インパール作戦
〜飢餓と狂気が支配した無謀な作戦〜
 太平洋戦争も押し迫った頃、連合軍の強固な戦線を突破して敵の要にくさびを打ち込み、補給を分断してしまおうという強行な作戦が行われた。世にいうインパール作戦である。しかしこの時期、この作戦を遂行した理由はなんであったのだろうか? 
 その目的は蒋介石ルートと呼ばれた連合軍からの中国への補給ルートを分断してしまうことで、中国軍を弱体化させ一気に戦局を逆転してしまおうという考えにあった。また、この作戦にはもう一つ別の目的もあった。それは日本に逃れてきたチャンドラ・ボースを擁立してインド独立を支援することであった。インド独立を目的としていた自由インド国民軍に支援をあたえることで、イギリス統治下にあったインドを内乱状態に持っていき、連合軍の基盤を混乱ならしめようという政治的意図もあったのである。
 この作戦に使用された兵力は主力の3個師団を含めて8万5千人にものぼり、それに追従するインド人部隊(インド国民軍)6千人の計9万人ほどがこの作戦に従事したと言われている。一方の対峙する連合軍は、イギリス、インド軍合わせて10万人以上で、この戦いの規模の大きさがうかがい知れる。
* 無謀な作戦 *
 この作戦の立案者は陸軍中将、牟田口廉也(むたぐちれんや)であった。軍首脳の中でも、とりわけビルマ方面の情勢に詳しい牟田口が全軍の司令官となり、この作戦を指揮することになる。牟田口は強気の作戦を行うことで知られていた。
しかしこの作戦は最初からいろいろな問題をかかえていた。まず食料の調達である。この頃、食料、物資の欠乏は日本の国内外にかかわらず大変深刻な状態にあった。
そこで牟田口は、現地の農民から一万頭以上の牛や羊を調達せよという命令を出した。それらの動物に物資を運搬させ、目的地に着いたのちは食糧にしようと考えていたのである。
 牟田口はこれを「ジンギスカン作戦」と呼んで自画自賛したという。また、彼は敵軍の物資集積所をも占領して、そこから食料や弾薬を補給すればよいなどというとんでもないことも考えていたらしい。
牟田口廉也(1888年10月7日〜1966年8月2日)陸軍士官学校卒業後、参謀本部に長年勤務。典型的な軍人官僚。盧溝橋事件では現場の指揮官だった。
 インパールは当時イギリス軍の最大拠点であり、ここを制圧することが今回の作戦の主要目標であった。作戦のあらましは3個師団をビルマから国境を越えてインド領内に侵入させる。その際、一番北の31師団はインパールの北東部にあるコヒマという都市をすばやく占拠し、インパールへの連合軍の援軍を断ち切ることにあった。コヒマには連合軍の物資の集積所などもあり、牟田口に言わせればここを占領することで食料、物資の調達が可能のはずであった。残る2個師団は順次インパールを包囲、突入して占領する手はずになっていた。
 大本営は作戦完了までに費やされる時間は3週間足らずと踏んでいた。そのため兵士は20日分の食料と240発ほどの弾薬、6発の手榴弾しか配給されなかった。それでも背のうは40キロを超す重量となり、それを背負って過酷な自然環境の中を突破するのは並大抵のことではなかった。なにしろ、ジャングルや険しい山脈、泥水のあふれかえる河を越えて、延々1千キロも行軍せねばならないのである。しかも敵に見つからぬよう夜でも松明はつけず、夜通し歩きとおすのである。そのため疲労のために歩きながら居眠りする兵もいたほどである。
* 補給なき過酷な行軍 *
 作戦は3月8日に開始され、大変な苦労を重ねながらも、それでも日本軍はなんとか山脈のふもとにまでたどり着いた。しかし日本軍の前途にはこれから大変な重労働が待ち構えていた。彼らの目前には、うっすらと白いモヤをいただく標高3千メートル級のアラカン山脈がそびえたっていたのだ。
 この峨々たる山脈の連なりを越えていくのは容易なことではない。大砲など重機と呼べるものは持って行くことができず、トラックなどは分解して人力で運ばねばならない。
 重いエンジンは十人がかりで持ち上げてゆっくりと運ぶのだ。足元もおぼつかない危険な崖っぷちでの作業は、一歩誤ると谷底に真っ逆さまだ。
