殺生関白 豊臣秀次
〜秘められた異常な二面性、怪物性の真実とは〜 |
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天正19年(1592年)、子供に恵まれなかった秀吉は次期の関白を甥の秀次に譲ることにした。しかし1年後の1593年、側室の淀君に秀頼が生まれたことから、二人の心の中に疑心暗鬼の雲が立ちこめることになる。秀吉は甥の秀次に関白の地位を与えはしたものの、再度取り上げ、それを実の子供、秀頼に与えて天下を取らせようと考え出したのである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
折しも朝鮮出兵の最中、秀吉は秀次に出陣を促したこともある。出陣して武功をたてれば大きな褒美をとらせるであろうと秀吉は秀次に言った。つまり戦いに勝って朝鮮を制服すれば、お前を朝鮮国の王にしてやろうという意味の言葉だが、しかし秀次はいよいよ自分は日本から追い出されようとしているのではないかと考えた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「太閤はオレを無用の存在だとして体よく遠ざけようとしているのだ。いったん、海外に出かけてしまえばもう日本には帰って来れなくなるだろう。それは絶対にいやだ。住み慣れた日本から出るなどとは我慢ならん!」秀次は秀吉のみえすいた虚言を憎み、一方、老獪な秀吉は邪魔者である秀次をなんとか排除しようと考えていた。こうして二人の仲はますます険悪なものとなってゆく。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秀吉の方でも秀次に殺されるかもしれないと考えていたようだ。ちまたでは城内外問わず、「今に太閤様が関白様に殺される」とか「今に関白様が太閤様に殺される」という噂が飛び交っている状態であった。新しく関白の地位についた秀次を祝う祝典にも秀吉は暗殺を恐れてドタキャンする始末であった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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聚楽第で秀吉一行の到着を待つばかりとなっていた直前での中止は、秀次にとって侮辱以外のなにものでもなかった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秀次は大きく心を傷つけられ、饗宴のために準備された何万食という食膳、全国各地から集められ用意された高級食材、多額の費用がすべてムダになってしまったのだ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
しかし秀次にとってもっと恐ろしいことは、饗宴の最中に何らかの反逆が企てられているという嫌疑をかけられたことであった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
聚楽第。1586年に着工され一年後に完成した。秀吉の関白時代、主にここで政治がなされた。わずか10年で取り壊されてしまったので、当時の規模を知る手がかりはあまり残されていない。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
もともと、秀次は朝鮮出兵で財政難に陥っていた諸大名に金を貸し付けていたのだが、このころから諸大名を結束させて謀反を企てているなどの疑いをかけられていたのだ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秀次としてはドタキャンに対する侮辱などより、もっと深刻な事態がふりかかって来た。必死になって身の潔白を証明せねばならず、下手をすれば身の破滅にもなりかねないのである。一方、秀吉はなんとか反逆者の濡れ衣を着せてでも秀次を闇に葬ろうと必死の画策をしてくる。後世で殺生関白と呼ばれ、秀次を気味の悪いイメージに仕立て上げたのも、自らの同胞の粛正に正当性を持たせて共感を得るためのものであったとも言われている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
確かに、秀次は文武両面で有能で、和歌、文学にも才能があったようだ。戦でも有能でほとんど負け戦はない。この点は当時のイエズス会修道者たちの記録を見ても同じ考えらしく、秀次の人格、才能にも一様に絶賛している。 ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記録から引用することにしよう。 |
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* フロイスから見た秀次 * | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「秀次様は機敏で優れた才能を持ち、まれにみる賢明さの持ち主で多くの資質に恵まれておりました。礼儀正しく正直なことを愛し、賢者や有能な人々の教説にも熱心に聞き入られました。また気前がよく私たちキリシタン宗門にも寛大でとても大切にされ公然と賞賛なさいました。ところが秀次様にはただ一つ、忌むべき汚点がございました。それはこれまでの美徳をすべて帳消しにしてしまうほどの悪徳だと言ってもよかったのです」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フロイスは秀次の悪徳行為について次のように説明している。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「秀次様は人間の血を見ることに異常な興奮をお見せになられたのです。それは残酷で知られるローマの歴代の皇帝でさえもなしえないほどの残虐性だったと言ってもいいでしょう」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「秀次様は一日のある時刻になると、自分の欲望を満たすために、死刑囚を自らの手でお裁きになられたのです。