スターリングラードの悲劇
〜ドイツ壊滅の序曲となった独ソ戦の天王山はなぜ起きたのか?〜
* ヒトラーの雄大な野望 *
 1942年の夏、まもなく、一大決戦の火ぶたが切って落とされるという噂に、ロシア南部の住民の間に動揺が広がっていた。
 ソ連侵攻作戦が失敗に終わり、前年の敗北から立ち直ると、ヒトラーは新たな作戦を考えるようになった。宿敵ソ連を一挙に片付ける方法、それは、ソ連の血液とも呼べる石油の輸送ルートを断ち切ることであった。ソ連にはただ一つの泣き所、つまり、アキレス腱にも相当するものがあった。それは、巨大な軍事力のほとんどすべてを一カ所からの石油に依存しているという事実であった。
 ソ連は、コーカサスにあるバクー、マイコフ、グローズヌイの油田群に頼っていたのである。もし、コーカサスにあるこれらの油田地帯の占領に成功すれば、ソ連の巨大な軍事力は、動力源を失うことになり、間違いなく弱体化し崩壊するであろう。つまり、水を断たれた大木のように枯渇し、朽ち果ててしまうだろうと予想されていた。しかも、そうなれば、ドイツは、逆に長期戦に備えることの出来る莫大な資源を確保することが出来るのである。
 ヒトラーは、ドイツ軍がこの作戦に成功すれば、様子見を決め込んで中立を守っているトルコを枢軸側に引っぱり込めるかもしれないと考えていた。そうなれば、ドイツの勢力はペルシアまで進出することが可能となり、イラン経由でアメリカからソ連へ送られる物資の補給路を遮断することが出来る。同時に、中東の油田地帯とスエズ運河を手に入れることも可能となり、アフリカで今まさに奮戦中のロンメル軍団とともにイギリス勢力を一掃できるのだ。そして、枢軸のもう一つの友邦国、日本とインドで手をつなぐことも夢ではなくなる。その後は、軍を北上させ、麻痺して満足に動けなくなったソ連軍を尻目に、モスクワ、レニングラードの順で壊滅させていけばよい。総仕上げは、ドイツ軍の攻撃を避けて、安全地帯にまで疎開したウラル彼方の工場群をたたき潰ぶすことであった。
 雄大で野心的なこの考えに、ヒトラーは自己陶酔し眼をぎらつかせた。
 彼が見つめる地図上には、赤で何重にもチェックされた一つの都市が映っていた。
 大きくうねってカスピ海に注ぐボルガ川はソ連の動脈にも等しいものであった。ここには、毎日のように、コーカサスの油田地帯から、石油を満載したタンカーが、忙しそうに多数往来していたのである。
将軍たちとともに、作戦を練るヒトラー、会議室は禁煙で、ヒトラーの好みに合わせて摂氏11度ほどに調節されていた。会議は長時間にも及ぶことが多く、あまりの寒さから持病のヘルニアを悪化させた将軍もいたという。
 その西岸に位置する都市、スターリングラードこそ、この計画を可能にする鍵を握っていたのであった。
 まさに、スターリングラードは、石油を満載したタンカーの重要な中継基地であるばかりでなく、鉄道輸送の一大中継基地にもあたっていたのである。言わば、水陸での大補給基地であった。宿敵ソ連の息の根を止めるには、スターリングラードを落とし補給ルートを断つこと。どうしても、この都市を押さえねばならない理由がここにあったのである。そのために、ヒトラーが集めた兵力は、途方もなく巨大なものになった。その兵力は実に5個軍、89個師団にも相当するもので、兵員数で言えば、120万、火砲1万、戦車4千両、航空機3千機にもなり、これは、東部戦線に展開していた全ドイツ軍の70パーセント以上に匹敵する巨大な軍事力であった。
 こうして、ヒトラーはこの都市に特別な感情を抱いて、のめり込んで行くことになる。もはや、前年の失敗で将軍たちを信頼していないヒトラーは、自らの手で作戦の詳細を書き上げ、総統指令第41号として全軍に発令した。それによると、「使用可能な全兵力をロシア南部に集中し、この方面の敵軍を撃破殲滅し、コーカサスの油田地帯を奪取せよ。いかなる犠牲を払おうとも、スターリングラードを攻略し、この都市を永久に地図上から抹殺すべし」という恐るべき内容であった。
