのである。彼は何を話せばいいのかわからなかったが、とりあえず、思いつくままに、これまでの心理学者としての自分の体験の話をすることにした。なるべく説教臭くならぬように、出来るだけ詩人の言葉を引用したりして彼は語り始めた。暗闇の向こうには多くの仲間が彼の言葉に耳を傾けているはずであった。
 彼はまず最初に、今までに失ったものの中で、かけがえのないものとして失ったものが何かということから切り出した。・・・健康、家庭の幸福、職業的能力、社会的地位、財産・・・しかし、こんなものは・・・いずれ再発見して再構成できるかけがえのあるものである。少なくとも、我々はまだ生きている。生きている以上は、希望を持つ根拠が残されている。何人も我々が過去の生活で体得し実現化したものを奪い取ることは出来ないのだということを、彼は詩人の言葉を引用して語った。
 次いで彼は、生命の持つ多くの可能性について触れた。生命の存在は、無限の意味を持ち、苦悩や死をも含むものであるのだということを。例え、今、粗末な恰好をして、寒さに震えながらぼろ布にくるまり、みすぼらしく生きることを強いられていても、人間としての誇りと尊厳を何ら傷つけるものではないということ。また、如何に生き延びる可能性が少なく、確実に死が近づいていようとも、その死には意味があり、この世では何の意義も見い出せないように見える犠牲にも、友人、家族、生者、死者などの多くの人間と神の見つめるまなざしが常に注がれているということを語った。
 彼はそうして一つの例を出した。愛する人から苦悩を取り去る代わりに自ら苦悩と死を背負った男の話である。この男にとって、苦悩と死はただの苦痛ではなく、意味のある犠牲なのだった。これと同様に、我々も意味なくして苦しもうとはしない。我々がただ哀れに苦しむだけでなく、誇らしげに苦しみ死んでいくことは、我々を見守る多くの人々がそれを期待しているということ、すなわち、見込みのない絶望の中でこれを甘受し耐えうることは、究極の意味があるのだということ・・・彼は自分に言い聞かせるように一言一言くぎりながら、暗闇に向かって語り続けた。
 しかし、彼は、しゃべりながら自分の言ったことが、果たして、どの程度、彼らに伝わっているものか彼自身にも見当がつかなかった。ただ彼は、闇の向こうでかたずを飲んで自分の言葉に耳を傾けている仲間の気配だけを感じ取っていた。果たして、自分の話す内容で彼らの心にどの程度勇気を与えることが出来るものか自信がなかった。しかしまもなく、彼は自分の考えていたことが全くの思い過ごしであったことがわかった。ようやく電灯が灯り、粗末なバラック内が見渡せるようになった時、彼が見た最初の光景・・・それは、目に涙を一杯ため・・・感謝を言うためによろめきながら・・・彼の方ににじり寄って来ようとするみすぼらしい仲間たちの姿なのであった・・・
* 人としての尊厳を信じて *

 彼は、収容所内での監視兵の心理についても述べている。血も肉もある人間がどうしてこれほど残酷になれるのかということである。

 第一には、監視兵にはとりわけ強度のサディストが求められていたということである。この種の人間は、人々から喜びを奪い去り、虐待を加えることにこのうえない享楽を感じるタイプであった。また、監視兵の大部分は収容所内のサディスト的行為を見続けていたために無感覚になり、道徳的に麻痺してしまっていたということである。

 しかし、ナチスに所属する人間のみがそうではなく、人間の善意と悪意は、あらゆる人間に見られるのである。例えば、ある収容所の親衛隊の司令官は、囚人のために密かに自らのポケットから多額な金を出して町医者から医薬品を買い入れさせていたという事実があった。逆に、この収容所の囚人の代表は、ものすごい冷血漢で、収容所内の監視兵全部を合わせたよりもひどく、時と場所を問わず、同じ仲間のはずの囚人を罵倒しては殴打を繰り返していたという。一方、親衛隊の司令官は、一度も囚人に対して手を上げたことすらなかった。

 また、ある監視兵は、強制労働の合間に励ましの言葉とともに、ソッとパンの小片を彼に手渡したこともあった。その監視兵は自分の朝食からわざわざそのためにパンを倹約しておいたのである。それを知っていた彼は、パンをもらった物理的行為にではなく、監視兵の見せた心暖まる行為に感動し思わず涙したという。これらのことからも、彼は、この地上には二つの人間のタイプ、つまり品位のある人間とそうでない人間が存在し、あらゆるグループに入り込み混在しているのだということを述べている。
 戦線はその後も少しずつ近づいてきた。戦争が始まって6度目の冬が来た時、アウシュビッツ内に発疹チブスが大流行した。
 まもなく戦争が終わるという頃になって、多くのユダヤ人が虚しく命を落としていった。
 アンネの日記を書いたアンネ・フランクもこの時死んだ。15才と9か月いうあまりにも短い生涯であった。
アンネ・フランク(1929〜1945)ベルゼンにて死亡。アンネの日記は、世界中で翻訳され、人々を涙と感動の渦に巻き込んだ。
 皮肉にも、その時、遠くにソ連軍の重砲の音が鳴り響き、まもなく救出作戦が始まろうとする前夜であった。彼女の家族で生き延びることが出来たのは、父親のオットー・フランクただ一人だけであった。
 収容所が解放された時、人々に喜びの表情はなかった。恐怖と単調で過酷な強制労働が人々から感情を奪い去ってしまった結果、石のような無表情に成り果ててしまったのである。しかも、救出された後でも、人々は力尽きて目の前で次々と死んでいった。
 絶滅収容所の恐怖の真相については、長い間、一般のドイツ人でさえ知ることはなかった。例え、一部の情報が漏れても、そのような恐ろしいことは絶対あり得ないとか絵空事であると片づけられていたのである。
 しかし、現実は全く違っていた。そこでは、決してどんな表現を使っても十分ではない恐怖が存在していたのだ。
 まさに国家的規模で行われた精神病行為がそこにあった。阿鼻叫喚の地獄絵図が、毎日、当然のことのように繰り広げられていたのである。
収容所が解放された時、連合軍兵士の見たものは、石のような表情の囚人たちだった。フランクルの言う内的に死滅してしまった結果、喜びをなくしてしまったのである。
 第ニ次大戦中の6年間に、約600万のユダヤ人がアウシュビッツ始め各地の収容所で虐殺されたと言われている。それは、ヨーロッパ全土にいたユダヤ人の72パーセントに相当するのである。また、この間、4千万人の兵隊が世界中の各地の戦場で死んでいった。民間人の被害もそれに劣らず4千万以上が命を落としたと言われている。
 今、アウシュビッツ強制収容所は博物館となっている。人間の持つ底知れぬ恐ろしさと愚かさを象徴する記念碑として、博物館は永久に保存されることだろう。そこに行けば、今でも、20世紀に現実に起きた凄まじい殺戮の跡と人間の狂気が持たらした歴然たる恐怖の証拠を見ることが出来る。
 我々は強い信念のもと、不断の監視を怠らず、常に自らの弱さを認識し、心の奥底にひそむ悪魔と戦っていかねばならない。ふたたび悪魔が地上にはびこり、人間が人間でなくなることのないように。そして二度とこの悲劇を繰り返さぬためにも・・・

 アウシュビッツの墓碑銘には今もこう刻まれている。
   「過去を忘れた者が再び同じ過ちを繰り返す」と・・・

 トップページへ
* ユダヤ人の殺戮数、強制収容所の内部の様子などは、フランクル著「夜と霧」のデータを参考にしています。
アクセスカウンター

inserted by FC2 system