 しかし兵士は不平も言わずに黙々とこの苦しい作業に従事する。重い荷物を背負わされ疲労困憊した牛はしゃがみこんで動かない。しかたがなく、牛の尻に火薬を敷いて爆発させる。驚いた牛は飛び起きて再び動き出す。しかしそれもほんのわずかの間しか持たない。牛はしばらくすると疲れ果ててまたしゃがみこんでしまうのだ。
井坂伍長は一頭のビルマ牛の担当だった。伍長は一匹の赤毛の牛に「赤」と名付けてかわいがっていた。一方、赤の方も伍長になつき、呼ぶと丸い大きな目で手綱なしでもついてきた。
 「赤、今日もしっかり歩くんだぞ!いいか!歩けなくなったら殺されるんだからな」伍長は振り返るとそう叫んだ。
 事実、中隊の牛は次々と落伍してその度に殺されて食料にされ、今は三頭だけになっていたのだ。何も知らない赤は愛くるしい目を向けてついてくる。
 いよいよ山頂付近だ。突き出た岸壁をまがる道はわずか幅1メートル足らず、その下は深い谷底につながっている。 
「赤、気をつけろ!」一歩進んでは振り返って一声かけ、励ましながら足を出すことをくりかえした。
 次の瞬間、手綱を持つ手が引っ張られた感じがした。伍長は思わず振り返る。しかし、もうそこには赤の姿はなかった。谷をのぞいても、白いモヤで何も見えず、はるか谷底からはサワサワと河の流れがこだまするだけである。
 伍長はしばしその場に立ち止り赤の冥福を祈った。助けを呼ぶ声を発することなく、一瞬に谷底に消えた赤も悲惨な戦争の犠牲者なのだ。
 「成仏しろよ、赤。ビルマの牛でさえ日本のために死んだのだ」せめて、自分の手で殺さなくてよかったと伍長は自らをなぐさめるしかなかった。
 こうして多くの牛や馬が過酷な重労働に耐え切れずに死んでいった。泥水のあふれるチンドウィン河を渡る際には、実に牛や羊の半数以上がおぼれ死んだという。このように牟田口の自賛するジンギスカン作戦は最初からうまくいくはずもなく、大部分の家畜が敵の爆撃、銃撃、過酷な自然環境によって死んだり、暴走したりして、ちりじりになって消滅してしまう運命にあった。
 補給・増援がままならない中、それでも3個師団を主力とする日本軍は、インパール攻略作戦を開始した。予定通り、日本軍は佐藤中将の指揮する第31師団をコヒマに進撃させ、残りの2個師団は3方向よりインパールに進撃した。しかしこのときすでに日本軍の食料、弾薬は尽きかけようとしていた。
 それでも31師団はよく戦い、一時コヒマを制圧しかけた。しかし連合軍の抵抗はしぶとく頑強であり容易に抜けそうにない。すでに、弾薬も食料も底を尽きかけていた31師団は戦闘することもままならぬ状態になりつつあった。この事態に、31師団長の佐藤中将は、何度も司令部に食料、弾薬のすみやかなる補給の要請を出していた。しかし司令部の牟田口は、「今しばらく現体制を維持されたし。しからば軍は主力をもって貴兵団に増援し、今日までの貴師団の戦巧に報いる所存なり」などとあいまいで空手形のような通知が来るばかりで、いっこうに補給の来る気配がない。
 やがて食糧が底をついた。食べるものがなくなると、若い兵隊でさえ体力はみるみる低下し衰弱していった。栄養失調と疫病が部隊にまん延していく。しかし牟田口は大和魂だの敢闘精神だのと精神論のみに終始し、4月29日の天長節(天皇の誕生日)までに目的地のインパールを占領せよなどという冷徹な命令を出して来る。やがて連合軍の強力な反撃がはじまった。もしも31師団が持ちこたえることが出来ずに分断されてしまえば、連合軍は日本軍の戦線に穴を開けて、インパールを攻略している部隊の側面が無防備な状態となる。そうすれば、全軍が無残な崩壊となる可能性があった。牟田口は31師団にあくまでコヒマに踏みとどまれと命令を出した。
 一発の弾丸、一粒の米の補給もされぬままに、かろうじて死守していた31師団もついに力尽きようとしていた。5月になると雨季の到来がそれに追い打ちをかけた。年間降水量9千ミリというすさまじい世界一の豪雨が襲いかかってくる。風呂の底が抜けたようなものすごい雨音で息も出来ず声も聞こえないのだ。濁流に巻き込まれ溺死した兵も多い。もうとても戦争するどころではない。このままだと全滅すると悟った佐藤師団長は、ここにいたり命令違反と知りつつもついに独断で撤退することを決意した。師団長の無断撤退は陸軍史上はじめてのことだ。かくして日本軍全体に雪崩のような瓦解がはじまった。
