東京大空襲
〜10万人が死んだ東京大空襲の真実〜
 その夜は早春とは言え、ものすごい北風が吹き荒れる身も凍るような寒い夜だった。この日、空襲警報は夕方と夜の計2回、人々はもう今夜の空襲はないものと思いようやく寝静まろうとしている頃であった。この時、まさに人々を地獄の底に突き落とす死神が近づいていることをまだ誰も知らない。
「まもなく爆撃コースに入る」
「OK、チャーリー・ワン、奴らの目は潰した。ちょろいもんだぜ」
「ジャップの飛行機はろくなのがないな。やつら種切れらしいぜ。後はまかせる」
「帰ったら、スコッチをおごれよ」
「ラジャー!」
* 逃げ惑う人々 *
 その家族は、父親は兵士として出征中で、23才の妻とようやく3つになった長男、生まれたばかりの赤ん坊の3人暮しである。時刻は午前12時を少し過ぎたばかり。長針はまもなく15分を示そうとしていた。突如、家中の家具や食器がカタカタと振動し始めた。地鳴りのような不気味な重低音が次第に大きくなって来る。
「空襲だ!空襲だ!」外で誰かが叫ぶ声が聞こえる。
「カン!カン!カン!・・・」遠くで狂ったように鐘が打ち鳴らされている。
 真っ暗な中、若い妻は急いで防空頭巾をかぶると、赤ん坊を背中にしょって、おむつやミルクなどを急いでかき集めて袋に押し込んだ。両手で眠気眼をこすっている男の子にも防空頭巾をかぶせると、あわただしく手を取って戸外に飛び出す。外に出ると火の粉がそこら中に舞っている。すでにあたりはどこもかしこも炎と黒煙で凄惨な火炎地獄と化していた。
「ドカン!ドカン!」遠くで何かが落ちたのか、けたたましい炸裂音や爆発音がひっきりなしにこだまする。「ゴーン、ゴーン」頭上で金属的な鈍い音がする。見上げると、炎に焦がされた赤インクのような夜空に、巨大なクジラのようなB29の青白い胴体がくっきりと浮かび上がっているのが見えた。路上には、すでにリヤカーや荷車などに混じって逃げまどう多くの人々で身動きが取れないほどだ。
 背中で泣き出した赤ん坊をあやしながら、彼女は逃げる場所を考えていた。
「逃げろ!死ぬぞ!」「早く!早く!」人々のどなり合う声が聞こえて来る。ものすごい風に煽られて熱風が横から激しく襲って来る。火の粉が渦を巻くように押し寄せてくるので目を開けていられない。彼女は男の子の手を引っ張って、人々の群れに押し流されるように川沿いの斜面を下っていく。
 転がるようにたどり着いた先は土手であった。しかし、そこも逃げ場を失った人が大勢いて立錐の余地もない。その時、急に何かが降って来た。ゴシッという音がして、たちまち何人かの人々がゴーと燃え上がった。
「キャー、熱い、熱い!」ある女学生は、火だるまとなり、絶叫にも近い悲鳴をあげて激しく地面をころげ回る。しかし次の瞬間、女学生は黒焦げとなって動かなくなってしまった。落ちて来た焼夷弾に背中を突き刺さされ、シューと青白い火花を散らせながら、まるで虫ピンで止められた昆虫のように、死にきれずに地面をのたうち回っている男もいる。その光景をすぐ横で、小さな女の子が目を見開いたまま恐怖で引きつり声も出せずに呆然と立ちすくんで見つめている。
 突如、息が出来なくなる苦しみに、人々は身悶えしながら地面に這いつくばった。彼女は背中の赤ん坊を胸に抱くと、男の子を自分の方に引き寄せて地面にうずくまった。そうする他なかったのだ。あまりの熱さに空気さえ燃え出すような高温だ。シューシューと地面から音がして湯気が立ち上っている。道路の表面がメラメラと燃えていた。
「おかあちゃん! 怖いよ!」耳もとで男の子のおびえきった叫び声が聞こえる。「大丈夫よ。お母ちゃんが守ってあげるからね」よつばいになった恰好で、彼女はそう言うと、男の子の手を取って自分の方に引き寄せた。すぐ耳元で激しく泣き叫ぶ赤ん坊の声が聞こえて来る。
 その時、頭上で何かがバラバラと落下して来るのを感じた彼女はしっかりと男の子の手を握った。防空頭巾の下から恐怖でまん丸くなった目で見上げる男の子の顔が炎で赤く染まっている。怖いのか母親のえりもとをしっかりつかんでいる赤ん坊の小さな手のひらも見えた・・・しかし、それが彼女の見た最後の光景であった。
* 凄惨な焦熱地獄はこうしてつくられた *

