ワールシュタットの戦い
〜西欧文明崩壊の最大の危機〜
* 迫り来る虐殺の嵐 *
 中央アジアの名もなき草原から端を発したチンギス・ハンの軍隊は、その恐るべき残忍さと機動性で西方世界の奥深くに侵入していた。わずか20年足らずで3200キロも進軍し、その行く手にあった何十もの大都市は血祭りにあげられたのであった。いったん都市が陥落すれば、もうどのような哀訴も聞き入れられることなく、慈悲も全く通用せず、住民は考えられる残酷な方法でことごとく殺戮されていったという。
 チンギスハンは1227年に没したが、恐怖と殺戮の嵐は彼の子供たちに受け継がれることになった。巨大な帝国は遺言によって5分割にされたが、一番西方に位置するキプチャクハン国のバツーは、類いまれなサディストであり大殺戮者であった。さらに西方へのあくなき領土拡大に意欲を見せていたバツーはロシアの都市や町に侵入を開始した。
 ロシアの森を恐ろしい速さで突き抜けたモンゴル軍は、手始めにあらわれたリャザン市を包囲した。リャザン市はオカ川沿いに立つ美しい町並みで知られた都市で、中央アジアとの交易都市として繁栄していた。市中には多くの聖堂が建ち、貴族の屋敷などがあり、その周囲は城壁で囲まれていた。このリャザン市こそモンゴル軍に血祭りに上げられるロシア最初の都市となるのである。
 5日間もの間、投石機からは石が間断なく発射され、市中には雨あられのごとく石や火矢が降り注いだ。弩砲からは130キロもある巨石が打ち出され、市の城門を打ち壊した。市が陥落すると、馬に乗ったモンゴル兵が殺気立った血走った眼で怒濤のごとく乱入して来た。
 王子、その母親、娘たち、息子など市の貴族たちは、面白半分に矢を射かけられすべて殺された。住民も赤ん坊から老人、女子供まで、年齢性別など関係なくすべてなぶり殺しの目にあった。その方法もむごたらしいもので、熱湯を全身にかけられたり、溶けた鉛を飲まされたり、生きたまま皮をはがれたり、目を剣でくり抜かれたりした。教会や修道院にも乱入した彼らは、司祭を火あぶりにし、修道女などは公然と陵辱された上すべて殺された。リャザン市2万の住民はこうして一人残らず虐殺されてしまったのである。
 結局、このリャザン市はこの大破壊から立ち直ることは出来ず、今でも、市中の土中からはモンゴル軍によって惨殺された首のない遺体が無数に掘り出されるという。ノブゴロドの年代記は言う。「彼らはこの都市の住民を一人として生かしておかなかった。すべての者は死んだ。そして死者を弔う者さえ残っていなかった。キエフの都市も同様に破壊された。周囲には数キロにわたっておびただしい人骨が散乱しているだけだ」
 モンゴル軍がかくも占領した都市で皆殺し戦術に終始した理由は、自らの銃後に敵の残党を残しておくことは、いつ謀反が起こるかもしれず、反抗勢力が結束されかねないという危険をはらんでいたからである。モンゴル軍の軍規には、たとえ味方であっても、敵に好意を示したり、逃亡捕虜をかくまったりしたときには常に恐ろしい厳罰に処せられるという現実もあった。
* 慌てふためくヨーロッパの国々 *
 そして1241年春、ついにバツーの先遣隊はポーランドの一角に姿を見せた。この当時、ヨーロッパはこの恐るべきモンゴル軍の獰猛さ、残忍さをまったく知ることなく、いたずらに十字軍の遠征をくりかえし、諸侯は分裂しわずかな利益を求めて抗争にあけくれていた。年代記はさらに言う。「黒死病がヨーロッパで大流行し、ヨーロッパ各都市の人口が激減し、その恐怖と混乱が終わらぬ最中、我らの罪深い行いが災いしたのか、今度は未知なる野蛮人が大挙攻め寄せて来た。彼らがどのような言語を持ち、またどのような種族に属するのか皆目わからず、ただペチュネーグ人、タルタル族と呼ぶ以外何もわからない・・・」