 かくして、スターリングラードの攻防戦こそが、第二次大戦の行方を決定づけた重要な戦いとなっていくことになる。しかし、この戦いこそが、第二次大戦を通して、最も過酷で悲惨な戦いになる運命にあった。
* 作戦開始! *
 42年、6月下旬早朝、何千という大砲が一斉に砲撃を開始した。遠くの地平線の彼方で、真っ黒い煙が幾筋も立ち上っているのが見える。しばらくすると、ドォン、ドォンと腹の底に応えるような地響きにも似た音が響いて来る。二十数キロ向こうにある対岸沿いのソ連軍の陣地に重砲弾が着弾しているのである。
 空を見上げれば、空を覆い尽くすほどのものすごい数の爆撃機が、編隊を組んで渡り鳥の大群のように整然と東の方向に飛んで行くのが見える。それと前後して、地上では、戦車を先頭にドイツ軍が行動を開始した。
 いよいよ作戦の開始だ。攻略軍は3つの集団に分けられていた。
 最も北の集団はドン川を渡河し、スターリングラード手前のソ連軍を殲滅し、そのままスターリングラード攻略に向かう。
 中央の集団は、南下してコーカサスの油田地帯の占領に向かう。
1942年、6月、ドイツ軍は前年の失敗を取り戻そうと、再び活動を開始した。精鋭部隊を先頭に3方向からの大奇襲作戦であった。
 一番下の集団は、クリミア半島を制圧し、後顧の憂いを消した後、速やかに本隊に合流して行動することになっていた。
 作戦は、最初、順調で快進撃を続けた。ドイツ軍将兵に楽観的なムードがみなぎり始めた。この分では、クリスマスまでには、目標を達成して本国に帰ることが出来るだろう、と誰もが考えていた。
 爆撃機の大編隊が、連日、猛爆撃を加えたため、スターリングラードは瓦礫と化していた。
 ほとんど抵抗らしきものも受けることなく、ドイツ軍は、廃墟と化したスターリングラードの一角に突入する。
 スターリングラードの占領は、パウルス大将の指揮するドイツ第6軍に委ねられていた。この軍団は、歩兵を中心とした精鋭部隊で、かつてヨーロッパを破竹のように席巻した電撃戦の立役者でもあった。
猛爆撃によって、黒煙をあげるスターリングラード市街。
* 頑強なソ連軍の反撃 *
 ところが、それからまもなくして、ソ連軍の抵抗は次第に激しくなり、ついに、建物一つ取るだけでも大変な困難を伴うようになってゆくのである。8月25日がスターリングラードの完全占領の期日に決められていたが、皮肉なことに、その日を境に、ソ連軍の抵抗は信じられぬほど頑強になり、ついには、びくともしない一枚岩のようになってしまった。
 わずか、数メートルの土地を取るために、考えられない死者が出始めた。わずか4日ほどの戦闘で1万人ほどの将兵が跡形もなく消滅してしまうこともあった。戦闘は街の一角、一つの建物を奪い合う肉弾戦になった。路地と路地を挟んで、わずか十数メートル先の建物には敵がいるのである。どこから敵の狙撃兵が狙っているかわからなかった。長時間の窮屈な姿勢に我慢できずに、ほんの少し体の姿勢を変えたり、手を上にかざしたために、指を失ったり眉間を撃ち抜かれた者も多数いた。薄暗い穴から穴へ、狭い路地から路地へ、廃墟となった建物の中で、息を潜めて殺し合う様は、まるでネズミの戦争のようであった。
 あるトラクター工場での戦闘は酸鼻を極めた。煙幕弾が張られ、ドイツ兵が一斉に突撃するが、たちまち、どこからか機関銃が火を噴き、5分足らずの間に、数百人のドイツ兵が蜂の巣にされてバタバタと倒れた。
 工場周辺には、3千人を越えるドイツ兵の死体がそこら中に散乱していたが、これだけの犠牲者がわずか1日分の戦闘で出るのである。決死隊が潜入して機関銃座を爆破しても、ソ連軍は二階に逃げ込み、そこから射撃して来る。多大な犠牲を出して皆殺しにしていくが、今度は、ソ連兵は地下に逃げ込んで最後の一人まで抵抗するのである。
