禁断の領域 part2
〜巨大肉食獣による身も凍る恐怖〜
* 精神の限界を越えた恐怖 *
 巨大なグリズリーや人食いライオンに追いかけ回される恐怖は、悪夢などというものではない。この種の恐怖は禁断の領域に立ち入った人間への戒めを通り越していると言えよう。突如、身にふりかかってくる恐ろしい運命は誰の身の上にも起こる可能性がある。
 かつてサバンナの自然公園でセスナ機が故障を起こし、やむなく不時着したことがあった。
 ところがその区域はライオンの縄張りでもあった。セスナ機はなんとか着陸はできたものの、ここで長時間、留まっているのは危険であった。
 急いで逃げねばならなかったが、近くに背の高い木が茂っているところがあったので、彼らはセスナ機から脱出すると足早に駆け寄っていった。
 ところがすでに草むらには、腹を空かせたライオンが待ち構えていたのである。まず一人がつかまり、この世のものとは思えぬ叫びがあがった。また一人つかまった。結局、木までたどり着いたのは一人だけで、彼は渾身の力でてっぺんまでよじのぼった。下では断末魔の絶叫が響き渡っている。
 かなりの高さまでのぼりつめ振り返って下を見た。そこでは仲間が食われている恐ろしい光景が展開されていた。遺体はズタズタにされ、ライオン同士が遺体の手足を引きちぎっているのを見て、彼は木の上から何度も吐いた。結局、彼は丸一昼夜、助けが来るまでその木のてっぺんによじ上ったままであった。救出された時、彼はあまりの恐ろしい体験をしたため、精神に異常をきたし廃人になってしまったという。
* ヒグマにどこまでも追いかけられる恐怖 〜宮野事件〜 *
 ヒグマに襲われた事件は数少ないものの一度起きてしまうと、ゾッとするほど恐ろしく気味の悪い事件になる。ヒグマの異常とも思えるストーカー的な執念深さはもはや常識の概念を越えている。
 獣は火を怖がるというのが常識だが、それもヒグマには通用しない。
さらにヒグマを不気味で超自然的な存在にしているのは、先回りして待ち伏せしたり、ハンターの裏をかくなど恐るべき知能の高さを見せることだ。
 だがなんと言っても、事件の多くはヒグマの習性に無知だったことで、そのことが結果をさらに凄惨なものにしてしまったともいえるだろう。
 今から40年ほど前、北海道の大成町宮野で起きた事件は、釣り人が犠牲になった恐ろしい事件であった。釣り人が渓流釣りをしている最中にその事件は起こった。向こうのやぶの茂みから「ふうっー!ふうっー!」という獣の恐ろしい息づかいが聞こえたのだ。まもなくメリメリパキパキという音とともに、巨大なヒグマの顔がにゅうと突き出した。「ウワァー!」恐怖に駆られた釣り人はたちまち道具を放り出して一目散に逃げ出した。
 このとき、逃げ出せばヒグマは必ず追いかけて来るという冷静さなど頭にあろうはずもなかった。
 釣り人は息せき切ってただひたすら逃げた。しかし背後をバシャバシャと水を蹴って巨大なヒグマが追いかけて来る感覚がする。
 「うわぁ!」何度も振り返っては釣り人はこの世のものとは思えぬ悲鳴をあげた。
 川から斜面をよじのぼって国道まで出た。心臓が破裂しそうな勢いで脈打っている。耳の中で太鼓をたたいているようだ。カラカラで口の中がひきつって苦い味がする。
 山道を駆けながら停めてあったクルマを発見した。
 一瞬、助かったという思いが頭をよぎった。しかし、そのはかない望みは「ウォー!」という不気味なうなり声にうち壊された。振り向くと、巨大なヒグマが斜面の茂みからのっそりと山道にはい上がって来るところであった。ヒグマのあまりの執念深さに釣り人はパニックに陥った。
 ようやく停めてあったクルマまで走って来れたものの、どこにキーを入れたのかわからない。走りながらポケットというポケットに手を突っ込むがキーはみつからない。
 一体どこにあるんだ! そうこうしているうちに、恐ろしいうなり声をあげて巨大なヒグマが近づいて来る。
 ヒグマが仁王立ちになった。背丈はゆうに2メートル半ほどはある。クルマの周りをグルグルグルグルと走り回ることになった。