 1945年3月10日に行われた東京大空襲は戦闘に関係のない民間人を狙った、史上まれに見る卑劣な蛮行であった。その方法は、焼夷弾を満載したB29の大群を地上すれすれに、それこそ地上をなめるように飛来させ、雨あられと焼夷弾の束をばらまいて行くというやり方であった。
 B29の集団は、まず帝都の四方から焼夷弾の雨を降らせ、巨大な火の環をつくりあげた。そうして、火の壁で人々が逃げ出せないようにしておいてから、今度はその中心部に焼夷弾をばら巻き、人々の無差別虐殺を決行したのである。こうして東京の下町一帯は火の海と化した。しかも、おりからの風速20メートルという強い北風に煽られた火災は巨大な火炎地獄と化し、想像を絶する凄惨な焦熱地獄を地上につくりあげることとなった。
 しかも、アメリカ軍はこの空襲を完全な奇襲とするために、いろいろと手の込んだやり方で下準備をしておくことを忘れなかった。数機のB29がおとりとして使われ、何回か東京上空に侵入しては退避を繰り返し、市民にもう今夜の空襲はないと思わせておいた。そうして、人々が安心しきって寝込んだところを襲ったのである。
 まず手始めに、数機のB29が上空から大量のアルミ箔を空中に巻き散らした。これによって、お粗末な日本のレーダーは完全にその機能が停止してしまった。
 サーチライトが幾筋か上空に向けられたが、待機していた何機かが、サーチライトの光源に向かって機関砲弾を浴びせて沈黙させてしまうという手際のよさであった。
 こうして、大虐殺を始める前に、帝都の目と耳を完全に潰しておいたのである。全く抜け目のない見事なまでの念の入れようであった。
本隊が来襲する前に、少数の何機かが侵入したが、彼らは探照灯をつぶし、レーダーを撹乱しておくのが役割であった。かくして奇襲の準備は整った。
 大虐殺の任務をになう本隊のB29の大集団は、その頃、東京湾を海面すれすれに飛来して帝都に忍び寄っていた。東京上空に入ると、エンジンを止めてグライダーのように滑空する機もありで、ほぼ全機がそれこそ電柱にも触れんばかりの超低空から侵入し、焼夷弾の束を投下し始めたのである。空襲は最初から一般市民を殺傷することを目的にしていたため、通常弾ではなく殺傷能力の高い焼夷弾のみ搭載していた。その搭載量は全機合わせると約38万発、2千トンにものぼる量であった。
 焼夷弾とは、木造の家屋を焼き払うために考案された爆弾で、120キロほどの重量がある。これが投下されると、地上700メートルほどで38本の小型の焼夷弾に分裂して地上へ降り注ぐ仕組みになっているのだ。子弾は直径5センチ、長さ50センチほどの細長い筒状で、中には黄燐(おうりん)、テルミット、油脂などが詰め込まれている。
 テルミットとは、マグネシウム、アルミニウム粉、酸化鉄などの混合剤で、いったんこれに火がつけば、3千度もの高熱を発し鉄板ですらたやすく溶解してしまう。黄燐は火災を拡大せしめる他、百メートル四方に燐片を飛散して有毒ガスを出す。その毒性はものすごく人体を冒して骨まで腐食させる恐ろしい物質だ。