激しい市街戦の様子、どこから狙ってくるかわからない。建物から建物へ銃を持って突撃するソ連兵士。  そうした敵を火焔放射器で丹念に焼き払って行くのは至難の技であった。それでも、焼けただれた死体の間に身を隠して応戦して来る様は、まさに阿修羅そのものであった。
 戦闘は、アリの巣のように張り巡らされた地下水道内でも行われた。凄まじい銃撃戦が、真っ暗闇の中で行われた。目もくらむような閃光が走り、耳のつんざくような銃声が狭い水道内で鳴り響いた。ここには、多数の女子供がボロにくるまって避難していたが、人が潜んでいそうな窪みは、容赦なく火焔放射器が突っ込まれて焼き払われていった。
 火焔がゴォー!ボォー!と気味の悪いうなり声を上げて長く伸び、洞窟の隅々まで焼き尽くし、生きとし生けるもの、すべてを焼き殺していくのである。後には、老人、子供、赤ん坊を抱えた女性などが、見るも無惨な焼けただれた死体となって汚水に浮かんでいた。
 市街戦は凄惨を極め、地獄の様相を帯び始めた。ここでは、ジュネーブ協定など存在せず、降伏することも捕虜になることもあり得なかった。ソ連兵は、ドイツ兵を殺すことのみに喜びを感じているかのようであった。例え、赤十字をつけていようが、捕らえられたりしたらおしまいなのであった。特に、将校は針金で縛られて、拷問された上、念入りに殴り殺された。遺体はすべて醜く赤黒くボールのように膨れ上がっていた。撲殺しても、まだ腹の虫が治まらぬのか、手足をバラバラにされている遺体もあった。一方、ドイツ軍の方でも、ソ連兵を人間とは思っておらず、害虫を駆除するかのように虫ケラのごとく焼き殺していった。
 占領の期日をとうに過ぎても、一向にはかどらないことに苛立ったヒトラーは、あらゆる兵力を手当たり次第に投入し始めた。ベルリンからは、市街戦専門に訓練された部隊が到着しては矢継ぎ早に投入された。
 最後には、予備の兵力もどんどん投入された。もはや、ヒトラーの頭の中には、当初の目標などどうでもよく、スターリングラードを地上から消滅させてしまうことの方が大事であるかのように思われた。
 一方、ソ連の独裁者スターリンも、自分の名のついたこの都市で負けるわけにはいかず、双方ともに、一歩も引くことなく、持てる兵力のすべてをつるべ打ちに投入していく結果となった。まさに、東西の独裁者同士の意地とメンツのぶつかり合いに発展していったのである。
ベルリンから新しい部隊が到着しては、市街戦に投入された。
* 罠にかかったドイツ軍 *
 ヒトラーがスターリングラードに目を奪われ占領に躍起になっている頃、ソ連軍は秘密裏に一つの作戦を遂行中であった。それは、ドイツ軍の背後に回り込み、補給を分断してしまおうというもので、そのために徹底的な無電封鎖を行い、昼間は息を潜めて身を隠し、夜間に大部隊を移動させていた。その奇襲作戦は2ヶ月以上もかけて用意周到に準備されていたものであった。
 枢軸側には、どうしようもない弱点があった。それは、イタリア、ハンガリー、ルーマニアと言ったドイツの同盟国の軍隊がドイツ軍に比べて、装備も悪く士気も低い上に脆弱であることであった。
 おまけに、これらの同盟国は、ドイツ軍と仲が悪いと来るので、中に割って入って補強することもままならぬ状態であった。
 スターリングラードに突入したドイツ第6軍の側面と後方には、こうした頼りにならない脆弱な同盟国の部隊が細長く伸びて、400キロほどもある広い戦線を受け持っていたのであった。
作戦会議を練るソ連参謀本部、スターリングラードのドイツ軍を攻略したのはエレメンコ大将(右端)で、スターリンの信望の厚い有能な将軍であった。
 したがって、手薄なこれらの一カ所でも突破されると、たちまち第6軍の補給が断たれる危険があった。