この刑を実行するために秀次様は屋敷の隅に四方を壁で巡らせた刑場をつくらせ、中に砂を敷き詰め、中央に高台を設け、この台の上に受刑者を好きな恰好にして載せさせ、太刀でバサリバサリと斬り裂いたのでした」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊臣秀次(1568〜1595)秀吉の姉の長男にあたる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「時には足で逆さに吊るしたまま斬り裂いたこともございました。こうして受刑者の身体をズタズタに斬り裂く瞬間こそが秀次様にとってこのうえもなく至福の時だったように見えました」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フロイスはさらに秀次の猟奇的と思える行為の詳細にも触れている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「その切り刻み方はこれ以上、小鳥でさえ引きちぎれないほどの細かい切り刻み方でございました。時には生きたままの受刑者に剣や槍を投げつけて殺すこともございました。またある時は、ネロの再来かと思われるほど多数の婦人を殺害して、身体の内臓や子宮をたんねんに調べたりもしました。秀次様のこうした怪物性は残酷で知られたカリグラ帝やドミティアヌス帝、その他の残虐で知られたいかなる皇帝よりも一歩長じているように思われたほどです。しかもこれらの皇帝でも自ら手を下すことはなく、その意味では、秀次様のように直接手を下し、人間の血で大地が汚れることにこれほど誇りを抱いた人はかつていなかったでしょう」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
まさにこれだけ聞けば、殺生関白と呼ばれた秀次の残虐性と異常な心理に全身総毛立つ思いがしてくると思う。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秀次の怪物性には後世の戯作者によってずいぶん誇張、歪曲された可能性はあるだろう。しかし、ルイス・フロイスは後世の戯作者ではなくこの当時の人間だけにそれだけ信ぴょう性も高い。これらの文章が伝聞でフロイス自身、直接自分の目で見たことはなくても、この頃すでに世間一般では、秀次の残虐的な悪徳行為が人々の間で噂されていたとみるのは当然のことだと思える。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
しかしフロイスの言葉通り、秀次が恐ろしい二面性をもち、快楽殺人を犯すことでおのが野獣の欲求を満たしていたのかは推測する以外にない。現代でも普段は大人しく、およそ虫一匹殺せぬような心優しそうに見える人間が裏で豹変し、恐ろしい猟奇殺人の犯人だったということもよくあり、人間の内面に存在する怪物性を見抜くことはむつかしいと言えるだろう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
* 徹底的な秀吉の復讐 * | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
その後、反逆の容疑をかけられた秀次は、秀吉に面会を許されることもないままに、高野山にて切腹した。享年27才。同時に家臣10人も切腹して後を追ったという。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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その一ヶ月後には側室、次女、幼児など含めて秀次の家族39人が次々と首を刎ねられた。処刑は5時間かかったという。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
遺体は一緒ごたにされ、一つの穴に乱暴に埋葬され、殺生関白から「畜生塚」と呼ばれたという。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
京都三条にある瑞泉寺には秀次とその一族の墓がある。49個ならぶ石塔は家臣10名と側室、幼児など39名の供養塔だと言われる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
また秀次の住居だった聚楽第は一年後に破壊され、跡形もなく取り壊されてしまった。秀吉の秀次に対する仕打ちがいかに徹底的で惨いものであったかがわかるであろう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
かくして秀吉は秀頼の世継ぎを確実なものとするために、秀次の血筋を抹殺しようとしたのであるが、殿下と称される最高位の関白をもつ者を早々に切腹させたこと、処刑後、首を長期間さらしものにしたことなど、当時の社会常識に照らし合わせても悪逆無道ぶりで多くの災いの種を残すことになったらしい。そのせいか、あるいは関白秀次の怨霊がそうさせたのか、災いはまもなく現実のものとなるのだ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秀吉亡き後、大坂の陣が勃発し、わずか20年後には淀君、秀頼母子は自害し豊臣家は滅亡してしまうからである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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参考文献 歴史読本 戦国日本100の謎 新人物往来社 |
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