 これらはものすごい速さで垂直に落下して来るが、地上に激突すると衝撃で爆発し白銀の炎となって周囲に飛び散り、あたり一面を火の海に変えてしまうのである。その範囲は数十メートルにも達し、もし、引火して服に燃え移ろうものなら、水はまったく受け付けず、もみ消すことなど不可能に近い。あっと言う間に強烈な火災となって体を焼き尽くすのである。このため、多くの人々が生きたまま火だるまとなって死んでいったのである。

* 10万人がわずか2時間で死んだ *
 その焦熱地獄は、生き残った人の証言によれば、身の毛もよだつ壮絶な生き地獄であった。大量の焼夷弾のために高温と化した大気は、普通では考えられない恐ろしい現象を引き起こした。そこでは、火が物に燃え移るのではなく、空気中を伝染するかのように、あらゆる物が湯気を出し始めて、突如として燃え上がるのである。それは鉄柱さえも飴のようにグニャグニャにしてしまうほどの超高温の恐ろしい世界だったという。消防車はあるにはあったが、これほどの大火災になれば、もはやないに等しく、現場に駆け付ける途中で、ほとんどの車両が焼夷弾の直撃を受けて炎上し隊員もろとも燃え尽きたという。
 数え切れないほど多くの人間がこの巨大な火の壁の中に閉じ込められ、ある者は炎に焼かれ、ある者は酸欠状態になり窒息して死んだ。そして、業火は死んで折り重なった人々の体をあぶり続け、炭のようになるまで焼き尽くしたのである。
 この地獄で10万人以上の人間が、ほんの2時間足らずの間に命を失った。なけなしの荷物を捨て切れずに躊躇していた人々はすべて死んだ。幸運にも、助かった人々は体一つで運河や河に飛び込んだ人々だけであった。しかし、水中は氷のような冷たさで数分間も潜ってはいられない。体の芯にまで突き刺すような痺れが襲って来る。たちまち手足の感覚がなくなり、胸が張り裂けそうになって呼吸困難となる。たまりかねて首から上を水面に出して深呼吸をしようとするが、そのほんのわずかな間にさえ髪の毛が発火して燃え出した。こうして、凍死したり溺死したりした人々もまた数知れない。
 B29の集団はこれでもまだ物足りないと見え、火炎地獄と化した地上に、ゼリー状のガソリンを空から大量にまき散らした。それも終わると、今度は最後の仕上げとばかり、悪魔にも等しい蛮行におよんだ。地上に向けて逃げまどう人々めがけて機銃を乱射したのであった。この機銃は、口径が12、7ミリもあり人間の体に命中するとほとんど粉々になる代物である。アメリカ軍は対空戦闘で戦闘機相手に使用する強力な機銃を無抵抗な一般人に向けて乱射したのである。
* 恐ろしい殺戮現場 *
 翌朝、累々と焼死者の群れが横たわっていた。多くの死体は原型すら留めていなかった。8時間以上も燃え続いた火災は、地上にあるすべての物を焼き尽くした。煙ともモヤともつかぬ白いものがあたり一面をおおっている。
 どこもかしこも死体だらけで、焼け残った役所らしき建物の中をのぞくと、そこには殉死したと見られる多くの人々が黒焦げになって折り重なっていた。
 運河にはおびただしい水死者の群れが浮かんでいる。水死した遺体を路肩に引っぱり上げると、果てしなく連なってどこまでも地上を覆いつくした。
焼死体はまるで炭の丸太の棒のようであった。男女の区別もわからず、ただ山積みになっていた。恐らく、酸欠状態となり、折り重なって死んだ後、強烈な炎によって長時間あぶられたせいだろう。
 何日か経ってから、東京湾にはその後ひっきりなしに無数の水死者の遺体が流れついたという。
 完全に焦土と化した大地には、死の静寂さだけが支配していた。動くものがあるとすれば、ショックで半狂乱になり死んだ我が子を抱いてさまよい続ける女、一晩で、両親や兄弟すべてを失って呆然と立ちすくむ子供ぐらいであろうか。路上には生きているのか死んでいるのかわからない人たちが寝そべっている。彼らに表情はなく、かろうじて目玉が動くことで死体でないのが識別できるくらいである。
 猛火のため炭化した多くの遺体が土手に転がっていた。それらはほとんど炭の丸太のようで人間らしい形をしていない。
 その中に混じって、3人の親子と見られる遺体だけは、黒焦げになっているにもかかわらず、生前の原型をかろうじて留めていた。
 母親は子供をかばうように折り重なっており、小さな子供と思われる黒焦げの遺体は、母親の手を握ったままの状態で、その脇には幼児らしき遺体も転がっていた。
子供を背負って逃げていた若い母親と思われる遺体。大地に倒れ伏して、そのまま業火に焼かれたものと思われる。赤ん坊を背負っていた背中の白い跡が痛々しい。
 恐らく、死ぬ直前までしっかりと抱き合っていたためなのか小さなかわいい手の跡が母親の胸に白くはっきりと残こされていた。