 実際、ヒトラーに150万以上のソ連軍に予測できない動きがあり、我が軍の後方の補給ルートが危ないと申告した将軍がいた。しかし、報告を聞いているうちに次第に不愉快になって来たヒトラーは、途中で将軍の言葉をさえぎり言った。「もう、それ以上、くだらぬ戯言は言うな。ソ連にそのような力は残っておらぬ。貴様は、敗北主義者だ。現段階において、必要なことは国家に対する忠誠心と遂行義務だけだ」そうして、この将軍は即刻解任されてしまった。
 こうした傾向は、日増しに激しくなり、もし、少しでもヒトラーの機嫌を損ねると、解任されるか、とんでもない場所に左遷される恐れがあった。ある将軍は、ヒトラーの機嫌を損ねて、怒鳴り散らされた挙句に、誇大妄想だとして精神病院送りにされてしまった。こんな風であったので、もはや、誰も怖がってヒトラーの機嫌を損ねるようなことを口にする者はいなくなってしまった。そのため、周囲にいるのは、ヒトラーの言葉をおうむ返しに実行する操り人形のような将軍ばかりになってしまったのである。第6軍を率いていたパウルス大将も、こうした1人で、ヒトラーの命ずるままに軍隊を動かす男であった。
 しかし、11月19日、恐れていたことがついに現実になった。ソ連軍は、100万以上の大兵力で、スターリングラードの両サイドから、枢軸同盟の弱点とされるルーマニア軍を狙い打ちにし大攻勢に出てきたのである。
 予期せぬ大攻勢に、ルーマニア軍は慌てふためき、気がついた時には、脆弱なルーマニア軍は木っ端微塵に粉砕されており、ソ連軍は堤防が決壊した大洪水のように、スターリングラードを周囲から包み込んでいった。
 そして、3日後には、東西50キロ、南北40キロの大包囲網を完成させてしまったのである。こうして、第6軍はソ連軍に包囲され孤立することになってしまった。
 この時、パウルス大将は、弾薬は戦闘2回分しかなく、食料は12日分しかないと緊急の要請を打電してきている。
 しかし、事態のあまりの急変ぶりに、ドイツ最高司令部は、具体的な救援策を考えることが出来ずに時間だけが空しく経過していった。
ソ連軍反撃を開始。ソ連軍は、2ヶ月もの準備期間の末、スターリングラードの両側より、満を持して大軍をなだれ込ませた。
 そうして、膠着状態のまま、再びロシアの冬将軍が到来した。最初、ソ連側は8万名ほどのドイツ軍を包囲したものと考えていた。
 ところが、ソ連側は知る由もなかったが、捕らえた相手は想像以上の大物であった。
 この包囲網の中には、ドイツ第6軍の他、さまざまな部隊、ルーマニア、ブルガリア、イタリアなどのドイツの同盟国の軍隊も含まれ、その数、実に33万人を越えていたのである。
* 救出のタイミングを逸す *
 やがて、救出作戦が考案された。それは、スターリングラードの内と外から同じ方向に向かって進撃して、突破口をつくろうとするもので、それは、それぞれの異なる2カ所から穴を穿って、途中で一つにするトンネルづくりのようであった。一本につながった瞬間に、この通路から3千トンの補給物資をピストン輸送しようというものであった。そのために、コーカサスに向かった集団から、新鋭のタイガー戦車隊が引き抜かれることになった。
 この救出作戦は、冬の嵐作戦と命名され12月1日に開始される予定だったが、過酷な自然条件に加えて、部隊の到着が遅れたために、刻々として進まず、それから2週間も延期された上で開始された。その間、状況はどんどん悪化し望みは急速に減っていったが、それでも、何とか12月21日には、救出任務を帯びた戦車隊は、スターリングラードまでわずか35キロの地点にまで肉薄していた。この近さだと、夜間になると、ひっきりなしに打ち上げる友軍の照明弾が双方から仰ぎ見ることの出来る距離である。今や、第6軍にとって、最大の救出のチャンスが到来しようとしていた。この時、全力を傾ければ、脱出することが出来たであろう。最高司令部のマンシュタイン元帥は、パウルス大将に、今こそ脱出するべきだと何度も打電した。