 ヒグマとの恐怖の追いかけ合いがしばらく続いた。不幸な釣り人にとって地獄の数分間だったはずだ。しかしとうとう不幸な釣り人はヒグマにつかまってしまった。身体中を噛みつかれ、片足をくわえこまれて、生きながら茂みに引っ張られていく姿が通りがかったクルマの運転者に目撃されている。その恐ろしい光景を目撃した運転者はあまりの恐怖に助けにいく勇気はなかったという。
* ヒグマの常識を越えた恐ろしい執念 〜石狩沼田幌新事件〜 *
 1923年、大正12年に起きた石狩沼田幌新(いしかりぬまたほろしん)事件は、獣害では世界最大の惨事と言われた苫前三毛別(とままえさんけべつ)事件に次ぐ恐ろしい事件であった。
 毎年、恒例になった夏祭りの夜。ようやく深夜にはお開きとなり、村人たちは夜の山道を家路へと急いでいた。このとき恐怖のドラマがその幕を開けようとしていることなど誰も知らない。
 山道のわきで小用を足していた若者は、「ガサガサ」という笹のざわめく音がして驚いた。びくっとしてふりむくと、目と鼻の先に巨大なヒグマの顔があった。「うおぉー!」恐ろしいうなり声とともに巨大なヒグマは前足でなぐりつけてきた。「うわぁー!」驚いた若者はぴょんとのけぞり、間一髪のところで難を逃れた。その拍子にヒグマの爪に着物と帯がひっかかった。若者はとっさにそれらを脱ぎ捨て、半裸のまま必死の形相で急斜面を這い上がっていった。
 恐怖に足がもつれながら、よろめくようにして先頭を行く集団まで駆けていく。ところが、ヒグマは若者の駆ける速度よりも早く、いち早く先回りをしていたのだ。暗闇からいきなり不気味なうなり声とともに仁王立ちしたヒグマがあらわれた。「うわぁー!」村人たちは恐怖で動けなくなった。このとき、15才と18才の兄弟が犠牲になった。
 「バグッ!」ヒグマの怪力で弟は側頭部をなぐられて即死。兄はかすかに息があったが、生きたまま保存食料として穴に埋められた。
 「逃げろ!」恐怖のためパニックにおちいった村人はクモの子を散らすかのごとくほうほうの体で近くの木造平屋の民家に逃げ込んだ。その農家は先ほど犠牲になった兄弟の家で、中年の農夫とその妻ウメがいた。恐怖にひきつった村人がいきなり転がり込んで来たので、二人はびっくりしてしまった。
 「人食いグマだ!」「早く火をおこせ!」村人の一人が叫ぶ。
 ただちに玄関でまきを積み上げ焚き火をし、囲炉裏には手当たり次第、木片を放り込んで火力を高めた。それでも生きた心地すらしない。村人たちは屋根裏や押し入れなどに隠れることにした。
 まもなく「ふうー!ふうー!」という荒い息づかいとうなり声が交互に聞こえながらヒグマの近づいて来る気配がする。
 平屋の回りをうろつき回っているようだ。身も凍りそうになる恐怖を感じながら村人たちはただ息をひそめていた。
「がつん!キュッー!」やがて窓ガラスを爪でひっかく音がして巨大なヒグマの顔がにゅーっとあらわれては何度か家の中をうかがっているのが見えた。
「わぁー!」ついに恐怖で神経の糸が切れたのか、村人の一人がわめき散らし、そこら中のものを投げつけた。
 ヒグマはぴょんと跳ねるように姿を消すと、まもなくドスンドスンと重い地響きをひびかせ、入り口の方へ回っていくのが感じられた。
「土間から入って来るつもりだ!」
 農夫が渾身の力をこめて扉を押さえつけた。やがて、ヒグマがドンドンと恐ろしい力でこじ開けようとして来る。「バガン!バガン!」扉が大きな音を立てて振動する。ものすごい馬鹿力に誰もが凍り付いたような恐怖を感じる。
 ついに、メリメリ、バキバキというすさまじい音をたてて扉が破壊された。「グワァー!」ヒグマの巨大な顔があらわれる。扉を押さえていた村人は吹っ飛ばされて堅い居間にもんどりうった。乱入してきたヒグマは、村人の腕に一撃を食らわせると、囲炉裏のそばでガタガタ震えているウメの方向ににじり寄っていく。
 囲炉裏はメラメラ燃えていたが、ヒグマは何の恐れることもなく、火のついたマキをも踏み消してウメの肩にかぶりついた。
 「ぎゃあー!」ウメは右手の拳で懸命にヒグマの首筋をたたくが、ヒグマはびくともしない。