 モンゴル軍がヨーロッパに接近するにつれて、ロシアの諸都市にふりかかった恐ろしい話が旅行者などから次々ともたらされるようになった。とりわけ、都市の陥落後、住民の身の上に起きた身の毛もよだつ残酷な話は聞く者すべてを戦慄させた。恐ろしい殺戮の嵐を巻き起こしながら、怒濤のごとく向かってくるモンゴル軍に辺境の国の住民は大恐慌に落ち入った。
* ヨーロッパの命運をかける *
 ここにいたり、ポーランド大公のヘンリク2世は、急遽、諸候らを呼び寄せ、連合軍を結成して東方から攻め寄せて来た悪魔の集団に対処することにした。しかしこの場におよんでも、ヨーロッパ諸国は皇帝と教皇との争いに関心を集中しており、ヘンリクの援軍要請に応じた国々は少なかった。ヘンリクの義弟の率いるテンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団の混成軍が駆けつけてきただけで、ヘンリク2世はやむ終えず、ボヘミア、ポーランド、プロシア諸国の連合軍を率いて出陣することにした。
 斥候により、モンゴル軍はリーグニッツ城の東50キロの地点で布陣していることが報告された。ヘンリクも軍団を率いてただちに急行した。こうして広大な草原でヨーロッパの軍隊とモンゴル軍が対峙する形となった。
 バツーの率いるモンゴル軍はおよそ2万5千、それに対するヨーロッパ側のドイツ、ポーランドの連合軍は合計3万ほどであった。モンゴル軍の戦法を知らなかったヘンリク2世は、とりあえず自軍を4つの軍団に分けて、敵を誘い出して各個撃破する戦法を取った。これはヨーロッパでは通常みられる戦法であった。ヨーロッパでは、主力は甲冑をつけた騎兵で、馬、人間ともに30キロにもおよぶ重い鋼鉄製の甲冑で武装されていた。一人の騎士に10人ほどの従者がつき従う。これが敵陣に突っ込んで敵に恐怖と混乱を引き起こし、勝敗の帰すうを決するのである。
 一方、モンゴルの騎兵は、鉄製の兜と革製のよろいだけでヨーロッパの騎兵に比べると、装備も軽装で馬もかなり小柄であった。ただ彼らは馬と一体化した生活をし、馬上で眠り、食事さえした。機動力で上回り、一騎打ちなどしないで縦横無尽に攻撃してくる集団戦法は、非常に機能的で鈍重な甲冑姿の騎士では対抗できなかった。しかも射撃技術は恐ろしく正確で、遠くからでも目標に確実に射かけてくるのだ。
*ついに運命の火蓋が切られる*
 1241年4月9日、今や、ヘンリクの軍団はヨーロッパの命運をかけて、アジアから攻め寄せて来た恐怖の軍団に史上初の合戦を挑もうとしていた。このとき、ヘンリクは通常どおりの戦法を取った。つまり、弓矢隊の一斉射撃の後、歩兵隊を突入させ、敵の一角を切り崩し、重い甲冑姿の騎兵を投入し、敵の本隊を蹴散らす作戦を取ったのである。まもなく第一陣の歩兵の突撃により、モンゴル軍の前衛が崩れ出したという報告が入る。
 伝令がヘンリクに戦況を報告してくる。「陛下! 我が歩兵隊が敵の前線を突破しました。敵は目下退却中です」

「ふん!敵は意外ともろいな。野蛮人ゆえに戦闘のいろはも知らぬと見える」ヘンリクはあご髭をなぜながらつぶやいた。「ここは一つ様子見を決め込んでから、騎兵を投入されてはいかがかと」横にいる重臣の一人が進言する。

「いや! 待つ必要はあるまい。この機に乗じて一気に追撃して徹底的に叩いてやろう。精鋭のドイツ騎士団に突撃を命じよ」つづいて勝利を確信したヘンリクは全軍に突撃を命じた。