* 悲惨な退却の中で *
 退却に入っても日本軍兵士は飢えに苦しみぬいた。糧食の尽きた将兵たちは、ジャングルでとれた雑草類を煮込んだり、トカゲ、蛇など食べられるものはなんでも食べた。
 しかし飢えと栄養失調から来る体力低下で、大半の兵士がマラリア、赤痢、デング熱などに冒され、バタバタと倒れていった。
 しかもイギリス軍はグライダー部隊を使い、背後からも日本軍を奇襲して来る。
 陸と空からのイギリス軍の激しい追撃と相まって、蔓延した恐ろしい疫病で将兵たちはつぎつぎと命を落としていった。
 野戦病院も目をおおうばかりの惨状に変わり果てていた。入りきれない数の負傷兵と病人が地上にいっぱい転がっている。あちこちで「水をくれ!」「痛いよう!」という悲痛な叫び声が響いてくる。兵隊たちの傷には、肉に深く食い込むおびただしい数の蛆がうごめいている。しかし、それを自分で取ることができる者は少なく、取ってくれる者もここにはいない。患者が数百名いるのに衛生兵はわずか数名しかいないのだ。それも衛生兵の半数が病人なのである。包帯も薬も注射液もなく出来ることと言えば死体を埋めるための穴を掘るだけ。「ちくしょう、牟田口の野郎!どこに隠れてやがる」怒りに燃えて毒づく兵も多い。末期の水を飲ませて死にゆく戦友を見取ってやることだけが生きている者のできる唯一の仕事なのだ。
 日本軍の撤退した後には、ガリガリに痩せ衰えた死体が限りなくつづいた。まもなく屍になってゆくであろう息絶え絶えの負傷者、死体、死体、死体・・・生きている者は死臭に鼻を布で覆い、あまりの惨状に顔をそむけながら通り過ぎたという。やがて風雨に洗われ、朽ち果てた軍服を着た白骨が累々とつづく壮絶な光景が現出された。この世の地獄のような身も凍るような光景を将兵は「白骨街道」と呼んだという。
* インパール作戦敗北の責任 *
 独断で撤退した佐藤中将は、軍法会議の席上でこのことをおおやけにしようと考えていた。
 佐藤は死刑を覚悟で軍の首脳を批判し、大本営と司令部の馬鹿どもがこの悲劇をもたらしたのだと主張し、軍刀で牟田口と刺し違えることも辞さない考えであった。
 しかし佐藤中将は軍法会議にはかけられなかった。この前代未聞の不祥事が軍の中枢にまでおよび、責任が多方面に波及するのを恐れたからである。
 その代り、佐藤師団長は心神喪失からくる精神錯乱と断定されて軟禁状態にされてしまった。
佐藤幸徳(1893年3月5日〜1959年2月26日)師団の独断での撤退は軍中枢へさまざまな波紋を呼んだ。
 結局、1944年3月から開始されたインパール作戦は4か月あまりも続き、膨大な数の餓死者と戦病者を出しただけという悲惨な戦いとなった。行軍した兵士のうち、生還できた者はわずか1万名足らずに過ぎず、7万2千名はビルマの土になったと言われている。今日もまだ収拾されずに数万の日本兵の遺骨が祖国日本の土を踏むことなく、ミャンマーやビルマに広がるうっそうとしたジャングルや荒涼とした荒れ地などに眠っているという。牟田口は戦後ひさしく生き延びたが、インパール作戦における失策、愚作については何ら反省することもなく、最後まで犠牲者に対する哀悼や謝罪の言葉もなかったと言われている。
 今日、インパール作戦は補給をいっさい考えない無謀で、計画性のない稚拙な作戦の代名詞として語り継がれるようになった。ある人はこの作戦を称して、世界の戦史上、最も愚劣で最低な作戦であったと述べているほどだ。結局、大本営はこの作戦敗北の後始末をつけることもなく、責任逃れ、責任転嫁に終始したが、その無責任で卑劣な姿勢は今日の日本の官僚組織の本質にもなっているとされている。
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参考文献・「弓兵団インパール戦記」井坂源嗣著 光人社NF文庫
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