 やがてウメをしっかりくわえ込んだヒグマは外に出て行こうとする。
 ヒグマの一撃で重傷を負った農夫は、近くにあったスコップで打ち据えたが、ヒグマは不気味なうなり声をあげて威嚇した。
 らんらんと輝く不気味な眼光に、村人は全員、凍り付いたようになって立ちすくんでしまった。そうこうするうちに、ヒグマはウメをくわえたまま、赤々と燃えさかる焚き火の横をすり抜けて真っ暗な森の中に向かってゆく。
「だれか助けとくれ・・・助けとくれ!」
ヒグマにくわえられて引きずられながら、助けを乞うウメの痛ましい叫び声が響きわたった。恐怖で足が引きつった村人は動くことすらできない。やがてヒグマの姿は闇にとけ込んで見えなくなった。
 「なんまんだぶ・・・・なんまんだぶ・・・」
 闇の中から、念仏をとなえる弱々しい声だけが聞こえて来た。悲痛な声は次第にかすかになりながらもしばらく聞こえていたが、最後にはヒューという風の音にかき消されてしまった。もう何も聞こえては来ない。風の音だけがむなしく聞こえて来るだけである。
 目の前で、妻ウメをヒグマに奪われた農家の主人は、それを止めることも出来ず、ただ見守ることしかできなかった自らの非力さを呪っていつまでも泣き伏していた。妻の名前を呼びながら悔し涙を流す農夫の哀れな背中を村人たちは言いようのない虚脱感を感じてぼんやりとながめるしかなかった。
 恐怖の夜が明けるまで、村人たちはこの家でまんじりとも出来ないでいた。陽がのぼるとともに、あたりを恐る恐る見回して捜索にかかりだす。ウメは下半身をすべて食われた哀れな遺体となってすぐ近くのヤブの中から見つかった。
「うっ・・・可哀想に・・・」「なんて、酷いことを・・・」
 とても正視できない光景に誰ともなく嗚咽の声が漏れる。土中に埋められていた兄の方も発見された。そのとき兄の方はまだかろうじて息があったのだが、これも病院に送られてまもなく死亡してしまう。
 こうしてこの家では不幸にも、一夜にして妻と子供の兄弟二人が、人食いグマの犠牲となったのである。
「こんな悪いクマはすぐにでも成敗してやらねばならん」
 この話を聞くや否や、怒りをあらわにしたクマ撃ち名人として知られるアイヌの猟師が、人々の制止をふり切って単身でヒグマの後を追っていった。しかし猟師は、山中で数発の銃声を響かせたっきり、消息不明となってしまった。
 まもなくこの猟師は頭部を除き身体のほとんどを食いつくされるという無惨な遺体となって見つかるのだ。人食いグマはクマ撃ちの名人と言われた猟師までをも不意打ちで殺し、その遺体をむさぼり食ったのである。
 かくして、300人を越す人数で大がかりな山狩りが行われた。しかし人食いグマは神出鬼没ぶりを見せ、討伐隊の最後尾にいた村人を襲って、これを一撃のもとに殺し、もう一人に重傷を負わせたのである。ヒグマはさらに別のメンバーに襲いかかろうとしたが、除隊後まもない軍人の放った銃弾が見事に命中し、それを期に猟銃の一斉射撃を浴びせられ、ついに凶悪なる人食いグマは退治されたのであった。
 結局、この事件は5名が死亡し2名が重傷を負うという大惨事に発展した。何よりも恐ろしいことは、丸4日間も人々を恐怖のどん底に落とし込んだヒグマの執念深い襲撃であったことだ。
 退治されたヒグマは体長2メートル、体重200キロもあるオスの成獣だった。解剖の結果、胃袋の中からは大量の人骨やら人肉の一部が発見されたという。後の調査によると、最初にヒグマに襲われた地点に馬の死体が保存食として埋められていたことから、ヒグマは偶然現れた村人たち一行を、餌を横取りする外敵と見なして攻撃してきたのであろうと思われた。
 事件の現場となった幌新太刀別川(ほろしんたちべつがわ)周辺は、その後、炭鉱開発ととも人口2千人を擁する都市となって繁栄したが、現在は1975年に完成した幌新ダムによってできた湖の底に沈んでいる。そして当時の忌まわしい記憶でさえもが過去の記憶となって薄らいでいる。
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