 ところが、パウルスは、動きたくても燃料がないと言う理由で動くことをしなかった。真の理由は、無断で撤退したために、後になってヒトラーの怒りを買うことを恐れていたのである。この時、ヒトラーは踏みとどまって、あくまで戦うことを命じていた。結局、パウルスのこの優柔不断が、第6軍の将兵の運命を決めることになった。48時間後には、100万のソ連軍が、ドイツのもう一つの頼りにならない同盟国、イタリア軍を撃破して進撃してきたため、救出が絶望となるからである。前線に大穴が開いた以上、もう第6軍の救出どころではなく、うかうかしていると、全ドイツ軍が包囲され袋のネズミになる恐れがあった。イタリア軍は算を乱して敗走していた。救出軍は、急きょ、進路を変更して、この足手まといの同盟国を援護すべく現場に駆けつけるしかなかった。35キロまで肉薄した救出部隊は、またたくまに100キロ彼方まで押し返されてしまった。こうして、貴重な救出のタイミングは永久についえ去ったのであった。
 激しい寒さの中、包囲されたスターリングラードのドイツ軍の将兵は、孤立したままクリスマスを迎えねばならなくなった。やがて、1943年が明けようとする頃、兵士たちは雪を溶かしてドイツのお茶をつくり、つかの間の新年を祝った。
 ドイツ空軍元帥だったゲーリングは、第六軍に食料、弾薬を空輸できると大見栄を切っていたが、これだけの大部隊ともなると、日量750トンの物資が必要なのに、その半分にも達したことがなく、それも2か月後には30トン以下にまで減ってしまう有り様であった。
 今や、食料、弾薬、燃料はほとんど底を尽き、ドイツ軍の将兵全体に、絶望と死の恐怖だけがつきまとうようになった。
独裁者の意地と優柔不断な指揮官のために犠牲になった将兵。多くの者が飢えや凍傷で死んでいった。
 もはや戦闘などするどころではなく、その日その日をいかに生きていくかだけが最大の問題なのであった。 
* 第六軍壊滅す *
 脱出の望みが消え去った今、せめて生き残った将兵の命を救いたいと、マンシュタイン元帥がヒトラーに降伏を認めるように要請しても、ヒトラーは降伏など絶対にあり得ないと言い張っていた。
「降伏などもってのほかだ!新しい防衛線を築くまで、第6軍は西欧世界の礎(いしづえ)となり、全員陣地を死守して玉砕するのだ。降伏は絶対に許さん!」こうしたセリフを言う時のヒトラーは、ますますいきり立ち、狂気に満ちた目を見開き、怒りにまかせて机を拳で何度もたたきつけるのであった。
 全く、無意味、無益であるばかりか、現実ばなれした不可能な命令であった。ここに至り、1943年2月2日、パウルスは独断で降伏することを決意した。ヒトラーの操り人形同然だった男が、ついに自らの意志で決断したのである。しかし、それはあまりにも遅すぎる決断であった。
 この戦いで9万1千名がソ連軍の軍門に下ったと言われている。生き残った者たちは、長い長い列をなして、徒歩で収容所まで歩かされた。
 そこには、かつて欧州を破竹のごとく席巻した精鋭部隊の面影はなかった。
 彼らは、ソ連兵士の銃の台尻で殴られ殴られ、凍傷で傷ついた足を引きずりながら、収容所までの長い道のりを、ひたすら歩かされたのである。
 途中で歩けなくなった者は、そのまま見捨てられた。見捨てられた者は、まもなく殺されるか、屍となって朽ち果てるのである。
降伏文書の署名にあらわれた第6軍司令官パウルス大将(降伏直前になって元帥に昇格)
 かつての上官が、「見捨てないでくれ! 俺を一緒に連れて行ってくれ!」という助けを求める悲壮な声も、荒廃した大地に空しくかき消えていくだけであった。
 もはや他人に関心を払う者などなく、誰の耳にも聞えぬようであった。
 しかし、彼らにも悲惨な運命が待ち構えていた。収容所についてまもなく、発疹チフスが大流行し、ほとんどの者が死に絶えるからである。
降伏したかつての精鋭兵士たち、この後、ほとんどの者が生き長らえることすら出来なかった。