 甲冑姿の騎兵が突撃していき、剣と盾を持った歩兵がときの声をあげて敗走するモンゴル軍の後を追った。まもなく、完膚なき勝利が転がり込んでくるはずであった。が、・・・しかしそのとき、どこから飛んで来るのか、目にもとまらぬ早さで矢が雨あられと飛んで来た。矢はどこから飛んで来るのかわからぬまま、先を走る歩兵がバタバタ倒れる。矢は恐ろしく正確で、金属的な音を鳴り響かせて、歩兵や馬にどんどん突き刺さる。馬は横転してひっくり返り、重い甲冑をまとった騎士はどっと地面に投げ出された。
 そのとき、はじめて彼らは見た。恐るべき数の伏兵が手ぐすね引いて待ち構えていたのを。彼らはこのときのためにあらかじめ配置されていたのだ。自然と完全に一体化して溶け込み、かなりの長期間にも耐えるほどの忍耐をもった精兵たちであった。敗走と見えたのは巧妙なおとり戦術で、ヘンリクの軍隊はまんまと引っかかり、その術中に落ち入ったのだった。
* 容赦なく続けられる破壊と殺戮 *
 やがて煙幕弾が投下され、部隊の連絡が完全に遮断された。ヒュンヒュンと風を切ってどこからともなく飛んでくる矢と馬の雄叫びにまじってひっきりなしにあがる味方の断末魔の悲鳴が聞こえる。「うわぁ!敵に包囲された」「退路を断たれた!」逃げようにも周囲がわからないまま、ヨーロッパの兵は恐怖心に駆られついに大パニックに落ち入った。
 凄惨な戦闘は一日で片がついた。大草原はいまだ煙幕がうっすら漂っていたが、時おり見える死体はどれもこれもドイツとポーランドの兵ばかりで、彼らの遺体には無数の矢や槍が突き刺さっていた。
 モンゴルの兵が戦場をくまなく駆け回り、時たま馬から降りては、死にきれずに苦悩のうめき声をあげる兵のとどめを刺して回っていた。
討ち取ったヘンリクの首を掲げて、リーグニッツ城に迫るモンゴル軍。
「ザクッ!ザクッ!」死体の中から生地を引き裂くような音が響いていた。モンゴル兵が遺体から耳を乱暴に剣で引きちぎっている音だ。彼らはそうして引きちぎった耳を革袋にひたすら詰め込んでいる。革袋はすでに何百袋にもなり馬の両脇に吊り下げられていた。これらはどれだけの敵を殺したかその証拠としてハンに計上されるのである。ヘンリクは首を斬り落とされ、槍の先端に突き刺されて見せしめにされていた。
 遺体はその後、狼やカラスなどにも食われたが、しかし、おおかたは朽ち果てるにまかせ、膨大な死体だけが累々と散らばる気味の悪い草原と化していった。やがて5月の陽気に煽られたものすごい腐臭は何十キロ彼方にまで漂い、人々はいつの頃からか、この地を死体の山(ワールシュタット)と呼ぶようになったという。ここを通りがかった旅人は、遠くからサンゴ礁のように真っ白く見えたので、美しい丘陵地帯だと思って寄ってみたところ、それは延々と散らばる白骨が陽光に反射して輝いていた地獄の光景であったという話がある。
 ワールシュタットでヘンリクの軍団の殺戮を終えたモンゴル軍は、その翌年、ドナウ河を渡ってハンガリーに侵攻。シャヨー河畔でハンガリー王の率いる軍団を全滅させた。

 こうしてあわやヨーロッパ全土がモンゴルの支配に落ちるかと思われたその年の12月、大ハーン・オゴタイが死去するという知らせがもたらされ、バツーは本国に引き返すことにした。このとき「奇跡が起きた!」とヨーロッパ全土が神に感謝したことは言うまでもない。もし、オゴタイの死が起きなければ、ヨーロッパ全土は、モンゴル軍の恐るべき鉄騎のもとに蹂躙されていたであろう。その代わり、今度は極東の国日本に彼らの侵略の矛先が向けられるのであった。
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