* 戦争犯罪の責任の行方 *
 この夜、東京を凄惨な地獄に変えたのはサイパンやテニアンを発進した、3つの航空団からなる325機のB29爆撃機の集団であった。これを指揮していたのはカーチス・ルメイ少将で、彼はその一年余り前にヨーロッパ戦線で、じゅうたん爆撃を主張し、民間人などを目標とする無差別爆撃を強行したタカ派の一人であった。高高度からの軍事目標だけのピンポイント爆撃に効果のあがらぬことに苛立ったアメリカは、前任者ハンセル少将を解任し、その後釜に強硬派のルメイ将軍をすえたのである。

 ドレスデン、ハンブルクなど多くのドイツの都市を焦土と化し、何万もの一般市民を焼き殺したの彼らの大義名分は、これ以上意味のない戦争で犠牲者を出させないためにも、戦争を早急に終わらさねばならないというものであった。
 戦争を早く終わらせるために、どうして非戦闘員である多くの老人や婦女子を殺さねばならなかったのだろうか? アメリカのこの勝手ないい分は、2発の原爆投下の際にもお題目のように繰り返されることになる。本当は犠牲者のことなど眼中にはなく、あるとすれば、国家の利益を優先し戦後の世界支配を自在にあやつるための画策だったというのが真の理由ではなかったか?
 3月10日に行われた空襲一日だけで東京の4割が壊滅し、26万戸が焼け百万人が家を失った。
 その後4月と5月に2度の空襲が行われたが、これによって完全に焦土と化した東京は、もはや魅力のある目標ではなくなり戦略目標からはずされた。
 この死のじゅうたん爆撃は、それを皮切りに日本のすべての都市に向けられていく。名古屋、大阪、神戸などが時期を同じくして壊滅していった。
3月10日の空襲で焼野原となった東京下町。
 とりわけ神戸は背後に六甲山を抱えて海に挟まれた細長い地形であったために悲惨な結果を招くこととなった。アメリカ軍はまず背後に焼夷弾を投下して人々が山中に逃げ込めないようにしておいてから、人々を海岸部に追いつめ、袋のネズミ状態にして屠殺したのであった。
 このため、死者の密度だけ考えると神戸の方が東京よりもひどく、数え切れない神戸市民が無惨に焼き殺されたのである。
 3月10日の東京大空襲で、亡くなった犠牲者の数は果たしてどれくらいであったのだろう? 8万から10万人と言われているが、具体的な死者数は今でもよくわからない。墨田区の東京都の慰霊堂には約8万8千体の無縁仏が眠っている。
 このほとんどが3月10日の犠牲者であると考えられている。その他、身元がわかって引き取られていった遺骨が約2万体。東京湾から流れ出て遠くの地に漂着した遺体、また今なお発見もされずに地下深くに眠る身元不明の遺体などを合わせていくと、実に10万人を優に越す死者が、たった一晩、それもほんの2時間余りの間に出たことはほぼ間違いのない事実だと思われている。
 かくもわずかな時間内でこれほどおびただしい死者を出したケースは、世界の長い戦争の歴史の中でもまったく類がなく後にも先にも前例を見ない。

 あの悪夢から今年で70年が経とうとしている。
我々は、不幸にして亡くなった多くの犠牲者の冥福を心から祈り、死者の御霊に誓って恒久な平和を必ず実現せねばならない。    

               

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参考文献
「東京大空襲」早乙女勝元、岩波新書
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