 生き抜いた者も、強制収容所内での過酷な重労働が待っていた。戦争が終わってからも解放されず、祖国ドイツに帰ることが許されたのは、数年も経ってからで、それもわずか5千人足らずに過ぎなかった。最初、33万人以上もいた大軍団がことごとく死に絶えたのである。あまりの悲劇の大きさに言葉も出ないとはこのことを言うのであろうか。戦後、スターリングラード市内から掘り出された遺体は、ドイツ兵のものだけでも18万体以上もあったと言われている。
 第二次大戦が始まると同時に、電光石火の勢いでポーランドを下して世界を驚嘆させ、次いでフランスをも征服し、ヨーロッパを破竹のごとく席巻してドイツを勝利に導き、向かうところ敵なしと言われたドイツ軍の最精鋭部隊はこうして消滅していったのであった。
* 総力戦へ〜崩壊への序曲〜 *
 かくして、スターリングラードの悲劇は幕を閉じた。翌日、べルリンの放送局は、この事実を国民に伝えた。「第6軍は、最後の瞬間まで戦った。しかし、敵の圧倒的兵力の前に健闘も及ばなかった」続いて、重々しくベートーベンの第5交響曲「運命」が流れた。その旋律は悲壮感に満ち、荒廃したロシアの原野にまで響いていくように思えた。その日、ベルリンの総統官邸では、ヒトラーが思い詰めたように、数時間もそのままの姿勢で、自分の指先をじっと見つめていたという。
 この戦いで、ドイツは、150万人以上の兵士の他、かけがえのない何千という大砲や戦車、航空機を失った。これはドイツの年間生産量の6割強にもあたるものとされ、75個師団を装備するに値する兵力であった。全く、取り返しのつかない大敗北であった。結局のところ、ヒトラーはコーカサスの油田地帯もスターリングラードも手中にすることは出来なかった。彼は二兎を追い過ぎたのである。トルコを枢軸側に引っ張り込み、イランに抜けてイギリス勢力を駆逐し、さらに中東の資源を手に入れ、インドで日本と手を結ぼうとした雄大な野望も露となってはかなく消え去ってしまった。
 スターリングラードの敗北後、ドイツには、もう、攻勢に出る力は残されていなかった。ヒトラーは予備の駒もすべて使い果たしていたからである。後は、場所も時も選ぶことも出来ずに、ただ、連合軍の都合に合わせ、相手の決めた戦場で、引きずられるようにひたすら守勢一方に回らねばならなかった。しかし、こうした悲劇も、ドイツ国民にとっては、もっと、恐ろしい運命が起こる序曲に過ぎなかった。
 スターリングラードで破れて2週間後、ゲッペルスは、国民の前に姿をあらわし総力戦を訴えた。
「諸君は、降伏を望むか?」
 このゲッペルの問いかけに国民はいきり立って、「ナイン(否)!」と答える。誰しも、20数年前の屈辱を二度と味わいたくなかったのである。ゲッペルスは叫ぶ。
「諸君は、総統に従い、例え、いかなる犠牲を払おうとも、我が神聖なるドイツから敵を蹴散らし、勝利の日まで戦い抜くことを誓うか?」
宣伝大臣、ヨゼフ・ゲッペルス博士、敗色濃厚になってからは、ヒトラーに代わって、国民の前に姿を見せた。 「オー!」ゲッペルの問いかけに答えるように、怒濤のような民衆の叫びがこだまする。
「いざ、国民よ、立て! 今こそ、嵐を巻き起さん!」
 国民は、ゲッペルスの巧みな演説に陶酔し、熱狂的になって割れんばかりの拍手で答える。しかし、それは、もはや後戻りの出来ない恐ろしい選択でもあった。

 この時、まもなく、生活そのものが戦争と一体化し、凄惨な本土決戦となることを予想した者はまだ誰もいなかった。やがて、子供や女性、老人までもが駆り出され、押し寄せる戦車の大群の矢面に立たされる日が来るのである。無差別爆撃によって、ドイツの各都市が瓦礫と変わり果て、そこら中に死体が散乱し、女子供までが戦車のキャタピラで無惨に踏み潰される悲惨な現実が来ることを・・・・

 トップページへ
アクセスカウンター

inserted by FC2 system